日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 |
2004年3月27日 | 蹴上〜山科 | 晴れ | 16分 | 1081歩 | 距離 1.08km | 740円 |
![]() 大きなベッド ![]() おふろ |
というわけで逢坂を越えて山科から下ってきて三条通をそのまま進んでしまい日ノ岡峠を結果として迂回する形になってしまっていたのを思い出し、関西出張をええことに、修正の旅に出発・・・いや出発からしてよろしくない。 前夜はなぜか大阪および京都のホテルが一杯で某ネットサービスで調べると京都全滅。大阪は市内でもっともディープな東京で言えば山谷、横浜なら寿町クラスの爆安ホテルか値段はそこそこでベッドがダブルという怪しげな所しかなく、後者はどう考えてもラブホテルの様だがベッドは無駄に広いし湯船は大きいし有線もあるし・・・。うまくすりゃカラオケやらサウナ完備だぜと行ってみると間違いなく
予感的中な訳で | |||||
![]() 東海道分岐(蹴上側) ![]() ちっこい東海道の石碑 ![]() 狭い東海道 ![]() 東海道分岐(山科側) |
すんごくおおざっぱな地図。
![]() ですんごく長い前置きだったが前回道を誤った場所を目指し京都市営地下鉄東西線に乗り込み蹴上駅下車。一応おうちに帰るついでということもあり便宜上、東向いて歩くことにする。 蹴上浄水場を横目に見ながら、へいこら登って下りに差し掛かったところに東海道の分岐点らしき所を見つけた。京都はほかにも観光名所が多数存在するからか、旧街道の扱いは低いのか案内の類が一切ないのである。 でいくら何でも狭すぎる様な気がしたが直感に従い、進んでいくと左手の空き地にうっかり見落としてしまいそうな旧東海道の石碑がぽつんと鎮座していた。やはり旧跡名跡を多数抱える京都では旧街道の扱いはぞんざいなのであった。 そんなわけで11時15分と前日泊の割には遅いスタートを切った俺様は、車一台通るのがやっとの旧街道を向かい来る車を塀に張り付くようになりながら進むと日ノ岡峠に差し掛かった。結構な下り坂である。大津から歩いてくると当然結構な上り坂となるわけで道を間違えた後悔の念がちっと薄らいだような気がしたぜ。だいたいあのときは真夏だったし。 で以後道なりまっすぐ進んで三条通りに出るはずなのだが、どうも立ち並ぶ家々が綺麗なのと時々、この道なりまっすぐがクランク状になっていたりして不安になりつつ地図を確かめるがこの道しかなさそうだ。不安になりつつ進むとクランクの崎に軽自動車がギリギリ通れる位のクソ狭い道が現れ、絶対間違えたろ俺・・・・。などと思っていると突如見覚えのある風景が広がった。 前回ゴールの三条大橋まであとちょいってところで山科から下ってきて三条通りに出て東海道線のガードを越えて、確かこのあたりを左に入るんだよなぁと思いつつもあまりの道の狭さにいくら何でも違うだろと通り過ぎた場所である。ちなみにコカコーラの自販機の隣がそうである。 11時31分ゴール で後は覚えのある道を山科駅目指し、京阪電車に乗り込み次のコースである石山〜瀬田へ向かうのであった。 | |||||
日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 |
2004年3月27日 | 京阪石山〜瀬田 | 晴れ | 58分 | ※1 5658歩 | 距離 3.96km | 310円 |
![]() 唐橋前駅 ![]() 瀬田の唐橋 ![]() 日本の道100選の石碑 ![]() 前回渡った瀬田川大橋 ![]() 大津市内の案内板 ![]() 一里塚跡 |
山科駅では地下鉄東山線のほうに進んでしまい地下に行ってわざわざまた地上に顔出すなど体力を付けんとなと京阪石山駅を降りた俺様は再び歩き出す前に昼飯をやっつけようときょろきょろしていると
とんかつ ここで普通ならオーソドックスにロースカツをチョイスするところだがなんせここはさっき「おいでやす」と声をかけられた通り、京都の文化の支配下にあるわけで、京懐石の様なお上品なトンカツとご対面する可能性だってある。そいつはハラペコを抱えた俺様にふさわしくないぞとメニューを眺めると
味噌かつ んで出てきたものはさすがにお上品に量は少なめでみそ汁も塩分超控えめだが、外食続きで野菜の足りないおいらにゃうれしいキャベツお代わり無料サービスなわけで満足して店を後にした。 で13:00、商店街となっている東海道を歩きつつ、土産物として鮒寿司を探すのだがそんな超高級食材を扱うところは無いようで程なく瀬田の唐橋に到着。 橋のたもとにある石碑には次のように刻まれていた。 唐橋架橋記録 着工昭和五十年 三月 竣工昭和五十四年七月 瀬田唐橋は、古来、京の都と東国を結ぶ交通の要 衝として「唐橋を制するものは天下を制する」とま でいわれ、また唐金擬宝珠の欄干をもつ美しい橋と して歌にも唄われ、近江八景の一つ「瀬田の夕照」と しても有名である。その唐橋は、右に併設の記録板 にあるとおり、大正十三年に架換えられ、その後昭 和三十九年の補修により、橋面は桧材被覆がアス ファルト舗装に、高欄も桧材が鉄製になった。旧橋 は、架設以来約五十年を経過し、主要部の桁および 支承部の老朽化が進み、かつ交通量の増加と大型重 量化により、落橋の危険があるので昭和四十八年九 月通行車両の荷重制限を行ない、翌四十九年から架 換事業を始めた。架換工事はまず、本橋から上流約 六十メートルの地点に仮橋をかけることとし、昭和 五十年三月着工、同年十二月竣工して交通を仮橋に 切替え、同時に旧橋の撤去工事に着手した。新橋の 設計および工事施工に当たっては、その歴史的文化 財価値の保存と景観をを損なわないよう特に留意し た。構造大要は、左ののとおりである。 一 架橋位置および橋長は、旧橋と同じで大橋百七 十二メートル、小橋五十一・七五メートルである。 二 橋幅は、旧橋の七.四メートルを十二メートル に拡大し、歩道を設置した。 三 脚柱間は、旧橋より長くし、大橋は、両端を二 十三・五メートル、中央部を二十五メートル五連 とし、小橋は十七.二十五メートル三連とした。 四 脚柱は、旧橋の直径五十五センチメートルを直 径八十センチメートルの円柱とし、上下二段の貫 とした。 五 橋体は、放物線形とし、縦断勾配を六パーセン ト、横断勾配を二パーセン卜とした。 六 擬宝珠の数は、旧大橋の二十二個を三十四個と し、小橋は、従来どおりの十二個とし総計四十 六個とした。したがって旧擬宝珠三十四個のうち 修理不能の七個を除き修理再用し、十九個を新造 七 高欄は、基本的な構造を旧橋と同じくした。 八 橋台は、コンクリート逆丁式と、前面お よび側面には、旧橋の石積を復元してお寺勾配と した。 九 橋脚の零水位マイナス一・五メートル以下の見 えない部分は、逆丁式の鉄筋コンクリート壁式構 造とし、橋台、橋脚とも鋼管杭基礎とした。 十 総事業費は、約十八億円を要した。 なお主な工事関係者は左のとおりである。 滋賀県 知事 武 村 正 義 下部工事請負者 鹿島、大輪建設 上部工事請負者 横河橋梁製作所 で橋を渡りながら琵琶湖側に見える橋を前回は間違って進んだんだよなぁと感慨にふけりつつ、案内に従って道なりに左に進み、今度は右に入るようだが案内めいたものはないが2万5千分の1スケールの地図ではここいらだと思われるので進んでみるが50mも進まないうちに雰囲気が違うのでもと来た道を戻るとちょっと先に案内板発見。琵琶湖という日本一の湖を抱えながらも、京都のように旧街道を邪険に扱わないところが偉いぞ滋賀県。 その後も案内板に助けられつつ無事に見覚えのある場所に出ることが出来たがどうも前回は案内板を待たずに曲がってしまったことが原因のようである。2回目のゴール13:58 ここで教訓
大津市内。案内板出るまで曲がっっちゃだめ |