中山道 上尾−大宮

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2007年8月11日上尾〜大宮晴れ1時間59分 12291歩 8.6km2690円

上尾駅前
まえがき
というわけで今回のお盆休みは秋葉山から青崩峠を経て信州遠山郷へ下るという壮大なお散歩プランを抱えているので、その前に足慣らしをしておくため中山道の残りを散歩してみようと思い、湘南新宿ラインに乗り込み上尾を目指す。
さすがに今までのように大宮で降りて弁当仕入れて車内で頂くという距離では無いので、腹ぺこを抱えた俺様はバーガーとポテトをコーラで流し込むべく駅前を物色するとロッテリアがあったので、海老バーガーで軽く昼食をやっつけスタート。

早くも休憩中

氷川鍬神社

化粧品会社の研修所

遂にさいたまぁ〜

国道16号

宮原駅入口

宮原駅

上越新幹線の高架

国道17号にぶつかる

東大成の庚申塔

交通量が増えてきた

東北本線

第二仲仙道ガード

大宮
そんなわけで13:14に前回のゴール地点から歩き始めた。
だがしかし炎天下である。まずは30mも歩かないうちに噴水の中にレオタード姿のおねーちゃんのブロンズ像がある駅前の広場にてベンチと灰皿を見つけて休憩。
でしばらく歩くと氷川鍬神社の脇に本陣跡の案内板を見つけた。ただ鳥の糞まみれなので判読が難しい。
  中山道上尾宿と本陣  
上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾
宿をその源にしていますが、この上尾宿はすで
に後北条時代に宿駅として成立したようです。
宿駅として整備されたのは、慶長七年(一六〇
三)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山
道各宿駅に、五十人五十匹の人馬を用意させ、
主要幹線路としての役割をはたさせました。
 また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名など
の宿泊所としました。中山道を通行した大名は、
加賀藩の前田家をはじめ三十四家ほどでした。
上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場で
した。江戸時代末の家数は、一八ニ軒、人口は
七九三人、旅篭屋は、四一軒でした。
 図は、文化三年(一八○六)完成の中山道分
間延絵図」に描かれた中山道上尾宿の中心部で
す。中央の太い道が中山道で、画面右が大宮
方面、左が桶川方面になります。画面下側中央
の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社)鍬大神
宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が二
軒あります。その右近くには問屋場、さらに右
に行くと道をはさんで両側に、一里塚があります。
鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣が描か
れています。上尾宿には本陣が一軒(林八郎右
衛門)、脇本陣が三軒(本陣の右が白石長左衛門、
左が井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎)あり
ました。これらは主として参勤交代の大名たち
の宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ばれま
した。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本
陣の代理もしました。  
平成一一年三月

上尾市教育委員会
埼玉県北本県土整備事務所
今まで宿場のど真ん中に神社ってあんまり無かったような気がするが、本陣の目の前に神社が有るって言うのは相当なレアケースではなかろうか。
で神社のほうに目をやるが先を暑くて面倒だし説明が書かれた看板の内容だけ控えて先を急ぐことにする。

氷川鍬神社

氷川鍬神社は「武蔵国足立郡御鍬大神宮畧来」
によると百九代明正天皇の御代、寛永九年(一六三三)
の御創立と伝えられます。
御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命菅原道實公
木之花咲那姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は
悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの
手をさしのベて下さる神であり、疫病除け招福豊
作の神であります。
稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみ
と深い母性の愛を表わされる神であり管原道實公
は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さま
の神さまで、大山祗神という尊い神さまの御子神
さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持
っておられます。
氷川鍬神杜は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬
を集めた古社あり、通称、お鍬さまと呼ばれてお
ります。
氷川鍬神社の名称になったのは明治四十一年(一九〇八)
の神社合祀以後のことで、 それより以前は、鍬大神宮」
という社名であった。

      歳旦祭    一月  一日
      節分祭    二月  三日
      祈年祭    二月二十五日
御祭事  初登山祭   七月  一日
      例大祭    七月 一五日  
      新穀感謝祭 十一月二十三日
      七五三祭  十一月
      除夜祭

 平成十一年三月吉日建之
       宮司
なんでこの平地に登山祭が有るのかと思えば木之花咲那姫命が祀られているからか・・・
で15分ほどバリュープラザというホームセンターとスーパーが合体したようなショッピングセンターの向かいに無愛想なコンクリートの塀が延々続いており、その中は木々が植えられなんの施設なのか判らない。
家にしては桁外れだし、学校にしてもなんか閉鎖的だし・・更に進むと門の脇にあるプレートから化粧品会社の研修センターのようである。さすが大企業。スケールが違うなぁ。
さっきからとりあえず直射日光を避けて、日陰を選んで歩いているのだが腕時計の温度計を見ると37.1℃である。これが熊谷とかさらに内陸に行くと相当な暑さなんだろうなぁと思いつつ歩いていると13時44分合併前は大宮市だった現在のさいたま市に入った。
さいたま市に入ったからとこれといったものも無いままなるだけ日陰を選んで歩いているとさいたま市に入ってから20分あまりで前方に道路の高架橋が見えてきた。まだ、外環じゃ無いだろうしなんだべなと思いつつ地図を見ると別名東京環状こと国道16号だった。やっと16号の内側に入ったのねとちょっと感動しつつ歩くが、相変わらずネタも史蹟も見あたらず15分程で宮原駅入口交差点まで辿り着いた。高崎線なら僅か一駅で大宮駅である。上尾駅 から宮原駅まで40分しか掛かっていないことを考えると前回もう一駅頑張っても良かったかな?どうせ電車遅れて一時間待ちだったし。
まぁ今回も時間的には浦和、蕨まで歩けるが、湘南新宿ライン一本で帰ることができるのはこの大宮駅が最後だし、次回スタートのアクセスを考えると蕨とか浦和はアクセスの利便性、所要時間を考えると少々面倒くさいので15時過ぎに大宮でゴールでいっか。旧街道を繋ぎ繋ぎで歩いているとこうした次回スタート地点のアクセスまで計算しないといかんので面倒くさい。まぁ泊り入れて連続で歩くのも現代ではいちいち予約を入れて回らないといけないし、実際なんかの事情で予定通り宿まで辿りつけなかったりするとこれも面倒臭い。しかもそれが交通機関皆無区間だったりすると、おいらが下諏訪宿から和田峠を経て長門宿まで歩いたときのように大変な事になってしまうが・・・・。
まぁあのときはビジネスホテルだったのでチェックインの時間も余裕見ていたので良かったが、あれが風呂やら飯の時間まできっちり決められた宿だともっと大変な事になるだろう。
で次回は大宮から浦和、蕨を抜け荒川を越えていよいよ東京に入り、志村坂上あたりでゴールすればいっか。などとプランを決め込み宮原駅を通過。
宮原駅入口からさらに10分程で上越新幹線の高架が見えてきた。高架脇で国道17号にぶつかる。高崎方面を見ると道路表示板には高崎74km、熊谷32km、上尾5kmと書かれている。高崎から74kmなら2日有れば歩ける距離だが一体何度に分けて歩いて来たんだろう。まぁ通しで歩くほど趣のある部分では無いし時間のあるときに午後からちょろっと歩いてきたから仕方がない
で17号を横断すると庚申塔と案内図があった。
□中山道歴史散歩コースロ
  東大成の庚申塔
      ここは東大成町2丁目です

 高さ142㎝、幅45㎝の庚申塔で、江戸時代前
期の元禄10年(1697)に建てられました。地元
の井上・清水・黒須・吉田・坪居・小川など
14名と、おまつ、お加めなど22名の女性の名
が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋・治兵衛に
注文したものです。  
正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻され
ています。地元では耳の神さん”“眼の神さ
ん”と大事にされ、耳や眼の病気の時にはダ
ンゴを供えるなどしてお参りしたそうです。
また、庚申請は春3月と秋の収穫後に行わ
れていました。戦争で一時中断していました
が、戦後に復活、現在も年1回の請を開催し
昔からの伝統を受けついでいます。

     さいたま市教育委員会
      生涯学習部文化財保護課
うーん。良くこんな住宅地でなおかつ交通量の多いところに庚申様が残っていたもんだと感心しつつ、とりあえずここが旧中山道で有ることを確認して一安心の俺様だった。
ここから先道幅も拡張され歩道もゆとり有る幅となっており旧街道の面影はまるでない。んで30分程歩くと東北本線のガードが見えてきた。車はアンダーパスで通り抜けるようだが歩道が併設されていない。
特に案内は無いのだがとんでもなく離れたところにある歩道橋を渡らされるのでは無いかと少々危惧しつつ側道に逸れてみた。
するとガード下直前を階段で下る通路があった。さっき庚申様を過ぎて以来、旧街道の痕跡はまるでなかったが通路には第二仲仙道ガードと書かれたプレートがあり、コースミスは無いことを確認できた。
このガードから15分ほどで大宮駅へ続く商店街が現れここで本日の旅は終了することにした。

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