中山道 安中−倉賀野

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2006年6月24日安中〜倉賀野晴れ3時間56分 21316歩14.92km3780円

前回のゴール地点

中山道と合流

古めかしい石塔発見

庚申塔だった

ボンベ再利用こけし

この先を右折

鷹の巣橋その1

鷹の巣橋その2

鷹の巣橋より下流方向

鷹の巣橋より上流方向

鷹の巣橋を渡って右手へ
というわけで、前回の横川よりかは近くなったとは言え、電車で20分も掛からぬ距離しか近づいておらず、湘南新宿ラインも横浜から高崎まで2時間半も掛かるというのにビールにおつまみくらいしか売りに来ないし、(まぁ横浜駅で鰺の押し寿司弁当買ってワンカップで一杯やっているというのも手だが)安中駅前は何も無いことを前回の横川〜安中を歩いたときにリサーチ済みなので、高崎駅で駅弁を仕込むことにし、だるま弁当は食ったし、ハローキティだるま弁当もやっつけたしなぁと見ると「限定復刻版だるま弁当」というのがあったので1200円と少々値が張るが買い込んで・・
でさて高崎から安中までは飯食ってられるほど時間が無いし、どこで食うか考えたところ駅の待合室って手もあるわなと容器が陶器製の達磨さんの格好したクソ重たいスペシャルなだるま弁当をリュックに仕込んで信越本線に乗り込む。
程なく安中駅に到着するのだが、例によって駅員さんにSuica定期を出して現金で精算して・・・って駅員さんが居てさらに先客が居る5〜6人も座ればいっぱいの待合室で飯を食うのも結構気が引けるのでどっか河原とか公園でも探すかと、国道を渡り前回のゴール地点へ向かった。
そんなわけで13:28に前回のゴール地点から歩き始めた。
って実はもう一本先の路地が中山道だったりするのだが、どうせ今歩いている道と合流するからいっかといきなりのチョンボだ。まぁ卑怯な俺様の事なので、はなっから不完全と銘打っているのでこの程度はノープロブレムだ。
中山道と合流してから3分ほどで古めかしい石塔を発見。きっと道標か何かだろうと見ると庚申塔だった。よくもまぁいままで左折巻き込み事故で壊れずに生きながらえていたもんだわ。
って道路の向かい側をみるとプロパンボンベを再利用した「交通安全」と書かれたこけしが立っており、こいつが庚申塔を見守っていたのね。
この庚申塔を見守るこけしから3分ほど歩くと、碓氷川に突き当たる。昔は、この先から川越えをしていたようだが、今は道がないので、この先を右に曲がって国道の旧道とおぼしき群馬県道26号線に入り鷹の巣橋で碓氷川を越える。
下流側は土手から川まで夏草に覆われている。ぼちぼち高崎の市街でも目にはいるかと思ったが、高崎方面は白く霞んで見通しが利かなかった。
一方上流側は、群馬県クレー射撃場が見える。鷹の巣橋を渡りきると道が二手に分かれているが、碓氷川に近い方を進むと板鼻宿に至るようだ。

板鼻宿手前

復刻版だるま弁当(パッケージ)

復刻版だるま弁当(外観)

復刻版だるま弁当(中身)

右から道祖神、猿田彦大神、よくわからない石碑

彰忠碑

板鼻公民館(本陣跡)

板鼻宿本陣跡その2

板鼻宿交差点

板鼻宿交差点

古い道標

信越線の踏切

第九中仙道踏切

国道をくぐる手前

土手の上の道

土手の上の道(10分後・・)

一里塚跡?

高崎市に入る

八幡宮の巨大鳥居

欄干にだるまが乗った橋

東京まで111km

一里塚(多分本物)

一里塚(たぶん偽物)

国道から左に逸れる

上豊岡茶屋本陣

上豊岡茶屋本陣の門

上豊岡茶屋本陣の庭

古い道標

県道に合流

烏川のほとり

新君が代橋

シラサギ

烏川

君が代橋の親柱

まもなく高崎宿

神田乾電池

高層ビル

赤煉瓦造りの建物
というわけで13時44分、鷹の巣橋を越えて、真っ直ぐ続くこの道が板鼻宿に続いているようだが、どこから宿場なのかは街並みではちょっとわからない。
そういえば背中のリュックに詰め込んだ復古だるま弁当も片付けないと・・・いくら常温保存と書かれていても日の当たっているリュックの中ではさっさとやっつけた方が良いに違いない。先ほどの碓氷川の河原でピクニック気分で・・・という選択肢も有ったが、容易に河原に辿り着ける様には見えなかったので、重い荷物を背負い続けてきたのだ。
鷹の巣橋を渡ってから7分ほどで彰忠碑の建てられた公園の一角にベンチが有ったのでここでそそくさとやっつけることにした。
リュックから弁当の包みを取り出すと、陶器製のいかつい達磨さんの顔とご対面である。
いくら高崎名物が”だるま”とは言え水墨画に描かれるようなリアルな達磨和尚のお顔が弁当の容器というのも・・・
そんなわけで、有り難い達磨和尚のお顔は十分拝見させて頂いたので、中身の方を頂こうとするとさすが限定。お品書きが入っていた。

 復古だるま

 お品書き
一、牛肉の時雨煮…………………上州牛
一、地鶏のつけ焼き ……………榛名地鶏
一、舞茸の含ませ煮………………高崎産
一、花豆のふっくら煮……………中之条特産
一、うずら塩ゆで…………………群馬県産品
一、コンニャク赤玉作り…………下仁田名物
一、フキの煮浸し…………………片品村特産
一、キンピラ風煮物………………群馬県産品
一、舞茸のワサビ和え…………‥当社特製
一、茶飯……………………………群馬県産ひとめぼれ
すべて群馬県産品にこだわり造りました。
群馬のおいしさを堪能して下さい。
  ※季節により産地・食材を
        変更することがあります。
正味10分ほどで、復刻版だるま弁当をやっつけていると、路地からおばあさんがこちらに向かって歩いてきたので笑顔でご挨拶。とりあえず怪しまれずには済んだようだ。
せわしない食事を終え、改めて辺りを見廻すと、おいらの座った位置の後方には2体の神様が彫られた「道祖神」、「猿田彦大神」と刻まれた石碑と、「青面仝」とよくわからない石碑が3つ並んでいる。
この手のものは集落の境に置いて、変なものが入って来ませんようにと建てられる事があるので、ここから先が宿場かも知れない・・・って道ばたに建っていないし、しかも土台はコンクリートなので後年になって移築されたものらしい。
一方通りに向かって建っている彰忠碑は、碑文を書いた人が、陸軍中将大島健一と書いてある。
さて、食事を終え、普通の弁当ならば、折りたたんで嵩を減らす事も出来るが陶器製の容器ではやむなくお持ち帰りするほかない。しかしこの達磨さん。持って帰ってどうしよう。
で歩き始めて直ぐに板鼻公民館の花壇の植え込みに板鼻宿本陣跡と記された標柱が建っていた。 どうやら、板鼻宿の外れで飯を食っていたかと思っていたが気付いたら宿場のど真ん中にいたことになる。
公民館となっている本陣跡の周りを見ると、バス停ならぬ乗合タクシーの停留所があった。自治体主導で運営するコミュニティバスというのは結構有るが・・・タクシーは初めてだなぁ。
まぁ宿場のど真ん中に気付かずのほほんと飯を食っていたが良く見りゃ交差点の信号機に板鼻宿って書いてあるじゃん。
まぁ道は拡幅されて、特に他の宿場に有るような”木戸跡”とか”高札場跡”といったものも無いのでうっかりするとそのまま通り過ぎてしまいそうだ。
本陣跡から5分ほどで、電柱の脇にひっそりと古い道標が建っている。「くさつ」「はるな」と書いてある様だが思いっきり字を崩しているので俺様には判読不能である。まぁ確かに方角的には榛名に向かって道は延びている。
古い道標を過ぎると踏切が見えてきた。近付くと第九中仙道踏切と書いてある。五料茶屋本陣前を過ぎて西松井田駅の手前で越えたのが第十中仙道踏切なので高崎に向かって数字が小さくなっていることは間違い無いのだが、地図を眺める限り高崎まで八つも踏切が有るようには思えない。となるとやはり信越線が起点では無く高崎線が起点・・・。ん?高崎−上野間を高崎線とは呼ぶものの、この名前は、東北本線の上野−宇都宮間を「宇都宮線」と呼ぶように高崎線って、上越線か信越線の別名って事じゃ無いだろうか。と面倒な事を考えつつ(気になったのでwikipediaで調べると上野−大宮間が東北本線、大宮−高崎は独立した路線らしい)踏切を越えて程なく、宿場の一本高崎に向かって左側の道と合流するようである。東海道ならば、日本橋から四日市まで○×に向かって右とか回りくどい表現をしなくとも単に「海側」あるいは、「山側」で十分通用するのに、この点中山道は、海側、山側という表現が通用しないので面倒である。
でこの一本左側の道と合流する手前の路地を右に曲がり、国道18号の下をくぐって碓氷川の土手に出た。
碓氷川に沿った土手の上の道が中山道の様で、車も来ないし暴走する自転車も無く、これまでの緊張感から解放されてぼけーっと歩くことが出来る。
14;14やがて、道の駅とまでは行かないが、国道18号沿いに駐車場とトイレが有ったのでこの先の事を考えて立ち寄ることにした。見るとベンチやらテーブルなんかもあり、弁当を食うならこちらの方が好都合だったようだ。
用を足して、再び土手の上の道に戻ると車が来ないのは良いが、起伏も無く風景も変わり映えしないので10分も歩くと退屈この上ない。先ほどは安心して歩けて良いと言っておきながら10分後には退屈と言っているのだから身勝手この上ない男である。
で余りにぼけーっと歩いていると何やら国道沿いに木が一本聳えていた所を通り過ぎたことに気がついた。もしかすると一里塚の名残かも知れないので振り返ってシャッターを押した。
但しガイドブックを確認すると、八幡宮が有ってさらにその先に有るようなのでこいつは違うようである。
国道18号の方を見ると高崎市と書かれた看板が建っている。安中というとまだおいらのイメージでは”北関東"な訳だが高崎だとギリギリ東京タワーの電波が届きそうな感じがする分、東京に近づいた様に思える。
高崎市に入って程なく八幡宮の巨大な鳥居が目に入った。唐突にこれだけでかいものが飛び込んでくるとインパクトがある。さらに進むと碓氷川に架かる橋の欄干には高崎名物の「だるま」が鎮座しており、さりげなく!?ここが高崎で有ることを主張している。
でこの先は国道18号から左手に逸れる事になるのでだるま付きの橋を過ぎたところで、土手沿いの道から国道に下りて、歩道のある反対側へ渡った。
渡ってしばらくで「東京まで111km」と書かれた道路標識があった。もう通して歩けば3日程で日本橋なのだが、さすがに家から3時間圏内ともなると日帰りは辛いし、かといって泊まって通しで歩くのもなんだかなぁというところなので、20kmくらいずつに分けて6日位かけてゴールすればいっか。
5分ほど歩くと国道の反対車線側に崩れた塚の上に木が生えていた。良く見るとちっちゃな標柱が建っており多分一里塚だと思う。確認しようにも2車線幅で中央分離帯のある国道を横断して確認するのは、さすがに命が惜しいのでやめておいた。もしかすると土手から国道に移ってくるタイミングが早かったのかも知れない。ちなみの塚がある所には歩道は用意されていない。
しかし、なんで反対車線に向かって写真撮ったのに、車のノーズが写っているんだろう。
考えられることとして
・工事中で片側交互通行だった。(でも右側走っているし)
・認知障害で・・・・(以下略)
・実は高崎と思ったがアメリカで撮った写真が紛れていた。
・単なる心霊写真だった
と、旅を終えてから時間が経つと撮った写真の背景とか思い出せなくなってしまう。
って1分ほど歩くとまた盛り上がった土の上に木が生えている・・これも一里塚・・・?もう訳がわからなくなってきたので先へ進もう。
一里塚より5分ほどで、国道との分岐となる。分岐点には「板鼻宿3.0km 高崎宿3.1km」と書かれた標柱が建っている。
さっきから5分ほど・・を多用しているが、国道から逸れてまた5分ほどで、上豊岡の茶屋本陣跡の前に辿り着いた。
もう、帰りは高崎線なので電車のダイヤを気にする必要がないので立ち寄ってみると入場料を取る五料茶屋本陣とは違いなんと無料だった。 入って直ぐに茶屋本陣について説明があるので引用。
県指定史跡
 上豊岡の茶屋本陣
指 定  昭和三十七牟八月二日
所在地 高崎市上豊岡町一三三の一

 茶屋本陣は、江戸時代の上級武士や公卿の喫茶や昼食、ある
いは関所の時間待ちのために、宿場と宿場の間に設けられた休
息所である。この茶屋本陣は、旧中山道に面して位置、居住
部分である主屋(一八世紀中期建造)に接続して、別棟で離れ
座敷として一九世紀初期に増築されたものである。
 平面は南北に八畳二室を高低差なく配置している。南側をツ
ギノマ、北側をジョウダンノマと称している。ジョウダンノマ
には書院造の様式である違棚、床の間、書院を見ることかでき
る。ニ室の北側及び東側に幅一間の入側を回らし、その外側を
濡縁としている。
 八畳二間の部分を上屋、入側や床の間などの部分を下屋とし
ている。
 上屋は瓦葺、下屋は板葺(当初)である。
 なお、県内に茶屋本陣はこのほか、松井田町に
三棟現存するが、これらは当初から主屋と一体に
つくられたものである。
   群馬県教育委員会
   高崎市教育委員会

次の間やら上段の間をなんでまたカタカナで表現しているんだろう。なんだか沖縄の史蹟の看板みたいだ。
まさか「つぎのあいだ」とか「じょうだんのあいだ」と誤読することを恐れたのだろうか。ならば「床の間」も「トコノマ」と書いた方が・・いいわけないな。
内部はとってもシンプルな造りだが、庭はしっかり手入れされていて緑が美しい。まぁ見学所要時間5分と言ったところだ。おいらが出ようとすると中山道夫婦旅と言ったところの初老の夫婦が丁度やってきて 係員の方が自慢げに大したものは無いけれど無料なんですよと恐縮されながら説明していた。
再び街道に戻り15分ほど歩くと、古い道標があった。左中仙道、もう一方には草津温泉なんたらと書いてある。
高崎市指定重要文化財
 下豊岡の道しるべ
       所 在 地 高崎市下豊岡町四○一三番地先
       指定年月日 平成十年二月二十七日
 烏川を渡って中山道を西へ進み、この地より右に折れる道は信濃国(長野県)
へ通じるいわゆる信州街道で、古くは「信州みち」と呼ばれていた。また、草津
温泉へと通じる道でもあることから「草津みち」とも呼ばれていた。
 現在八坂神社のあるこの場所が、かつて信州みちが通っていた場所であり、
二つの道しるべがあった。そのうちの一つ「下豊岡の道しるべ」は、高さ一九八
㎝、幅三四㎝、厚さ三六㎝の大きさで、安山岩でつくられた尖塔角柱の道しる
べである。碑面の文字から草津温泉をはじめとする温泉地への案内を主な目的
として作られたものとも思われる。なお、左側面のみ文字の彫り方が異なって
いるが、道しるべが建てられた後に彫られたためであろう。つくられた時期は
江戸時代末期と推定される。
 もう一つは、国道四〇六号線と旧中山道との分岐点に移されている小さな自
然石の道しるべで、これには「右はるなみち、くさつみち」と刻まれている。
 「下豊岡の道しるべ」は、本来は中山道と信州みちとの分岐点であるこの場所
にあった。明治時代に現在の国道四〇六号線ができた際に、一旦は今「自然石
の道しるべ」がある場所に二つとも移された。さらに昭和三十四年頃の国道四
〇六号線の拡幅に伴い、県道(旧国道十八号線)との分岐点にこの道しるべのみ
移されていた。高崎市の文化財に指定するにあたって、本来の所在地であるこ
の地に戻したものである。

面     神 山 三里
側 従  是 三ノ倉 五り半
右      大 戸 九り半

面 榛名山  かわなか
正  草津温泉 かわらゆ温泉
     はとのゆ

面      安中
側 左中山道 松井田
左      横川
高崎市教育委員会
この道標から程なく県道に合流する。合流点には現代の道標が建っており「板鼻宿4.5km 高崎宿1.6km」と書かれている。
県道には歩道がなく、しかもこの先の国道18号と合流するのだが、そこが渋滞しており、ただでさえもう暑いのに車の脇を通り抜けるときに廃熱でさらに暑い。
渋滞をすり抜け再び国道18号に合流し程なく、烏川のほとりにたどり着いた。ここを新君が代橋で越える。
烏川は、これまでの碓氷川と異なりゆったり流れており、シラサギもいたりする。この新君が代橋橋を渡って高崎市街方面に向かうには、やたらと待ち時間の長い信号がある横断歩道を2回も越えなければならない。
で2つめの横断歩道を越えた先に公園があったので15:35休憩。
5分ほど休んで公園を出ようとすると、公園の一角に、なにやらプレートに君が代橋と刻まれた欄干のようなものがあった。
君ケ代橋親柱
 君ケ代橋という名は、明治十一
年九月、明治天皇が北陸東海御行
幸のとき、馬車で木橋を渡られた
ことを記念して命名されました。
 この君ヶ代橋親柱は、昭和六年
に木橋から鋼橋に架け替えられた
ときのものですが、昭和五十二年
より十年の歳月をかけて、三層構
造のインターチェンジが建設され
 君ヶ代橋も新たに架け替えられ
た為、ここに移設されたものです
     昭和六十二年三月
     建設省高崎工事事務所
明治は木橋で、昭和に鉄橋となって現在の新君が代橋に至っているわけね。
公園を出ると国道17号に平行した狭い道が中山道らしい。ここまで、京都〜草津は国道1号、草津〜彦根までが国道8号、鳥居本〜御嵩が国道21号、中津川〜塩尻が国道19号、塩尻〜下諏訪が国道20号、下諏訪〜八幡が142号、追分〜高崎が18号、ここから先は8本目の17号がゴールの日本橋まで続いている。日本橋から横浜まで国道15号で後は浜松周辺をのぞいてずっと国道一号に沿っていたことを考えると、中山道はずいぶんと複雑な経路である。
そんなわけで細い路地が中山道だが、「神田乾電池」とか見慣れぬ年期の入った看板が歴史を感じさせる。(ってせいぜい昭和だが)
とは言え、県庁所在地の前橋を凌ぐ勢いで成長中の高崎なので前方には加納宿以来の高層ビルが見える。なかなか出来ることでは無いが中山道を通して歩いていれば感慨深いものもあるだろう。
高層ビルがそびえつつも、未だに煉瓦造りの建物が健在だったりと、新旧ごちゃ混ぜの街並みである。
しかし、これで日本橋まで坂は無いだろうと思ったがこの辺りは緩やかな上り坂となっていた。

本町一丁目交差点

高崎城趾のお堀

高崎城趾のお堀その2

上信電鉄

倉賀野宿まで1.8km

浅間山古墳

倉賀野宿入り口

倉賀野宿脇本陣跡

倉賀野宿脇本陣の石碑

倉賀野宿本陣跡(スーパー跡地)

本陣跡の石碑

道祖神と燈篭

ゴール地点の中町交差点
というわけで細い路地を進むと本町1丁目と書かれた交差点に出た。確か本町なんたらという交差点を曲がるんだったなぁとうろ覚えの脳みそでここを右に曲がってしまったのだが、実は曲がるところは本町3丁目の交差点だったりするわけで、高崎城趾に設けられた公園で一休みした時に地図を見て間違いに気付いた。
どうやらもう一本向こう側の通りが中山道らしいが、どうせ街並みも残ってないだろうし、高崎城趾を見物出来たのでまぁ良しとしよう。
高崎市指定史跡
  高崎城址(高崎城三の丸外囲の土居と堀)
 箕輪城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長三年(一五九
八)に中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが
高崎藩のおこりです。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城
下町の基礎を築きました。今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるの
みですが本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城
とし、三の丸に武家屋敷をおきました。また、遠構えと呼ぶ城下
町を囲む堀と土塁も築かれていました。明治四年(一八七一)の
廃藩までの二七三年間の高崎の近世の歴史は高崎藩政を中心に展
開されたといっても過言ではないでしょう。
 都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしま
いましたが、「乾櫓」や「東門」は復元整備されており、また明
治初年の三層櫓の写真や「高崎城大意」等の資料が残されている
ため、当時の姿を知ることができます。
高 崎 市 教 育 委 員 会
これだけ開けたところでお堀が残っていること自体すごいことである。
で軌道修正のため高崎城趾から高崎駅に向かって進み、連雀町の交差点を右に曲がる。
結局、拡幅された片側2車線幅の現在の中山道だが宿場の面影を見いだせぬまま上信電鉄の踏切に差し掛かった。
この上信電鉄はネギやらこんにゃくで有名な下仁田まで通じているが、下仁田の手前が「南蛇井」という駅でひらがなで書くと「なんじゃい」である。
従って、南蛇井駅に差し掛かると車内アナウンスでは「次はなんじゃい」となるはずだがどうなんだろう。
で上越新幹線のガードを潜り、国道17号を越えて、歩道こそあるもののひたすら見所のない道を進む。
上信電鉄の踏切から20分ほどで、「高崎宿1.5km 倉賀野宿1.8km」と書かれた標柱があった。あと30分程で倉賀野宿に着くようだ。
ここから9分程、丁度時刻が17:00となったところで「高崎宿2km 倉賀野宿1.3km」と書かれた標柱が現れた。
倉賀野宿から新町宿までは約6kmあるので、まぁ19時まで歩いてうちに帰ったら10時過ぎというのもだるいので倉賀野宿がゴール確定となった。
5分ほど歩くと、反対車線のガソリンスタンドの壁の向こうに、こんもりとした小山があったので地図を確認すると浅間山古墳とある。造られた年代はわからないが少なくとも1500年前にこの地に勢力を誇る豪族がいた事になる。
まぁ1500年以上昔に築いた人工の小山が残っていることには感心しつつもおいらの歴史の知識から外れた年代のものだし、道路の反対側ということもあったのでそのまま通り過ぎることにする。
この浅間山古墳から10分程で「倉賀野宿→」とやや擦れた文字で書かれた標柱があった。先ほどからすっかり拡幅されて周りの家もどちらかといえば新しめの建物が多く宿場町に入ったという実感はあまり湧いてこない。
しかし、5分ほど歩くと小さな石碑が建てられた年代物のお家の前に差し掛かった。石碑には倉賀野宿脇本陣跡と書かれており、13時28分に出発しただいまの時刻は17時20分ということでかれこれ4時間ちょい歩いて漸く 倉賀野宿の宿場の中心に辿りついた様である
で脇本陣が有るなら本陣が有るはずと探してみると脇本陣から歩くこと2分程で道路の反対側にあるスーパー跡地に小さな石碑を見つけた。こいつだと直感したのだが肉眼では判読が辛いが本陣跡と記されているようだ。後ほど確認するとやはりこのスーパー跡地が本陣跡だった。
このスーパー跡地の隣の駐車場には道祖神と常夜灯だかただの燈篭だかが建っており、以上、先の脇本陣跡、本陣跡を併せたところが宿場町であった事を示している。
というわけでかすかな宿場町の名残を過ぎるともう道を左手に進めば倉賀野駅である。まぁスタート地点の安中駅に較べると街道から駅までは若干距離があるが、まぁさらに1時間半歩いて新町宿まで歩くと家にたどり着くのが遅くなるので中町と書かれた交差点をゴールとした。

左ステーション道

番外

でゴール地点から駅までの道は、道幅やら曲がりくねり具合に加えすでに大きな道が平行して駅に向かっていることから歴史の有る道だろうなぁと思っていたら案の定道ばたに、「左ステーシヨン 大正九年十月一日建立」と刻まれた道標が建っていた。 駅舎まで中山道から500mばかりと結構あるのでしばらく駅舎は見えない。でようやく駅舎にたどり着くと、駅前の広場にはタクシーが一台停まっているだけでコンビニもない。なんだか本当に東京に近づいているのか疑わしくなるほどひっそりしたたたずまいである。
とは言え自動改札はちゃんとSuica対応である。だが首都圏ではホーム構内にSuica対応グリーン券売機があるのだがここには無く今更駅に戻って購入するのも面倒だし、時間も無かったので割高な車内料金を支払う羽目となった。しかも車内ではSuicaは使えず、割高ないつもにこにこ現金精算なわけでSuicaグリーン券システムもまだまだ途上の様である。でもう一つ八高線というルートでご帰還というルートも頭に浮かんだのだが、あまりにも時間がかかりすぎるので却下。で、横浜までの長い道のりを缶ビール片手に過ごしたのであった。

横川〜安中に戻る倉賀野〜本庄へ進む
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