姫街道 磐田駅〜自動車学校前駅まで

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年5月15日姫街道(見付追分)〜安間晴れ3時間55分19214歩13.5km約6380円

ゴン中山の足形

見付宿木戸跡
というわけで、高山へ酒買いに行くついでに中山道を連休前に歩いた俺様だが、10km位歩いたところでは俺様の足は満足せず、かといって中山道を歩きには金も時間もないので、なんかのついでにおいといて、東海道補足シリーズと称して磐田(見付宿手前)から御油宿へ抜ける脇街道である、姫街道を歩いて見ることにした。そーいやここんところお姫様ともご無沙汰だしなぁ。(あっすいません。身内の方は突っ込まないでください。)という前置きをかましつつ、貧乏人の味方?東名ハイウェイバスを利用し掛川まで行き、そこから東海道線で磐田を目指すことにしたのだが、例によってバスが来ない・・・・。
で25分ほど待たされた挙げ句、やってきたのは乗客満載のバス。運ちゃんが酒飲んで蛇行運転したり、本線上をバックするなど一時期不祥事続きだった大変リスキーな交通機関だったりするのだが、とっても商売繁盛のご様子で運ちゃんに満員だから次のバスまで待てやと言われやむなく次のバスは静岡行きだからそこから東海道線で磐田は遠いよなぁと考え込んでいたらうまいこと補助席が一つだけ空いているとのことで補助席ですまんすまんと言われながら無事乗車。
そんなわけでおいらを乗せて本当に満席となってしまい、後のバス停で乗れなかった人すまんすまんと思いつつ補助席で小さくなりながら30分遅れでなんとか掛川に到着。やはり今まで降車ボタンも押されず乗る人もいないバス停はちょこっと減速して通過していたが、降ろし損ねてだか積み損ねて本線上でバックしちゃった事件のせいか、無人のバス停もきっちり停まる上、法定速度厳守しているので、なかなか遅れを取り戻すことが出来ないようである。
で東名掛川より結構歩いて掛川駅より東海道線に乗ると、これがまた結構、人満載。でも愛野駅で結構降りていったからサッカーの試合でもあったのかな?。磐田駅で降りてサッカーで思い出したのだが、以前東海道を歩いた時には道路反対側の歩道を歩いてしまったので出会えなかったジュビロードのゴン中山の足形を探すとあったあった。まぁゴンの足形に出会うことは出来たが、いくらゴンの足形でも俺様の空腹を満たすことは出来ないのであちこち探すが今時、駅前商店街が栄えているところなどなかなか無いもんでメシ屋が見つからなかった。
そうこうしているうちにやっとこさいつもながらの長い前置きが終わり、見付宿木戸跡を過ぎ、国道一号線横断すると程なく東海道と姫街道の分岐のたどり着いた。しかしまた宿場の手前にショートカットがあるというのも宿場で生計を立てる人間にはさぞかし迷惑な話だったに違いない。

姫街道分岐点

秋葉山常夜灯

一言坂戦跡
さてこっちまで来るとメシ屋はあきらめざるを得ないなと歩いていると昼間でも煌々と白熱灯が輝く秋葉山常夜灯があり、そこで道が二叉に分かれている。左手の道は緩やかで、右手の道は急峻な上り坂で案内板の類はないのだが、徒歩でしか通れなかったつーことは間違ったって緩やかな左側の道のわけは無いだろうときっつい坂を登り詰めると、いかにも古戦場跡ですよってな具合ののかぶと塚公園というのがあったが、まだ休むほど歩いてないしそれよかメシ食わせろよとブツクサ文句を言いつつ歩くと、一号線に合流した。で左前方に長崎チャンポンリンガーハット発見。
たちまち胃袋は生ビールと皿うどんというメニューを要求したのでちょいと遅めのランチをやっつけることにした。しかしまた、最低週2回は勤め先近くの中華料理屋で店のおばちゃんに「また来たの?」と言われるほど皿うどんかちゃんぽんをやっつけているのだが、この先食えるかどうかわからんし、チェーン店なら俺様の想像を超えた怪しげな料理でハマることも無かろうというわけで皿うどんをビールで流し込み、ランチ終了。
とりあえず食ったけど若干飲み足りない胃袋をさすりながら店を出ると歩道橋を越えた先に右に逸れるいかにもと思わせる細い道が分岐しており、こいつだろうと進んでみると住宅街を過ぎて坂を下る途中に一言坂古戦場兼姫街道の看板があり一安心。ここいらより磐田市を抜けて豊田町に入ったらしい。

一言坂の戦い

 この坂を一言坂といいます, 元亀 3
年(1572年)甲斐国(山梨県)から攻め込
んできた武田信玄と遠江国 ('静岡県西部)
の領主であった徳川家康との間に戦いが
起こりました. 袋井市の三箇野川の戦い
で敗れた徳川軍は. 浜松城を目指して敗
走しましたが、一言坂で追いつかれ. 再
び合戦となりましたヽこれが「一言坂の
戦い」です。
この時に敗走する徳川軍を救ったの
が、家康重臣の「本多平八郎忠勝」でし
た、平八郎は「とんぼ切り」といわれた
大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯れ
草に火をかけ、その煙の中、見事に味方
の軍を退却させたと伝えられています。
 敵の武田軍も、この時の武勇をたたえ、
「家康には過ぎたるものがふたつある、唐
の頭(兜)に本多平八」と書いた札を磐田
市国府台に立てたといわれています。

姫街道

 この道は,古くより「池田近道」とも呼ばれ、多くの
旅人に利用されました。それは東海道が見附宿から
中泉代官所の方へ南下し.さらに豊田町森下付近から
池田の渡船場まで北上する遠回りな道であったため、
見附宿からまっすぐ西に出て一言坂を通り池田渡船
場まで斜めに直線に行けるこの道が好まれたのは当
然かもしれません.しかし、この道は「かち」(徒歩)の
人しか通ろことのできない細い道で、馬や荷物は東海
道を行くしかありませんでした.
 「姫街道」の名の由来はいくつかありますが東海道
の通行障害をさけた女性の通行者が多かったためと
いう説が多いようです。姫街道は磐田市見付(西坂
町)から愛知県豊川市御油町まで15里14丁(約60.4
キロ)ありました.


池田近道の看板

看板の指す道
その先に「池田近道」(姫街道)という看板が立っていた。これくらい馬鹿丁寧に解説板やら案内板が立っていると道に迷うことなく進めるので大変ありがたいのだが看板の指し示す方をみるととっても怪しい藪の中を貫く未舗装路。すんげー怪しい上、へびさんでも出てきそう・・。
事実この看板の手前で骨せんべいと化したへびさんがいたしなぁ。で意を決して?この怪しげな道も藪を抜けるとあたり一面田んぼの開けた道となり、この先どんな危険?が待ち受けているのかと警戒モードに入っていた俺様はすっかり拍子抜け。警戒モードを解除し先ほどの案内板を思い出しすと磐田バイパス方面に抜ければ良いらしい。
このあたりの姫街道は消失していると先の看板に書かれていたが所々無駄に曲がりくねった感じが旧街道らしさを感じさせる。そういや東海道も区画整理やら道路拡張で直したところ以外は一直線な所は無かったしなぁ。おいらが沼津食わずで原減ったと揶揄したひたすらまっすぐな沼津〜原だって一応枡形の面影あったし。昔の人もまっすぐな道を歩き続けるのはしんどいことを知っていたのか、それともとってもシャイなので遙か前方から歩いてくる人と対峙するのが照れ臭かったのか、はたまた邪魔くさい岩やら切り株を避けて道をこしらえた結果、必然的に曲がりくねったのかわからんけど・・・。
キャベツ畑を見守るフクロウ?

熊野の長藤

藤の花

そんなわけで、遠くに国道一号磐田バイパスを眺めながら、田畑の中に人家の点在する姫街道を歩いているとキャベツ畑があった。いやキャベツ畑なんぞちっとも珍しくはないのだが、なぜか案山子代わりにフクロウが立っているのである。たぶん雀とかネズミとかはいやがるだろうけど虫には効果が無さそうな気がする。
で磐田バイパスをくぐりると、ルートを見失ってしまうが、まぁ北に向かって行けば何とかなるさと進んでいくとうまいこと池田の渡しとの案内板を見つけ程なく熊野(ゆや)の長藤とか言う藤棚があったので立ち寄ってみるが、すっかり盛りを過ぎてしまって探し回ると漸く一房の藤の花が残っていた。つかもうほとんどドライフラワーじゃんか。
で傍らに熊野の墓というものがあったが、残念ながら古典芸能にはまるで疎いのでさっぱりわからんのだがなんかそれなりに由緒があるらしい。
熊野の長藤という名前だけは近代文学までくると春日部の牛島の藤とセットで太宰治の斜陽にも登場しているのだが・・・・

熊野の長フジ

 国指定天然記念物一本

 県指定天然記念物五本

 
 国指定樹は 境内西北隅に位置し 幹は根元より分かれて二支幹
  となっている 根元で約一. 八mもある
 本堂前の境内地にある 五本のフジは県指定樹であるが 国指定
 に劣らないフジの巨木である ともに 樹令は定かでないが老木で
 あることは間違いない 
 花房が一m以上にも伸びて紫色の美しい花をつける 一般的にには
「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終りごろ
 熊野御前が植えたとの伝承がある 熊野御前については謡曲熊野
 や平家物話にも登場する。 親孝行で有名な美女である 
    平成四年三月
          豊田町教育委員会
          
池田の渡し歴史風景館

池田橋の跡

デンジャラスな天竜川橋

東海道と合流
でなんとか池田の渡し歴史風景館を見物してから池田の渡し跡までたどり着き、川沿いに下ると恐怖の天竜川越え。
なぜか知らんがこの天竜川には古くからある県道はもちろん後から作ったR1の新天竜川橋にも歩道がなく、江戸時代の難所は時代を経て別の意味での難所となっているのである。一応俺様の意見を取り入れたのかどうがは知らないが一国BPと平行してもう一本橋を架ける工事を進めておりこっちには歩道をこしらえるとのことなので数年後には、天竜川を安心して渡ることが出来るはずである。まぁここから先は東海道で歩いたし、姫街道の分岐までバスで川渡しとしゃれこむかとバス停の時刻表を眺めると20分待ちなわけでこれなら天竜川を歩いて渡ったほうが速いかも知れないがもうベンチ座っちゃったしとボケ〜っと待っていると、バスの接近を示すランプなんぞ点灯しやがってなかなか侮れないぜ遠鉄バス。でガラガラのバスでバス停3つ分ほどワープし安間バス停にて下車すると程なく東海道に合流。でR1の立体交差をくぐり見覚えのある松並木の残る東海道を歩きつつ姫街道の分岐を探すのだが、どうにもそれらしき路地は見あたらず、とりあえず北方向にある神社やら寺を目指しているうちにそのうち街道を捕捉出来るだろうと適当に進むとR152に出てしまった。R152を西に向かってしばらく歩いていたがよく考えたらこいつは再び東海道に合流することを思い出し、だめじゃんと再び進路を北に向けたり西に向けたりしているうちに遠州鉄道の線路に差し掛かった。で線路沿いに電車通りを北に進むと曳馬駅に辿り着いた。姫街道を進んでいれば自動車学校前というバス停みたいな名前の駅にたどり着くはずだが・・・
この遠鉄は東海道歩いたときはもちろん、社用で浜松行ったら行きは新幹線でも帰りは自動車学校前で降りて東名バス浜松北バス停から直帰し、会社への請求はもちろん新幹線で帰ったことにして差額を着服するという業務上横領をやらかす際に散々お世話になっているので、ここで自分の位置が漸く理解できた。駅2つ分南だぜ。
あとで地図を確認するとバスで天竜川を川越した際にそのまま松並木に誘われるように浜松方向に歩いてしまったことがそもそもの間違いの発端らしい。
そんなわけで次回は天竜川渡ったところから再スタートするか。

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