日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2007年10月7日 | 大宮〜板橋 | 晴れ | 4時間37分 | 24418歩 | 17.09km | 2320円 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 大宮駅前 |
まえがき お盆休みはさすがに大宮から板橋を経て日本橋へ向かうのもバカンスっぽくないので、季節も良くなったことだし8月からしばらく中断していた中山道のお散歩の続きをおっぱじめることにした。もう横浜から1時間ほどで到着するところまで辿り着いているので車中で駅弁を頬張る楽しみも無く、缶ビールだけをやっつけ大宮で下車。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() スクランブル交差点 ![]() 電柱が消えます ![]() 氷川神社の案内板 ![]() 氷川神社一の鳥居 ![]() さいたまスーパーアリーナ ![]() さいたま新都心付近 ![]() 鴻沼用水(遊歩道) ![]() かつての浦和市の遺跡? ![]() まだまだ開発中の新都心 ![]() 与野駅に近づく ![]() 廓信寺 ![]() 浦和橋 ![]() 浦和橋(大宮方向) ![]() 浦和橋(渡ったところ) ![]() 浦和宿二・七市場跡 ![]() すでに宿場に入ったの? ![]() 浦和宿(多分) ![]() 大分人通りが増えた。 ![]() 中山道浦和宿の石碑 ![]() もう宿場は終わり? ![]() 調神社の狛 ![]() 反対側にも狛ウサギ ![]() 調神社 ![]() 手水にまでうさぎたん ![]() 歩道の無い中山道 ![]() ラッキーの家? ![]() 南浦和小あたり ![]() JR武蔵野線 ![]() 焼米坂の石碑 ![]() 焼米坂 ![]() 焼米坂その2 ![]() 六辻交差点 ![]() 17号日本橋方面 ![]() 高崎86km、熊谷44km、上尾17km ![]() 一服中 ![]() 猫その1 ![]() 猫その2 ![]() 中山道に復帰 |
そんなわけで11:36に前回のゴール地点のスクランブル交差点から歩き始めた。 なんだか道路がつぎはぎだらけでほじくり返した跡があちこちにあるのだが、その理由が以下の通り電柱に書かれていた。 「平成19年度中に電柱を撤去する予定です」 どうやら電線やらその他もろもろ地中に埋設するらしい。 歩き始めてから15分ほどで氷川神社参道の前に差し掛かった。傍らの地図によると武蔵国一宮ということで寄らないといかんかなとも思ったが、ここから本殿まで約2kmほど有るとのことで参拝は断念。
まぁ埼玉まで足を伸ばすなんかそうそう来ないだろうからこっちも一度くらい寄って見たいところだが、線路渡って向こう側ともなると面倒くさいのでパス。この辺りは京浜東北線のさいたま新都心など言う駅が出来たりなんかして急速になんだか色々なものが出来ているようで辺り一面真新しい建物ばかりである。 そんな中道路の反対側を見やると遊歩道と書かれた看板となにか説明が書かれている看板が見えた。肉眼では内容はわからんがかといって道路の反対側まで行くのもアホ臭いのでデジカメを活用することにする。 うーんデジカメ最高倍率でも所々判読不能だが、どうやらおいらがいる真下を江戸時代に作られた用水路が流れているらしく、おいらが歩いている西側には赤いレンガの橋が見えるとのことだったがまったく気付かなかった。
どうやら浦和市と与野市が入り組んでいたようで進行方向は与野、左手は浦和だったようだ。でこの辺り、まだまだ道路やら建物など作っている様子である。 さらに歩いていくと与野駅に近づいたようであるが特に何もないので通り過ぎると北浦和手前にて廓信寺の前に差し掛かると、なにやら看板が建っていた。 どうやらここがサツマイモの紅赤という品種発祥の地であるとのことである。
しかしこんなところにサツマイモ畑が広がっていた光景は現在からは想像出来ないなぁ。 サツマイモから10分程歩くと京浜東北や宇都宮線を越える浦和橋の手前で自転車の一団とすれ違う。ここいらみたいに坂が無ければ自転車もらくだろうな。 で浦和橋を越え10分ほど歩くと「浦和宿 二・七市場跡」と書かれた杭が立っていた。その傍らには傍らには慈恵稲荷神社と刻まれた石柱が立っている 宿場に入ったなぁとわかるような木戸跡とかそういったものはこれまで見あたらなかったが浦和宿と書いてあるからここはすでに浦和宿なのか・・・ 「浦和宿 二・七市場跡」より歩くこと五分あまり、漸く歩道の車止めに中山道浦和宿のプレートがはめ込まれているのを発見。浦和宿って書いてあるんだから浦和宿なんだろう。 しかし、駅に近づくにつれ先ほどから通りを歩く人が増えてきたんだが、その中に赤いジャージを着た人たちが増えてきた。これは相手チームはもちろん、下手こいた自らの選手にさえ容赦ないヤジを飛ばす最強いや最恐サポーターと噂に名高い浦和レッズのサポーターなんだろうか。 無礼でもあったらただ事では済まないのでとりあえず最恐サポーターに失礼の無いよう先を進むと、歩道脇の御影石の石塔になにやらプレートがはめ込まれているのを発見。
だがあっという間に人通りも少なくなり、前方左手には木々に囲まれた一角が見えてきた。 でこの木々に囲まれた一角は神社のようである。なぜか狛犬がいるべき所にはウサギがいる。その先に石柱が一対立っているものの鳥居はない。不思議な神社である。
でまたまた調神社の文化財について書かれた看板があった。
とりあえず参拝しようと、手水をさがすと・・・手水鉢に寄りかかったうさぎたんの口からちょろちょろと水が流れている。こんな所にまでうさぎたん・・・・ 結局ウサギたんの謎は解けぬまま調神社をあとにし歩道のない中山道を蕨方面目指して歩いていく。 しばらく歩いていくと、割烹ラッキーの家という歴史を感じさせる看板があった。駄菓子屋ならともかく割烹でラッキーの家とは・・・しかも看板に描かれているのは男の子?それともおばちゃん?(女将?)とライオンとますますわからん。 まさかこんな住宅地でライオン(=ラッキー)を飼っているとも思えないし・・ ウサギたんとかラッキーの家とか謎を引きずりつつ、南浦和小の脇を歩いていくとなだらかな上り坂の先がえらい勢いで下っている。もう坂道なんて戸田橋と志村坂上あたりくらいなもんだと思っていたが、さいたま市内にもこんな坂があったのか。 で坂の頂上付近の真下にはJR武蔵野線が通っている。西側は小学校の地下、東側の土地が低くなっているところは防音のためかシェルターで覆われ、その先は再びトンネルとなっている。 坂の頂上付近には焼米坂と刻まれた石碑が建っており、わざわざこの程度の坂に名前が付くからにはやっぱり坂道が珍しかったんだろう。だが焼米坂の由来については記されていなかったのでまた謎が増えてしまった。 で坂を下りきってほどなく現れる信号付きの交差点を右折し、国道17号と久々のご対面となる。17号の日本橋側には外環の高架が見え、高崎側をみると高崎86km、熊谷44km、上尾17km書かれた標識がありずいぶんと歩いちゃったもんだなぁということを感じさせる。 17号を渡ってすぐに右が中山道なのだが、ちょっと先に六辻水辺公園という看板を見つけ、公園ならトイレくらい有るかなと休憩。うーん東屋と灰皿だけか・・・。まぁとりあえず一服。しかし水辺公園という割りには水が流れていないが・・・ 園内に書かれた地図によるとこの公園沿いに歩いていけば再び中山道に合流出来るようなので、拡幅されて旧街道の面影などない道路より公園沿いを歩くことにした。 すると、2匹の猫が公園とお寺の境界の塀の上でのんびりとひなたぼっこしていたのでちょっかいをだしてみる。で猫いじっていたらなんだか猫の脂で手がベタベタする・・・。 とりあえずトイレ云々よりまず手を洗いたいぞ。 公園には手を洗える様なところはなかったのでやむなく再び中山道にでた。まぁもうすぐ蕨宿なんでなんかあるだろう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 一里塚跡 ![]() 蕨宿入口が見えてきた ![]() 蕨宿入口 ![]() 蕨宿入口(の裏) ![]() 蕨宿の街並み ![]() 蕨市のマンホール ![]() カラータイル(太田宿) ![]() 蕨宿本陣 ![]() 旅篭の夕食(再現) ![]() 大名の食事(再現) ![]() 蕨市立歴史民俗資料館 ![]() 蕨市立歴史民俗資料館分館 ![]() 分館の庭 ![]() 国道17号に合流 ![]() 合流点より中山道側 |
というわけで外環の下をくぐったちょっと先に一里塚跡と書かれた石碑を見つけた。で一里塚跡の石碑の傍らにはなにやら祠があり、その裏側には石碑があった。
こうして宿場町を意識した街の造りは久々である。
また歩道には木曽六十九次の浮世絵をカラータイルにして貼り付けてある。まぁ資料館はあるわ歩道にも細工して、しかも来る11月3日は宿場祭りと日本橋をスタートしてから二つめの宿場でこれだけ力入れるっていうのは東海道で例えれば川崎宿でこれだけのことをやっているようなものである。まぁその手前の品川宿は結構頑張っているのだが・・・ で歩いていると蕨宿陣と表札の掲げられた一角があった。とりあえず猫臭い手をなんとかしたいので立ち寄ってみる。
で本陣跡に併設された歴史民俗資料館に入り、野良猫をなでてギトギトになった手を2Fのトイレで洗い、1Fの展示フロアに戻る。 まず目に付いたのはガラスケースの中に展示された旅篭の夕食を再現したものだった。青菜の味噌汁、卵、根菜とこんにゃくの煮物・・・以上。まぁ毎日こんな物食べてりゃメタボリック症候群とは無縁だわな。 でもう一方のガラスケースには大名の夕食が展示されていた。さすがにこちらは一汁一菜というわけにもいかないのかお膳が3つも並んでいる。 山盛りのご飯に、汁(根芋)、おかずに生イカ、いんきんのせん?(インゲン?)、長芋、椎茸、いんきん、アワビ、卵焼き、たくあん、メインディッシュにワカナゴの塩焼きに葉ショウガ、レンコンの木の芽和えにイナゴに白瓜の酢物と品数も格段に多い。まぁ蕨あたりまで来ると東京湾の魚が口に入るようである。そこから先はずっと鮒とか鯉だろうから、京都から来れば久々の海の魚、京都に向かえば最後の海の魚となるわけである。 まぁもっとも庶民の口に入るようなものではなかっただろうが・・・ で食事の資料を眺めていたらおいらも飯食っていないことに気づき、向かいのラーメン屋に入った。先客もいるようだしまぁそれほどハズレではなかろうと店内に入るとまるで養豚場のそばを通りかかったような臭いが充満していた。 この手のラーメンはやみつきになるかそうでないかどっちかだが、普段白濁しつつも豚臭くない横浜家系ラーメンを食べ慣れている俺様には少々厳しかった。 で再び街道歩きに戻り、薮原、贄川、洗馬宿が描かれたカラータイルを通り過ぎるとまたまた資料館があった。 先ほどの資料館の分館らしい。
なお「わらび文庫」は小部屋の一角がぎっしり詰まった本棚に囲まれており、主に近代史の本が並んでいる。まぁ余り時間もないので何冊かパララとめくって分館を後にした。 分館を出て程なく、再び国道17号に合流した。これで小さな蕨市を抜けまもなく戸田市にに入るようだ。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 戸田市 ![]() 日本橋まで18km ![]() 17号を左に逸れて出てきたところ ![]() 道路を渡った先に続く中山道? ![]() 渡った先の中山道? ![]() 花火が描かれたカラータイル ![]() 川岸3丁目交差点 ![]() 新幹線と埼京線の高架 ![]() 菖蒲川 ![]() 戸田橋その1 ![]() 戸田橋その2 ![]() 戸田橋その3(上流側) ![]() 東京都に入る ![]() 戸田橋(日本橋まで16km) ![]() 新河岸川 ![]() 左へ逸れる道 ![]() 志村一里塚その1 |
というわけで、15:04頃、埼玉県最後の市、戸田市に入った。ガイドブックに寄れば基本的には戸田橋まで17号をゆくのだが、途中路地に入ったりするようで結構ややこしい。しばらく歩いていると日本橋まで18kmと距離が記された標識が建っていた。まぁ暗くなるまで歩いてりゃ今日中には辿り着けそうだが、暗くなってまで歩くつもりは無いので、まぁ17時前に一里塚のある志村坂上あたりに辿り着ければいっかなと思いつつ歩く。 早速、左手に逸れる細い路地があったのでそれっぽいかなと行ってみる。 が、2車線幅の道路に突き当たりその先には2車線幅歩道付きの道が続いている。まぁ確証はないけど17号を歩いて戸田橋へ向かうのも楽しくないのでまぁいっかと進んでみる。 で歩道には花火が描かれたカラータイルが配置されている。まぁ戸田といえば競艇か花火大会くらいしか思いつかないので非常にわかりやすいってところだろうか。 特にここが中山道だと確信できるようなものを見つけられぬまま戸田橋が近づいてきた頃、この道も終わりやむなく17号方面にに戻る。 17号に出ると交差点の名前が川岸三丁目と記されていることからも荒川の側に近いようだ。 川岸3丁目交差点を左に曲がると前方に上越・東北新幹線と埼京線の高架とその先には緩やかな上り勾配な見える。いよいよ戸田橋だろうかと思い歩いて行くと、そいつは菖蒲川という運河のような川に掛かる橋だった。 でその先にはいよいよ戸田橋が見え、今度こそ東京都に突入である。 戸田橋を渡り始め、確か中山道は現在の国道17号より下流側を通ってたらしいので下流側の河川敷に昔の渡し場の跡を探してみるが見あたらなかった。渡し場公園いや、渡し場跡と書かれた杭ぐらいあるかなぁと思ったんだが・・・ 上流側は競艇場があるのだが今日は開催日じゃないのか静かだった。以前伊勢街道を歩いたときに大分離れた津の競艇場の草刈り機の音のようなエンジン音が聞こえていたんだが開催日はやっぱりやかましいのだろうか?。それとも17号を行き交う車の騒音でかき消されちゃうんだろうか。まぁ確かに伊勢街道は一面田んぼやら畑の長閑な所だったしなぁ。 そうこうしているうちに、東京都板橋区と記された標識を過ぎて遂に東京都に入った時に併走する新幹線がおいらを追い抜いて行った。 やがて橋も終わりに近づき、日本橋まで16kmと書かれた標識がガードレール脇に有った。まぁあと4時間も歩けば中山道の旅も終わりであるが、ゴールは次の機会にして次回スタート時にはお昼に環七沿いのラーメン屋にするか巣鴨のとげ抜き地蔵の隣のカレーうどんにするか悩むとしよう。ん?橋の終わりにまたまた「東京都板橋区」と記された看板があるが・・・ で程なく新河岸川を越え、特になにも無いまま1kmほど歩くと左に逸れる道があるので直感で旧道だと思い逸れてみる。が特になにも無いまま環八を経て再び17号に戻る。 志村坂下の交差点を過ぎ、緩やかな坂を登っていくと左手にはお寺さんの庭園が見えるのだが、実際のルートは先に左に逸れた道から環八を渡り、更に17号を渡り志村坂上の交差点で17号に合流するのが正しいようだ。 というわけでショートカットした形になるが、多少の間違いはしょうがないというスタンスで散歩しているので2002年の東海道53次の岡部にて宿場すっ飛ばすとかいうミス(※宿場が工事で全面通行止)でも無い限り気にしてはいけない。まぁこの中山道も宿場町ではないが武佐と愛知川の間の五個荘を思いっきり道を間違えてすっ飛ばしているミスについては機会があれば歩いて見たい。だが今回しくじった志村坂下から志村坂上までの間は・・・これは見とけ!というものも無さそうだしなぁ。 志村坂上の一里塚が見えてきた。加えてここには都営三田線の志村坂上の駅があるのでここでゴールとして次回日本橋までの12kmを残して本日の旅を終えるのであった。
で塚の脇には板橋十景と言う物が紹介されていた。
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