姫街道 安間バス停〜気賀駅まで

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年6月4日姫街道(安間)〜気賀晴れ3時間55分26000歩18.2km約6970円

謎の看板

判読不能な道標

じどうしゃ学校前
というわけで、前回天竜川をバスで越えたはいいもののすっかり道を間違えてしまったので改めて安間バス停から三ヶ日あたりを歩いてやろうと、飲み過ぎか風邪だか知らんが痛い頭を抱えて家を出て東名バスに揺られること3時間弱・・・。
飲み過ぎだか風邪だかバスに酔ったのかわからんが、浜松北バス停をほぼ定刻通りに到着し、そこから遠州鉄道に乗り自動車学校前から第一通り駅まで行き、さらにバスに揺られること20分あまりで安間バス停・・・
ここまで十分旅を堪能したような気がするが、ここが本日のスタート地点である。
そんなわけで11:50に東海道の安間より進路を北に向け歩き始めた訳だが、やはり食うもの食っておかないと良い仕事できないわけで、旧跡よりもメシ屋捜索モードになりながら歩いていると、とんかつの文字が目に入った。まだ歩き始めてから20分ほどだがこの先に食えるところあるかどうかわからんし、なにより「ビール」の看板が目に入ってしまったものだからもうだめ。ご飯にビールフラグが立ってしまった俺様はで勢いよく「ガラリ」と開けたら、カウンターに座っていた2名様をびっくりさせてしまった。
すまんすまんと頭を下げると、少々間を置いてから「いらっしゃい」と声を掛けられて、今度はこっちがびっくりしてしまった。うーん。ランチタイムだというのに客は俺様一人という状況にビビリながらも、トンカツ定食にビール中瓶と平日の昼間っから申し訳ないような豪華ランチをオーダーし、ビール片手に店主と雑談しているうちに、4名様ほどご来店。うーんこの香ばしく揚がった衣にジューシーな豚肉を包み込む自家製ソースがたまらん。あっという間に平らげてしまった。
で再び姫街道に戻るが、5分ほど歩いたところで妙な看板発見。どうやらワンちゃんのブリーダーを営みつつ、世の役人たちに対して大層ご立腹の様子である。

鳩ポッポ豆鉄砲で驚いて見れば、悪い政治家と
癒着業者と役人が、ネボケの地主の馬鹿野郎を横目
で見下し描くは、巨大な鴨の池、小船を浮かべて
花見酒、野郎、とうふの角で頭をうって池下石田
に来るな、休みが多く又、ストレスがたまる子供さん
年配の方、運動不足を無くし、ゆかいな人生の為に
貴方に送るワンワンちゃん繁殖場
可愛いチピちゃんがたくさんまってるよ

しかしまた今歩いているところが姫街道なのかどうか非常に怪しい。うーん地図に県道○号線とか書いておけば良かった。でふと見れば朽ち果てて判読不能な道標に勇気づけられつつ安間を出発してから1時間30分あまりで見覚えのある、自動車学校前駅にたどり着いた。そー言えば来るときに切符買ってたら踏切の警報機が鳴り出し大あわてでホームに向かってしまい、忘れ物をしてしまった。で忘れ物をやっつけ出ようとしたら「使用後はボタンを押して水を流してください」と書かれており、こちらも忘れずにぽちっとなとボタンを押して駅を後にした。

ひこうき

旧姫街道と書かれた道標

最古の道標

姫街道松並木
自動車学校前を過ぎ程なく大きな通りにぶつかった。国道152号線である。長野県内を中央構造線に沿うようにして走り、地蔵峠や青崖峠など未開通区間は林道にて接続されたなかなかえげつない山道だが、浜松まで下ってくると立派に片側2車線になっている。
ここまでの街道の風景と言えば、家、畑、田んぼといたってのどかであるのだがなにやら頭上がうるさい。自衛隊の戦闘機・・・なんか変だ。憲法では戦争を放棄したことになっているから戦闘機であるはずもない。じゃぁ専守防衛機・・というのもヘンだし、まぁとにかく自衛隊機が人様の血税でフライトを楽しんでいる。せっかくだからと写真に収めてやろうとしたが、シャッター押した時にはフレームアウトしているほどすばしっこいので結局、背中にレーダー背負った哨戒機しか撮れなかった。
かなり騒々しいけど米軍基地周辺のようにちゃんと皆さんの血税で防音工事とかやっているのかなぁ。
ここまでわりと平坦な道だったが、前方の三方原台地が俺様の行く手を妨げるかのようにそびえたっている。つか馬込川に掛かる五枚橋を越えた時点で三方原台地の裾野にたどり着いたようである。
で県道を進むとS字カーブを描いた緩やかな登りだが、右手にまっすぐ登る急な坂がある。
多分こっちだろと進んでみると旧姫街道の道標があり、俺様の旧街道探索機能もかなり強まっているようである。坂を登り切って程なく県道と合流すると最古の道標なるものがあった。何と書いてあるのか判読できないが左浜松駅1里30丁とでも書いてあるのだろう。(ウソ)
で調子こいて再度旧街道サイズな道幅の道が有ったのでそっちへ進むとどうも違う。前方の松並木からは逸れていくし、古い道ならばNTTの「とっても大事な電話線埋めているから掘るときは一声掛けてね」という看板もない。
しくじったぜと軌道修正を行い元の道に戻った。

  姫街道の松並木
昭和34年12月19日市指定史跡      浜松市教育委員会
 この街道を姫街道と呼ぶようになったのは、おそらく江戸時代に入り、特に
婦女子の道中が多くなったためであろうといわれでいる。現状は約3kmに及ぶ
街道の一方に松並木かあり、今なお昔の街道を思わせる風情を残している。
 (伝来)奈良時代には、畿内七道諸国の道に果樹を植えて飢渇に備えたこと
もあったが、並木が全国各地に植えられたのは江戸時代になってからで、多く
は松を用いた,一説にはこの松並木は当時の旅人を楽しませ、夏は休息のため
の木陰を与え、冬は積雪を防いだといわれている。江戸時代に並木が整って街
道が美観を呈したのは、時の幕府がその保護に留意したからであるといわれて
いる。

権七店

東大山一里塚

曲がり松

六地蔵

六地蔵先の道標

秋葉山常夜灯

千日堂

こっちらしい

貯水タンク

本当にこっち?

落ち葉に覆われた道

服部小平太最期の地

気賀川

天竜浜名湖鉄道
国道257号を越えると姫街道松並木である。と言っても片側のみでしかも枯死したものを伐採したのか、戦時中引っこ抜かれてガソリンの代用にされたのか所々間引きされている。だが総延長3kmに渡って三方原を貫いており規模で言えば御油の松並木に匹敵するスケールである。
で松並木の間に「権七店」と書かれた標柱が立っている。傍らの案内板の内容は下記にそのままパクリ引用しました。
東大山一里塚を過ぎ

権七店 葵町


三方原追分で左に折れると、うっそう
とした松並木が続いている。ここから
権七店まては家がほとんどなく、寂し
いところであった。約一00年以上も
続いた権七店は、近隣の人々の寄り合
い所となり、井戸端会議に花が咲いた
社交の場所てもあった。店先には山桃
の木があって、そこに馬方は牛馬をつ
ないて休憩した、店ては、駄菓子だん
ご・お酒等を売っていた。
     曲がり松と松島十湖の句碑

 ここには樹齢約五百年を経て、あたかも地中から這い出て体が
よじれた竜のような松があり、曲がり松と呼ばれていました。
ここは姫街道と庄内二俣線(旧道)の交差点で、江戸時代には,
気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所であったと言われて
います。
「松奏離歌」と題する俳人松島十湖の句碑は、明治十六年から
引佐麁玉郡長を務めた十湖が、明治十九年二月郡長を辞した日、
曲がり松まで見送りに来た部民との別れの感懐を詠んだ句を刻んだ
ものです.『別るるは また逢うはしよ 月の友』「月の友」とは
月見の仲間、つまり友人です。友との別れはまためぐり会う
きっかけだよ、という意味です。
「御巡幸記念」の石碑は、昭和五年六月一日、即位して間もない
昭和天皇が巡幸の際この松をご覧になったことを記念し、旧中川村
第十区が建立したものです。
 昭和四十八年、曲がり松は枯れてしまいましたが、名勝、史跡を
後世に伝えようとする有志の努力により新たな松が植えられ、
破損していた句碑も修覆されました。

平成十六年三月               細江町教育委員会

先ほどからあちこち案内板なんかもあって偉いぞ細江町ってな訳で看板に従って県道を逸れると畑の中を最近改修したとおぼしき街道を歩いているとお地蔵さんが6体並んで六地蔵とストレートなネーミング。六体も並んでいると大抵なんかそこであったわけで、案の定説明書きにこのお地蔵さん裏手の竹藪が刑場跡だったと書かれており、なんも写るなよと念じながらシャッターを押した。
ちなみにこの竹藪には「危ない」と書かれた看板なんぞ立っており、今なおなんか曰くがありそうである。
でそのデンジャラスな竹藪の先に散々東海道でお世話になった道標が現れたので写真を撮ってみる。なんか写っているがこれはもちろん撮影者の俺様が写り込んだだけで決して心霊写真ではない。あと気賀宿まで25丁かい。全然宿場が近づいている気配なんか無いのだが・・・
そーいや、じどうしゃ学校前でトイレを拝借して以来、そろそろ催してきておりそろそろ俺様のドレインコックも限界に近づきつつあるが ここまで旧所名跡あれど公衆便所がない。名前は姫街道だが、こんなんじゃお姫様は歩けないぞと思いつつ前方に見える常夜灯の右側に、軽トラが通るのがやっとこさって感じの道に、姫街道の案内板がある。

六地蔵

このお箆策さんは裏の 竹藪がむかし刑場でしたので その霊をなぐさめるためにたてられたそうです 長い間風雨にさらされ ながら旅人の安全を 守ってきました。   正徳二年(一七一一)建立 細江町観光協会 細江町教育委員会

老ケ谷の秋葉山常夜灯(秋葉燈籠) 
笠柱部に「秋葉山文化八辛未六月吉日当所若
者」と刻まれています。文化八(一八一一)年、
この地域の人たちによって建てられました。
 秋葉山は、かつては戦国武将や大名から武運長
久の信仰を集め、第二次世界大戦の頃まで出征兵
士と家族の信仰を集めていました。今のように火
防の信仰として広く普及したのは、貞享二(一六
八五)年の秋葉祭以後といわれています。秋葉山
の御幣や神輿を鉦や太鼓で村送りしたこの祭は、
あまりの熱狂ぶりに幕府によって中止されました。
しかしこれをきっかけとして、庶民の秋葉山参詣
が盛んに行なわれるようになりました。
 秋葉山参詣の道を秋葉道と呼びます。この付近
では、落合〜川久保〜船頭〜祝田〜デコロボウ坂
〜三方原〜宮□に至る道筋と、清水〜五日市〜金
指〜都田〜宮□に至る道筋が秋葉道といわれてい
ます。
 秋葉講は、講中でお日待ちをしたり費用を出し
合って秋葉山の代参をしました。また常夜灯を秋
葉道や村々の辻に建て、
講中の家々が毎晩交代でお灯明を上げたりしまし
た。今も続けられている地域もあります。
    細江町教育委員会 まちつくりの会
で林と畑の中の狭い道を進むと千日堂。やがてでっかい貯水タンクに描かれた「姫様道中」が視界に飛び込んでくるのだが道なりに進むと林の中を下る坂道で案内板によれば左手の道を行くようだ。まぁ右手の道には道路改修の碑が建っているので、後世になってから作った道らしいが今では利用されて無さそうな感じである。なんたって軽トラですらすれ違いが無理っぽいし。
で姫様道中の貯水タンクにてさらに道は左手はコンクリ舗装の農作業用とおぼしき道。右手は落ち葉に埋もれたもはや人の手が加わってから長いこと放置された道らしきもの。まぁさっきの左手に下っていく坂道と平行しているからたぶんこっちだろうけどなとかなり不安になりつつ下っていくと、服部小平太最期の地と書いてある看板がある。説明によると元々今川君の地盤で織田君に味方して今川君をボコボコにしてしまったのでジモティから反感を買ったらしく、ここで何者かの手により始末されたみたいなことが書いてある。
そーいった曰く付きの土地だから400年以上経っても手つかずの山道なんだろか?
どうやらその後、舗装された新道?をまたいで坂を下りきると住宅地に入る。ぼちぼち気賀の宿が川向こうに見えた頃堤防に腰掛け休みつつ考えた。最終の東名バスで帰るとすると後1時間くらいがリミットだが、豊橋にでも一泊して3日目を続けるか・・・
まぁ喫茶店でも見つけてLibrettoでモバイルするか、駅の方に行けばなんかあるだろうと・・・
何も無いまま気賀駅にたどり着いてしまった。仕方がないので待合室でジュース片手に旅の計画を練るか。どーせ30分は電車こねーだろ・・・ところが新所原方面の電車は10分後?
1時間に一本しかない列車に合わせるかのように到着かよ。浜名湖バス停の最寄り駅を確認し、浜名湖佐久米とかいう駅までの切符を買い求め、宿探しのためにLibrettoを広げてダイヤルアップし数回のリトライの後につながったと思ったら電車きやがったので、大あわてで荷物を仕舞い込みホームへダッシュし何とか乗車。やむなく本日は撤収することにしたが次は気賀駅からどうやって再スタートするかなと


   千日堂

 慶応四年の老ケ谷区有文書によれば、千日堂は 老ケ谷原山新開発の褒賞として建てられ、寛文十  一年(一六七一)呉石の近藤家下屋敷にあった観音 石像を移して祀られたと伝えられています。また 堂内には気質近藤家二代用治、三代用由の位牌が 祀られています。 万宝永年間(一七〇四〜一七一〇)には、千日講本 尊として阿弥陀如来を祀り千日念仏を行ったので 千日堂と呼ばれるようになりました。 堂の前には宝永四年、浄土宗玄忠寺(浜松市田町) 一十四世成誉上人を導師とする「南無阿弥陀仏」石 碑が建っています。 現在も毎月九日の晩、老ケ谷の、西平、中平、 東平の人々によって念仏講が続けられています。   細江町教育委員会


服部小平太最期の地

 腹部小平太(中保次)は、永禄三年(一五六〇) 五月十九日の桶狭間の戦いで、織田信長の家  臣として、毛利新助らと共に、今川義元を討 ち取っだ功労者であった。  この地方が徳川の勢カ下に入ると、小早太 は信長亡き後、家康の家臣として、勲功により この地を治めた。もともと今川領だっだこの 地方には、桶狭間に出陣して戦死した者もあ り、小平太に恨みを特つ者もあった。天正十 五年(一五八七)六月十八日、小平太は単身この あたりを巡視の析、ここで何物かに討たれた。  なお小早太の墓はこの下数十メートルにあり、 祥栄院殿湖雲浄鑑大居士と刻まれている。  またここより二百メートルほど北に、小平太 を祀っだといわれる宗安寺の跡がある。          平成二年三月二十日          細江町教育委員会
んで浜名湖佐久米駅を降りると、コンビニなし、酒屋も無しとこれからバスに揺られること3時間以上の俺様はどうすりゃ良いのよと思いつつバスの時間まで20分とあまり余裕は無いのであきらめて、東名沿いに歩いてバス停に向かう。この時点でまだ10分ほどゆとりがあったので缶コーヒーを流し込んで、お茶なんぞ仕入れているとバス到着。但し浜名湖SAにて10分休憩するのでバスがやってきても猛ダッシュする必要は無いのだが、なんせバス停とSAの設備ある場所とは道のりがどえらくあるのでぼちらぼちらと歩いて缶コーヒーを飲んでトイレ行っている間になにやら東京行きのバスが来た模様。まぁ発車まで10分あるからまたぼちらぼちらとバス停まで戻り、一服しているとバス到着。しかしアルコール無しの3時間半の旅は長かった。


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