姫街道 気賀駅〜国府駅まで

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年7月9日気賀〜御油晴れ9時間40分51391歩36km約9460円

明治トンネルを示す看板

トンネル入り口

弾け飛んだブーツ

10時で34℃かよ
というわけで、朝10時くらいには出発しておきたいなと言うわけで朝の4時に出発しジムニーで一路西を目指す。
途中、工事渋滞なんぞで沼津通過が6時、とりあえずパンなんか買って食いながら走るとバイパスは信号での
ストップ&ゴーが忙しいので旧東海道を信号が少ないことを良いことに暴走しのんびり進んだが
途中、静清バイパスの渋滞のため道の駅宇津ノ谷にたどり着いたらもう8時。
まぁついでだから明治の宇津ノ谷トンネルでも見物していくかという余裕をかましてきました。
ところが、車の通れないようなトンネルはナビにも載っておらず静岡側の入り口はわからぬまま
大正時代のトンネルを越え岡部に抜け、しばらく走ると明治トンネルの看板があり、
ジムニーですら対向車が来ないことを祈りたくなるような狭い道を進むと車止めがあったので
歩いていくと100mも歩かないうちにトンネル入り口に到着したがすでに汗がダラダラ。
大体東海道歩いて以来、ずっと気候の良い時期ばかり歩いているし普段はクーラーの効いた部屋で
過ごしてきたからすっかり軟弱になってしまったようだ。でトンネルは想像していた物より立派で
4t車位なら通れそうな感じだが煉瓦組んであるところは歴史を感じされられる。で中にはいると
「ゴー」っと風の音が聞こえるほど風が吹き抜けており涼しくて快適だが
どうも気味が悪いので10mも中に入らぬうちに撤収。

明治のトンネルの由来

 宇津ノ谷峠は、慶長6(1601)年東海道に宿駅制が定められて官道となりました。
明治6年、岡部町の杉山喜平治ら7人が「 結社」を創立し、明治7年5月工事に着手しました。
総工費24,800余円、労役人夫延べ15万人で静岡口約20mは青石造り、岡部口の大部分は木角合掌
造りの「く」の字型のトンネルが明治9年6月に完成しました。
 日本最初の有料トンネルで明治9年11月からは東海道本道として使用されましたが、明治29年
に照明用のカンテラの失火によって、枠組みが焼失崩壊して一時使用不能になりました。
現在の赤煉瓦トンネルは、静岡口を一部変更し直線とした長さ約203mで明治36年に着工し、
明治37年に完成しました。
 しかし、昭和5年、この西側に、近代的な旧国道トンネルが開通したことに伴いあまり使用さ
れなくなりました。
平成8年に近代の土木建造物の保護を目的として新設された国の登録文化財制度により、
平成9年5月29日、現役のトンネルとしては全国で初めて文化財建造物に登録されました。
            岡部町教育委員会・岡部町建設課


で岡部宿を通り掛かったときふと思い出した。そーいや岡部宿は道路工事で通り過ぎただけだよな。
となると今日は時間がないが、今度蔦の細道とセットでやっつけるとしますか。と早くも次回の旅の構想を
練りつつ焼津インターより一路、豊川インターを目指した。
で順調に掛川ICを過ぎた辺りでジムニー後方から「パシッうごごごごっ」妙な衝撃があったので動物でも
轢いたかとバックミラーを確認するが何も見えない。とりあえず小笠PAで確認するがタイヤは異常なし。
だが下回りを覗くと後ろのプロペラシャフトとユニバーサルジョイントの接合部のブーツが無い。
ついでにミッションのドレンボルトからオイル漏れているし・・・
まぁとりあえず雨でも降らなきゃ支障あるまいと再び走り始めた。
で豊川ICで降りて豊川市内を抜けて今日のゴール地点である国府駅に向かって走ると気がついたら姫街道。
歩いたら結構あるなと思いつつ国府駅前の駐車場にジムニーを置いて、名鉄、JR、天竜浜名湖鉄道を乗り継ぎ、
昼前に気賀駅に到着したのだが意外にも乗り継ぎの時の待ち時間が少ないにも関わらず、
直線距離で30km少々の距離を2時間とはなぁ。これじゃ誰も電車なんか乗らんわ。

本陣前公園

堀川城将士最期の地の碑

呉石學校の跡

軽トラでギリの姫街道

山村修理の墓

プチ小夜の中山?
結局メシ食う暇が無かったので駅前で探すが何もないのであきらめて、11時50分スタート。
しかし暑い。豊橋駅にてビルの電光掲示板の温度が10時で34℃という状況だから、
すでに気温=体温だが、とりあえず風があるだけまだマシかと思いつつとぼとぼ歩いていると
本陣前公園というのがあったので寄ってみる。
河合象子終焉の地と看板がある。誰だか知らんし、あまりに日当たりがよろしいので早々に退散すると
獄門畷という物騒な看板がある。読んでみると家康君がこの辺りを仕切る今川義元君をボコりに行った際に
抵抗勢力2000人ほど切り裂いてさらにとっ捕まえた700人ほどのさらし首がずらりと並んでいた場所だそうな。
河合象子終焉之地
河合象子は三州吉田藩士山中熊之進の子女
で天保六年(一八三五年)生れ象子は父母が離
別したため幼い頃母と共に実家の本陣中村家ヘ戻
り幼少時代を過した
文久元年(一八六一年)象子二十七歳のとき紀州若山
藩医河合松哲に嫁し、一児泰三が生れる。夫は中風に
倒れ夫と死別したのは象子三十七歳のときであった。
それからの苦闘時代を乗りきり再び上京して明治十六
年、象子四十九歳のとき明治の大学者小中村清
矩博士の内弟子となり研讃を積んだ。
明治ニ十八年六十一歳のとき小中村先生が逝去
恩師没後の象子は私塾(石室の舎)を開いて上流社会
の子弟や皇族貴顕に国文学や短歌を教授していた。
   (後略)
    
明治四十二年十二月十六日没
享年七十五歳 墓は正明寺にある
法諡寒厳妙象大姉

河合象子顕彰会
気賀宿町づくりと考える会
歴史文学ボランティアグループ
 

 獄門畷

 永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで、
今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻
を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のた
めに堀川城を造り、最後まで戦った。 堀
川城趾は、ここから南へ六百メートル程にある。
 永禄十ニ年(一五六九)三月ニ十七日、堀
川城にニ千人の男女が立てこもり、三千人の
家康軍に攻められて、落城したといわれてい
る。大久保岸左衛門の記録に「男女共にな
で切りにした。」とある。 そしてその後に
捕えられた約七百人の人々も、同年九月九日
にこの付近で首を打たれた。 その首をこ
の小川に沿った土手にさらしたので「ごく
もんなわて」と言われるようになった。
      昭和六十三年三月ニ十日
      細江町教育委員会

でスタートから15分ほど歩いてもうメシは諦めて呉石學校跡に建てられた公園で休憩。
なにやら細江町の藺草の歴史についての看板がある。こうしてみると藺草なんか見かけないが
安い中国産に押されてやっていけなくなったんだろう。
もう暑くて辛抱たまらんのでシャツ脱いでタンクトップ
(おっさんが着るとランニングと言うのかも知れないが・・)一枚になり、
再び歩き始めるが人気のないところではタンクトップをめくり上げてたるんだ腹を冷やしながら進むのであった。

全 得 寺
 山号は知足山、宗派は臨済宗方広寺派。
 隣接する鎮守、諏訪神社の棟札から天文二
十一年(一五五二)の頃には全得寺の存在が
知られる。その頃この地は今川方に属してい
て、義元が桶狭間で戦死した後、住民はここ
より南方一キロメートルの所にヽ堀川城と称
する砦を築いて、徳川家康の遠江侵攻に備え
た。永禄十二年(一五六九)三月二十七日、
家康軍に攻められ、城はみるまに落ち人々は
大部分討死した。当寺はこの時討死した城
将の一人、竹田十郎が出生地足利から、東光
山善徳寺を請じて建てた寺で、この堀川城の
戦いの析に焼失した。
 元和三年(一六一七)に、方広寺開山無文
元選禅師の法孫に当る天英和尚が復興し、あ
らためて和尚を第一世とし、十郎を開基とする。
 大正十二年に、堀川城主新田善斎を祀って
いた知足院を合併し、山号を知足山とした。
         平成元年三月二十日
         細江町教育委員会

 【近藤用随公と琉球藺(七島藺)】
宝年4年(1707年)の大地震で、気賀村の田畑の
大半が湖水に浸かり作物が取れなくなってしま
いました。これに困った気賀近藤6代随公は
大阪へ公務出張の際、琉球藺が塩害に強いことを
知り、豊後(大分県)の松平氏にその苗を分けても
らいました。その後、気賀に持ち帰り領内に広め
1780年代には藺草を縫い合わせた畳表の江戸
回送が始められ.江戸蒔代末期にはこの地方の
特産遠州表として広く流通しました。
 また、この近藤用随公の功績に対し、畳表問屋、
仲買い商人らが用随公を祭神とし藺草神社を
建てたほどでした。
 明治蒔代になると裁培の技術の研究、流通及
び販売組識の設立で藺草産業は繁栄し、この地
方の経済をささえる主な産業に発展しました.
程なく姫街道は県道から右に逸れて細い道を進むのだが、ちゃんと姫街道の道標があり、
やがて人家も少なくなりみかん畑が見えて来た辺りで今度は左手に軽トラが通るのが
やっとじゃねーのって感じのみかん山を登っていくを道に姫街道の道標がある。
で坂の中腹に山村修理の墓がある。説明書きに寄れば家康君が今川君にケジメ付けようと
三河から侵攻した際に今川側の堀川城を攻めて、なんとかここまで敗走した山村君も
もはやこれまでと思ったのか自刃して果てたとのことである。

藺草栽培の衰退

 昭和になっても依然として藺草裁培、
畳表の出荷は盛んでした。しかし、昭和
30〜40年代になると.みかん園への転換
やほ場整 備事業(沖通り)が実施され、
裁培から畳表として出荷するにあたり手
間がかかっていた藺草農業は衰退し、昭
和50年代になる と助々にその姿は見ら
れなくなってしまいました。
山村修理の墓
 戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の
勢力の境界地域でした。気賀の領主で今川方の
新田友作は、かつて今川義元の家臣であった
尾藤主膳、山村修理等とともに 永禄1O年から
11年 (1567〜68)にかけて堀川城を築きました。
しかし遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃に
より、永禄11年3月には落城してしまいました。
永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようと
する武田信玄に対抗し、ふたたび遠州攻略を
企てました。
このときの功績により、後に「井伊谷三人衆」と
呼ばれたのが菅沼二郎右衛門、鈴木三郎太夫と
、後の旗本近藤家を築いた近藤石見守です。
遠州に攻め入った家康に対し、尾藤主膳、
山村修理等は一揆を企て、内山党を始め
地元民男女1500〜1600人とともに堀川城に
立てこもりました。
しかし永禄12年(1569)3月27日、
家康軍の攻撃の前に1日で落城、捕虜
700人が呉石の塔の下で処刑されたと
言い伝えられています。
落城のとき舟で逃れた山村修理は、
この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら
切腹したと伝えられています。
かつてここには松の古木があり、
「修理殿の松」と呼ばれていました。
           細江町教育委員会
ここからしばらく歩くと山田一里塚があり、そこの案内板の最後に記された
くたびれた
	奴が見つける
		一里塚
という川柳に若干腹立たしさを覚えつつ、ここまでずっと上り坂だし確かにくたびれてますよと
ブツクサ言いながらいやらしい一里塚を過ぎると今度は下り坂。でその先はまたまた上り坂の様だ。
となると今日の旅を東海道にたとえるなら
「小夜の中山」を彷彿させるアップダウン+鈴鹿峠を超える峠越え+真夏の名古屋の暑さ
なわけで今日一日で御油まで無事生きてたどり着けるか不安になったきたが、
道ばたに咲く可愛らしい花に足を止める位だからまだ大丈夫だろう。
とは言えまだ一時間も歩いてないのだが・・・


ダイダラボッチの足跡と伝えられる池

小引佐手前からの眺望

石畳の道

薬師堂

引佐峠への道

姫岩

引佐峠手前の展望台

引佐峠

象泣き坂

シロオニタケ(多分)

石投げ岩

大谷一里塚跡

三ヶ日宿

本坂一里塚
坂を下りきったところには休耕田に泥水が溜まった様な沼があり、傍らの看板には伝説の巨人
「ダイダラボッチ」の足跡と伝えられる池だと書いてあったが琵琶湖掘った土で富士山作ったという
スケールには少々見合ってないような気がする。
でさっきプチ小夜の中山的な要素があると書いたが、再び俺様の体力をしゃぶり尽くそうかという
上り坂である。
唯一救いは浜名湖を見渡すことのできる眺望。
いい風も吹いてくるしと上り詰めたところに小引佐という看板がある。
ってまた下りかよ!
とブツクサいいながら石畳の坂道を下ると長年の風雪に耐え抜いた雰囲気のお堂があった。
看板によると薬師堂と言い天保年間に再建されたんじゃねーかな?と書いてある。
でその下にもかすれた中将姫の文字がかすれた看板があるのだが、日本史は戦国時代以前は疎いうえ、
古典文学はさっぱりときているので誰なんだか知らん。
まぁこのあたりの教養が備わっていれば街道歩きも楽しかろう・・・。
この炎天下で滝のように流れる汗と格闘してなければ。
巨人伝説の池「ダイダラボッチの足跡」
 琵琶湖を掘った土を運んで富士山を
造ったという、伝説の巨人ダイダラボッチの
足跡と伝えられる池です。
 尉ケ峰に腰をかけて弁当を食べたとき、
ご飯の中に入っていた小石を浜名湖に捨てたら、
礫島がてきたそうです。
そして腰をかけた尉ケ峰は、少し低くなってし
まったのだそうです。
巨人伝説は日本全国に伝えられていて、
古くは奈良時代の風土記に書き表わされたもの
もあります。
その多くは現在の地形の成り立ちを、
巨人のしわざとして説明するものなのです。

細江町教育委員会
小 引 佐
 ここは小引佐と呼ばれ、姫街道の中でも引佐細
江(浜名湖の入り江)の景勝の地として知られて
います,
 岩根に向かって西へ下る坂の降り口には賽の神
と、坂の途中にはお地蔵様が祀られています。お
地蔵様は、江戸時代の終わり頃この付近で処刑さ
れた「キヨゾウ」という人の霊を弔ったものとい
う言い伝えがあるそうです。ここから東へ四五〇
m程坂を下ると、東山田の辻には馬頭観音と道祖
神が祀られています。 これから引佐峠を越え
て西に向かう旅人が、峠越えの無事を道祖神やお
地蔵様に祈り、また引佐峠を越えてきた旅人が難
路の無事を感謝して、ここで一息入れて景色を楽
しんだことでしょう。
 南側の宝渚寺山にはマンサクの群落(細江町指
定天然記念物)があります。春一番の二月から四
月に開花し、山肌を黄色く彩ります。昔も今も小
引佐の峠道を行く人々の目をなごませてくれます。
     細江町教育委員会
1時間あまり歩いてようやく引佐峠に差し掛かったようだ。
なにやら草むらからブーンと羽音を響かせながら、俺様のまわりを飛び回る昆虫がいる。
アブでもハチでもないので攻撃されることはねーだろと、その鬱陶しい昆虫を
首にかけていたタオルでバシッっとたたき落とすとそいつはタマムシだった。
まぁ今後、玉虫厨子をリニューアルとかいう話があるかどうか知らんが、
材料としてキープしておいてあげよう。
しかしまた地元の方が整備してくれなきゃあっという間に夏草で覆われて自然に還って
しまいそうな道である。
季節さえよければ、木立の中を時折開けた視界の先に広がる景色がナイスなハイキングコースだが、
夏の盛りじゃ鬱蒼とした木々に風を遮られ、汗でベタつく肌にまとわりつく蜘蛛の巣を打ち払いながら、
視界が開けりゃ今度は容赦なく照りつける太陽に肌を焼かれガックリとペースを落としつつ、
風通しの悪い木立の峠道を進むと東屋発見。
人の気配が無いのを良いことに上半身裸になり、汗まみれの体をタオルで拭いたらタオルグショグショに
なったので姫街道の云われについて説明してある看板に、引っかけて干しつつ一服。
いやぁクラクラするぜ。でもこれは経費節減のため買ったエコーのせいじゃねーよな。
なんたってデフォルトがハイライトだし。間違いなく熱射病一歩手前だな。
でしばらく休んでから看板をみると「姫岩」についての説明がある。
どうやら東屋の下にある平べったい岩を姫岩と呼び、ここに座ると「良いことがある」と書かれているので、
何の苦労もなく良いことが起こるのであれば座ってみるかと、姫岩の上で胡座をかいたが
今日現在、宝くじに当たったとかおねーちゃんとの出会いが会ったとか全くない。

伝 言
中将姫 三位中将謚號圓通
 中将姫は奈良県奈良市元興寺の横の誕生寺
(現尼寺)で天平十七年八月十八日の明方生れる。
(七四五)五才の時母が亡くなり其の後継母に
追い出されて乳母と二人で山中雲雀山に身を
隠して住み後、山を降りて都に住み父の許しを
えて大和當麻寺に尼として修業し父の死後一
女性になり岩根自在寺(父が探した安住の地)に
乳母と共に住み余生を過し入滅す。
 中将姫の叙父恵美押勝の一族四十五名(幼児)
はびわこ湖上で殺され姫の父も謀反者として
追放されたので世に出すことが出来なかった。
後に藤原道長(氏)が佛師康尚(日本最高の
佛師に彫らせ供養す 佛像の記しは不号で
書かれている。同聚院の不動明王と同形の
(小像)の底に花の記しあり、寛弘年間作
父は従一位右大臣横佩郷藤原豊成母は従二位
紫の前(品沢親王の娘)中将姫の名付親は
四十五代聖武天皇が三位と付ける。
例祭日八月十七日夕方四時〜
    川に沿って山へ三百米
非とたびも佛を堂のむ心こそ弥陀の浄土を
ね可う三方か奈
寶積山自在寺
保存会
薬 師  堂
 岩根地区の姫街道沿いに建てられた辻堂です。
創建年代は明きらかではありませんが、本尊の薬
師如来の台座の裏の銘文から、天保6年(1835)に
再建されたことがわかります。お堂の西隣には、
文化2年(1805)に建てられた秋葉山常夜灯があり
ます。 またこの西の道を北へ約500m谷に
そって登ると、阿弥陀如来座像(町指定文化財)
を祭る阿弥陀堂があります。
細江町教育委員会

さて、結構登ったような気がするが未だに峠にはたどりつくことが出来ず、
10分ほどで先ほどの東屋より小綺麗な東屋に到着した。
普通ならさっき休んだばかりだし、通過なのだが明らかに姫岩に居た頃より、
めまいやら吐き気やら頭痛が激しくなってきたので再び休憩。
とりあえず水道の水でタオルを濡らして首筋を冷却しつつ20分ほど横になって
生き返ったところで周りの景色に目をやると結構な眺望。
で再び、引佐峠目指して進むと、道と云うより草むらみたいなところを蜘蛛の巣を
払いながら15分ほどで引佐峠に到着した。
ここは細江町と三ヶ日町の境となっており、非常に案内板の充実した細江町に
別れを告げ、峠を下り三ヶ日町に入った。

姫  岩

   昔、新居の関所の入鉄砲出女の取締や浜名湖の 渡しを避けて湖の北を通る道がありました。  この道は主に女性たちが通るので、「姫街道」 の名が付きました。  ここは、眼下に浜名湖を望み、街道随一の眺めの よい所です。  昔、お姫様の行列も、ここで休み  「お姫様、お駕寵からお降りくだされ」と 駕龍からお姫様がお降リになると  「まあ、よい景色」 と言って、しばらく景色を眺めながら 石畳の道を歩いたそうです。  また、この八畳ほどの平らな岩は、「平岩」とも 呼ばれていましたが、いつの間にか「姫岩』と呼ば れるようになり、この上に座ると良いことが起こる と言われています,  近くには、お姫様に上げるお茶の湯を汲んだと言わ れる「姫様井戸」が今も残っています。       細江町観光協会       細江町教育委員会 いにしえのまちづくりの会
     引佐峠
 細江町と三ケ日の境にあリ海抜200m
の峠です。姫街道では、本坂峠につぐ
難所であり、また景勝の地でもある。
昔は峠に茶屋場もあったらしい。
静岡県
でつま先が痛くなるほど勾配のキツい坂を下っていると、象鳴き坂という看板が立っている。
なんでも象を江戸に連れて行く途中、このあたりでしんどくなって「ぱお〜ん」と鳴いたそうだ。
そりゃこんな石畳の坂を登ってきたら象でなくとも鳴きたくなるに違いない。
つか東海道ならしんどい坂なんて新居と白須賀の間の潮見坂位なもんで、
なんぼ船や関所がイヤだからと姫街道なんか行く姫様はよっぽど体力自慢だったに違いない。
まぁ本当のお姫様ならこんなところは駕籠で行くんだろうけど、それだってこんな山道じゃ
激しく酔いそうだ。
でふと前方になにやら巨大なアレが・・。
あまりに立派なので500mlのペットボトルと並べてみるが、俺様を遙かにしのぐほどの威容である。
キノコの分際で
多分シロオニタケという食えない茸だと思う。
まぁ道の真ん中にキノコが生えるようなジメジメしたところを歩いていたら、大分体力も回復し
「石投げ岩」と案内のある岩に向かって石をぶつけるほど復活してきたが、
こんな調子で果たして本坂峠を越えることが出来るのかどうか不安になってきた。

   姫街道

 奈良時代の万葉集では、遠江における東歌 は、湖北路においてのみ採録されていて「二 見道」と祢されていた。 平安時代には、橘逸 勢や僧万巻の通った事実があり、近世になる と「東海道本坂通」と称され重要な脇街道で あった。姫街道の名は江戸時代末期から文書 にみられ見付から御油まで約60kmの街道を いう。

象鳴き坂

1729年(享保14年)広南国より献上 の象か将軍お目見えのため、京都から江戸∧ 下る途次、船で渡る今切(浜名湖)をさけて 姫街道を通った。象は引佐峠の急な坂道で悲 鳴をあげたので、村人はここを「象鳴き坂」 と付けた。当時の書物によると象は牡であっ た。
石投げ岩
 引佐峠を登り下りする旅人が
この岩に石を投げて旅の無事を
占い祈ったといわれる。
 大谷一里塚跡 
  ここは江戸より70番目の一里塚である。
 江戸時代日本橋を基点として主要な街道に一
 里毎に塚を築き松や榎等を植えて旅人の便に
 供するよう命令された.慶長年間といわれる。
 昔は街道をはさんで両側に五間四方の土盛り
 があった。
峠道を下り、視界が開けると養鶏場やらミカン畑が広がるのどかな風景が広がるのだが、
そろそろペットボトルのお茶が底をつきそうなのであまりのどかでも困るなぁと思いつつ
大谷一里塚跡。さすがに今時一里塚の脇に茶店なんぞないから素通りするとようやく人家が
ぽつぽつと現れだし、Dydoの自販機発見。
スポーツドリンク500ml一気に流し込んで汗として流れたナトリウムやらカリウムやら
各種ミネラルを補給し、続けてお茶なんか仕入れて当面の水分補給の目処が立ったので散歩再開。
でもあっという間に休憩ポイント捜索モードに入るのだが・・・・。
細江町ほど公園とか東屋とか無かったりするのでやむなく東名のトンネルで涼んでいたりしながら
三ヶ日宿到着。
郵便局の前に東海道で見慣れた道しるべがあり次の嵩山宿まで2里18町・・・9kmちょいか。
そこから御油までさらに10kmくらいだからゴールは8時かなぁ。
と考えながら歩いているとちょうど小学校の下校時間にブチ当たったためか
小さな体に不釣り合いなランドセルを背負った女の子が前を歩いていた。
一応炎天下15km近く歩いてヘロヘロな俺様とはいえ、小学校低学年の歩くスピードよりは
速かったりするので距離が詰まる・・・。
すると後方からのただならぬ気配に一瞬振り返りこわばった表情を浮かべて猛ダッシュ。
追いつく
猛ダッシュ
がきんちょとは言え、俺様の甘く危険な香りを女の感で嗅ぎ取ったようだ。
前にも東海道石薬師宿あたりでこんなことあったなぁと思いつつ
さすがに、偶然進行方向が同じとはいえども何遍も猛ダッシュさせるのは気の毒だなぁと思っていたら
釣橋川と宇利山川の合流点に公園を見つけたのでしばし休憩。
引佐峠以来約2時間ぶりに座って休憩は良いのだが日当たりが良すぎるので早々に退散。
で「釣」というバス停を過ぎ、姫街道はは国道362号に合流し、
いよいよ本日の最大の難所本坂越えである。
緩やかなカーブを描きながら登っていく国道を進み、一時国道から左に逸れて本坂一里塚を眺め
再び国道へ戻り国道を横断して、民家が軒を並べる旧姫街道に入る。
でここで再び学校帰りの女の子と遭遇し
追いつく
猛ダッシュ
こんなことを繰り返しつつ、女の子は路地に消えていった。
しかしまた舗装が荒れているなぁと思っていたら人家も両脇にあるのにいつの間にか
道はダートになっていた。
国道に出る手前のコンクリートの擁壁に寄りかかり本坂峠越えに備えてしばし休憩してから
国道に戻り、本坂峠の入り口にたどり着いた。


本坂峠入り口

本坂峠

弘法水

嵩山一里塚

コウモリ

豊川市

東海道
引佐峠で想像はしていたが、ぬかるんだ地面に倒木が横たわり、草ぼうぼうで蜘蛛の巣だらけで 車道から投げ捨てられたゴミが至る所に落ちているというなかなかすごい状況である。 まぁこうやってゴミをそこいらにポイポイする奴はどーせロクデナシのクズ野郎に違いないので 厳罰に処して欲しいところである。
がしかしそんな俺様に疲労か熱射病なのかはたまたロクデナシのクズ野郎の祟りかどうか知らんが、 猛烈な吐き気が襲ってきた。
後から通る人が 「こんなところにゲロ吐く様な奴はどーせロクデナシのクズ野郎に違いない」 と思われるのもイヤだが、それにも増して余分なエネルギー使うとブッ倒れる可能性だってある。
まぁぬかるんだ地面の通りあちこちから湧水がありこれが幸いしタオルを濡らして首筋にあてがい、 汗が乾いてジャリジャリの顔を拭いて、ぬれタオルをブンブン振り回して 俺様の行く手を阻む蜘蛛の巣を蹴散らして峠を目指した。 何とか本坂峠に辿り着きここからは愛知県、遠州から三河にきたぜと感慨にふけっているとなにやら人の気配がする。で振り返るとハイキング風の親子いたので、こみあげる吐き気をこらえつつ挨拶するとレジ袋にぎっしり詰まったワラビを掲げて「いや〜こんなに採れちゃった」と・・・。些か季節はずれの様な気がするがもしやと思い、親子連れの足をみるがちゃんと地面に着いているのでこんな時期でもワラビ採れるんだと納得し嵩山を目指して下りはじめてやはり気になったので、振り返るともはや人の気配は無かった。
やっぱ山慣れした人は足が速いなぁと無理矢理納得しつつ、本坂峠でワラビ採りに行って行方不明になった親子なんかいませんよね。
んでちょいと下ったところに弘法水とかかれた泉があったのでなんか御利益あるかなとちょいと口に含んでみたが土の味がした。
きっと弘法大師様ほど徳を積むと泥水だって清水に変わるんだろう。
看板の説明によれば
「昔、弘法大師がこの地を訪れた際、喉を潤したとされる言伝えがある。」


うーん。雨が降らなくて困っている村人さんのために錫杖を「えい!」と突き刺したところ、絶えることなく清水が湧き出したとか云うわけで無く、「喉を潤した」かよ。
まぁせっかくなのでタオルを濡らして、首を冷やしつつブンブン振り回して蜘蛛の巣を蹴散らしながら下っていくと嵩山一里塚があった。さっきの本坂一里塚が16:15で現在17:45だから4km通過に1時間半も掛かっている。まぁ後は嵩山から豊川まで行って、後日に回そうと考えつつ前方が開けて来た。久々にみる人家である。人家はいいが尋常ではない勢いで犬に吠えられる。うーん本坂峠で何か背負ってきちゃったんだろうか。
で道は国道362号に入り、バス停が有るので自由が丘とどこかで聞いたようなそのバス停の時刻表をみると、18時過ぎだというのにもう終バスが行ってしまった後だった。あきらめてトボトボと歩いていると豊川に差し掛かった。で足下をふとみるとなんかいるのでつま先でつついてみるとジタバタしているので大きめの蛾かなとよく見るとコウモリだった。暗くてよくわからんが怪我して飛べないのか。車にぶつかって気絶していたのかよくわからんけど、まぁ我が家の界隈も夕方コウモリが”ぱたぱたた”と飛んでいるし、飛べるようになるまで保護してやるかと捕まえるがえらくおとなしいし、半ば冷たくなっているのでだめかなと思いつつも、手で暖めていたらジタバタし始めたので一安心。
ハムスターより肌触り良いし、臭いも無いのでペットとして流行るんじゃ無いかなぁ。血吸ったりしない奴ならね。
で奴は1週間ほどミルワームやら子猫用ミルクなど与えたらみるみる回復し、部屋の中で放し飼いにしていたらどっか行きやがった。
で豊川市突入なわけだがもうすっかり暗くなってしまった。バスで後日後回し作戦が使えない以上、最後まで歩くしかねぇなと覚悟を決めたが道路はすっかり拡幅されてしまい、旧街道の趣なんざありゃしない。途中、栄養ドリンクとかでドーピングしながら歩くという涙ぐましい努力?にも関わらず、
最後の最後でしくじりました。
本当なら国府駅の先の跨線橋を行って追分でゴールなんだけどその手前の国府駅入り口で曲がってしまい、東海道との交差点になんら道標は無いのであらららってことになってしまった。時刻はすでに21時半を回っており、また今度でいいやと撤収。

以下はリベンジの記録である。
日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年8月14日気賀〜御油晴れ12分1166歩0.81km150円

国道一号追分

ニセ追分

東海道追分

常夜灯とか
というわけで、前回チョンボゴールだったので、中山道守山宿から関ヶ原あたりを目指して歩く移動のついでにキッチリけじめつけておこうと国府駅に向かう。でR1を延々走ると方向幕が「電車代行」となっているバスが走っている。んで国府駅に着くとなにやら騒々しい。
踏切事故で電車が止まっているらしく乗客が駅員捕まえて騒いでいた。いくら怒鳴ったところで電車が動くわけで無いし馬鹿めと思いつつ姫街道国府駅入り口の交差点に到着。動いてない名鉄の跨線橋を越えて一号線追分の交差点に到着。長いこと信号で待たされ、姫街道と東海道の追分に到着・・・あれ?道標がない。まぁいっかと左に曲がり、じゃそこの喫茶店で飯でも食うかと思い・・・思い出した・東海道歩いたときにここで朝飯にモーニングやっつけたよなぁ。「あれ!?じゃ東海道はもう一本向こうの通りじゃねーか」危うく再びチョンボするところだった。 ちゃんと道標もあり、常夜灯もある。一応これで見付から御油まで姫街道を歩いた訳だが、おいらの通ったルートは天竜川を越えてから北上し三方原に抜けたのだが、二川宿の本陣資料館に立ち寄った際に浜松から三方原に抜けるルートと嵩山から吉田(豊橋)に抜けるルートもあることが判明、全踏破とは言えないのである。
特に浜松三方原ルートは家康君と信玄君のバトルの歴史があったりするので是非訪れたいところである。

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