日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 | |||||||||||||||||||||||||
2007年5月5日 | 深谷〜上尾 | 晴れ | 5時間32分 | 33054歩 | 23.14km | 3260円 | |||||||||||||||||||||||||
![]() 峠の釜飯 ![]() 峠の釜飯の中身 ![]() 行田駅 |
まえがき というわけで横浜駅でビールとミックスナッツを仕入れ湘南新宿ラインで一路大宮を目指す。で大宮で乗り換えて駅弁を仕込んで、ホームの喫煙所で一服というスタイルが定着しつつあるが この湘南新宿ラインで大宮乗り換えの隙に駅弁を買うというのもおそらく今日で最後であろう。なんたってもういい加減大宮から先、電車に揺られる時間が幾分もなくなってきた。 まぁいくら早飯食いな俺様でも30分は欲しいところである。 で今日の駅弁はは、碓氷峠を下って来たときには売店が閉まっていて買えず、碓氷関所から安中宿を歩いたときは品切れで食べられなかった峠の釜飯をビールで流し込むことにした。 で食べ終わってこの容器が徒歩旅行向きでは無いことい気付いたが、今更手遅れである。ゴミの分別回収が進められる中、ビン、缶というカテゴリにこの陶器は一体・・・というわけでこのクソ重い容器をリュックに入れて出発する羽目となった。 しかもすでにビール二本やっつけた都合で行田に着いた時にはトイレに駆け込む始末。 こんなんでこの先トイレとか大丈夫かと若干の不安と、増えてしまった益子焼の釜飯の容器に後悔しつつ行田駅を出発した。で行田名物ゼリーフライはJR側の駅には無さそうだし、さっき飯食ったばっかりだししょうがないのでさっさと歩くことにする。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
![]() スタート地点 ![]() 荒川土手 ![]() 荒川方面 ![]() 延々続く堤防上の道 ![]() 決壊の碑 ![]() 暴走抑止?の杭 ![]() ヘラオオバコ ![]() 間違って進んだ分岐点 ![]() 土手をよじ登る ![]() 土手の上に復帰 ![]() 俺様の行く手を阻んだ小川 ![]() あの二宮尊徳像 ![]() 二十二夜塔?+勢至菩薩 ![]() 権八地蔵 ![]() 電柱に中山道車に注意の紙 ![]() 古風な水門その1 ![]() 古風な水門その2 ![]() 20m先トイレの張り紙 ![]() 榎戸堰公園 ![]() 川柳が刻まれた石 ![]() 水門 ![]() たにし ![]() 滝 ![]() 高崎線 ![]() 高崎線の踏切 ![]() 踏切を渡ってすぐ右へ ![]() 間の宿吹上の石碑 ![]() 右へ ![]() 右に曲がった先 ![]() 吹上駅 ![]() 昭和臭漂うシャッター ![]() 勝竜寺というらしい。 ![]() 右に逸れる ![]() ボロ車を超越した古い車 ![]() 第4中仙道踏切 ![]() 中山道みち案内 ![]() 単調な道が続く ![]() 取水堰? ![]() 歩道無くなる |
そんなわけで12:33に前回のゴール地点から歩き始めた。 ただし今回のスタート地点は前回、旧中山道である荒川土手が工事で全面通行止めだった事により高崎線よりに迂回して来たため中山道ではない。 というわけでスタート地点から前方に見える土手を目指して歩き始めた。 3分ほど歩くと荒川の土手に出たのだが、遊歩道では無く車道だった。それもまた信号やら交差点がない状態なんで半ば高速道路状態・・・ これじゃ落ち着いて犬連れて散歩もできんがな。 そんな状況だがヒバリが鳴いているのどかなところである。普通ヒバリなんぞ天高く飛んで米粒くらいの大きさにしか見えないのだが、サービス精神豊富な奴が地上で餌をついばんでいた。 まぁ間近でヒバリとご対面という機会もそうそう有るまい。 で土手の下は川が有るかというと遙か遠くに有るようで水の流れなんか見えやしない。代わりに一面畑やら田んぼが広がっており、遠くには秩父の山がうっすら見える。 延々堤防の上を歩いていくと石碑があった。その隣には熊谷で”元荒川”や”ムサシトミヨ”にちなんだカルタに書かれている様な句が記されている。
しかも時を同じくして利根川も久喜あたりで決壊して押し寄せた濁流が荒川の洪水と合流して東京まで水浸しって・・・ しかし戦後間もない頃と違って、地下街や地下鉄が張り巡らされた現在ではもっととんでもないことになりそうだ。 決壊の碑からさほど遠くないところに「海まで71km」と書かれた杭が立てられている。海と言えば東京湾なのでもう後数回で日本橋なんだよなぁ。 次はどこを散歩するかなぁ。まぁ現在掛川から国道152号沿いに進む秋葉街道も歩いているのだが、交通の便が余りに悪く、綿密な計画を練らないと容易に辿り着けないし、また帰ることもままならないのでもうちょっと安易に歩ける甲州街道でも行くかって所である。 ただこれを日本橋スタートにするか、諏訪スタートにするか悩むところなのでとりあえず、この中山道を日本橋ゴールした感動の度合いで考えよう。まぁ東海道の京都三条大橋の感動ほどではなくなんか冷めた気分でゴールしそうだが・・ で海まで71kmの杭の先には車の車幅ギリギリに2本の杭が道路に刺さっている。おそらく堤防道路ハイウェイ化を阻止する目的なんだろうが、どうせなら鈴鹿山脈を越える石榑峠の様にインパクトあるコンクリートブロックでも並べておけばちょっとした名所に・・・なるわけ無いか。 そもそも堤防とか土手は構造物NGなんでブロックはおろか転落防止のガードレールすら設置できないのか。 で道ばたにはヘラオオバコが花を付けている。まぁ丈夫な根っこを張るから堤防にはうってつけの雑草だが、これも帰化植物だそうな。 土手の上を歩いていると、おっさんに「元荒川はどこですか?」と尋ねられた。「荒川はこの河川敷の遙か向こうに流れているのは判るけどなぁ」。 そもそも通りすがりの旅人に尋ねるのが無茶だ。地図を片手にリュック背負っていたら明らかに地元民で有ろう訳はない。あいにく地図にも元荒川の記載もない。ただ幸いたまたま通りすがりの地元の方が見えて土手の下の緩やかな流れの川を指さして教えて貰っていた。 そろそろ土手を下って左手の方角に進む様だがそれっぽい分かれ道が有ったので進んでみる。 先ほどの元荒川沿いに歩いていくと休耕田なのか沼なのか微妙な水たまりの方からウシガエルの鳴き声が聞こえてきた。 こいつはなかなか人前に出てこないのでの生前の姿にはお目にかかれない。今回も声はすれど姿は見えずだった。 だかこの道は人んちの脇を過ぎると田んぼに出て終了していたので 強引に土手をよじ登るか、後戻りするか・・いずれかの選択肢しかなさそうである。 まぁ極力後戻りは避けたいので、草藪に下手に足を突っ込んでマムシとかとご対面しないように祈りつつ堤防の上の道に復帰。いやぁ旧街道にしては電柱がないからヘンだとは思ったのだが・・・・ 再び土手の上の道に戻るとまたまた緩やかに左に下っていく道が見える。先ほど俺様の行く手を遮るかの様に流れていた小川も道路とは離れているし今度は大丈夫そうだ。しかし土手の高さに対して、水面が高い・・いや水位が15cm増したら畑とか水浸しになってしまいそうだが大丈夫なんだろうか? 土手を下るとそこは熊谷では無く吹上だった。降りて程なく権八延命地蔵尊と額の掲げられたお堂が有ったその脇には二宮尊徳が薪をを背負いつつ本を読んでいる例の銅像と二十二夜勢至菩薩と彫られた石碑がある。 二宮尊徳像と権八地蔵には花が生けられており今尚大事にされているようであるが、二宮尊徳像は元々はどっかの小学校の校庭に有ったものをここに移設したんだろうか。判らないのが二十二夜勢至菩薩と彫られた石碑である。 権八地蔵はガイドブックによれば、権八という人が、食うに困った挙げ句、辻斬りをしたらそこにお地蔵さんがいたので、「このことは誰にも言うな」といったら「オマエモナー」とお地蔵さんが言い返したそうで・・・ その後、お縄になった権八が、お地蔵さんとのやりとりを話してから以来このお地蔵さんを権八地蔵というそうな。 で権八地蔵エリア?を後にし、今度は間違っていないよねと思いつつ歩いていくと、電柱には「中山道 車に注意」と書かれた手製のシールが張ってあった。どうやら今度は道を誤っていないようだ。 すると今度は煉瓦造りの水門or欄干がある用水路が流れていた。道の反対側に目をやると反対側にも同じ様な煉瓦造りの水門が有った、銘板が貼り付けられているようだがフェンスが邪魔で確認は出来ないが「榎戸堰??」と書かれているようだ。 古風な水門に気を許していたら危うく電柱に貼られた、「中山道 トイレ20m先」の張り紙を見落とす所であった。 まぁ取り立てて緊急度高な訳では無いが、この先住宅地でトイレが見あたらないという状況に備えるべく寄り道することにした。 だいたいにして”まえがき”にも書いたとおりすでにビールなんか飲んでいるので余計に不安材料を抱えているのである。 で立ち寄ってみた先は榎戸堰公園という公園だった。とりあえず用を足してからベンチで一服しつつ園内をウロウロしてみる。 するとなにやら川柳が刻まれた石を発見。 「鵜遣いの 年にお足は なかりけり」 うーんよくわからんが傍らの石には 「万延元年(1865年) 荒川や元荒川では古式な 鵜飼い漁が盛んであった」 と彫られている。 鵜飼いで有名なのは長良川だけど、江戸時代末期には関東でも鵜飼いによる漁が行われていたのね。 ぷらぷらしていると川にでっかい水門が設置されていた。ということはさっき土手ギリギリまで水が押し寄せていた川は、ここの水門で堰き止められていたため水が一杯な状況だったのね。 足下にはタニシがいた。で再びベンチのほうに戻ると入らないでくれとか犬を入れるなと看板の建っているちっこい滝がある。 さて、再び街道に戻るとそばを高崎線が走り抜けていく。やがて高崎線の踏切を渡るんだよなとルートを思い出しつつ歩いていると、なにやら観光案内のような看板が建っていた。 元々は「吹上町ふるさとの散歩道」と書かれていたのだろうが、吹上町だったとおぼしき部分には「鴻巣市」と上からシールを貼っている。 これを見て吹上町も平成の大合併により、鴻巣市に編入されてしまったことを知った。 なおこの看板には、散歩道のコースは紹介されているが、旧街道に関する記述はなかった。 しばらく歩くと高崎線の踏切が見えてきた。地図によればこの先の高崎線を跨ぐ県道で高崎線を越えるのだが手書きの案内を尊重しここを渡ってすぐに右手に進んでみた。 若干不安になりつつ進むと程なく、「中山道 間の宿吹上」と記された石碑があった。とりあえず曲がるところを間違えずに済んだらしいことに安心する。
とりあえずそれっぽい道を進むとどうも違っていたようで、なんとか軌道修正しつつ、旧17号とおぼしき県道につきあたった。良く見ると電柱にはご親切に「旧中山道→」と案内してくれるお手製の紙が貼られていた。さすがにここを右というのは判るので余計なお世話だなぁとおもいつつもこの分ではさっきの高架下でもきちんと案内されていたに違いない。 そんなわけで吹上本町の信号を右に曲がり、県道に入ると普通に歩道がない。東海道で歩道が無いのはかつての天竜川橋や豊川放水路の橋くらいだが、埼玉県内の中山道は普通に歩道がない。まぁ江戸時代の道幅そのまんまで、幹線道路の定番の裏道となっている東海道も危険といえば危険だが・・・ で吹上駅入口を過ぎるがこちらも歩道やら改修工事を進めている真っ最中のようである。 すると電気店のシャッターにかつての三菱電機のキャラクターのメル子ちゃんが描かれていた。キャラクターの雰囲気から昭和40年代以前に描かれていると思われるので、このシャッターは30年以上経過した年期ものってことになる。 このメル子ちゃんシャッターの電気屋さんからしばらく歩くと中山道から100m以上奥に引っ込んだところに、立派な山門と本堂が見える。 まぁ別に入口のあたりに「何々ゆかりの・・・」といったような看板も無いので写真だけ撮って素通りしたが後で地図を調べたところ勝竜寺というらしい。 このお寺の入口から歩くこと3分余りでいかにもといった分岐点がある。地図を確認すると中山道は右に逸れ、再び高崎線の踏切を越えるようである。 右にルートを逸れたところ駐車場に、ボロ車をはるかに超越して、もはやヒストリックカーと言って良いような車が放置されていた。左側のは元祖フェアレディの様だが右側はまったく判らない。 程なく第4中仙道踏切を越え、とりあえず道を誤っていないことに安心しつつ線路沿いの道を進んでいくと、中山道みち案内と書かれた看板があった。この地図で現在地を確認すると、先の第4中仙道踏切踏切から丁度まんなか辺りにいるようだ。 しばらくはさしたるものは見あたらず15分ほど歩くと畑の向こうに取水堰のような建物が見える。 地図で見ても難の施設か記載されていないがここから幾つか水路が別れているところからすると農業用水だろうか? さらに進むと歩道が無くなっていた。手前の電柱にはご丁寧にも「中山道この先歩道無し、車に注意」と紙が貼られている。まぁ見通しのよい直線道路ならいいが昔の道をそのまま拡げただけなのかやたらとブラインドコーナがあるので交通量が少ないとは言え前から車が来ると少々怖い気がする。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ブラインドコーナ ![]() 箕田の追分 ![]() 箕田の追分 ![]() 氷川大宮神社先の道標 ![]() 古い道標の示す道 ![]() 歩道無しの中山道 ![]() インパクトある骨董屋 ![]() 高崎線の第3仲山道踏切 ![]() 鴻巣のメインストリート? ![]() 鴻神社前の信号 ![]() コウノトリが描かれたカラータイル ![]() 鴻神社 ![]() 鴻神社内の浅間神社 ![]() 再び中山道に戻る ![]() 人形屋の看板 |
というわけで鴻巣市に入ってまもなくガソリンスタンドから流れるラジオから14時の時報が流れてきた。歩道も無く減速を促す道路のペイントが有るような道を進んでいくと10分余りでなにやら看板と石の椅子と、「中山道 鴻巣 彩の国さいたま 平成の道標」と刻まれた石碑のある小公園が有ったのでしばし休憩。 やっぱりおっさんになってくると一時間置きくらいに座るところ用意してくれるととても有り難い。 で中山道分間延絵図より箕田追分周辺の絵とともに説明が記された看板があった。
さらに10分ほど歩くと氷川八幡神社の前を通過。境内には入らず入口の看板に書かれてあった説明文だけ眺めてみる。
で道ばたに古い道標を見つけるが崩された字体に加え風化で、右とか左くらいしか判読不能だった。 で分岐点先の方角の道を見ると曲がりくねって細い道で古い道の様だがどこに向かうのか謎である。 一方中山道は、歩道の無い単調な道がしばらく続く。特に街道に関するめぼしい物がないと、勢いVOWな物件を探してしまうのが俺様の性である。早速、一見ごく普通のクリーニング店なのだが屋号が「あらいぐまの店」という物件を発見した。実際アライグマが洗濯していたら”村上たかし”の代表作である動物マンガ「ナマケモノが見てた」もびっくりである。 さらに5分ほど歩くと、古い車輪などをリサイクルしたと思われる蒸気機関車のオブジェが目に付いた。どうやら骨董品店らしい。良く飛騨の高山あたりでは古い車輪とか打っている骨董屋があるが車輪なんぞ使い道が思いつかんがこういうオブジェとしての使い道もあるのか・・ まぁおいらには縁はまずないが・・ 更に歩いていくと高崎線の踏切にぶつかった。キョロキョロして踏切の名前を探すと第3仲山道踏切とある。 踏切を越えると前方に銀行や商店が目立ち始めてきた。そして箕田の追分あたりからずっと無かった歩道も復活した。この辺りあるいはその前後がどうやら宿場のだったようだがその痕跡はまったく無い。 さらに5分ほど歩くと鴻神社前という信号に差し掛かった。ふと足下を見ると、こうのとりが描かれたカラータイルが歩道に貼り付けてある。 こうのとりのカラータイルの先には鴻神社があり、時間にも余裕があるのでちょいと寄り道してみる。 入ってすぐに鴻神社の成り立ちについて書かれていた。
まぁそんな有り難いこうのとりだが、その後人間は直接的にはコウノトリを迫害してはいないが田んぼに農薬撒かれたり、宅地化が進んで住みづらくなり今じゃごく一部の地域にしかその姿を見ることが出来なくなってしまった。 ん?鴻巣市の市役所のホームページには「かつて国府が置かれ”国府の州=こうのす”に転じた」と書いてあるが・・・まぁ、後のこうのとり伝説から鴻巣になったとあるのであながち・・・でも岩波国語辞典で”鴻”の字を調べると「コウ、大型の水鳥」と記されており種の特定はされていない。で一方コウノトリを漢字で書くと「鸛」となる。ということは大蛇を退治したのはおっきな水鳥で樹上に巣を作ることから実はトキだったりあるいはペリカンだったりするかもしれない。 で神社の中をウロついているとフェンスの中に小山があり浅間神社という木の看板と冨士嶽神と刻まれた石碑があった。フェンスで囲まれている理由がよくわからないが立ち入って欲しくない事情があるのだろう。ぐるっと一回りして鴻神社を後にした。 再び中山道に戻ってくると、歩道が整備された商店街なのだが、かつての宿場であったことを示すものはなかった。他の宿場と違うところと言えばやけにひな人形や五月人形を扱う人形店が多いことかなぁ。地図を見ると地名が”人形”となっていた。 で宿場内に何もなかったので深井2の交差点でしばらく休んでから出発した。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 北本市 ![]() 北本その2 ![]() 浅間神社 ![]() 北本駅入り口 ![]() 北本駅 ![]() 本宿交差点 ![]() 本宿交差点脇の石碑 ![]() 北本市の文化財地図 ![]() 桶川市に入る ![]() 桶川のメインストリート? ![]() 桶川宿中山道商店街 ![]() 鴻巣宿まで1里30町 ![]() 上尾宿34町 ![]() お線香? 川の流れのように? ![]() 中山道宿場館 ![]() 上尾市 ![]() 上尾市に入ると歩道が無い ![]() 歩道は整備中? ![]() 北上尾駅入口 ![]() 緑丘地下横断道交差点から桶川方向 ![]() 上尾駅方面 ![]() 上尾宿バス停 ![]() 上尾駅前 |
というわけで、15:40頃北本市に入った。北本なんて中山道を歩くことが無ければまず訪れることも無いような所である。 なんと言っても深谷=ネギ、行田=ゼリーフライ、熊谷=新幹線の駅があるといった具合のイメージがあるのだが 申し訳ないことに北本市だけは全く白紙の状態である。 調べるとある宗教団体の本拠となっているようだが、 信仰は無宗教で強いて言えば俺様自身が神なのであまり縁がなさそうだ。 元々は鴻巣宿はこっちにあったようで現在の鴻巣に宿場が移転してからは 本宿(元宿)と名乗っていたらしい。 で明治以後埼玉県内に別に本宿が存在することから北本宿となったそうだ。 さらにその後宿が取れて北本になったということである。 とりあえず10分あまり歩き続けるがめぼしい物は、歴史的、ネタ的どちらもない。 北本市に入ってから20分あまりで浅間神社にたどり着いた。 鳥居の置くに見える社殿が小山の上に築かれており いかにも江戸時代の冨士信仰って感じなのだが先ほどの鴻神社のなかにあった 浅間神社と同じようにこちらも社殿を新築しているのか階段が封鎖されていた。そんなわけで立ち寄らずに通過。 浅間神社から5〜6分で北本駅入り口に辿り着いたが小綺麗に拡幅されており古い家も見えず旧街道の雰囲気はない。 駅のほうを見るとやはり割と最近整備されたようでとてもすっきりしている。まぁ悪く言えば店も何もない小綺麗な田舎の駅である。まぁ反対側はひょっとすると栄えているのかも知れないがここからはうかがい知ることは出来ない。 駅前から10分ほどで本宿という交差点に辿り着いた。傍らには真新しい中山道の石碑が建っておりなにやら看板も設置されているので眺めてみる。
その後、歴史的にもネタ的にも特に目新しい物がないのでひたすら歩いて16:53桶川市に入った。 10分程歩くと家具屋さんなどお店が増え始め、更に進むと桶川宿中山道商店会と書かれた旗というかペナントの様な物が街路灯にくくりつけられていた。 特にこれまで宿場町をイメージさせる物は桶川宿中山道商店会と書かれた旗位しかないが、有料駐車場の脇にちょっとした公園があり、桶川宿に関する説明と地図が描かれた看板があった。
傍らには真新しい石の道標があって鴻巣宿1里30町、上尾宿34町と刻まれている。すでにもう17時を回っているが、まだ日は長いだろうし1時間ほどで上尾宿まで辿り着けるだろうと公園で一服して上尾宿を目指して出発・・・した俺様の目に飛び込んできたのは
あの名曲が
ん?ここは電器屋さんの前か? さて上尾駅に向かって歩き始めると高層マンションが目に入ってきた。歩道も復活して程なく東武バスの「上尾宿」というバス停に差し掛かりぼちぼち上尾宿に入ったらしいのだが一向にそれらしい気配はない。 このバス停から5分も掛からずに上尾駅前に着いてしまった。 18:05今回の旅はこれにて終了
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