日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 | ||||
2006年6月24日 | 安中〜倉賀野 | 晴れ | 3時間56分 | 21316歩 | 14.92km | 3780円 | ||||
![]() 前回のゴール地点 ![]() 中山道と合流 ![]() 古めかしい石塔発見 ![]() 庚申塔だった ![]() ボンベ再利用こけし ![]() この先を右折 ![]() 鷹の巣橋その1 ![]() 鷹の巣橋その2 ![]() 鷹の巣橋より下流方向 ![]() 鷹の巣橋より上流方向 ![]() 鷹の巣橋を渡って右手へ |
というわけで、前回の横川よりかは近くなったとは言え、電車で20分も掛からぬ距離しか近づいておらず、湘南新宿ラインも横浜から高崎まで2時間半も掛かるというのにビールにおつまみくらいしか売りに来ないし、(まぁ横浜駅で鰺の押し寿司弁当買ってワンカップで一杯やっているというのも手だが)安中駅前は何も無いことを前回の横川〜安中を歩いたときにリサーチ済みなので、高崎駅で駅弁を仕込むことにし、だるま弁当は食ったし、ハローキティだるま弁当もやっつけたしなぁと見ると「限定復刻版だるま弁当」というのがあったので1200円と少々値が張るが買い込んで・・ でさて高崎から安中までは飯食ってられるほど時間が無いし、どこで食うか考えたところ駅の待合室って手もあるわなと容器が陶器製の達磨さんの格好したクソ重たいスペシャルなだるま弁当をリュックに仕込んで信越本線に乗り込む。 程なく安中駅に到着するのだが、例によって駅員さんにSuica定期を出して現金で精算して・・・って駅員さんが居てさらに先客が居る5〜6人も座ればいっぱいの待合室で飯を食うのも結構気が引けるのでどっか河原とか公園でも探すかと、国道を渡り前回のゴール地点へ向かった。 そんなわけで13:28に前回のゴール地点から歩き始めた。 って実はもう一本先の路地が中山道だったりするのだが、どうせ今歩いている道と合流するからいっかといきなりのチョンボだ。まぁ卑怯な俺様の事なので、はなっから不完全と銘打っているのでこの程度はノープロブレムだ。 中山道と合流してから3分ほどで古めかしい石塔を発見。きっと道標か何かだろうと見ると庚申塔だった。よくもまぁいままで左折巻き込み事故で壊れずに生きながらえていたもんだわ。 って道路の向かい側をみるとプロパンボンベを再利用した「交通安全」と書かれたこけしが立っており、こいつが庚申塔を見守っていたのね。 この庚申塔を見守るこけしから3分ほど歩くと、碓氷川に突き当たる。昔は、この先から川越えをしていたようだが、今は道がないので、この先を右に曲がって国道の旧道とおぼしき群馬県道26号線に入り鷹の巣橋で碓氷川を越える。 下流側は土手から川まで夏草に覆われている。ぼちぼち高崎の市街でも目にはいるかと思ったが、高崎方面は白く霞んで見通しが利かなかった。 一方上流側は、群馬県クレー射撃場が見える。鷹の巣橋を渡りきると道が二手に分かれているが、碓氷川に近い方を進むと板鼻宿に至るようだ。 | |||||||||
![]() 板鼻宿手前 ![]() 復刻版だるま弁当(パッケージ) ![]() 復刻版だるま弁当(外観) ![]() 復刻版だるま弁当(中身) ![]() 右から道祖神、猿田彦大神、よくわからない石碑 ![]() 彰忠碑 ![]() 板鼻公民館(本陣跡) ![]() 板鼻宿本陣跡その2 ![]() 板鼻宿交差点 ![]() 板鼻宿交差点 ![]() 古い道標 ![]() 信越線の踏切 ![]() 第九中仙道踏切 ![]() 国道をくぐる手前 ![]() 土手の上の道 ![]() 土手の上の道(10分後・・) ![]() 一里塚跡? ![]() 高崎市に入る ![]() 八幡宮の巨大鳥居 ![]() 欄干にだるまが乗った橋 ![]() 東京まで111km ![]() 一里塚(多分本物) ![]() 一里塚(たぶん偽物) ![]() 国道から左に逸れる ![]() 上豊岡茶屋本陣 ![]() 上豊岡茶屋本陣の門 ![]() 上豊岡茶屋本陣の庭 ![]() 古い道標 ![]() 県道に合流 ![]() 烏川のほとり ![]() 新君が代橋 ![]() シラサギ ![]() 烏川 ![]() 君が代橋の親柱 ![]() まもなく高崎宿 ![]() 神田乾電池 ![]() 高層ビル ![]() 赤煉瓦造りの建物 |
というわけで13時44分、鷹の巣橋を越えて、真っ直ぐ続くこの道が板鼻宿に続いているようだが、どこから宿場なのかは街並みではちょっとわからない。 そういえば背中のリュックに詰め込んだ復古だるま弁当も片付けないと・・・いくら常温保存と書かれていても日の当たっているリュックの中ではさっさとやっつけた方が良いに違いない。先ほどの碓氷川の河原でピクニック気分で・・・という選択肢も有ったが、容易に河原に辿り着ける様には見えなかったので、重い荷物を背負い続けてきたのだ。 鷹の巣橋を渡ってから7分ほどで彰忠碑の建てられた公園の一角にベンチが有ったのでここでそそくさとやっつけることにした。 リュックから弁当の包みを取り出すと、陶器製のいかつい達磨さんの顔とご対面である。 いくら高崎名物が”だるま”とは言え水墨画に描かれるようなリアルな達磨和尚のお顔が弁当の容器というのも・・・ そんなわけで、有り難い達磨和尚のお顔は十分拝見させて頂いたので、中身の方を頂こうとするとさすが限定。お品書きが入っていた。
せわしない食事を終え、改めて辺りを見廻すと、おいらの座った位置の後方には2体の神様が彫られた「道祖神」、「猿田彦大神」と刻まれた石碑と、「青面仝」とよくわからない石碑が3つ並んでいる。 この手のものは集落の境に置いて、変なものが入って来ませんようにと建てられる事があるので、ここから先が宿場かも知れない・・・って道ばたに建っていないし、しかも土台はコンクリートなので後年になって移築されたものらしい。 一方通りに向かって建っている彰忠碑は、碑文を書いた人が、陸軍中将大島健一と書いてある。 さて、食事を終え、普通の弁当ならば、折りたたんで嵩を減らす事も出来るが陶器製の容器ではやむなくお持ち帰りするほかない。しかしこの達磨さん。持って帰ってどうしよう。 で歩き始めて直ぐに板鼻公民館の花壇の植え込みに板鼻宿本陣跡と記された標柱が建っていた。 どうやら、板鼻宿の外れで飯を食っていたかと思っていたが気付いたら宿場のど真ん中にいたことになる。 公民館となっている本陣跡の周りを見ると、バス停ならぬ乗合タクシーの停留所があった。自治体主導で運営するコミュニティバスというのは結構有るが・・・タクシーは初めてだなぁ。 まぁ宿場のど真ん中に気付かずのほほんと飯を食っていたが良く見りゃ交差点の信号機に板鼻宿って書いてあるじゃん。 まぁ道は拡幅されて、特に他の宿場に有るような”木戸跡”とか”高札場跡”といったものも無いのでうっかりするとそのまま通り過ぎてしまいそうだ。 本陣跡から5分ほどで、電柱の脇にひっそりと古い道標が建っている。「くさつ」「はるな」と書いてある様だが思いっきり字を崩しているので俺様には判読不能である。まぁ確かに方角的には榛名に向かって道は延びている。 古い道標を過ぎると踏切が見えてきた。近付くと第九中仙道踏切と書いてある。五料茶屋本陣前を過ぎて西松井田駅の手前で越えたのが第十中仙道踏切なので高崎に向かって数字が小さくなっていることは間違い無いのだが、地図を眺める限り高崎まで八つも踏切が有るようには思えない。となるとやはり信越線が起点では無く高崎線が起点・・・。ん?高崎−上野間を高崎線とは呼ぶものの、この名前は、東北本線の上野−宇都宮間を「宇都宮線」と呼ぶように高崎線って、上越線か信越線の別名って事じゃ無いだろうか。と面倒な事を考えつつ(気になったのでwikipediaで調べると上野−大宮間が東北本線、大宮−高崎は独立した路線らしい)踏切を越えて程なく、宿場の一本高崎に向かって左側の道と合流するようである。東海道ならば、日本橋から四日市まで○×に向かって右とか回りくどい表現をしなくとも単に「海側」あるいは、「山側」で十分通用するのに、この点中山道は、海側、山側という表現が通用しないので面倒である。 でこの一本左側の道と合流する手前の路地を右に曲がり、国道18号の下をくぐって碓氷川の土手に出た。 碓氷川に沿った土手の上の道が中山道の様で、車も来ないし暴走する自転車も無く、これまでの緊張感から解放されてぼけーっと歩くことが出来る。 14;14やがて、道の駅とまでは行かないが、国道18号沿いに駐車場とトイレが有ったのでこの先の事を考えて立ち寄ることにした。見るとベンチやらテーブルなんかもあり、弁当を食うならこちらの方が好都合だったようだ。 用を足して、再び土手の上の道に戻ると車が来ないのは良いが、起伏も無く風景も変わり映えしないので10分も歩くと退屈この上ない。先ほどは安心して歩けて良いと言っておきながら10分後には退屈と言っているのだから身勝手この上ない男である。 で余りにぼけーっと歩いていると何やら国道沿いに木が一本聳えていた所を通り過ぎたことに気がついた。もしかすると一里塚の名残かも知れないので振り返ってシャッターを押した。 但しガイドブックを確認すると、八幡宮が有ってさらにその先に有るようなのでこいつは違うようである。 国道18号の方を見ると高崎市と書かれた看板が建っている。安中というとまだおいらのイメージでは”北関東"な訳だが高崎だとギリギリ東京タワーの電波が届きそうな感じがする分、東京に近づいた様に思える。 高崎市に入って程なく八幡宮の巨大な鳥居が目に入った。唐突にこれだけでかいものが飛び込んでくるとインパクトがある。さらに進むと碓氷川に架かる橋の欄干には高崎名物の「だるま」が鎮座しており、さりげなく!?ここが高崎で有ることを主張している。 でこの先は国道18号から左手に逸れる事になるのでだるま付きの橋を過ぎたところで、土手沿いの道から国道に下りて、歩道のある反対側へ渡った。 渡ってしばらくで「東京まで111km」と書かれた道路標識があった。もう通して歩けば3日程で日本橋なのだが、さすがに家から3時間圏内ともなると日帰りは辛いし、かといって泊まって通しで歩くのもなんだかなぁというところなので、20kmくらいずつに分けて6日位かけてゴールすればいっか。 5分ほど歩くと国道の反対車線側に崩れた塚の上に木が生えていた。良く見るとちっちゃな標柱が建っており多分一里塚だと思う。確認しようにも2車線幅で中央分離帯のある国道を横断して確認するのは、さすがに命が惜しいのでやめておいた。もしかすると土手から国道に移ってくるタイミングが早かったのかも知れない。ちなみの塚がある所には歩道は用意されていない。 しかし、なんで反対車線に向かって写真撮ったのに、車のノーズが写っているんだろう。
って1分ほど歩くとまた盛り上がった土の上に木が生えている・・これも一里塚・・・?もう訳がわからなくなってきたので先へ進もう。 一里塚より5分ほどで、国道との分岐となる。分岐点には「板鼻宿3.0km 高崎宿3.1km」と書かれた標柱が建っている。 さっきから5分ほど・・を多用しているが、国道から逸れてまた5分ほどで、上豊岡の茶屋本陣跡の前に辿り着いた。 もう、帰りは高崎線なので電車のダイヤを気にする必要がないので立ち寄ってみると入場料を取る五料茶屋本陣とは違いなんと無料だった。 入って直ぐに茶屋本陣について説明があるので引用。
まさか「つぎのあいだ」とか「じょうだんのあいだ」と誤読することを恐れたのだろうか。ならば「床の間」も「トコノマ」と書いた方が・・いいわけないな。 内部はとってもシンプルな造りだが、庭はしっかり手入れされていて緑が美しい。まぁ見学所要時間5分と言ったところだ。おいらが出ようとすると中山道夫婦旅と言ったところの初老の夫婦が丁度やってきて 係員の方が自慢げに大したものは無いけれど無料なんですよと恐縮されながら説明していた。 再び街道に戻り15分ほど歩くと、古い道標があった。左中仙道、もう一方には草津温泉なんたらと書いてある。
県道には歩道がなく、しかもこの先の国道18号と合流するのだが、そこが渋滞しており、ただでさえもう暑いのに車の脇を通り抜けるときに廃熱でさらに暑い。 渋滞をすり抜け再び国道18号に合流し程なく、烏川のほとりにたどり着いた。ここを新君が代橋で越える。 烏川は、これまでの碓氷川と異なりゆったり流れており、シラサギもいたりする。この新君が代橋橋を渡って高崎市街方面に向かうには、やたらと待ち時間の長い信号がある横断歩道を2回も越えなければならない。 で2つめの横断歩道を越えた先に公園があったので15:35休憩。 5分ほど休んで公園を出ようとすると、公園の一角に、なにやらプレートに君が代橋と刻まれた欄干のようなものがあった。
公園を出ると国道17号に平行した狭い道が中山道らしい。ここまで、京都〜草津は国道1号、草津〜彦根までが国道8号、鳥居本〜御嵩が国道21号、中津川〜塩尻が国道19号、塩尻〜下諏訪が国道20号、下諏訪〜八幡が142号、追分〜高崎が18号、ここから先は8本目の17号がゴールの日本橋まで続いている。日本橋から横浜まで国道15号で後は浜松周辺をのぞいてずっと国道一号に沿っていたことを考えると、中山道はずいぶんと複雑な経路である。 そんなわけで細い路地が中山道だが、「神田乾電池」とか見慣れぬ年期の入った看板が歴史を感じさせる。(ってせいぜい昭和だが) とは言え、県庁所在地の前橋を凌ぐ勢いで成長中の高崎なので前方には加納宿以来の高層ビルが見える。なかなか出来ることでは無いが中山道を通して歩いていれば感慨深いものもあるだろう。 高層ビルがそびえつつも、未だに煉瓦造りの建物が健在だったりと、新旧ごちゃ混ぜの街並みである。 しかし、これで日本橋まで坂は無いだろうと思ったがこの辺りは緩やかな上り坂となっていた。 | |||||||||
![]() 本町一丁目交差点 ![]() 高崎城趾のお堀 ![]() 高崎城趾のお堀その2 ![]() 上信電鉄 ![]() 倉賀野宿まで1.8km ![]() 浅間山古墳 ![]() 倉賀野宿入り口 ![]() 倉賀野宿脇本陣跡 ![]() 倉賀野宿脇本陣の石碑 ![]() 倉賀野宿本陣跡(スーパー跡地) ![]() 本陣跡の石碑 ![]() 道祖神と燈篭 ![]() ゴール地点の中町交差点 |
というわけで細い路地を進むと本町1丁目と書かれた交差点に出た。確か本町なんたらという交差点を曲がるんだったなぁとうろ覚えの脳みそでここを右に曲がってしまったのだが、実は曲がるところは本町3丁目の交差点だったりするわけで、高崎城趾に設けられた公園で一休みした時に地図を見て間違いに気付いた。 どうやらもう一本向こう側の通りが中山道らしいが、どうせ街並みも残ってないだろうし、高崎城趾を見物出来たのでまぁ良しとしよう。
で軌道修正のため高崎城趾から高崎駅に向かって進み、連雀町の交差点を右に曲がる。 結局、拡幅された片側2車線幅の現在の中山道だが宿場の面影を見いだせぬまま上信電鉄の踏切に差し掛かった。 この上信電鉄はネギやらこんにゃくで有名な下仁田まで通じているが、下仁田の手前が「南蛇井」という駅でひらがなで書くと「なんじゃい」である。 従って、南蛇井駅に差し掛かると車内アナウンスでは「次はなんじゃい」となるはずだがどうなんだろう。 で上越新幹線のガードを潜り、国道17号を越えて、歩道こそあるもののひたすら見所のない道を進む。 上信電鉄の踏切から20分ほどで、「高崎宿1.5km 倉賀野宿1.8km」と書かれた標柱があった。あと30分程で倉賀野宿に着くようだ。 ここから9分程、丁度時刻が17:00となったところで「高崎宿2km 倉賀野宿1.3km」と書かれた標柱が現れた。 倉賀野宿から新町宿までは約6kmあるので、まぁ19時まで歩いてうちに帰ったら10時過ぎというのもだるいので倉賀野宿がゴール確定となった。 5分ほど歩くと、反対車線のガソリンスタンドの壁の向こうに、こんもりとした小山があったので地図を確認すると浅間山古墳とある。造られた年代はわからないが少なくとも1500年前にこの地に勢力を誇る豪族がいた事になる。 まぁ1500年以上昔に築いた人工の小山が残っていることには感心しつつもおいらの歴史の知識から外れた年代のものだし、道路の反対側ということもあったのでそのまま通り過ぎることにする。 この浅間山古墳から10分程で「倉賀野宿→」とやや擦れた文字で書かれた標柱があった。先ほどからすっかり拡幅されて周りの家もどちらかといえば新しめの建物が多く宿場町に入ったという実感はあまり湧いてこない。 しかし、5分ほど歩くと小さな石碑が建てられた年代物のお家の前に差し掛かった。石碑には倉賀野宿脇本陣跡と書かれており、13時28分に出発しただいまの時刻は17時20分ということでかれこれ4時間ちょい歩いて漸く 倉賀野宿の宿場の中心に辿りついた様である で脇本陣が有るなら本陣が有るはずと探してみると脇本陣から歩くこと2分程で道路の反対側にあるスーパー跡地に小さな石碑を見つけた。こいつだと直感したのだが肉眼では判読が辛いが本陣跡と記されているようだ。後ほど確認するとやはりこのスーパー跡地が本陣跡だった。 このスーパー跡地の隣の駐車場には道祖神と常夜灯だかただの燈篭だかが建っており、以上、先の脇本陣跡、本陣跡を併せたところが宿場町であった事を示している。 というわけでかすかな宿場町の名残を過ぎるともう道を左手に進めば倉賀野駅である。まぁスタート地点の安中駅に較べると街道から駅までは若干距離があるが、まぁさらに1時間半歩いて新町宿まで歩くと家にたどり着くのが遅くなるので中町と書かれた交差点をゴールとした。 | |||||||||
![]() 左ステーション道 |
番外でゴール地点から駅までの道は、道幅やら曲がりくねり具合に加えすでに大きな道が平行して駅に向かっていることから歴史の有る道だろうなぁと思っていたら案の定道ばたに、「左ステーシヨン 大正九年十月一日建立」と刻まれた道標が建っていた。 駅舎まで中山道から500mばかりと結構あるのでしばらく駅舎は見えない。でようやく駅舎にたどり着くと、駅前の広場にはタクシーが一台停まっているだけでコンビニもない。なんだか本当に東京に近づいているのか疑わしくなるほどひっそりしたたたずまいである。とは言え自動改札はちゃんとSuica対応である。だが首都圏ではホーム構内にSuica対応グリーン券売機があるのだがここには無く今更駅に戻って購入するのも面倒だし、時間も無かったので割高な車内料金を支払う羽目となった。しかも車内ではSuicaは使えず、割高ないつもにこにこ現金精算なわけでSuicaグリーン券システムもまだまだ途上の様である。でもう一つ八高線というルートでご帰還というルートも頭に浮かんだのだが、あまりにも時間がかかりすぎるので却下。で、横浜までの長い道のりを缶ビール片手に過ごしたのであった。 |
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