中山道 倉賀野−本庄

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2006年10月8日倉賀野〜本庄晴れ3時間32分 21427歩14.99km4840円

倉賀野駅

倉賀野駅その2

倉賀野駅前

道標
まえがき
というわけで、前回の安中〜倉賀野が6月後半で、今は初秋の感がある10月始めとずいぶんブランクが開いてしまった。昨年の夏は和田峠を越えて碓氷峠に下りてくると言う壮大な?旅だったが、あの続きとなると関東平野をひたすら歩くだけなのでせっかくの盆休みだしもうちと夢のある?旅をしようと甲州街道も考えたが歩くための資料が揃わず、結局遠山温泉かぐらの湯の売店で仕入れた塩の道秋葉街道について書かれたガイドブックを頼りに歩いて余りの道の険しさと暑さで途中リタイヤとなった。
いずれこのネタはおいおい書くとして、真夏に盆地気候やらフェーン現象でキチガイじみた暑さの真夏の天竜周辺を歩いておきながら、ある意味天竜に負けないほど暑い熊谷は夏場は避けたいので涼しくなるのを待って街道歩き復活である。
復活の理由の一つめがこうして歩いて気持ちいい季節になった事に加え、2つめの理由が焦りである。
それはNHK-BSで東海道53次を元平塚ベルマーレを始めとして色々渡り歩いた岩本輝に続いての企画で中山道を元長野五輪ショートトラックの選手だった勅使河原郁恵さんを京都から日本橋に向かって歩いていただくという番組が始まり、丁度俺様の歩いているコースと同じなのでさながら追われている様なもんである。
というわけで前回のゴール地点の倉賀野まで湘南新宿ラインで向かうが途中、赤羽駅で荒川の橋で強風のため電車が停まってしまった。
で漸く動き始めたものの安全のため赤羽〜川口間で速度を落として運行したお陰で10分遅れで大宮に到着しここから高崎線に乗り換え、結局大した遅れもなくほぼ予定通り倉賀野駅に到着。 駅名を記した看板の柱には海抜83mと書かれている。そばには名所案内という看板が建てられおり、中山道関連では日光例幣使街道が案内されている。
名所案内
群馬の森県立群馬の森公園・県立美術館
		駅より約3.5Km徒歩約50分
浅間山古墳(国定史跡)古墳前期時代前方後円墳
             駅より約1.6Km徒歩約20分
倉賀野城跡 戦国時代の平城で金井淡路守居城
             駅より0.5Km 徒歩約8分
上州倉賀野河岸 慶長年間の元船の終点
             駅より約0.5km徒歩約8分
日光例幣使街道分岐点 京都からの日光東照宮例幣使が通った
	         街道   
	          駅より約0.8km徒歩約13分。
駅を出ると、反対側は栄えているのかも知れないが、こちら側はタクシーが1台止まっているだけで、飯食うところも無さそうだ。
で左手の細い道を進み中山道を目指す。前回の中山道ゴール地点から倉賀野駅に向かう途中に有った「左ステーシヨン 大正九年十月一日建立」と刻まれた道標の別の側面には 「向 倉賀野停車場道」と刻まれていた。

倉賀野宿

右手に逸れる

常夜灯

常夜灯と道標

常夜灯と高崎線の跨線橋の間付近

高崎線の跨線橋

高崎線の跨線橋より高崎方面

高崎線の跨線橋より本庄方向

倉賀野宿1.0km 新町宿4.2km

国道17号との交差点

東京まで99km

狭い道

烏川

柳瀬橋

柳瀬橋その2

柳瀬橋その3

烏川下流方面

烏川上流方面

やっと柳瀬橋を渡る。

赤城山?

サイクリングコース

利根川合流点より7km

運動公園入り口

暴風下の少年野球

虹?

関越道

関越道をくぐる

新町宿まで0.8km

宿場まで0.8kmには見えないが

県道に合流

高崎・藤岡市境

弁財天

弁財天公園のけやき

スリーデーマーチ発祥の碑
そんなわけで12:35に前回のゴール地点から歩き始めた。
前回で本陣なの主要部を通り過ぎたようで特に何もないまま宿場が終わり、5分ほどで分岐点を右に逸れる。すると首からカメラぶら下げた同好の方が反対側からやってきた。この分岐点にはなにやら古めかしい常夜灯が建っており、しきりにカメラに納めている。
山の中だと違和感なくご挨拶出来るのだが、街中に下りてくると妙な恥ずかしさがある。
で気になる常夜灯だが、看板に説明が書かれている。説明によればここを左に行けば日光ということで間違えると大変な事になってしまうが、多分利根川のほとりに出たところで気付くだろう。
というかそんなことがないように「右江戸道 左日光道」と刻まれた道標がご丁寧に立てられているのだった。
 例幣使街道と倉賀野常夜燈

 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出
ると日光例幣使街道と分かれる。そこに
は、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
 道しるべには左日光道、右江戸道とあ
る。ここから日光例幣使街道は始まる。
 日光例幣使街道は十三宿中、上州五宿
(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州八
宿となっている。正保四年(一六四七)
に第一回の日光例幣使の派遣があって以
来、慶応三年(一八六七)の最後の例幣
使派遣まで、ニ百二十一年間、一回の中
止もなく継続された。また、この常夜燈
は、県内では王者の風格をもっており、
文化十年(一八一四)に建てられ、道標
の役割も果たしていた。
           高  崎  市
           (社)高崎観光協会
もう一つ、看板がありこちらも例幣使街道の常夜灯と道しるべについて書かれていた。
高崎市指定史跡
   例幣使街道の常夜灯及び道しるべ
   所在地高崎市倉賀野町二二三〇
   指定 昭和四十八年一月三十一日
 江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの
使いが派遣されていた。これを日光例弊使と言う。
例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野
で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今
市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般
的に倉賀野から楡木までとされる。 
 この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
 常夜灯の基台には、四面にわたり各他の問屋・旅
館・著名人三百十二名の寄達者の名が刻まれており、
この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめ
た雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など三十八名も含
まれている。
 勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料
(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反
省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出
し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立し
たとある。
 常夜灯
正面「日光道」 右側面「中山道」 左側面「常夜燈」
裏面「文化十一年甲戌(一八一四)正月十四日
                   高橋佳年女書」
総 高 三七三センチ 台石高 六七センチ
灯龍高 三〇五センチ 灯龍屋根幅 一〇五センチ
 道しるべ
正 面「従是 右 江戸道 左 日光道」
裏 面「南無阿弥陀仏 亀湧水書」
総 高 一七二・八センチ 台石高 八・八センチ
石柱幅 一辺三十三・七センチ
           平成八年三月
           高崎市教育委員会
道標に書かれている江戸道の方角に進んでいくと、すっかり拡幅された道が真っ直ぐ続いている。
かといって街道沿いが開けているかといえば否である。電車が遅れたおかげで大宮駅で駅弁を買い損ねて昼飯にありつくことが出来なかった俺様をあざけ笑うが如く、街道沿いにはパチンコ屋と工場しかない。
やがて高崎線の跨線橋に差し掛かったが、元々は高崎線の線路もなかったはずだが跨線橋の下に道路があった痕跡はすでに無かった。跨線橋の上から高崎方向を眺めると遠くに山並みが見えるが、方角的には赤城山か榛名山だと思うが区別がつかん。 一方上り線方向はひたすら真っ平らである。で正面にはマニアには評判なCD-Rを作っている太陽誘電の工場があった。
跨線橋が下りに差し掛かる辺りに倉賀野宿1.0km 新町宿4.2kmと書かれた道標が建っていた。とりあえず1時間あまりで新町宿に入るようだが、この調子では宿場町の面影はまるで無いかも知れないなぁ。 で10分程歩いたところで国道17号にぶつかる。さすがに国道17号だけに遠くにファミリーレストランの看板とか見えるのだが、遠すぎるので見なかったことにして先に進む。 国道17号を渡るときに「東京99km 熊谷32km 本庄11km」と書かれた道路標識があった。
やっとこれで東京まで100km圏内の入ったわけである。
国道17号を渡ると、これまでとはうって変わって狭い道となった。しばらく歩きつつけて思いついたが、現在この道と平行に流れる烏川を渡らないといけないんじゃなかったけ。
で今日は事もあろうか25000分の1の地図にルートを記した地図を忘れているのでやむなく文庫本サイズのガイドブックで確認するとものすごくわかりにくいが行き過ぎたようである。
とりあえず川沿いの土手まで出て、行き過ぎた分を戻って柳瀬橋を渡る。
前日までの雨で川の色はドロドロである。なお有り難いことにちゃんと歩道もある立派な橋だが、トラス構造の年期の入った車道側はちょっと狭そうである。
しかもこの橋、結構長く渡り終えるまで5分ほど掛かってしまった。
橋を渡り終えると川沿いに伸びるサイクリングコースを進む。台風一過で普通に歩いていても自然と駆け足となるような強い追い風なわけで、ペースは稼げそうだが後でどこかに負担が掛からないかちと心配である。
で一応サイクリングコースのようだがこんな陽気に自転車漕ぐ人も歩いている人もおらず、突風に煽られ突然走り出す姿を誰にも怪しまれずに(多分)どんどん進んでいく。
烏川の対岸には赤城山(多分)が見える。単独峰なら断定できるが複数の峰々からなっていると正直わからん。
しかし長げーサイクリングコースである。とりあえず「利根川合流点より8km」と書かれた標柱が土手に刺さっているがいったいどこまで歩くんだろう。
まぁ強烈な追い風のお陰で歩くというより軽いジョギング状態なわけで、向かい風で無くて本当に良かった良かった。
で土手の下を平行して走る県道にはなぜか群馬県が立てた中山道の道標がある。ちなみに新町宿1.8kmと書いてあった。
これまで昔の道が失われたため代替ルートで川沿いといったケースはあったが、大抵川の氾濫に備えてか街道と川は距離か高さで離れていたように思うのだが、まぁ見渡す限り平地なので川を巻くルートの作りようが無いのかも知れない。 追い風でペースを稼いでいると「利根川合流点より8km」から10分ほどで「利根川合流点より7km」地点に到達した。多分時速6kmペースで進めたのはここくらいだろうな。普段は平地ですら時速4kmが精一杯だし。
利根川合流点まで・・・の標識のそばは烏川緑地の入り口となっており、さらにその先1kmで運動場と書かれた標識が建っている。
ここからしばらく歩くとこの強風のなか少年野球なんかやっているが見ているだけでなんだか口の中がジャリジャリになりそうで大変そうである。
グランドの先に見える山には虹が見える。普通虹といえばお空に向かって再び地面へ向かう様に弧を描いたものが普通だが、こいつは山裾に漂うというかへばりついているように見える。おそらくあの辺りに降った雨だか霧に写しだしたもののようである。 砂煙のグランドを過ぎてさらに土手沿いのサイクリングコースを進むと、関越道が見える。思えば東海道は都市高速を除くと東名、名神高速くらいしか接点がないけど、中山道は、名神、中央道、長野道、上信越道とバリエーションに富んでいる。まぁ国道もそうだが、よく考えたら中山道も地域ごとに美濃路、木曽路、信濃路と名前が変わっているしなぁ。
かれこれ、吹き飛ばされるかのような強い追い風にあおられ歩くこと20分あまりで関越道をくぐる手前で土手下の道におろされた。しばらく進んで見つけた道標には倉賀野宿まで4.4km、新町宿には0.8kmと書いてあるのだが、宿場町が近いようにはあまり思えない。
まぁ道標も有ることだし中山道には間違いないようなので進んでいくとサイクリングコースから外れること10分余りで県道との合流点に差し掛かった。合流点の先には小さな川に橋が架けられており、その向こうには高崎市と書かれた標識がある。後で地図を見て確認すると柳瀬橋からここまでは高崎市では無く藤岡市になっていた。
橋を渡って右手には弁天様が祀られている。
弁財天由来
温井川の中の島に祭られた弁財天は
治水の都合で昭和四十八年に現状となっ
たが七福神中の女神であり音楽弁舌
福徳財宝をつかさどる神として信仰
をあつめている社は天明三年五月に
建立された。石の祠で本年は祭祠
二百年に当るので参道改修大鳥居
を地区有志により奉納した。
例祭は毎年春己の日に行う
境内には芭蕉の句碑があり この島には
清冽な清水が涌でていて旅人の喉を
うるおしたとの句である
 昭和五十八年三月六日己の日
     新町第十区
以前は川の島(中州?)に祀られていたようで河川改修でこっちに移転したと書いてあるが、元々の川の方はちょっとした小川クラスなので、川の中州に有ったと言われても今ひとつイメージが湧かない。
弁天様の隣には大きな木とトイレがある公園があったので、倉賀野駅から1時間以上歩き続けているし、ここいらで休憩することにした。
トイレで用を足して、ベンチに腰掛け一服・・・ってあまりの強風で3服ほどで燃え尽きてしまうし、しかも頭上で木が強風にあおられて軋しむ音がして、ぶっとい枝が頭上を直撃しやしないかと落ち着かないのでまぁ取り敢えず周囲を散策してみることにした。
このでっかい木は看板によればケヤキだそうである。樹齢までは書いていないがかなりでかい。
で、公園を出ると「日本スリーデーマーチ発祥の地」と刻まれた石碑が建っている。
そばには説明が有るのだが斜め読み程度では内容を把握できなかったのでじっくり立ち止まって読むのも面倒なので、看板を写真に収めて先に進むことにした。
日本スリーデーマーチの発祥
 毎年七月、オラン.ダの田園都市.ナイメーヘンを中心に「歩けオリ
ンピック」と愛称される世界最大の歩け歩け大会が開催され、世界
三十数ヶ国、三万人余の歩く仲間達が四日間.国境を越え.民族の
違いを越えて歩け歩けの祭典を楽しんでいます。一九七七年の第六
十一回大会に初めて日本選手団を派遣した私達は.同大会の素晴ら
しさに感動しました。その感動の波が共に参加した群馬県新町の村
山兼吉.新井猪一郎両氏によって丸茂義人氏を中心とする新町歩く
会に伝わり.全国の歩く仲間達に呼びかけ、一九七八年十一月 新
町において「歩け歩け全国大会・全日本スリーデーマーチ」を開催
し歩くふれあいの輪を大きく拡げました。
 そして、今、同大会は「歩け歩け国際大会・日本スリーデーマー
チ」として、埼玉県東松山市に拠点を移し、名実共にアジア最大の
歩け歩けの祭典として本年第七回の記念大会を迎えました。この時
に当り、私達全国の歩く仲間は、第一回、第二回の舞台となった新
町に記念碑を建立し、”歩く時代”に先駈けた新町歩く会の栄光を
称えたいと思います.
 碑文は毎年歩け五輪日本選手団を激励いただいている中曽根康弘
総理大臣がお書き下さり、遠くナイメーヘン市長より贈られた北オ
ランダ産の花崗岩には、オランダ語で同市長の「日本国民とオラン
ダ国民の友情は、共に歩くことを通してより深く結ばれています」
とのメッセージをはめこみました.
 この碑は、全国の歩く仲間達の協力によって、わが国初の「歩け
歩け運動の碑」として建立できました。歩け歩け運動が日本とオラ
ンダの友好を基として、いよいよ国際的に拡がることを祈念致します

     一九八四年十一月吉日
        スリーデーマーチ発祥記念碑建立委員会
        社団法人 日本歩け歩け協会

これより新町宿

新町宿の標柱

小林本陣

旅篭高瀬屋跡

小林本陣前の中山道

高札場跡

高札場跡前の中山道

芭蕉句碑+大トカゲ

芭蕉句碑その2

常夜灯

東京まで94km

神流川合戦の碑

まもなく埼玉

かんな川
というわけで弁財天公園を出ると、新町ガイドマップと新町宿→と書かれた標柱が立っており、ここから新町宿となるようである。
ただ新町ガイドマップも街道に面した部分について記された箇所はあまりないし、道は拡幅され、あまり古いお家も無さそうなのであまり史蹟は残されていないようである。
宿場入り口と言いながら宿場の面影がまるでないのだが、入り口から程なく、小林本陣跡と書かれた標柱があった。ただし、標柱の前には割と新しめのお家である。
まぁ本陣跡が古民家だと良いなぁと言うのは旅人の勝手な妄想なので、都合で立て替えられたりしてもしょうがない。
で3分ほど歩くと道路の反対側に”史蹟旅篭高瀬屋跡”と書かれた石碑があった。なにやら細かく書いているようだが肉眼では判読不能。かといって道路渡るのも面倒なのでズーム目一杯で撮影。
あとで見ると移り込みが有って非常に読みづらい。どうやら小林一茶がこの地を訪れた紀行文の一節が記されているようである。
さらに歩いていくと高札場跡と書かれた標柱を見つけた。どうやらこの辺りが江戸側からの宿の入り口のようである。京都側の新町宿入り口の標柱から7分ほどなのでだいたい長さ500m位の規模の宿場町だったようだ。
で高札場跡から歩くこと7分余りで、公園の一角にある滑り台にリアルな気色悪いオオトカゲが寝そべっている。ふつーの感覚なら滑り台にはキリンさんだろと思いつつ良く見ると、その脇には芭蕉句碑がひっそり建っていた。
この気色悪い大トカゲに気付かなかったら素通りしているところである。
柳茶屋の芭蕉句碑
 昔このあたりに柳の大木があり、
 側の茶屋を柳茶屋と言った。
 新町宿の俳人、小渕湛水・
 笛木白水らが柳にちなむ芭蕉の
 俳句を撰して天保十年頃句碑を建てた。
(傘におしわけ見たる柳かな)

芭蕉句碑の後ろには、かなり老齢の木が有るが茶屋の名前にちなんだ柳ではなく杉のようである。
芭蕉句碑を過ぎると国道17号に合流する。合流点には常夜灯と道標が建っていた。 御影石の道標には
従是 右 碓氷峠十一里
   左 江戸二十四里
と刻まれている
碓氷峠からかれこれ歩いて四日目になろうとしているが44kmしか進めていない。
一方江戸までは96kmも有るわけでこんなペースじゃ一週間かかっても辿り着けないことになる。
で割と新しめの常夜灯の下には、見通灯篭再建の記という石碑が有った。
見通灯篭再建の記
上武二州の国境を流れる神流川は往昔より荒れ川で、出
水毎に川瀬道筋を変え、夜道の旅人や伝馬人足の悩みの
種であった。新町宿本庄宿の役人達はかねてより通行人
の難儀を憂い、川の両岸に灯篭を建て毎夜火を点して通
行の安全を計ろうとした。新町宿ではほとんど十年間も
建設費用を貯え、文化十二年に灯篭を建立するに至った
遇く高瀬屋に泊まった俳人一茶の十二文寄進した話は七番
日記に誌されて余りにも有名である。時の人々は見通灯
篭と親しみ呼んで多年その恩恵に浴したのであった。
この灯篭には江戸随一の詩人と自他共に許した大窪詩仏
の手に成る常夜灯の文字を彫り当時好学大名と称された
鍋島閑臾、安中藩の板倉節山候に知遇を得た桑原北林
の金比羅大権現の手跡を刻んである 北林は児玉町在の
吉田林村の出身で漢学の大家である 更に新町宿の歌人
田口秋風の
		灯の光さすか行かへの
			ひとと夜な夜な迷わすもかな
と一首を添えて文学の香り高い灯篭として中山道の名物
になっていた 然し時流の転変は激しく明治二十四年に
高崎市大八木村に移されてしまった。その後新町の有志
達は之を惜しみ幾度か復帰の交渉を重ねたがその熱意
は報いられなかった。
多野藤岡ライオンズクラブは創立十周年の記念事業とし
て見通灯篭の再建を企て、灯篭を原型に復し、再び交通
安全のシンボルとし、かつは古き新町宿を偲ぶべく現地
に近い国道十七号線の要衝に再建して長年の要望を再現
された。ああ 遂に町民の夢は美事に達成されたのであ
る。威容を新らたに甦ったこの灯篭は永く文化財として
後人に仰がれ、交通難時代に在っては交通安全の使命を
遺憾なく発揮してくれるであろう。
今、請わるるままに見通灯篭再建の経緯を記しライオン
ズの壮拳を讃え之を後晶に伝えるものである。

昭和五十三年十一月五日
			新町文化財調査委員
というわけで、かの小林一茶が寝込みを襲われ?渋々12文を寄進して建てられた灯篭のレプリカらしい。元々は新町宿に有ったらしいが諸般の事情でここ旧中山道と国道17号の合流点に交通安全を祈願しつつここに改めて建てられたらしい。 この見通灯篭から国道17号に合流ししばらくで「東京94km」、「熊谷27km」、「本庄6km」と書かれた標識があった。左手は陸上自衛隊の駐屯地らしくいかつい装甲車とかトラックが止まっている。
さらに歩くと神流川のほとりに出た。なにやら神流川合戦と書かれた看板がある。

神流川合戦
 天正十年(一五八二)六月十九日、織田
信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川
一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これ
に対し好機至れりと北条氏は五万の大軍を
神流川流域に進めた。瀧川一益は義を重ん
じ勇猛の西上州軍一万六千を率いて、石を
も燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、瀧川軍は
戦死三千七百六十級の戦史に稀なる大激戦
で「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦
場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡とし
て残され東音頭にもうたわれ、神流の清流
も今も変ることなく清らかに流れている。
小田原の北条さんが領地欲しさに本能寺の変に乗じてこんな所まで出張ってきたのね。本能寺の変が6月2日だからおよそ2週間あまりで挙兵したことになるが 、その頃首謀者の光秀は6月13日に備中高松城から急遽戻ってきた羽柴秀吉のとの山崎の合戦で敗れ、アナーキーな状態に乗じて北条君はこのまま小諸まで攻め入っているからまさに戦国時代って感じである。 しかし、明智光秀を討とうとしていたのは秀吉だけではなく、こんな東の果てでも信長の敵討ちを企てた武将がいたとはびっくりだ。
程なく、橋に差し掛かり遠くに埼玉県上里町の看板が見える。群馬側を振り返ると国土交通省の「かんな川」という看板があったので、かんる川と読んでいた過ちに気がついた。
というわけで滋賀、岐阜、長野、群馬、歩いて14時18分埼玉県入り。

これより埼玉

埼玉側に看板発見

赤城山?

神流川を渡り程なく右へ

お堂

お堂前の道

中山道の看板前の道

再び国道17号に合流

神保原

浅間山古墳

本庄市

いかにもな分岐点

細い道を進む

国道462号歩道橋より秩父方面

国道462号歩道橋より伊勢崎方面

茂木小平翁頌徳碑

引き続き細い道を進む

立派な山門のある寺

消防署の櫓

はにわ

本庄宿

本庄駅入口
というわけで神流川を渡る。右手には高崎線の鉄橋があり、これまでの中山道上州路の行き帰りに車窓から眺めていた風景を今歩いているわけでここからは旧国名も武蔵になる。
神流川を渡りきる直前で土手の向こう側に看板らしきものを見つけたのでちょっと寄ってみるとこちらにも神流川の合戦について記されていた。

神流川古戦場跡

所在地 上里町勅使河原
 神流川古戦場は、天正+年(一五八二)六月十八日、滝川一
益と北条氏邦、北条氏直が戦ったところであり、この戦いは、
神流川合戦として知られている。
 滝川一益は、織田信長に仕え、武田氏討伐の功績により、佐
久・小県の二郡と上野の国が与えられた。天正十年三月、甲府
を 出て、各地の諸将を掌握しながら厩橋城(前橋城)へ入城した。
 一方、小田原を中心に勢力のあった北条氏は、北の要所とし
て鉢形城に氏邦をおき、勢力を維持していたが、金窪城は両者
の最前線にあった。
 天正十年六月本能寺の変で、織田信長が討たれたのを期に両
者の戦いが始まった。六月十六日北条軍は倉賀野表へ出陣し、
六月十八日、末明の頃戦いの火ぶたは切られ、激しい戦いとな
ったが、滝川一益が金窪城を落し北条氏邦は敗走した。
 しかし、小田原を発していた北条氏直が、到着し加勢するに
至り、形勢は逆転し滝川軍は初戦の疲れもあり敗走した。
 現在、この古戦場は、上里町指定の史跡となっている。
  昭和六十一年三月 
埼玉県
上里町
うーん。戦国時代って織田、上杉、武田、豊臣、徳川といったところしか知らんからこの辺りもうちょっと調べてみるのも楽しいかもと思った次第である。
で橋を渡ってしばらく歩くと、国道17号からいかにもといった感じで左手に別れている道があった。見ると電柱に赤テープが貼られ左を指している。お陰であんまり地図を見なくても勘とテープを頼りに進むことができる。
実はこれを書いている頃、中山道はすでに上尾まで進んでおり(まぁ実は上尾からの帰りの電車の車中で書いているのだが)、平行して去年の夏から、秋葉街道という遠州掛川から秋葉山を経て、酷道マニアには有名な分断酷道152号をほぼトレースし諏訪から松本へ抜けるルートを歩いている。きっかけは信州最南端(多分)の温泉の売店で”塩の道”と題されたガイドブックを手に入れたことに端を発し、眺めるだけのつもりが調子こいて歩き始めたらさぁ大変。掛川や森町の平野部はまだ良かったが、森から秋葉山までのルートは同じ茶所である東海道の小夜の中山を軽く凌駕する山道で、迷うこと迷うこと。ガイドブックに地図が有ったところで25000分の1の地図に載ってないような道が秋葉街道塩の道で、秋葉山を過ぎて佐久間のほうに抜けるルートといったら、もう藪で微かに踏み跡が残っているならまだしも、杉やら檜を伐採した後ともなるとどれが道なのかさっぱりわからない。一応要所要所には看板が建っているのだが、まぁ無事に帰って来れたことが不思議なほどである。取り敢えず秋葉街道は下草もなく熊やらスズメバチやらヒル出没の時期を避けて細々と続けるつもりだが、中山道を終えた後は、甲州街道でも歩いてみるか。ただ中山道の至る所の赤テープのコース案内で地図を読む力が全く育っていないので大丈夫なんだろうか。
話は大分ずれたが、こうして大丈夫か?と思いつつ歩いているときにお堂とか道祖神などがあると街道に沿って歩いていることが多いので安心できる。ただこのお堂は古く見えるわりにはガイドブックにも紹介されていないのでなんのお堂かは不明である。
でこの道、歩道部分は緑色に塗られているだけであるが、どちらも17号バイパスにつながっているため、わざわざこっちに迂回する車も居ないせいか交通量は少なめである。 さらに5分ほど歩くと、集会所の前に中山道と題された看板が建っていた

中山道
 中山道は、江戸と京都を結ぶ街道
で江戸時代以降五街道の一つとして
整備が進められました。
 金窪村(現上里町大字金久保)は、
江戸から二十三里余。文政期(一八
一八から)の家数は一六二軒。絵図
では陽雲寺や八幡宮が見られます。
新町宿への直路かできるまでは、陽
雲寺の一東で北へ向きを変えて角渕(現
群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向
かっていました。この道は、三国街道
とか伊香保街道と呼ばれていました。
新町宿が設けられたのは、中山道中
最も遅い承応二年(一六五三)頃です。
 勅使河原村(現上里町大字勅使
河原)家数は二八〇軒。絵図では、武
蔵目最後の一里塚が見えます。現在
の街道は、ここで国道十七号線と合
流します。川のたもとには一般の高
札と川高札が並んでいた事がわかり
ます。左奥には神流川畔に建てられ
ていた見透燈龍が移築されている大
光寺が見えます。

上里町教育委員会
ここから8分程歩いて再び国道17号に合流。というよりここを横断し、 先に伸びる県道を進む。ふと気がつくと電柱に貼られた地名は神保原と高崎線の駅名と同じでなので駅にも近いようだがまだ15時前なのでこのまま本庄辺りを目指すことにする。
特に目新しい物もないまま15分ほど歩くと、前方に小山が見える。近づいてみると赤い鳥居と看板が建っており、浅間山古墳とある。

浅間山古墳

町指定文化財
昭和37年2月22日指定
 浅間山古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に
広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は、直径約38㍍、高さ
約6㍍の円墳と考えられます。主体部は、角閃石安山岩を使用した胴
張両袖型横穴式石室です。石室の規模は、全長約9.48㍍、埋葬部に
あたる玄室は長さ6.48㍍、奥壁幅2.2㍍、最大幅2.4㍍、天井部高2.5㍍
です。入口にあたる羨道は長さ約3㍍、幅1.2㍍、高さ1.8㍍です。

 出土遺物は、昭和2年に玄室の一部が露出した時
に出土した直刀2、鉄鉾1、金環(耳環)5、玉類、鉄鏃
多数(現在東京国立博物館収蔵)昭和63年から3回
行われた範囲確認調査で、直刀4、鉄鉾1、鉄鏃多数。
須恵器平瓶1、銅腕1が出土しています(上里町立郷
土資料館保管)。特に銅腕は、仏教文化との関係から
注目される出土品です。築造時期は、出土遺物など
から古墳時代終末期の7世紀後半に築造され8世紀
初頭まで墓として使用されていたと考えらます、

といった説明と古墳を上から見た航空写真と出土品と内部の写真が掲載されていた。
誰のものかとは書いていないけどこの辺りを支配した地方豪族のものですかね。”旭・小島古墳群”とあるようにあちこちに点在する様なのでGoogleEarthで見るとあちこちにそれっぽいものが点在していました。
で歩くこと3分余りで本庄市に入った。
しかし本庄市に入ったものの特に見所は無いまま15分ほど県道を歩いていると、県道は右にカーブし細い道が真っ直ぐ延びているいかにもといった感じの分岐点がある。家並みの雰囲気からしてこっちの細い道だろうなと思い目印を探すと30㎞/h制限の標識に赤いテープが貼られていた。有るものは利用させていただくというスタンスな俺様だがこう目印に頼っていると地図を見る力が養われないよなぁ。
で細い道を5分ほど歩くと、国道467号に突き当たった。
さすがに片側2車線で中央分離帯にフェンスが備えられた国道を突っ切るのは無理なので歩道橋を渡ることにする。
一面真っ平らで回りに高い建物が無いので歩道橋から秩父の山並みやずいぶん遠くまで見通す事ができる。
歩道橋を越えると再び先ほどまで歩いてきた細い道の続きの様である。で神社の脇に石碑が有るので、さっと眺めて後で確認すりゃいっかと写真を撮る。
石碑の文字は確認出来なかったが、そばには以下のような看板が建っていた。
本庄市指定文化財茂木小平翁頌徳碑
 翁は天保七年(一八三六年)上仁手村茂木家に生まれた。
青年期江戸において漢学を修め、のち代々名主役たる本家
茂木仙蔵の養嗣子となった。翁は二三才で名主となり一村
を代表してその自治にあたり、さらに本庄宿周辺十カ村の
融和協力を推進した、まもなく翁の力量、徳望を仰ぐ地域
大衆に推されて、初代県議会議員、仁手村長や児玉郡会議
長などを歴任した。この間、利根川の治水や殖産興業とり
わけ、養蚕業の発達に尽くし、当地方の活路を開いて民生
の安定向上をはかった。その晩年には、農閑期近辺の弟子
を集めて、漢学習字を教え「お師匠様」と敬称され親し
まれた。明治二五年に藍授褒章を賜った。
 公共に尽くすこと六○年、大正一三年八九オにて逝く。
     昭和三十九年一月二十二日         
            本庄市教育委員会
引き続き細い道を進む。周りは割合新しめのお家が連なる住宅街となっている。
しばらく歩くと左手に立派な山門のある寺が有った。山門もさることながら本堂と思われる建物もでかい。あまりの威容っぷりに近づくことが出来なかったので先を急ぐ事にする。
更に歩くと大分、本庄宿に近づいた様だが、まだ宿場だった事を示すものは無く、気がつくと消防署の前を過ぎて、寄り道しようと思っていた本庄市立歴史民俗資料館にたどり着いた。
ん?確か事前に調べた情報ではこの歴史民俗資料館は街道沿いではなく一本引っ込んだ路地に有るはずである。というわけで道は真っ直ぐだったがかつてはクランク状になっていて一本向こう側の県道に通じていたのであろう。 まぁ取り敢えず現在地とこれから進むべき方向がわかったので儲けものと考えることにした。 地図を確認すると、先ほど渡った歩道橋の先は真っ直ぐ進まずに右に曲がって県道を左に行くようである。 で目的の歴史民俗資料館に辿り着くと敷地の片隅に本陣の門が移築され展示されていた。まぁ間違えたとは言え遺構がこっちにあるんだからあながち道を間違えたわけでもないのかなぁ。
無事閉館時間にも間に合ったことなので中を見物させていただくことにした。
中に入ると、近所の古墳から出土したとおぼしきお馬さんの埴輪などが展示されているのだが、しかしまぁバラバラになっていくつかのパーツが失われたものを復元するんだから大したものである。
本庄市指定文化財
  田村本陣門
  この門は本庄宿の
 北本陣といわれた田
 村本陣の正門です。
  本陣とは宿場を往
 来する大名や幕府役
 人などの公用旅館の
 ことです。田村本陣
 があったのは現在の
 中央一丁目六の区域
 で寛永十九年(一六
 四ニ)から宿泊記録が
 残されています。
本庄市教育委員会

田村本陣門


はにわ
で別の一角では戦時中のチラシやら服とか展示されていた。これまで幾つか歴史資料館に立ち寄ったが戦時中の展示物はここが初めてじゃないかなぁ。

ポスター


戦時中グッズ
  高層気象台本庄出張所と糸川博士の実験  国際地球観測年の昭和7年(1932)。日本では、気球をもちいた高層気象観測が行われま した。その場所は、本庄市街地北の利根川にかかる坂東大橋でした。  後に、継続的な観測こそ意義があることから、昭和12年に高層気象台本庄出張所の建設がはじまりました。翌年より業務が開始され、昭和24年までの間に388回もラジオゾンデ  (気象観測気球)が定期的に打ち上げられました。  日本の気象学会に貢献した本庄の測候所は、昭和32年に熊谷地方気象台に統合され 、な くなりました。現在は本庄市水道課の庁舎が建っています 。 ところで今ひとつ重要な実験が昭和31年に行われています。それは、国際地球観測年 に先立ち、東京大学の糸川英夫博士が試みたロックーン実験でした。西小学校は敷地が広 く、西側に隣接して国立気象台本庄出張所があることから、校庭が実験場となったのです。   「ロックーン」、それはロケットとアドバルーンの合成語です、名のとおり高度25000m まで気球を打ち上げ、そこからシグマロケットを発射するものでした。  実験は大成功で、これを記念して、糸川博士より中島正一国立高層気象台本庄出張所長 にある貴重な品が贈られました、さらに、中島所長は理科教育振興のため、西小学校に寄 贈されたのです.  そのある物とは、前年の昭和30年に、東京都国分寺市で行われた、日本初の超音速ロケ ット実験に使用したペンシルロケットでした、  戦後、日本のロケット開発は、糸川博士がひきいる東京大学のチームによる、ペンシル ロケットにはじまり、κ(カッパー)ロケット、λ(ラムダ)ロケット、μ(・ミュー) ロケットと次々に大型化の開発に成功しました、  後に、宇宙開発事業団のQロケット、Nロケ ットをへて、現在ではH2ロケットが開発され ています、その原点となったペンシルロケット の一つが本庄市で保存されていることはあま り知られていません、

西小学校に寄贈されたペンシルロケット
というわけで歴史民俗資料館を後にし、中山道から一本路地がずれていた間違いを修正すると、閉じられたシャッターばかりが目立つ商店街だった。
で5分ほど歩いたが、これといったものが無いまま本庄駅入口の交差点に出た。16時かぁ。このまま歩くかゴールにするか微妙な時間だが、この後、駅は岡部、深谷と続いているが岡部駅は街道から離れているし、深谷までは10km近くあるのでここでゴールにすることにした。

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