中山道 本庄−籠原

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2006年10月15日本庄〜深谷晴れ3時間31分 22948歩16.06km4230円

ハローキティだるま弁当

ハローキティだるま弁当中身

本庄駅駅前
まえがき
というわけで、前回の倉賀野〜本庄から一週間と久々に歩く気を見せつつ前回のゴール地点の本庄まで湘南新宿ラインで向かい、あえて大宮で下車し喫煙タイム兼ハローキティだるま弁当とビールを仕入れてから高崎線に乗り込んだ。いつの間にか高崎線にもグリーン車が導入されたお陰でのんびりと車窓を眺めながら弁当を頬張りつつ、缶ビールを傾けることができる様になったわけである。まぁわざわざくたびれに行くんだから、行き帰りくらい楽をしたいものであるが大宮から先、日本橋よりに近づくと最寄り駅が埼京線になったり都営三田線になってしまうのでこうした贅沢も出来なくなる。
で大宮で仕入れたハローキティだるま弁当を食べつつ、前回ゴール地点の籠原駅へ到着。
ここでは前の車両を切り離す関係で3分程停車するので、本庄駅までそんなに時間掛からないが電車が停まっている間ぼーっと待っているのもなんなのでそそくさと列車を降りて喫煙所に向かって発車間際に再び乗り込んで程なく本庄駅着。駅前には地図と本庄の祭りとスポンサーと思われる企業や学校の名が記された案内板が有ったが中山道に関する記述はなかった。まぁ地図なんぞ見なくとも一度歩いた道なのでまぁ迷うことなく前回ゴール地点に到着した。

本庄宿

アートワンワン美容室の看板

道入口

中山道交差点

国道17号に当たる

歩道無いんですけど

ザリガニでも採りたくなるような小川

ブロッコリー畑

黄金色に実った水田

向こうの土手を歩いた方が近道?

歩道復活

八幡大神社

行き止まりを進む

行き止まりの方向に進む

見捨てられた道をさらに左旧道へ

田んぼと鉄塔

深谷ネギ?

またまた深谷ネギ



滝岡橋

小山川

17号バイパスとの交差点

振り返って見る。

前方・・・

島護産泰神社

遙拝所

島護産泰神社本殿

放置プレイのたばこ自販機

まもなく国道17号と合流

芭蕉句碑と石碑

芭蕉句碑その2

キャベツ畑?

東京まで81km

馬頭観音

馬頭観音その2

武州榛沢郡岡部と刻まれた石碑など

東京80kmの看板

東京80kmの看板

高島秋帆幽囚地入口

二十二夜塔

国道を渡る

国道を渡った先
そんなわけで12:22に前回のゴール地点から歩き始めた。
でカメラを仕舞おうとしたらちらりと目を惹く看板を発見。
わんこがわんこの毛を刈っているアートワンワン美容室の看板・・・・しかもひたすら濃ゆい。
まぁVOWに載せるネタじゃなくて正しく旧街道の名残を探しているとなんかの道標らしきものを発見。
だが上半分が欠けていて単に”道入口”としか読むことが出来ない。で上を見上げると信号には中山道交差点と書いてあるが、上半分は”中山”で中山道入口というオチではないよな。
しかしここは歩道は有るものの家の出入り口の度に激しくぼこぼこと段差が出来ており歩きにくいことこの上ない。まぁ20km歩いてバテバテの状況なら危険を冒しても車道を歩いているところだ。
しかも干からびて真っ白になったウンコまで落ちていやがる。
こうして細かなピッチで歩道のアップダウンを食らいつつ15分程で国道17号にぶつかった。で歩幅の合わない歩道橋を渡ってみるとこの先の道路はセンターラインは有るものの歩道がない。交通量が少ないのは幸いだが夏草の名残が道路まで張り出しており鬱陶しい。
ザリガニでも採りたくなるような小川を越え、しばらく進むと一面ブロッコリー畑だった。更に進むと黄金色の稲穂が頭を垂れる水田である。
しかし右手のザリガニでも採りたくなるような小川の土手だがさっきからおいらの歩く方向右手に続いているのだが、曲がりくねった道を歩くより真っ直ぐ土手沿いに進んだ方が近道の様に思えてきた。やがて歩道も復活し右手前方に神社らしきものが見えた。
鳥居には八幡大神社と有るが傍らには金鑚神楽というお神楽に付いての説明があった。
本庄市指定文化財
金鑚神楽 宮崎組

神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が
その起こりとされており、神をよろこば
せる舞楽(まい音楽)として各地にそれぞ
れのいわれをもって伝えられてきた。金
鑚神楽、宮崎組の起こりについてはまだ
明らかではないが侠われる面は江戸時代
正徳年間(一七ー一年〜一七一五年)以前の、
作であり、この地の神楽が古くから行わ
れてきたことを物語っている宮崎組は変
わり面などの珍らしい舞い方も伝えられ
また遠くは信州上諏訪など各地に出かけ
て神楽を奉納してきた、なお座(出し物)
は、いま二十五座伝えられている。 
昭和三十五年十一月十日
 本庄市教育委員会

八幡大神社を過ぎて程なく、17号経由で高崎方面と羽生方面に向かう県道本庄妻沼線にぶつかる直前を看板には行き止まりとある右手方向に進む。
道なりに進むと羽生方面に行ってしまう要注意な分岐点である。
どうも交差点の位置を改良したようで、以前はこの旧中山道が県道本庄妻沼線とぶつかっていたようだが地図を見る限り東よりに繋がるよう交差点が改良されたようで、現在この道は通りに面したお宅までの専用道路みたいなものである。
そのお宅の手前に左が旧道であることを示す看板が建っており、例の赤テープでしるしがされている方に進み、バイパスをくぐり反対側の道に出た。
こちら側の道も今は田んぼへのアクセスを除いてあまり利用されていないようで、田んぼの中に所々高圧送電線の鉄塔が立っているという風景が広がっている。
田んぼの合間合間にはネギ畑があるが、これはかの有名な?深谷ネギだろうか。気付くとあちこちネギ畑である。かれこれ県道本庄妻沼線を渡ってから10分ほどで前方に橋が見えた。欄干には小山川と滝岡橋と書かれている。この小山川は地図を辿っていくと利根川にそそいでいるようである。で滝岡橋を渡るがこの橋には歩道がない。まぁ東海道のかつての天竜川橋とか豊川放水路にかかる橋に較べりゃ交通量皆無なので全く問題はない。
しかも豊川放水路にかかる橋の欄干は腿くらいの高さしか無いがこっちは十分な高さがあるので、恐怖は感じない。
で橋を渡るとほどなく17号バイパスの交差点であった。歩いていていてもとっても長閑な田園風景だが振り返って見ると筋金入りの田園風景だ。
で長かった17号のバイパスの信号が青に変わり、横断する者はおいらと一台の軽トラくらいで幹線道路の流れを止めてすまぬすまぬといった感じで渡ってみると、緩やかな上り坂である。碓氷峠を越えてこの先上り坂なんて無かろうと思っていたが、烏川を渡って高崎宿に入る直前と、こんな所にも坂が有ったのかと思いつつ先の17号交差点から10分程で神社の前に辿り着いた。
鳥護産泰神社
 当社の創立年代は明らかでないが、旧榛沢郡内
の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内
の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるよう
になったと伝えられている。この為に当社の再建
及び修築等は、郡内各村からの寄付によりなされ
た。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。
 当社を島護(”とうご”等とも読まれている)と称
するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫に
より、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、
北西島、七塚島、内ケ島、高島、矢島、血洗島、
伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)
は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護
神として信仰したことによると伝えられている。
 また、当社は、安産の神として遠近より、信仰
者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を
奉納することでも有名である。四月一〇日の春祭
には、里神楽が奉納される。

  平成三年三月
埼玉県
岡部町
うーん。創立が不明で祭神も瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。と割合他人事チックな説明のような気がしないでもないが、ここいらの”島”と名の付く地域の守護神なので”鳥護産泰神社”というんだからまぁ説得力あるネーミングなんだろう。
でなんでこんな内陸の地名に”島”と名が付くんだろうか・・・。やはり利根川の洪水の際に孤立して島になっちゃうからなんだろうか?
まぁこんな内陸で”島”という名前に惹かれて立ち寄ってみると”遙拝所”と刻まれた石碑がある。木曽街道沿いには御岳の遙拝所が所々にあったが、ここからだと浅間、赤城、榛名といったところしか思いつかないが、先の看板に書かれていた祭神が木之花咲夜姫命ってことは・・富士山?
でこぢんまりした本殿を参拝し再び街道に戻った。
程なくたばこの自販機が有ったのだが、今ではもう売っていない銘柄が有ることに気付いて良く見ると硬貨投入口には厳重にガムテープ貼り付けて有るわ、値段もマイルドセブンも昔のパッケージだし値段も250円だったりするわで10年くらい放置されている物件の様だ。
しばらく歩くと国道17号との合流点が見えてきた。合流点には石碑が建っているのだが、これが国道側を向いてたてられているので気付かずに通り過ぎる所だった。で草むらをかき分け国道側にまわってみると芭蕉句碑とその由来が記された石碑だった。どっちも字体の崩しっぷりや風化の影響で判読しがたい。
芭蕉翁句碑 雲雀塚由来の記   
岡部の原はその名高く平安の昔曾根好忠に歌われ室町の頃回国雑記に書
かれた武蔵野は北端中山道を距てて小山川の清流を望み田園よく拓けて一望
三百余町遠く浅間の噴煙男体の白雲を眺め榛名妙義の三山は指顧の間にある
間にある春陽遅遅たるこゝに囀り上る雲雀の声は天下無双と謳は
れ特に地名に因んて砂田の雲雀といはれた季年彌生の候にこの地を旅する
加賀侯も駕籠を停めてその啼聲に聞きほれたとのことてある果せる哉
俳人小林牛角師は芭蕉翁の名吟原中や物にもつかす鳴雲雀
の句碑を建てゝその風雅の道を偲んた郷人呼ひて雲雀塚といふこの
句續虚栗に載せられ翁の壯年期の作と推定される翁が日夜私淑した西
行の詩精神を渾化した無著の心を懷しむと共に凝滯せぬ雲雀の聲の無心さ
をよく現はしている春の日の駘蕩の趣と何か悠久なるものへのいさなひをさへ感しさせる
眞にこの句この碑ほとこの地の景物たる雲雀を讃美するに値したものはな
かつたしかし星霜の久しき遂に名は碎け文字はうすれて鑑賞に堪
へられなくなつた先に蝶園秋香老これを愁へこの度岡部村文化会の
有志これを悲しみ雲雀塚の再建を志し新たに句の揮毫を信濃
なるからむしの主蕾丈大人その由来の由来の文を余に嘱し石に鐫して
後代に遺し長く蕉風の雅懐を伝へることになった行人のこの地に立っ
て雲雀の声に耳を傾け翁の句を口すさむことかあれはこそなき幸てある 
     昭和三十二丁酉年十月十二日 
埼玉県俳句連盟顧問籬窓山口平八撰/蝶園茂木秋香門人江南鳥塚勇三郎書
で国道に合流したがこれまでとあまり変わらぬ田園風景が広がっている。ちょっと高台に出たせいか、田んぼではなく畑だが植えられているのはキャベツだろうかそれともブロッコリーだろうか。
キャベツだかブロッコリー畑より3分ほど歩くとガードレールに据え付けられた標識に「東京81km」とある。東海道を京都から歩いたとすれば距離的には小田原当たりだろうか。
なにやらお寺さんへの参道が左手にはあるが幾つか馬頭観音と武州榛沢郡岡部と刻まれた石碑などが向かい合わせになっている。道路改修かなにかでここに集められたものだろうか。しばらく歩くと東京 80kmと記された青い看板があった。でもそこから5分ほど歩くとガードレールに据え付けられた東京80kmの標識があった。どっちが正しいんだかわからんがなんか損した気分だ。
この標識から程なく高島秋帆幽囚地入口の石碑があった。無学なおいらは高島秋帆が誰だか判らんのでそのまま通り過ぎる。
五分ほど歩くと二十二夜塔と古めかしい石碑を通り過ぎ一旦左手の道に国道十七号から逸れて再び十七号に合流し今度は十七号を横断し深谷市街に入る。



深谷宿かなぁ

酒蔵の煙突

音痴大学?

酒蔵?

深谷宿?の街並み

深谷宿常夜灯

東京77km

松並木その1

松並木その2

熊野大神社

一里塚?

まもなく籠原
というわけでそろそろ深谷宿の様である。クランク状になったところの角に赤い柱が特徴的な鐘がある。この直角コーナは桝形の名残だろうか。だとすりゃそろそろ深谷宿なんだが・・・。
さっきから見え隠れしていた年代物の煙突の前にきた。てっぺんの辺りに菊泉と読めるので酒蔵だろう。まぁ酒蔵が有るって事は宿場町突入なのか・・・? 
この酒蔵から近い所に「音痴大学」という店があった。カラオケスナックかと思いきゃ「人前で歌うのが苦手な人に段階を得てプロに近い歌い方得るよう指導するする教室」とご丁寧に紙に手書きで解説されていた。
まぁ余計なお節介だが歌い方もさることながら日本語も学んだ方がよいと思った。折角丁寧に説明してあっても日本語が怪しげだと興味があっても入ってみようかなと思う人も不安になるぞ。多分
あっ左側には「歌が苦手の人に感謝と奉仕の心で感情が伝わる歌い方を教える教室です」と普通の日本語で書いてありました。
さてさらに歩いていくと煉瓦造りの先ほどより年代物の煙突があった。深谷といえば駅舎が煉瓦造りだったりするほど煉瓦の製造が盛んだったらしい。何となく町の造りが宿場町の様になってきたのだが、深谷宿の説明、石碑といったものにはまだお目にかかれていない。
まぁ宿場をゴールとするとこの辺りで切り上げて深谷駅に向かうところだがまだ時間は早い。といって次の宿場の熊谷まで行くとちょっと遅くなりそうなので宿場では無いが、電車の本数も増える籠原まで行くことにした。
結局17号に合流する直前に「深谷宿常夜灯」というものが有ったくらいである。おそらく鐘の有る辺りからが宿場の始まりだと思われるので通過に三十分近く要していることから総延長2kmあまりの大きな宿場だったようだ。
で17号を渡るときに東京方面に目をやると、東京77kmと書かれた標識があった。先ほどの東京80kmの標識から1時間余りで3kmしか東京に近づいていないのだった。
17号を渡ると松並木が続いていた。ただ割と最近になって植えられたようで幹の細い松ばかりである。
  深谷市中山道ふるさとの並木道
     昭和五十九年三月三十日指定
 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、貴重
な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、
この中山道浴いの樹々が「ふるさとの並木道」
に指定されました。
 この並木道は中山道が国道十七号と交差す
る地点の東西に伸び、江戸末期の安政年間に
は、深谷宿のはずれに、松、杉、合わせて四
百本ほどあったといわれていますが、今では
『見返りの松』に昔日の面影が偲ばれるにすぎ
ません。現在の並木は、中山道の拡幅整備に
伴い、イチョウ、クロマツ、ケヤキを植栽し
て復元したもので、総延長は約一㎞です。
平成三年三月
   埼玉県
やっぱり復元だった。まぁそれはそれで街路樹整備ってことで結構な事なのだが、”この中山道沿いの樹々が”のくだりの誤字を15年も放置するのはどうかと・・・”沿○””浴×”
で15分ほど歩くとでっかい鳥居と灯篭があり延々と参道が続いている。傍らには郷社熊野大神社と刻まれた石碑が有り、大きな神社の様だがあまりの参道の長さに寄り道する気にもならず素通り。
さらに10分ほど歩いていると大きな榎が見えた。榎のように見えたので一里塚かと思ったが特に一里塚で有ることを示すものはなかった。
やがて籠原駅入り口に着いたので15:52ゴールとした。

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