中山道 籠原−行田

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2006年11月14日深谷〜行田晴れ2時間49分 17591歩12.31km3890円

籠原駅
まえがき
というわけで漸く高崎線の旅も車両切り離しで5分程停車する籠原までの旅となったのだが、籠原手前で上り電車が踏み切り通過中に異音を感じたとかで急停止・・・
本当に湘南新宿ラインっていろいろあるなぁ。
とりあえず俺的にはさっさと籠原に着いて一服させてくれよって感じなんだが。
で駅から中山道までは道路の拡幅工事をしているようでなんだか道幅が変則的である。
まぁ駅まで500m位有るだろうか。ここも微妙に街道と駅が離れている。 ここまで直通の湘南新宿ラインで来てしまったため昼飯を調達していないので、なんか食うべと胃袋と相談するとビール大瓶ととんかつという無茶な回答が返ってきたが そんな店は一切見あたらないので、やむなく道中で仕入れることにした。

スタート地点

工事完了

玉井団地の球

国道17号と交差

地平線が見えそう

歩道橋で17号バイパスを越える(東京側)

歩道橋で17号バイパスを越える(高崎側)

国道17号に合流

中山道→

国道を渡った先

工事中・・

忍領領界石その1

忍領領界石その2

一里塚

再び17号に合流

17号をから逸れて左手に

17号から逸れて細い道に

八木橋デパートが行く手を遮る

ラーメン黒船?

植え込みになにやら看板が

マニアックビデオ?

熊谷駅

歩道の植え込みにある奇っ怪なオブジェ

銀座一丁目交差点を右に

右に曲がった先

新幹線の高架橋が見えてきた。

第六中仙道踏切

踏切待ち・・

元荒川起点の碑

元荒川ムサシトミヨ生息地

元荒川

ウルトラライトプレーン

全面通行止め
そんなわけで12:49に前回のゴール地点から歩き始めた。
中山道も道路拡張工事を行っている最中のようだ。3分ほど歩くとセンターラインと歩道のある道になっていた。
とりあえず、セブンイレブンで、肉まんなんか仕入れてわびしい昼飯をやっつけてから再び歩き始める。
やがて送電線の下の緑地帯に巨大な玉を模ったモニュメント・・ここいらの住宅地が「玉井団地」だから球??
とのっけからネタでスタートしてしまったが、かつてここが中山道だったことを示すものが何もない以上、 ネタでも探さないと何も書けないのだからしょうがない。
籠原駅入口から歩き始めて25分あまりで国道17号バイパスを横断する。標識では東京72km,さいたま49kmそして本日のゴール地点予定の行田までは10kmと記されている。
となるとあと2時間半ほど歩けばゴールなわけだな。まぁ調子がよければ吹上辺りまでは歩けるかなぁ。
しかし、見渡す限り畑ばかりで地平線が見えそうだ。で反対側に渡るには横断歩道ではなく歩道橋というまどろっこしいものを使わないといけないのでめんどくせえと思いつつ階段を登る。まぁスタートから30分位だし、別に難所コースを歩いているわけでも無いのでこの程度のアップダウンは許してやろう。
で今度はバイパスではない国道17号が再び目前に迫ってきた。ここからしばらく国道17号を歩くと、「中山道→」という看板が建っている。又歩道橋を渡られるのかよとブツクサ言いながら歩道橋を渡る。
渡った先は割と新しめのお家が並んでいる。だが途中工事中だったのでやむなく17号に戻り工事が終わったと思われる辺りから再び街道に戻ってみた。すると忍領領界石があった。
埼玉県指定文化財旧跡
忍領石標

指定年月日 昭和三十八年八月二十七日
所在地 熊谷市大字石原
 「従是南忍領」と彫られたこの石標は、忍藩
が他藩の土地との境界を明らがにするため、藩
境の十六箇所に建てたものの一つです。始めは
木材を用いていましたが、安永九年(一七八〇)
に石標として建て直されました。その後、明治
維新の際に撤去されることとなりましたが、昭
和十四年にこの石標が再発見されると、保存の
道が講じられ、元の位置に再建され現在に至っ
ています。

 また大字石原字上植木には、『従是東南忍領』
と彫られた石標がもう一基ありましたが、そち
らは現存していません。
平成十二年十一月 熊谷市教育委員会

領界石から2分ほど歩くと、ずいぶんとご無沙汰だった一里塚が現れた。
熊谷市指定文化財史跡
  一 里 塚
  指定年月日 昭和二十九年十一月三日
  所 在 地 熊谷市大字新島
 この一里塚は、旧中山道の東側に築かれた
もので、今でも高さ十二メートル、樹齢三〇
〇年以上のけやきの大木が残っています。
慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は江戸日
本橋を起点に、東海道・中山道など主要な街
道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里
(約四キロメートル)ごとに一里塚を設けまし
た。
 当時は、中山道の両側に五間四方の塚を築
き、榎などが植えられたといわれますが、
西側の石原分の塚は現在残っていません。
 宝暦六年(一七五六)の『道中絵図』に
は、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は
曙町)・新島に一里塚が描かれ、「榎二本
づつきづく」とあるが、現存する新島の大木
は不思議なことにけやきです。
  平成十二年九月   熊谷市教育委員会
ずいぶんご無沙汰の一里塚か再び17号に合流し、てくてくと歩く。すると有る店先に・・・「青森産どじょう入りました」のポップが・・・いや。唐揚げとか柳川風とか鍋とかわりと好きなのだがいったいどこで育てているんだろうと思ったら青森かぁ。
そしてどうやら熊谷市街に入りつつある17号だが、道路の反対側に左手に逸れる道があり、怪しいぞとを歩道橋で道路を渡ってみる。
でこの道も、やがて八木橋という百貨店にぶつかり途絶えてしまう。NHK-BSでやっていた番組では百貨店の中が中山道と強引に突っ切っていたようだが、さすがにそんなパワープレイは出来ないので国道へ迂回する。
しばらく歩道を歩いていると進行方向右手に、ラーメン黒船という看板が見えた・・・。この店は横浜にもあったのだがちょっとは味に期待がもてたので何回か食べに言ったのだが気付くと閉店・・・
でここも看板とかそのまんまで貸店舗の張り紙が貼られていた。このラーメン黒船のあった鎌倉町交差点から5分ほど歩くと、歩道と車道の間の植え込みになにやら看板と石碑を見つけた。
石碑には札の辻とあるから、高札場がかつてここにあったようだ。
熊谷市指定文化財史跡
 札の辻跡
昭和29年11月3日指定

位置 熊谷市本町一丁目
時代 江戸時代
 
 札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われ
た。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた
掲示板で一般大衆に法令を徹底されるため、
市場・要路など人目をひく所に掲示された。
 熊谷宿の高札場は、宝永年間(一七〇四〜一七一一)
に作られた「見世割図面写」により、場所・大きさ
などが推定できる。
場所は本町長野喜蔵の前の道路中央にあり
「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲ま
れた屋根のある高札場が描かれているので、今の
大露路と中山道の交差する この説明板附近
と推定される。
 大きさは、
 一、高さ 一丈一尺   (約三、三米)
 一、長さ 二間四尺三寸(約五米)
 一、横  六尺四寸   (約ニ米)
とある。
 現在、高札は本陣であった竹井家に十四枚残っている。

昭和59年3月
熊谷市教育委員会
というわけでかつての熊谷宿に入っていたようだ。高札場跡をカメラを収め、仕舞おうとしたら怪しげなシャッターの落書きが香ばしいビデオショップが道路の向かい側にあった。
こういうものを見つけるとほっとけないタチなので思わずシャッターを切る。でも一見落書きの様に見えるが、ちゃんと店の名前は入っているし、VHSという文字も見えるので意図的なものかぁ?
しかし、マニアックビデオって・・DVD全盛のこご時世にビデオとか看板の傷み具合やらみると、すでに営業していないようにも見えるのだが・・・
高札場から歩くこと7〜8分で熊谷駅前に続く道を歩道橋で越える。さすがに新幹線が止まるだけに駅を中心に半径300m位はビルとか立ち並んで繁栄しているようだ。
まぁ駅周辺に古タイヤやら廃車が積み上げられていたりしていたかつての新横浜駅よりは相当栄えていると言える。(かなぁ?)
でさっきからどうしても突っ込みたくてしょうがなかった、歩道の植え込みに有る”カニ”の様なオブジェ・・・良く見ると2つの手のひらがくっついて指先から糸状のものが出ている。まぁ制作意図などが書いてあるとなるほどと納得しそうだが通り過ぎるだけの旅人には奇っ怪なオブジェとしか見えず、税金を無駄遣いしやがってとしか思えない。
で無駄遣いかどうだかよくわからんが一生懸命歩道の整備というか改装工事をやっている。
丁度工事が終わった辺りの銀座一丁目交差点を右手に進む。
なんだかすっかり住宅地の中で、果たして先ほど曲がったこの道でよいのか不安になりつつも、まぁいずれ高崎線の踏切を越えるわけで方角的には間違いないだろうと進んでいく。
5分ほど歩くと新幹線の高架橋が見えてきた。その下には踏切があり、第六中仙道踏切と書かれており、一安心。と思ったのもつかの間、油断していたら遮断機が降りて来やがった。
というわけで高崎線往復+秩父鉄道で3分くらい待たされて再びスタート。
踏切を渡った先では、パトカーが停まっておりボロボロの自転車に乗った自由人風な方が警官に職質を受けていた。うーん。これだけボロっちい自転車だとしょっぴかれるのも気の毒な様な・・・
で15分ほど歩くと、何やらどぶ川の様な所に看板がたっている。
ね 値うちある
  元荒川
  起点の碑
起点からして生活排水の流れ込むドブにしか見えないのだが・・・
そういえば、看板がかるたの様な体裁になっているが、上州かるたの様にローカルなかるたがここ熊谷にも存在するのだろうか。
しばらく歩くとムサシトミヨ生息地という看板があった。まぁ先ほどの元荒川起点に較べると水量は格段に増えているが・・・・

埼玉県指定天然記念物
 元荒川ムサシトミヨ生息地
指定年月日 平成三年三月十五日
所 在 地 熊谷市大字久下二一二五番地先〜
              二〇六四番地先
 ムサシトミヨは、トゲウオ科に属する淡水魚です。
以前は埼玉県の熊谷市及び本庄市・川越市、東京都西部などに
生息していましたが、環境が悪化し、川が汚されてしまったの
で、現在では、世界で熊谷にしかみられなくなってしまいまし
た。
 体長四〜六センチメートルで、背ビレ・腹ビレ及び尻ビレに
輯条(きょくじょう)と呼ばれるトゲがあります。体には麟
(うろこ)がなく、体色はくすんだ暗緑色です。
冷たくきれいなわき水を水源とする細い川で、水草が繁茂
(はんも)しているところに生活します。水温は十〜十八度が
適温です。産卵期は三月〜十月で、雄が水草の根などを使って
ピンポン玉ぐらいの大きさの巣を作り、稚魚が巣立つまで巣と
子供を守ります。そして、たいてい一年で生涯を終えてしまい
ます。 ムサシトミヨは貴重な魚であり、また絶滅寸前の状態
なので、平成三年三月十五日に埼玉県指定天然記念物に指定さ
れ、平成三年十一月十四日の県民の日には清流のシンボルとし
て県の魚に選定されました。
 私たちの手で、この貴重な魚を守り育てていきましょう。
平 成 四 年 一 月
  学名: Pungitius sp.ssp.  埼玉県教育委員会
熊谷市教育委員会

ムサシトミヨ(産卵のようす)
さきの元荒川の起点を見ちゃうと、絶滅が危惧されるお魚の将来が一層不安になるのだが、まぁ世界で唯一この熊谷にしか生息しないという事なので頑張っていただきたいところである。
でコンクリート張りの元荒川を過ぎると右手に土手が見えてきた。あちらが荒川の土手のようだがその向こうでウルトラライトプレーンが飛行中である。ここからだと土手の向こう側は全く伺い知ることは出来ないが離発着に事欠かないだけの広さを有しているのであろう。
やがて中山道は荒川の土手を進む事になるのだが、全面通行止めの看板が立ちはだかっていた。車両通行止めならば歩行者は進めるのだが全面通行止めなので無理なんだろう。まぁ強引に突っ込むと、工事しているおっちゃんの「看板見えなかったのかゴルァ」というまなざしも痛かったりするので地図を眺めつつ土手と平行に進む道を行くことにした。

築堤は工事中

恨めしげに中山道方面を見る

シラサギ

土手の上にもシラサギ

カモ

シラサギとカモがお住まいの元荒川

周りは畑

人家も増えてきた。

次回はこの先からスタート
というわけで弱気なおいらは工事中の土手の道を迂回し、中山道と平行に進んでいるのだが向こうに見える土手にはフェンスが張り巡らされている。だが工事している雰囲気は感じられないので強行突破出来たかも知れない。
若干恨めしげに中山道であろう土手の方を眺めてみる。先ほどはコンクリート張りの用水路の様だった元荒川も川幅も広がってきた。川の中程にはシラサギ(多分)がいる。まぁ綺麗な鳥だが本来田んぼとかぬ沼地を生息域としているので清流にはいない鳥らしい。
熊谷の高札場跡以来、歩くこと一時間余り、宿場町の面影のようなものが感じられないが、住宅地を歩いているよりもこうした田園風景を歩いている方が楽しい。おっとあそこにいるのはこれからの時期はそば屋でよく出会うカモだな。
こうして出会う生き物がいるのも田園風景のお散歩ならではである。とは言えカエル飲んだ蛇とかにはあまり出会いたくは無いが・・・・
シラサギやカモがお住まいの元荒川とお別れし、人家もまばらな畑の中の道を進んでいく。それでも10分ほど歩くとお家が増えてきた。標識にも行田駅西口と書いてあるからそろそろ駅も近いのだろう。
まぁ日没まであと1時間あまりあるが中山道工事中だし、行田名物ゼリーフライの情報を集めてから改めてスタートするかというわけで行田で撤収することにした。

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