中山道 行田−上尾

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2007年5月5日深谷〜上尾晴れ5時間32分 33054歩23.14km3260円

峠の釜飯

峠の釜飯の中身

行田駅
まえがき
というわけで横浜駅でビールとミックスナッツを仕入れ湘南新宿ラインで一路大宮を目指す。で大宮で乗り換えて駅弁を仕込んで、ホームの喫煙所で一服というスタイルが定着しつつあるが
この湘南新宿ラインで大宮乗り換えの隙に駅弁を買うというのもおそらく今日で最後であろう。なんたってもういい加減大宮から先、電車に揺られる時間が幾分もなくなってきた。
まぁいくら早飯食いな俺様でも30分は欲しいところである。
で今日の駅弁はは、碓氷峠を下って来たときには売店が閉まっていて買えず、碓氷関所から安中宿を歩いたときは品切れで食べられなかった峠の釜飯をビールで流し込むことにした。
で食べ終わってこの容器が徒歩旅行向きでは無いことい気付いたが、今更手遅れである。ゴミの分別回収が進められる中、ビン、缶というカテゴリにこの陶器は一体・・・というわけでこのクソ重い容器をリュックに入れて出発する羽目となった。
しかもすでにビール二本やっつけた都合で行田に着いた時にはトイレに駆け込む始末。 こんなんでこの先トイレとか大丈夫かと若干の不安と、増えてしまった益子焼の釜飯の容器に後悔しつつ行田駅を出発した。で行田名物ゼリーフライはJR側の駅には無さそうだし、さっき飯食ったばっかりだししょうがないのでさっさと歩くことにする。

スタート地点

荒川土手

荒川方面

延々続く堤防上の道

決壊の碑

暴走抑止?の杭

ヘラオオバコ

間違って進んだ分岐点

土手をよじ登る

土手の上に復帰

俺様の行く手を阻んだ小川

あの二宮尊徳像

二十二夜塔?+勢至菩薩

権八地蔵

電柱に中山道車に注意の紙

古風な水門その1

古風な水門その2

20m先トイレの張り紙

榎戸堰公園

川柳が刻まれた石

水門

たにし



高崎線

高崎線の踏切

踏切を渡ってすぐ右へ

間の宿吹上の石碑

右へ

右に曲がった先

吹上駅

昭和臭漂うシャッター

勝竜寺というらしい。

右に逸れる

ボロ車を超越した古い車

第4中仙道踏切

中山道みち案内

単調な道が続く

取水堰?

歩道無くなる
そんなわけで12:33に前回のゴール地点から歩き始めた。
ただし今回のスタート地点は前回、旧中山道である荒川土手が工事で全面通行止めだった事により高崎線よりに迂回して来たため中山道ではない。
というわけでスタート地点から前方に見える土手を目指して歩き始めた。
3分ほど歩くと荒川の土手に出たのだが、遊歩道では無く車道だった。それもまた信号やら交差点がない状態なんで半ば高速道路状態・・・
これじゃ落ち着いて犬連れて散歩もできんがな。
そんな状況だがヒバリが鳴いているのどかなところである。普通ヒバリなんぞ天高く飛んで米粒くらいの大きさにしか見えないのだが、サービス精神豊富な奴が地上で餌をついばんでいた。
まぁ間近でヒバリとご対面という機会もそうそう有るまい。
で土手の下は川が有るかというと遙か遠くに有るようで水の流れなんか見えやしない。代わりに一面畑やら田んぼが広がっており、遠くには秩父の山がうっすら見える。
延々堤防の上を歩いていくと石碑があった。その隣には熊谷で”元荒川”や”ムサシトミヨ”にちなんだカルタに書かれている様な句が記されている。
こ 洪水の
   怖さ伝える
   決壊碑
   
ん?もう熊谷は通り過ぎてここは行田では無かったのか?・・と地図を確かめると堤防から荒川までが熊谷で、堤防を下ると、行田だったり吹上だったりするようだ。
             荒 川 の 水 害
 荒川は埼玉県の中央を流れ母なる川として広く地域の人々に親しまれていま
すが、反面古来から荒れる川として洪水により沿川の住民を苦しめてきました。
 近年には、昭和二十二年九月のカスリ一ン台風による洪水のため熊谷市久下
地先のこの地点で濁流が堤防を越え決壊しました。
 流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊した濁
流と合流し、はるか東京まで達し尊い多くの人命を奪うとともに付近一帯に甚
大な被害を与えました。
 あの恐ろしい洪水から約半世紀経った現在、決壊跡付近の整備は概成しまし
たが、昭和五十七年の洪水の時のように、水位が堤防天端近くまで達したこと
を考えると、いつまた大災害が起きないともかぎりません。
 沿川の都市化の進展により、氾濫区域内の人口や資産はさらに増加していま
す。このため、堤防や護岸等を整備し、周辺の環境にも配慮した河川改修を推
進して、地域の発展を支えています。
平成八年四月
国土交通省荒川上流工事事務所
これだけ広い河川敷を水で一杯という状況だけでもすごいのだがこの堤防を越えたってどんだけの災害なんだか見当もつかない。
しかも時を同じくして利根川も久喜あたりで決壊して押し寄せた濁流が荒川の洪水と合流して東京まで水浸しって・・・
しかし戦後間もない頃と違って、地下街や地下鉄が張り巡らされた現在ではもっととんでもないことになりそうだ。
決壊の碑からさほど遠くないところに「海まで71km」と書かれた杭が立てられている。海と言えば東京湾なのでもう後数回で日本橋なんだよなぁ。
次はどこを散歩するかなぁ。まぁ現在掛川から国道152号沿いに進む秋葉街道も歩いているのだが、交通の便が余りに悪く、綿密な計画を練らないと容易に辿り着けないし、また帰ることもままならないのでもうちょっと安易に歩ける甲州街道でも行くかって所である。
ただこれを日本橋スタートにするか、諏訪スタートにするか悩むところなのでとりあえず、この中山道を日本橋ゴールした感動の度合いで考えよう。まぁ東海道の京都三条大橋の感動ほどではなくなんか冷めた気分でゴールしそうだが・・
で海まで71kmの杭の先には車の車幅ギリギリに2本の杭が道路に刺さっている。おそらく堤防道路ハイウェイ化を阻止する目的なんだろうが、どうせなら鈴鹿山脈を越える石榑峠の様にインパクトあるコンクリートブロックでも並べておけばちょっとした名所に・・・なるわけ無いか。
そもそも堤防とか土手は構造物NGなんでブロックはおろか転落防止のガードレールすら設置できないのか。
で道ばたにはヘラオオバコが花を付けている。まぁ丈夫な根っこを張るから堤防にはうってつけの雑草だが、これも帰化植物だそうな。
土手の上を歩いていると、おっさんに「元荒川はどこですか?」と尋ねられた。「荒川はこの河川敷の遙か向こうに流れているのは判るけどなぁ」。
そもそも通りすがりの旅人に尋ねるのが無茶だ。地図を片手にリュック背負っていたら明らかに地元民で有ろう訳はない。あいにく地図にも元荒川の記載もない。ただ幸いたまたま通りすがりの地元の方が見えて土手の下の緩やかな流れの川を指さして教えて貰っていた。
そろそろ土手を下って左手の方角に進む様だがそれっぽい分かれ道が有ったので進んでみる。
先ほどの元荒川沿いに歩いていくと休耕田なのか沼なのか微妙な水たまりの方からウシガエルの鳴き声が聞こえてきた。
こいつはなかなか人前に出てこないのでの生前の姿にはお目にかかれない。今回も声はすれど姿は見えずだった。
だかこの道は人んちの脇を過ぎると田んぼに出て終了していたので 強引に土手をよじ登るか、後戻りするか・・いずれかの選択肢しかなさそうである。
まぁ極力後戻りは避けたいので、草藪に下手に足を突っ込んでマムシとかとご対面しないように祈りつつ堤防の上の道に復帰。いやぁ旧街道にしては電柱がないからヘンだとは思ったのだが・・・・
再び土手の上の道に戻るとまたまた緩やかに左に下っていく道が見える。先ほど俺様の行く手を遮るかの様に流れていた小川も道路とは離れているし今度は大丈夫そうだ。しかし土手の高さに対して、水面が高い・・いや水位が15cm増したら畑とか水浸しになってしまいそうだが大丈夫なんだろうか?
土手を下るとそこは熊谷では無く吹上だった。降りて程なく権八延命地蔵尊と額の掲げられたお堂が有ったその脇には二宮尊徳が薪をを背負いつつ本を読んでいる例の銅像と二十二夜勢至菩薩と彫られた石碑がある。
二宮尊徳像と権八地蔵には花が生けられており今尚大事にされているようであるが、二宮尊徳像は元々はどっかの小学校の校庭に有ったものをここに移設したんだろうか。判らないのが二十二夜勢至菩薩と彫られた石碑である。 権八地蔵はガイドブックによれば、権八という人が、食うに困った挙げ句、辻斬りをしたらそこにお地蔵さんがいたので、「このことは誰にも言うな」といったら「オマエモナー」とお地蔵さんが言い返したそうで・・・
その後、お縄になった権八が、お地蔵さんとのやりとりを話してから以来このお地蔵さんを権八地蔵というそうな。
で権八地蔵エリア?を後にし、今度は間違っていないよねと思いつつ歩いていくと、電柱には「中山道 車に注意」と書かれた手製のシールが張ってあった。どうやら今度は道を誤っていないようだ。
すると今度は煉瓦造りの水門or欄干がある用水路が流れていた。道の反対側に目をやると反対側にも同じ様な煉瓦造りの水門が有った、銘板が貼り付けられているようだがフェンスが邪魔で確認は出来ないが「榎戸堰??」と書かれているようだ。
古風な水門に気を許していたら危うく電柱に貼られた、「中山道 トイレ20m先」の張り紙を見落とす所であった。
まぁ取り立てて緊急度高な訳では無いが、この先住宅地でトイレが見あたらないという状況に備えるべく寄り道することにした。
だいたいにして”まえがき”にも書いたとおりすでにビールなんか飲んでいるので余計に不安材料を抱えているのである。
で立ち寄ってみた先は榎戸堰公園という公園だった。とりあえず用を足してからベンチで一服しつつ園内をウロウロしてみる。
するとなにやら川柳が刻まれた石を発見。
「鵜遣いの
 年にお足は
 なかりけり」
うーんよくわからんが傍らの石には
「万延元年(1865年)
荒川や元荒川では古式な
鵜飼い漁が盛んであった」
と彫られている。
鵜飼いで有名なのは長良川だけど、江戸時代末期には関東でも鵜飼いによる漁が行われていたのね。
ぷらぷらしていると川にでっかい水門が設置されていた。ということはさっき土手ギリギリまで水が押し寄せていた川は、ここの水門で堰き止められていたため水が一杯な状況だったのね。
足下にはタニシがいた。で再びベンチのほうに戻ると入らないでくれとか犬を入れるなと看板の建っているちっこい滝がある。
さて、再び街道に戻るとそばを高崎線が走り抜けていく。やがて高崎線の踏切を渡るんだよなとルートを思い出しつつ歩いていると、なにやら観光案内のような看板が建っていた。
元々は「吹上町ふるさとの散歩道」と書かれていたのだろうが、吹上町だったとおぼしき部分には「鴻巣市」と上からシールを貼っている。
これを見て吹上町も平成の大合併により、鴻巣市に編入されてしまったことを知った。
なおこの看板には、散歩道のコースは紹介されているが、旧街道に関する記述はなかった。
しばらく歩くと高崎線の踏切が見えてきた。地図によればこの先の高崎線を跨ぐ県道で高崎線を越えるのだが手書きの案内を尊重しここを渡ってすぐに右手に進んでみた。
若干不安になりつつ進むと程なく、「中山道 間の宿吹上」と記された石碑があった。とりあえず曲がるところを間違えずに済んだらしいことに安心する。

中山道分間延絵図 (鴻巣あたり)

吹上 「間の宿」

 中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣
と熊谷の「あいの宿」としで発展した町
ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではあ
りませんでした。
 しかし、それにもかゝわらず重要視さ
れたのは、日光東照宮を警護する武士た
ちの一日光火の番道」と、中山道が町の
中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊
谷宿の距離が長かったため、その中間に
休憩する場所として「お休み本陣」や、
馬次ぎの「立場」を設置する必要があっ
たからです。
 年に三〇家もの大名が江戸や国許へと
行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足
をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳
人小林一茶や加舎白雄、狂歌師で戯作者
でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英
泉などはそれぞれ得意な作品をのこして
います。そして江戸以来、吹上の名物は
「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎
戸の目薬」も街道の名品にかぞえられて
いました。
 この場所は、かっての中山道が鉄道の
開通によっで分断された地点にあたって
います。
高崎線の線路沿いをしばらく歩いていると県道行田東松山線の高架の下を過ぎてすぐ左手に入り、国道17号方面にショートカットするようなのだが、周りのお家も新しく道がよくわからない。
とりあえずそれっぽい道を進むとどうも違っていたようで、なんとか軌道修正しつつ、旧17号とおぼしき県道につきあたった。良く見ると電柱にはご親切に「旧中山道→」と案内してくれるお手製の紙が貼られていた。さすがにここを右というのは判るので余計なお世話だなぁとおもいつつもこの分ではさっきの高架下でもきちんと案内されていたに違いない。
そんなわけで吹上本町の信号を右に曲がり、県道に入ると普通に歩道がない。東海道で歩道が無いのはかつての天竜川橋や豊川放水路の橋くらいだが、埼玉県内の中山道は普通に歩道がない。まぁ江戸時代の道幅そのまんまで、幹線道路の定番の裏道となっている東海道も危険といえば危険だが・・・
で吹上駅入口を過ぎるがこちらも歩道やら改修工事を進めている真っ最中のようである。
すると電気店のシャッターにかつての三菱電機のキャラクターのメル子ちゃんが描かれていた。キャラクターの雰囲気から昭和40年代以前に描かれていると思われるので、このシャッターは30年以上経過した年期ものってことになる。
このメル子ちゃんシャッターの電気屋さんからしばらく歩くと中山道から100m以上奥に引っ込んだところに、立派な山門と本堂が見える。
まぁ別に入口のあたりに「何々ゆかりの・・・」といったような看板も無いので写真だけ撮って素通りしたが後で地図を調べたところ勝竜寺というらしい。
このお寺の入口から歩くこと3分余りでいかにもといった分岐点がある。地図を確認すると中山道は右に逸れ、再び高崎線の踏切を越えるようである。
右にルートを逸れたところ駐車場に、ボロ車をはるかに超越して、もはやヒストリックカーと言って良いような車が放置されていた。左側のは元祖フェアレディの様だが右側はまったく判らない。
程なく第4中仙道踏切を越え、とりあえず道を誤っていないことに安心しつつ線路沿いの道を進んでいくと、中山道みち案内と書かれた看板があった。この地図で現在地を確認すると、先の第4中仙道踏切踏切から丁度まんなか辺りにいるようだ。
しばらくはさしたるものは見あたらず15分ほど歩くと畑の向こうに取水堰のような建物が見える。
地図で見ても難の施設か記載されていないがここから幾つか水路が別れているところからすると農業用水だろうか?
さらに進むと歩道が無くなっていた。手前の電柱にはご丁寧にも「中山道この先歩道無し、車に注意」と紙が貼られている。まぁ見通しのよい直線道路ならいいが昔の道をそのまま拡げただけなのかやたらとブラインドコーナがあるので交通量が少ないとは言え前から車が来ると少々怖い気がする。

ブラインドコーナ

箕田の追分

箕田の追分

氷川大宮神社先の道標

古い道標の示す道

歩道無しの中山道

インパクトある骨董屋

高崎線の第3仲山道踏切

鴻巣のメインストリート?

鴻神社前の信号

コウノトリが描かれたカラータイル

鴻神社

鴻神社内の浅間神社

再び中山道に戻る

人形屋の看板
というわけで鴻巣市に入ってまもなくガソリンスタンドから流れるラジオから14時の時報が流れてきた。歩道も無く減速を促す道路のペイントが有るような道を進んでいくと10分余りでなにやら看板と石の椅子と、「中山道 鴻巣 彩の国さいたま 平成の道標」と刻まれた石碑のある小公園が有ったのでしばし休憩。
やっぱりおっさんになってくると一時間置きくらいに座るところ用意してくれるととても有り難い。
で中山道分間延絵図より箕田追分周辺の絵とともに説明が記された看板があった。

中山道分間延絵図 (箕田の追分附近)
「中山道分間延絵図」
(東京国立博物館蔵)
江戸時代の箕田追分周辺
 平安時代も九世紀後半頃になると地方の政治が
乱れ始め、武蔵国では群盗がはびこり、治安が悪
化してきました。
 西暦九一九年、前の武蔵権介の任にあった源仕
(任)は、官物を奪って官舎を焼き払い、国府(国
ごとに置かれた役所)を襲う事件を起こしました。
源仕は昇(嵯峨天皇の孫)の子で、任期終了後も
帰京せずに箕田に土着して豪族となり、その子充
(宛)は箕田源氏の祖と いわれています。著名な
説話集「今昔物語集」には、箕田に居を構えてい
た源充と、村岡(熊谷市)に居を構えていた平良文
とが、合戦におよんだことが述べられています。
源頼光の四天王として知られている渡辺綱は充の
子にあたります。
 このほかにも、仕が勧請したと伝えられる八幡
社、綱ゆかりの寺院など、箕田には源氏にちなむ
伝承が数多く残されています。
 やがて、江戸時代になると五街道の一つである
中山道が、現在の鴻巣市域をほぼ南に通り、中
山道は東海道と共に江戸と京都・大阪とを結ぶ重
要な幹線路であったから、整備も行き届いていま
した。中山道を往来する主な通行は、参勤交代の
ために隊列を組んだ大名行列や公用の武士、  荷物
を運ぶ人足や馬、寺社参詣の旅人などがありまし
た。
朝、江戸を出発した旅人は、その日の夕方には
鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、 翌朝、再び
中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほ
ぼ一里(約4キロメートル)ほど行くと、箕田村
の追分あたりに着き、ひと休みすることもありま
す。追分からは、北に向かって三ツ木・川面を経
て忍(行田市)や館体(群馬県)城下へ向かう道
が分かれるので、ここを箕田村字追分というよう
になりました
 鴻巣宿から熊谷宿までは四里六丁四〇間(約一
六キロメートル)この長い距離があり、途中の箕田
・吹上・久下村の三ヶ所には立場と称される休憩
所がありました立場とは立場茶屋ともいい宿場
と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買
い替えたり、お荼を飲みダンゴを食べるなど、休
息するところです。箕田の追分には立場があった
ので、旅人の休息はもちろん、近村から寺社参詣
などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの
別れを惜しんだのです。
 上の図は十九世紀初頭、江戸幕府によって作成
された中山道絵図のうち、宮前・箕田・中井村あ
たりの部分図です。道に面する家並みや寺院、中
山道から分れる道などが描かれ、当時の中山道と
その沿道のようすを窺い知ることができます。
 左上の図は江戸時代の後期、根本山(群馬県桐
生市)に参詣する人びとのために発行された旅行
案内の一場面で、箕田の追分が描写されていま
す。そこには中山道と館林道の道しるべ(道標)
や冨士屋という立場、さらに追分に造立されてい
る地蔵菩薩などを見ることができます。左下の図
は、明治元年に合祀された氷川八幡神社を描いた
もので、境には渡辺社や箕田源氏の事跡を刻んだ
箕田碑などもみえます。


箕田の追分の図             大宮氷川神社の図
ここが中山道と館林道の分岐点だったらしいが、地図を眺めても行田までは何となく辿れるがそこから先館林までどう繋がっていたかは判らなかった。
さらに10分ほど歩くと氷川八幡神社の前を通過。境内には入らず入口の看板に書かれてあった説明文だけ眺めてみる。

氷川八幡社と箕田源氏
氷川八幡社は明治六年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として
崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八
幡社を合祀した神社である。
八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を
戴いて帰り箕田の地に鎮祀したものであり、字八幡田は
源仕の孫、渡辺綱が八幡社の為に奉納した神田の地とさ
れている。また氷川社は承平元年(九六六)六孫王源経
基が勧請したものだといわれる。
ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地で
あり、源仕、源宛、渡辺綱三代がこの地を拠点として活発
な活動を、展開した土地であった。

       武蔵守
嵯峨天皇---源信 ---------保
     |後左大臣
     |
     |相模守        武蔵守  箕田源次 別当 源次
     |源融 --------昇------仕-------宛--------綱
     |後左大臣 |
                 |
                 |      武蔵守
                 ----副------添


源 仕 源仕は嵯峨天皇の第八皇子河原左大臣源融(嵯峨源氏の祖)
    の孫で、寛平三年(八 九一)に生まれ、武勇の誉れが高く、
    長じて武蔵国箕田庄に居を構え、自らを箕田源氏と称し、
    土地を開墾し家の子郎党を養い、智勇兼備の武将として武蔵
    介源経基に仕え承平、天慶の欄に功を立てて従五位上武蔵守
    となった。天慶五年(九四二)没、享年五二歳であった。

源 宛 源宛は仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の欄に際しては仕に
    従い、西国におもむき武功を立てたが天暦7年(九五三年)、
    二十一歳の若さで逝った。今昔物語には宛の武勇を物語る平
    良文との戦いが逸話として残されている。

渡辺綱 渡辺綱は源宛の長子として天暦七年(九五三)箕田に生まれた。
    幼少にして両親を失ったが、従母である多田満仲の娘に引き取
    られ、摂津国渡辺庄で養育されたので渡辺姓を名乗った。綱は
    幼少より勇名をはせ、長じては源頼光に属して夜に頼光四天王
    の一人と称された。後に丹後守に任ぜられたが、万寿二年
    (一〇二五)二月一五日、七三歳にて逝った。

八幡社右手奥の宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を「美
源院殿大総英綱大禅定門」という。また、次のような辞世の句が伝え
られている

世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたつねよむさしののはら

箕田館跡 これら源家三代の住居は氷川八幡社北辺にあったと伝えられ、
     その地を殿山と称し、付近にはサンシ塚と呼ばれる古墳が存
     在しているが、館跡の面影をとどめるものはない

昭和六十三年三月

鴻巣市教育委員会

教科書にはこの頃の歴史については京都中心にしか書かれていないが、足利尊氏やら源頼朝が出てくる以前にも関東にもちゃんと歴史があるんだなぁ。
で道ばたに古い道標を見つけるが崩された字体に加え風化で、右とか左くらいしか判読不能だった。
で分岐点先の方角の道を見ると曲がりくねって細い道で古い道の様だがどこに向かうのか謎である。
一方中山道は、歩道の無い単調な道がしばらく続く。特に街道に関するめぼしい物がないと、勢いVOWな物件を探してしまうのが俺様の性である。早速、一見ごく普通のクリーニング店なのだが屋号が「あらいぐまの店」という物件を発見した。実際アライグマが洗濯していたら”村上たかし”の代表作である動物マンガ「ナマケモノが見てた」もびっくりである。
さらに5分ほど歩くと、古い車輪などをリサイクルしたと思われる蒸気機関車のオブジェが目に付いた。どうやら骨董品店らしい。良く飛騨の高山あたりでは古い車輪とか打っている骨董屋があるが車輪なんぞ使い道が思いつかんがこういうオブジェとしての使い道もあるのか・・
まぁおいらには縁はまずないが・・
更に歩いていくと高崎線の踏切にぶつかった。キョロキョロして踏切の名前を探すと第3仲山道踏切とある。
踏切を越えると前方に銀行や商店が目立ち始めてきた。そして箕田の追分あたりからずっと無かった歩道も復活した。この辺りあるいはその前後がどうやら宿場のだったようだがその痕跡はまったく無い。
さらに5分ほど歩くと鴻神社前という信号に差し掛かった。ふと足下を見ると、こうのとりが描かれたカラータイルが歩道に貼り付けてある。
こうのとりのカラータイルの先には鴻神社があり、時間にも余裕があるのでちょいと寄り道してみる。
入ってすぐに鴻神社の成り立ちについて書かれていた。
鴻  神  社
 鴻神社は明治六年にこの地ならびに近くにあった三ケ所の神社を合祀したも
ので、もとは鴻三社といった。三社とは次の神社である。
  氷 川 社・:鴻巣宿宇本宮三九〇番地(宮地五丁目)
 鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮(ハジノミヤ・ハタノミ
ヤ)ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であっ
た。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。
  熊 野 社・・・鴻巣宿宇本宮三八九番地(宮地一丁目)
 熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼
んだ。合祀前は社地三〇〇〇坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。
  竹ノ森雷電社…鴻巣宿宇東側二二八三番地(現 在 地)
 雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には
竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照
寺(常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。

 現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の
造営が行われ、明治六年九月二十四日に社号を鴻三社と定めた。
 明治三十五年から四十年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東
照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治四十年四月八日、社号を鴻神社と
改めて現在に至っている。
 ここには鴻巣市の文化財に指定されている『香具拾三組御定免』
『議定書』『商人講中連名帳並焼印』等貴重な史料が残されている。
 また、ここ鴻神社では十月十四日の例大祭のほか、ゑんぎ市や
酉の市、夏まつりなど様々な行事がおこなわれている。
昭和六十三年三月
文化財を大切にしましょう。
鴻巣市教育委員会
で傍らには鴻巣という地名の由来について記された看板があった。
こうのとり伝説
その昔この地に、木の神といわれる
大樹があって人々は供え物をして木の神の
難を避けていました。   ある時。こうのとり
 がやって来てこの樹の枝に巣を作りました。
 すると大蛇が現れてその卵を飲み込もうと
したのでこうのとりは大蛇と戦い、
 これを退散させました。それ以後、
木の神が人々を害することがなくなっ 
たので人々はこの木のそばに社を造り
 この社を鴻の宮と呼び
この地を鴻巣と
いうようになりました
うーん”木の神=大蛇”だったので大蛇が退治されて平穏無事となったようである。
まぁそんな有り難いこうのとりだが、その後人間は直接的にはコウノトリを迫害してはいないが田んぼに農薬撒かれたり、宅地化が進んで住みづらくなり今じゃごく一部の地域にしかその姿を見ることが出来なくなってしまった。
ん?鴻巣市の市役所のホームページには「かつて国府が置かれ”国府の州=こうのす”に転じた」と書いてあるが・・・まぁ、後のこうのとり伝説から鴻巣になったとあるのであながち・・・でも岩波国語辞典で”鴻”の字を調べると「コウ、大型の水鳥」と記されており種の特定はされていない。で一方コウノトリを漢字で書くと「鸛」となる。ということは大蛇を退治したのはおっきな水鳥で樹上に巣を作ることから実はトキだったりあるいはペリカンだったりするかもしれない。
で神社の中をウロついているとフェンスの中に小山があり浅間神社という木の看板と冨士嶽神と刻まれた石碑があった。フェンスで囲まれている理由がよくわからないが立ち入って欲しくない事情があるのだろう。ぐるっと一回りして鴻神社を後にした。
再び中山道に戻ってくると、歩道が整備された商店街なのだが、かつての宿場であったことを示すものはなかった。他の宿場と違うところと言えばやけにひな人形や五月人形を扱う人形店が多いことかなぁ。地図を見ると地名が”人形”となっていた。
で宿場内に何もなかったので深井2の交差点でしばらく休んでから出発した。

北本市

北本その2

浅間神社

北本駅入り口

北本駅

本宿交差点

本宿交差点脇の石碑

北本市の文化財地図

桶川市に入る

桶川のメインストリート?

桶川宿中山道商店街

鴻巣宿まで1里30町

上尾宿34町

お線香? 川の流れのように?

中山道宿場館

上尾市


上尾市に入ると歩道が無い

歩道は整備中?

北上尾駅入口
緑丘地下横断道交差点から桶川方向
上尾駅方面
上尾宿バス停

上尾駅前
というわけで、15:40頃北本市に入った。北本なんて中山道を歩くことが無ければまず訪れることも無いような所である。
なんと言っても深谷=ネギ、行田=ゼリーフライ、熊谷=新幹線の駅があるといった具合のイメージがあるのだが
申し訳ないことに北本市だけは全く白紙の状態である。
調べるとある宗教団体の本拠となっているようだが、
信仰は無宗教で強いて言えば俺様自身が神なのであまり縁がなさそうだ。
元々は鴻巣宿はこっちにあったようで現在の鴻巣に宿場が移転してからは
本宿(元宿)と名乗っていたらしい。
で明治以後埼玉県内に別に本宿が存在することから北本宿となったそうだ。
さらにその後宿が取れて北本になったということである。
とりあえず10分あまり歩き続けるがめぼしい物は、歴史的、ネタ的どちらもない。
北本市に入ってから20分あまりで浅間神社にたどり着いた。
鳥居の置くに見える社殿が小山の上に築かれており
いかにも江戸時代の冨士信仰って感じなのだが先ほどの鴻神社のなかにあった
浅間神社と同じようにこちらも社殿を新築しているのか階段が封鎖されていた。そんなわけで立ち寄らずに通過。
浅間神社から5〜6分で北本駅入り口に辿り着いたが小綺麗に拡幅されており古い家も見えず旧街道の雰囲気はない。
駅のほうを見るとやはり割と最近整備されたようでとてもすっきりしている。まぁ悪く言えば店も何もない小綺麗な田舎の駅である。まぁ反対側はひょっとすると栄えているのかも知れないがここからはうかがい知ることは出来ない。
駅前から10分ほどで本宿という交差点に辿り着いた。傍らには真新しい中山道の石碑が建っておりなにやら看板も設置されているので眺めてみる。
『中山道と本宿』
今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代
の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まり
です。現在の本宿付近は、 そのころ本鴻巣村と呼ばれていま
した。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の
地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿
 (元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなって
います。街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿宿村
の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ケ所には立場がおかれてい
ました。 人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の
宿場へと向かいました。
①旧中山道(昭和35年ころ)
江戸初期の中山道は、現在の中山道路とは
多少異なっていた。
写真は北本農協中丸支所付近から
鴻巣方面を望んだ旧街道である。
②三軒茶屋(寛政6年 1859 ころ)榎本山参詣案内より
江戸時代に関東一円から講中が来るほど参詣人で賑わった
榎本山(現桐生市)への案内書の抄出である。本図は、
東間村に設けられていた三軒茶屋(立場)のようすを
表したものと思われる。
③天神社前から三軒茶屋方面を望む (大正11年ころ)
中山道駅付近は。昭和になってもまだ松が道の両側に
植えられ並木となっていた
④関根氏宅(昭和25年ころか)
かつて中山道沿いには、このような曲がり家が何軒か
あった。この家も昭和34年に建てかえられている。
この関根氏宅は、江戸時代には人馬の疲れをいやす
立場の役を勤めていた
⑤一里塚 (西塚) 鴻巣市 (平成元年)
一里塚とは江戸時代に街道の一里ごとに設けられた
小高い塚のことである。ここにはかつて東塚・西塚
があったが鉄道敷設時に東塚が取り払われて、現
在は、西塚のみが県内中山道唯一の塚として残さ
れている。
この北本と中山道とのつながりを記した看板のそばには北本市内の古刹、遺跡、古木など文化財を記した地図があった。寄り道して見物する余裕もないということにしてざっくり地図だけ眺めて立ち去ったが、高崎線の北本駅は行田同様に駅が市の中心ではなく市の境界ギリギリのところにあるのね。
その後、歴史的にもネタ的にも特に目新しい物がないのでひたすら歩いて16:53桶川市に入った。
10分程歩くと家具屋さんなどお店が増え始め、更に進むと桶川宿中山道商店会と書かれた旗というかペナントの様な物が街路灯にくくりつけられていた。
特にこれまで宿場町をイメージさせる物は桶川宿中山道商店会と書かれた旗位しかないが、有料駐車場の脇にちょっとした公園があり、桶川宿に関する説明と地図が描かれた看板があった。


桶川宿はこんなところ  
●どこに
 桶川宿は日本橋より10里余り、江戸6番目の宿として
開かれました。この距離は、現代のマラソンの距離とほぼ同じ
で、健脚であった江戸時代の人々のほぼ1日の行程にあたりま
す。
●街の生い立ち
 中山道は、徳川家康が天正18年(1590)に江戸に本拠を置い
た後、五街道の一つとして整備が進められました。やがて、関
ケ原の合戦を経て、江戸幕府による全国支配の確立の中で街道
と伝馬制度が整えられ、三代将軍家光によって参勤交代の制度
が確立した寛永12年(1635)ころには、ここ桶川宿もすでに成
立していたと考えられます。
 宿場の開設当初に近い寛永14年に58軒であった宿場の戸数は、
紅花が取り引きされるようになった寛政12年(1800)には247
軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようで
す、
 その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や、紅花の集散
地として栄え、幕末に近い天保年間(1840年ころ)には、家数
347軒に達しています。中山道桶川宿は、明治に至り、明治18
年(1885)の高崎線桶川駅の開業とともに、宿場としての役割を
終えますが、以降、近代をとおして、埼玉県中央部における麦
の集散地として、その繁栄は続きます。
●出来事一皇女和宮のお泊りー
 桶川宿は、加賀百万石前田家をはじめとする参勤交代の大名
を迎え、15代将軍徳川慶喜の父君である水戸烈公徳川斉昭もこ
の地に足跡を残しています。
 文久元年(1861)には、近世中山道の最後を飾る大通行として
知られる皇女和宮の江戸下向のときに、ここ桶川宿は、一行の
宿泊と入馬の継ぎ立てに大きな役割をはたしています。11月13
日、和宮を迎える桶川宿には、3万人を超える人々が行列の通
行のために集められたと記録されています。
●中山道67次
 東海道をはじめとする五街道の一つとして、江戸幕府によっ
てその道筋が整えられた中山道。その道程は、近江国(滋賀県)
草津宿で東海道から分かれ、守山宿から板橋宿までの67次の宿
場を経て、江戸日本橋に至ります。また、京までの草津宿と大
津宿を加え、木曽街道69次とも呼びならわされてもいましこ。
 山岳地帯を通るこの道は、和田峠、碓氷峠などの難所をもち
ます。しかし、夏には涼しく、大さな川を渡ることもなかった
ため、多くの旅人に利用されました。
●中山道データ
 草津宿〜日本橋の距離/129里8町(約507km)
 桶川宿〜日本橋の距離/   10里14町(約41km)
で地図によると宿場の入口に木戸跡の石碑が建っているそうだが、俺様が通りかかった時には見あたらなかったが、これは道路の反対側に立っていた様だ。またおいらの歩いていた側にはかつて一里塚跡の碑があったらしいが何らかの事情で撤去されてしまった様な事が書いてあった。
傍らには真新しい石の道標があって鴻巣宿1里30町、上尾宿34町と刻まれている。すでにもう17時を回っているが、まだ日は長いだろうし1時間ほどで上尾宿まで辿り着けるだろうと公園で一服して上尾宿を目指して出発・・・した俺様の目に飛び込んできたのは

あの名曲が
お線香になりました。
川の流れのように♪
単に曲名だけ頂いちゃったのか、なにかメロディが流れるような細工がされているのか謎だが、この分では「お線香 千の風になって」というバージョンも出来かねないな。
この公園のすぐ隣には中山道宿場館なる建物が有るのだが、16時閉館のため見物出来ず・・・
でここから15分ほど歩くともう上尾市だった。北本、桶川と小さな市が続いているとものすごく歩いた気になるが、逆に上尾を過ぎると、大宮、浦和、与野が合併したさいたま市なのでどこまで歩いてもさいたま〜って感じになるんだろうな。
いよいよ上尾に入ったわけだが、大都会?さいたまに近づいた割りにはあたりは何もない。道路も車道こそ拡げてあるものの歩道は無い。それでも北上尾駅に近づくと歩道用の用地は確保してあり、いずれ歩道は確保される様である。
程なく北上尾入口の交差点に差し掛かる頃には歩道が復活していた。そのかわり前や後ろから歩道を走って来る自転車が鬱陶しい。
まぁ17:40ともなれば北上尾でゴールしても良いかなと思ったが、この駅は快速が通過してしまうので、今回そして次回の再スタートが面倒なことになるし、上尾駅まで2kmも無いのでこのまま歩くことにした。
北上尾駅前を通過して15分余りの緑丘地下横断道という交差点にて中山道を日本橋に向かって左側に何か見つけたので、立ち寄ると上尾宿について書かれていた。
上尾宿の歴史
上尾宿は、日本橋から九里一六町のところにあり、中山道の五番目の宿
場であります。宿場として発達したのは、江戸時代初期の伝馬制施行以降
で、江戸後期になると紅花の産地として有名になりました。上尾という地
名については、歴史的な根拠を持つものはありませんが、鴨川と芝川の間
の小高い地形から付けられたといわれています。
①「木曽街道上尾宿加茂之宮」渓斎英泉作
 手甲脚絆にわらじがけで、道中笠をかぶった武士、
文箱のようなものをかついだ飛脚、こもを背負った六
部などの旅姿が描かれています。この作品は.大宮宿
と上尾宿の中間にある加茂神社を描いたものです。
②鶴亀の松
 鎌倉街道と中山道が交差するあたりに、土手枕の呼
び名で知られた二本の老松がありました。一方を鶴松、
他方を亀松と称し、街道筋aでかなり目立った存在でした。
③「五海道中細見記」の上尾宿付近
 上尾と書かれた下部には、鍬大明神(現在の氷川鍬
神社)が、その左には高札場の印と細井、井上の両脇
本陣の名が記されています。また、上尾宿と大宮宿の
間には英泉の「木曽街道」にも描かれている加茂社も
みられます。

④鍾馗様(しょうきさま)
 鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様を以て対峙する意味で
置いていたものです。これは中山道の他の宿場町では
見ることができない上尾特有のものでした。鍾馗様は
疫病神を追い払う神といわれています。

このほか、上尾市の指定文化財の地図があったが、先ほどの北本市の看板と構成が非常に似ている。違う点は「掲示スペース」がありそちらはチームマイナス6%のパンフレットと2011年アナログ放送終了のお知らせが張ってあることか・・・。
ん?ここは電器屋さんの前か?
さて上尾駅に向かって歩き始めると高層マンションが目に入ってきた。歩道も復活して程なく東武バスの「上尾宿」というバス停に差し掛かりぼちぼち上尾宿に入ったらしいのだが一向にそれらしい気配はない。
このバス停から5分も掛からずに上尾駅前に着いてしまった。
18:05今回の旅はこれにて終了

番外
18時25分発の湘南新宿ラインがなぜか遅れ、なぜか18時39分発の上野行きのほうが先に到着しやがった。大宮で乗り換えるのも手だと思ったが面倒なのでぼけーと待っていると18時50分頃に到着したもののえらい混みようだったのでパス。
あきらめて先ほどキヨスクで仕込んだビールを流し込んでいるとEF64に引っ張られてきたEL&SL奥利根号がやってきた。
そーいやさっきから反対側のホームで三脚構えているのがいるなぁと思っていたらこいつ目当てだったのか。
最近、鉄オタも社会的認知を受けてきたようだが、ただおいらの周りにいたおねーちゃんらは「キモい」とか「理解できない」とか冷めた様子だった・・・
この後、18時52分の湘南新宿ラインが10分遅れでやってきたがこちらは普段通りガラガラである。
早速車内販売のおねーちゃんにビールを頼み先ほど仕入れたラーメン&おつまみを流し込んだ。
ふと見るとこいつのカロリーが500kcalもある事に気づき、万歩計の消費カロリーを見ると1106kcal・・・。今回きっちり昼飯も食っているし歩いた分相殺どころか確実に摂取カロリーが消費カロリーを上回っている事実にそのまま意識をなくして電車に揺られ帰路につく俺様だった。


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