中山道 横川−安中

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2006年4月22日坂本〜安中晴れ4時間27分 25244歩17.67km4100円

Suica、パスネット処理連絡票

おぎのや

EF63の動輪

碓氷関所

碓氷関所の桜

おじぎ石

碓氷関所東門の位置

諏訪神社

ブリヂストンのオートバイ
チャンピオン

おぎのや

横川駅
まえがき
というわけで、前回、碓氷峠を越えて神奈川県のクソ田舎からも電車でようやく日帰り圏内となったものの、まだまだ3時間半も掛かる。
なんだか、歩いている時間よりも、電車に揺られている時間の方が遙かに長いことにうんざりしつつ、横川駅で降りる際に、Suica定期で精算しようとするが、JR東日本管轄の駅でなおかつギリギリ関東地方であるにも関わらず使用できなかったりする。
そんなわけで差額を”いつもにこにこ現金払い”で済ませると、駅員さんから「出札履歴が無いと改札通過できないので、係員のいる所でこいつを渡してくれ」と言われ手渡された紙には、”Suica、パスネット処理連絡票”と書かれていた。
JR東日本とまでは行かなくとも関東地方であれば通用すると思っていたSuicaだが未だ使用できないところが有るとは思わなかった。 で前回閉まっていた釜飯屋も開いているのでまずは釜飯でも食うかと、立ち食いそば屋のような”釜飯スタンド?”に立ち寄り、釜飯を頼むとなんと売り切れ・・・。やむなく不本意ながらそばなんぞやっつけていたら、車で釜飯が届けられていた。って目の前が本店なんだから釜飯食うなら本店行けよ俺。と自問自答しながらそばを平らげた。しかし立ち食い蕎麦にしてはクオリティが高いので良いことにしよう。
で振り返るとおぎのや本店の店先にはアプト時代の動輪が置かれていたり、松井田町について書かれた看板やら気になる物件があったのでもうしばらく駅前をウロウロすることにした。
まずは、ここを訪れる1月前くらいにお隣の安中市と合併してしまい、安中市松井田町となってしまった松井田町について書かれた看板からやっつける事にした。
群馬県碓氷郡
松井田町
 松井田町は、群馬県の西部に位置し、碓氷峠を、
経て長野県軽井沢町と接し、東京から約百三十
キロメートルの距離です。
 上毛三山の一つ奇峰妙義山の裾野に一七五平方
キロメートルの面積を擁する、緑豊かな町です。
町のほぼ中央を信越本線・国道十八号線・
上信越自動車道・清流碓氷川が平行して縦貫し、
交通の便にも恵まれています。
 昔は、松井田城を中心に栄え、中山道とともに
坂本宿・松井田宿が整備されると宿場町として
栄え、古くから交通の要衝でした。
 碓氷峠手前の「碓氷の関所」は、箱根の関所と
並ぶ重要な関所として有名です。この他にも町内
には名所・史跡・文化財などが数多くあります。
 妙義山から碓氷峠にかけて「妙義荒船佐久高原
国定公園」・「上信越高原国立公園」に指定され 
新緑や紅葉など、四季を通じて自然を満喫する
ことができます。このふところに妙義湖・碓氷湖・
霧積湖などがありつりやボート遊びを楽しめます。
麻苧の滝・仙ケ滝などの名瀑も有名です。
また人間の証明で有名な秘湯「霧積温泉」も
昔ながらのたたずまいを見せています。
 小根山森林公園は、国の見本林を開放したもので、
園内の散策や鳥獣資料館を見学することができます。
 当地横川は、信越本線の難所碓氷峠を越えるため、
アプト式鉄道の起点であり、旧国鉄の町として
栄えてきました。峠のレンガ橋は通称「めがね橋」
として知られ、平成五年八月十七日に国指定重要
文化財に指定されました。峠をひかえ
 「峠の力もち」や「釜めし」などをぜひおめし
あがり下さい。
   よい旅をお楽しみ下さい。
   またのお越しをお待ちしています。
またのお越しをと言われても、距離的には静岡程度だが電車で向かうと大阪に行くくらい時間が掛かるので次に訪れるのはいつだろうと思いつつ、まぁ静岡県の佐久間町(現浜松市)にある佐久間レールパークという飯田線の中部天竜駅に併設された、博物館めいたところに2度も足を運んでいるので、横川駅の隣の”鉄道文化むら”目当てに足を運ぶことが有るかも知れない。
実はこちらも立ち寄ろうかと思ったのだが、朝9時前に家を出て横川に着くのが13時近いような場所で、夕方までにゴール出来そうな中山道と駅が離れていないのは、横川のすぐとなりの西松井田か安中くらいなので今回はあきらめることにしたのであった。 で”松井田町の看板”から振り返るとおぎのや本店の店先にはアプト時代の動輪が置かれている。いや説明にはEF63の動輪と書いてあるからアプトではないようだ。

 全国JR路線のなかで最大の難所と
 言われた信越本線横川一軽井沢間の
 シェルパとして平成九年九月三○日
 まで活躍した「EF63-3号」機関車
 の動輪です。
      峠の釜めし本舗おぎのや
で安中へ向けて出発しようと思ったが、前回碓氷関所を訪れた時にはすでに真っ暗闇だったので素通りしていたのを思い出し、一旦坂本宿方面に戻り関所を見物することにした。
碓氷関所の門
 醍醐天皇の昌泰二年(八九九年)に群盗を取締る
ために、関所が碓氷坂に設けられた。
 この地に関所が移ったのは、元和年間(一六ー五
〜一六二三年)といわれ、幕藩体制を中心とした、
徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつも
のとなり、いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをね
らいとしたものになった。明治二年(一八六九年)
廃関されるまで中山道の要所となった。
 門柱および門扉は当時使用されていたもので、
総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものであ
る。ほかに屋根材六点と台石も当時のもので、昭和
三十四年一月、東京大学教授工学博士 藤島亥治
郎氏の設計により復元された。
 この位置は番所跡にあたり、復元された門は東
門である。
松井田町教育委員会

なるほど、平安時代に設置された関は、夜盗対策なのね。
で関所の門は当時のままというが、当時の人らがあまり良い思い出を持っているとは思えない物を壊さずに残しているから不思議である。
で関所に向けて階段を上ると大分散ってはいるもののまだ桜が咲いている。門をくぐるとおじぎ石という縁側の踏み石にぴったりな石があり、傍らの看板には、旅人がこれに手をついて手形を差し出したと書いてある。
敷地は箱根、新居、木曽福島に較べるとびっくりするほどこぢんまりしているので滞在時間1分って所だろうか。で石碑になんか書いてあるがざっと読んだ限り碓氷関所の説明だったので、まぁ後でゆっくり読むことにした。
で横川駅に向けて歩いていく途中に道路脇になんか書いてある杭が立っている。近づいてみると碓氷関所東門の位置と書かれている。駅に向かってあるくと諏訪神社がある。本殿が街道から奥に引っ込んでおり、しかも俺様の行く手遮るかのような急傾斜な石段が俺様の行く手を遮っているのでスルーする。すると前方に「ブリヂストンのオートバイ チャンピオン」と書かれた看板が家の軒先に掲げられていた。その隣にある、木の看板には辛うじて”なんとかモーターズ”と判読できるのでおそらくバイク屋だったのだろう。しかしブリジストンは自転車屋かタイヤ屋だと思っていたが、バイクも作っていたのね。ブリヂストンのホームページの会社沿革を見ると確かに昭和35年に原付自転車チャンピオンを発売とある。
街道歩きはこういった年期の入った古い看板との出会いも楽しみの一つである。 小さな川というか沢に掛かる橋を渡った先に庚申塔に混じって二十三夜塔があった。
とりあえず、前方におぎのやが見えて来た。行って帰って15分ほどの寄り道である。    

横川の街並み

信越本線

へんな形の山

アングルを変えてへんな形の山

振り返ってへんな形の山

国道18号に合流

第15中仙道踏切から碓氷峠方面

松井田宿まで4.8km

国道から右手に逸れる

百合若大臣の足痕石

星穴岳

星穴岳 拡大

選挙ポスター



国道に合流

妙義山

信越本線

高崎まで26km

国道を外れる

たんぽぽ

道祖神

くどいようだが妙義山

五料茶屋本陣前

五料茶屋本陣入り口

五料茶屋本陣の門

上信越道高架下を右へ

右手に逸れる

今度は左

妙義山

第十中仙道踏切

西松井田駅が見える。

妙義山

松井田宿まで1.5km

松井田宿まで1.5kmその2

お寺

国道の旧道に出る
というわけで13時14分、碓氷関所の見物を済まして、再び横川駅前のスタート地点に立った。
街道沿いに家並みが途切れたると、信越本線と並んで歩く。右手には妙にいびつな形をした山が見える。妙義山といいこの辺りの山は非常に個性的である。
程なく、信越本線沿いの道は踏切を越えて、国道18号に吸い込まれている。踏切の脇には第15中仙道踏切と記されているが、軽井沢方面からは御代田で地下道をくぐって以来信越線を越えることがなかったので高崎まで15回踏切を越える・・・・にしては数が多すぎる。高崎線に入ってからも勘定されているのだろうか。
踏切を渡り、碓氷峠方面を振り返ると、周りはもう春の花が咲いているのにまだ雪をかぶった浅間山が見える。
でしばらく国道を歩くことになるが、歩道は有るものの碓氷川沿いの下り車線にしか用意されていないので往来の激しい国道を渡る。
5分も歩くと国道から右手に逸れるいかにも旧街道といった感じの狭い道がある。近づいて見ると案の定 ←坂本宿3.5km 松井田宿4.8kmと記された標柱が立っていた。
いかにもといった道を進むと妙な格好にへこんだ石がある。そばには「百合若大臣の足痕石」と書かれた看板が建っている。
百合若大臣の足痕石
 この石は、百合若大臣が足で踏みつぶしたので、
 石の上がへこんだといわれています。
  その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、
 力も相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こ
 うの山にむけ「よしあの山の首あたりを射ぬい
 てみよう」と思いつき、満身の力をこめて射はな
 った。その時、後足をふんがいたのがこの石と
 言われています。
 これを見ていた家来の一人も負けづと思い、腰
 にぶらさげていた弁当のむすびを力ーぱいほうり
 投げ、山には二つの穴があきました。
  それで今でも二つ穴が、ここから見ると夜空の
 星のように見え、この山を「星穴岳」とよぶように
 なったと言われています。
 百合若大臣がその時使った弓と矢が妙義神社に
 奉納されています。
うーん。踏ん張って石が割れるならまだしもへこむとは、ずいぶんと柔らかい石だ。山腹に穴が開いた山なんぞ聞いたことがないぞと百合若大臣とその家来が弓とおむすびでぶち抜いたとされる山を探すが、やはり無い。
なんだ。ガセかよと視線を戻したとき、異様な形をした山が目に入った・・・・確かに穴が開いている。
山頂付近に穴が開いていることに気付いた瞬間、こいつら「アラレちゃんとがっちゃんかよっ!!」と思い吹き出しそうになった。
まぁ妙義山を始め、星穴岳もおそらく粘度の高い溶岩によりごつごつといびつな山容となったようだが、この穴はどうやって出来たんだろう。火山ガスの気泡がはじけたのだろうか?。でも足痕石は、後からどっかからここへ移してきた可能性が高そうだ。
一旦国道に復帰し中山道はまたまた右手に逸れる道を進もうとすると、国道の方からリュックサックを背負ったおっちゃん、おばちゃんの集団が歩いてきた。
妙義山からはコース外しているし、かといって中山道もコース外しているし・・・などと思いつつ、しかも挨拶は代表者1名で結構なところを”こんにちは×10位”体力を消耗し、再び右手に逸れる。
どうやら選挙が控えているようで、小学校の敷地に面して市長選のポスターが掲示されている。この辺りは去年来れば松井田町だったのだが、今年の春(2006年)から安中市に合併されてしまったことから、今回の市長選が合併後初めてのの市長選となるわけだ。自民党王国の群馬県だけに、水面下ではかなりえげつない戦いをやっているのかもしれない。
で小学校を過ぎ、本来ならここで左折し国道を越えて信越線も越えて左手の道を進むべきだったのだが、すっかりチョンボしてしまい真っ直ぐ進んで再び国道でてしまった。
元々はこの国道に出た地点を斜めに国道と信越線を横断していたらしいのだがそれらしい道は無いので、そのまま国道を進む。
国道に出たところには←坂本宿4.2km 松井田宿4.1km→と書かれた標柱がある。宿場の中間より100m点ほど松井田寄りということか。
で国道の右側は碓氷川の深い谷となっており、その先には新緑と山桜が真っ盛りな妙義山が見える。秋の紅葉ももちろん良いが、春先の山も負けず劣らず良いものである。
やがて信越線の電車が走り抜ける先に道路を渡って左手に逸れる道を見つけた。でここで地図を見てここまで道を間違えていたことに気付いた。まぁ国道に出ても「←坂本宿 松井田宿→」という標柱が有ったのであながち間違いでは無いのかも知れない。
で歩道にある国道標識を見ると高崎から26kmと書いてある。まぁ朝から歩けるなら高崎まで一日で辿り着けるが、昼過ぎから歩くと高崎へ着いた頃には闇の中。果たして電車乗り継いで今日中にお家に帰れるかどうかも怪しいので無理をせず安中辺りを目指すことにする。
で道路を渡って直ぐに中山道の標柱が立っていた。松井田宿まで2.8kmと書いてあり、なんだかゴールに向けて進んでいることが実感できる。畑の土手にはたんぽぽがが咲き誇っているが、当然ながら帰化種のセイヨウタンポポではなくカントウタンポポである。
周りには割と新しい家が建ち並んでいるものの道路脇にはひっそりと道祖神が祀られている。家の切れ間からは妙義山を望むことができ、まだ1時間ほどしか歩いていないがこれまでずいぶんとデジカメのシャッターを押しているような気がする。
程なく五料茶屋本陣入り口という看板があったので立ち寄ってみることにする。
お東踏切で信越本線を越え、左手が入り口となっているのでそちらに進む。
まぁ入り口に「入館案内」というものがこの手の施設の入り口に案内されているが、ここでは入館案内に代わって開園時間や休館日を記した「御触書」がある。

御触書
開園時間は巳ノ上刻〜申ノ下刻とそれを現在の時間にしたものが書かれており、松井田町教育委員会も洒落っ気のある人がいるようである。
群馬県指定史跡
五料の茶屋本陣・お西
        碓氷郡松井田町大字五料五六四番地の一
        昭和三十三年 八 月 一 日 指 定
 五料の茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷である
とともに茶屋本陣でもありました。茶屋本陣は、中山道
を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所と
しておかれたものです。
 この「お西」中島家は、十六世紀末から代々名主役を
勤め、特に、天保七年(一八三六)から明治五年(一八
七二)までは「お東」と一年交代で名主を勤めていまし
た。
 この建物は、「お東」と同年(文化三年)に建てられ
たもので、間口十三間、奥行七間の切妻造りで、両家の
母屋の規模、平面ともほとんど同じです。
 白壁造りのよく映えた屋敷構えに当時をしのぶことが
でき、中山道の街道交通などを知る貴重な史跡です。
                 群馬県教育委員会
                 松井田町教育委員会
で門をくぐり、入館料を払いいざ中へ入る。土間を上がったところには、名前は忘れたが、木の枝を裂いて拡げて花の様に見せた細工物が並べてあった。お一つどうぞみたいな事が書いて有ったような気がしたが、リュックサックに突っ込んだら壊れそうだし、かといって移動中ずっと手で持っているのもだるいので、眺めるだけにしておいた。
「お西」を一巡したので、隣のお東へお邪魔してみる。

五料の茶屋本陣・お東
群馬県指定史跡
五料の茶屋本陣・お東
         碓氷郡松井田町大字五料甲五六六番地
         昭和五十九年十二月二十五日 指 定

 五料の茶屋本陣・お東は、江戸時代の名主屋敷で、中
島家の住宅として使用されていました。
 中島家は、代々名主役を勤めており、茶屋本陣として
も利用されました。
 この建物は、間口十三間半、奥行七間で、当家に伝わ
る古文書によると、文化三年(一八〇六)に建てられた
もので、その後の大きな改造もなされず、書院づくりの
上段の間をはじめ式台などに当時のおもかげをよく伝え
ています。
 また、古文書などもよく保存されており、建物ととも
に江戸時代の農村、街道交通などを知るうえで重要であ
り、祖先を同じくする「お西」とともに並んで現存する
ことは全国でもめずらしく貴重な史跡です。
                群馬県教育委員会
                松井田町教育委員会
で「お東」を見物した後に敷地の隅っこに喫煙スペースが有ったので休憩。喫煙者に対する風当たりが強い今、こうして座ってたばこが吸えるなんて・・・
と思いつつ、よく考えたら俺様の健康と引き替え(周りの人様もか?)に年間10万以上の税金を納めているわけでこんなに萎縮する必要はないのか?と思いつつ、帰りがけにトイレにも寄って再び、安中宿を目指すことにした。 程なく、上信越道の高架下に辿り着いた。道はこのまま国道18号を渡った先に続いているようだが、横断するのが厳しいせいか、ここを右に曲がって信号をわたりしばらく進んで右に曲がって、元々真っ直ぐ伸びた道を迂回するようである。
地図を見なくとも気付いたのは、交差点に設置された「止まれ」の標識のポールに赤いテープで進路が記されていたからである。
国道18号を渡る際の信号待ちの間に地図を確認し、渡って直ぐに右と脳味噌にたたき込む。こうやって地図を見ても実質2ステップくらいしか覚えられないので、国道を渡って右の路地に入った瞬間次の進路が怪しくなるのである。

右手に逸れる

また右手に逸れる
国道を渡り、国道を右に逸れる道を進む。さっそく十字路が現れたのだが、緩やかな下り坂となっておりなんだか怪しい。2ステップまでしか記憶出来ない脳みそでは、国道渡って、右に逸れた時点でリセットされていたため、またまた地図を確認すると、このまま道なりに真っ直ぐかと思われた道は碓氷川の対岸へ向かう道だった。で向かうべき道はここを左折すれば良いようだ。まぁよくよく見れば、ガードレールに例の赤いテープが左を指していたのだが・・・・
で信越線沿いにしばらく進むと踏切が有った。横川駅の先で線路を越えたところで第十五、でおいらはチョンボしたが臼井小学校を右に行って渡るのが14として、再び国道18号に近づいて越えるのが13だとすれば・・・この踏切は第12となるが第10中仙道踏切と書いてあり勘定が合わない。後になってもチョンボした箇所が思い浮かばなかった。
踏切を渡ると遠くに西松井田駅の駅舎が見える。この駅の駅前にはでっかい無料駐車場が有るので、車でここまで出てくることも考えたが、関越道なり圏央道に出るまで二時間くらい掛かりそうなのでやめた。
一方、右手を向けば相変わらず妙義山が見えるのだが、この山どうやって登るんだろう。
しばらく線路沿いに進むと小さな踏切があった。先ほどの踏切の勘定が合わない件もあり、踏切の名前を見ると「製糸踏切」と書いてあった。

製糸踏切

拡大
群馬と言えば教科書に富岡製糸所とか出てくるように、今は見渡す限り工場らしいものは見あたらないが生糸産業が盛んだった土地柄なのでそういった工場が有ったのかも知れない。
傍らには松井田まで1.5kmと書かれた標柱がある。まぁちんたら歩いても三十分とは掛からない距離である。
道標から三分ほど歩いたところに立派な山門を備えた寺がある。曹洞宗 補陀寺と書いてある
神社なら御神酒供える位なので酔っぱらいがお邪魔してもさしたる迷惑にはならんのだろうが、お寺さんには「不許葷酒入山門」って書いてあるのでビールでできあがった俺様がお邪魔する訳にはいかない。
餃子食ってビール飲んだ人が閉め出されるんだもんな。仏教はなにかと厳しいのである。
そばには松井田城趾の案内板があるが、どうやらここに城が有ったのではなく、ここより北の山に築城されていたようだ。
松井田城址 城の位置 松井田町新堀    (松井田市街地の北方の山なみ) 城について 城は東と西の二つの郭から成る。 東半は御殿山を中心に安中郭(町指定)と 呼び安中忠政が本格的に築城したという。 西半は本丸、馬出し、二の丸の三つの郭 から成る。二の丸の北西部に土囲が遺存 する。自然の尾根を巧みに利用し、無数 の掘切りや堅堀りを構築している。北条 流の典型的な中世の山城として名高い  平成十七年三月 松井田町観光協会
またそばには松井田宿まで1kmと記された道標がある。松井田町も要所要所に道標を建てて頑張っているようだが、出来れば曲がり角とかに建てて道がわかるようにしていただければ助かるのだが・・
さて5分ほど歩いていると大きな通りに出た。どうやら中山道が国道18号の旧道となっているようである。

松井田宿その1

松井田宿その2

妙義登山口

松井田宿 東側入り口

碓氷川

妙義山

国道18号東京方面

国道18号軽井沢方面

安中市に入る

碓氷川

振り返ると松井田町

気になる崖下の道

郷原村戸長役場跡の看板

碓氷川と妙義山

プロパンボンベのこけし

国道を逸れて左へ

郷原の妙義道常夜灯

安中宿まで7.2km

道祖神と百番供養の碑

変化の乏しい街道

原市小の隣の第二中学校付近

杉並木

杉並木その2

杉並木の幹アップ

ローアングルから

安中実業高校前交差点

安中宿入り口

安中宿の街並み

本陣跡

安中宿の街並みその2

亜鉛精製工場

まもなく国道へ合流

久芳橋

碓氷川

浅間山
というわけでそろそろ松井田宿に入るようである。真っ直ぐ伸びた街並みは宿場町といった感じだが、やや家の密集度や商店も少なくしばらく歩いてもかつて宿場町だったことを示す、問屋場跡とか本陣跡といった案内はない。
この道に入って7〜8分ほど歩いて進むと商店などが現れ始め「松井田宿→道標」と書かれた道標があり、どうやらここから松井田宿となるようだ。
だがここから5分歩いても本陣跡とか書かれた看板は無く、かなり大きな宿場だった様である。家の軒には「妙義登山口」と書かれた古い看板もあり、妙義登山の拠点ともなっていたようである。
ここから一分歩いたら道路の反対側に「松井田宿 →」と書かれた標柱がたっており、松井田の宿場もここで終わりのようである。
宿境から5分も歩くと畑の向こうに碓氷川を望む場所に出た。ちょっと視点を戻すと妙義山も見える。
こんな静かな所から10分も歩くと、国道18号に出た。道路標識には「東京まで125km」、「高崎18km」、「安中7km」と書いてある。関東地方に入ったとは言えまだまだ東京は遠い。振り返ってみると 似たような道路標識があり、こちらには「長野100km」、「軽井沢26km」と書かれており、東京より長野のほうがまだ近いことに愕然としつつとりあえず、ゴールの安中を目指しあと7kmの道のりを進む。
これより先は安中市である。歩いた時点では安中市なのだが、すでに松井田町は安中市に合併されているので今では軽井沢から碓氷峠越えたら、もう安中市である。
国道の左手の断崖絶壁の下には碓氷川が流れている。振り返ると松井田町と書かれた看板が出ている。今は安中市に合併されたため撤去されたことであろう。
さてしばらく歩くと崖下から合流してくる道がある。道幅といい雰囲気といい、なんだか旧街道っぽくって気になる。やがてこの崖下の道は国道と合流するが、合流地点にはかすれて辛うじて「郷原村戸長役場跡」と読める看板が立っている。
やっぱり間違えたか・・・
でこういった地形を河岸段丘っていうんだっけかと思いつつ、崖の下には碓氷川、遠くには妙義山が見える。国道を高崎に向かって右側を歩いていたが、この先中山道は左に逸れているので国道を渡ると、プロパンボンベをリサイクルしたとおぼしき”こけし”が3つ並んでそれぞれ"安”、”中”、”宿”と書かれてお出迎えしている。
左手の道は国道のルート変更により、県道に格下げとなったようで道幅は拡幅されているが、歩道は無い。で折角道路を渡ったら、国道と中山道の分岐点の反対側に「郷原の妙義道常夜灯」があった。まぁ良かれと思ってやったことが裏目に出てしまうのは日常に於いてもよくあることだ。まぁもういっぺん渡るのもだるいのでそのまま通過だ。
国道を逸れてしばらく進むと、「←松井田宿 1.9km 安中宿 7.2km→」と書かれた標柱がある。どうやらこの標柱は松井田町だけでなく安中市にも有ることから県レベルで設置しているようである。
道標があるあたりはちょうどカーブとなっており、歩道が無いと車がこっちに気付かず突っ込んできやしないかと不安になる。
10分ほど歩き、16時を回った頃に道祖神と百番供養と書かれた碑があった。道祖神はわかるが百番供養ってなんだろう。
傍らには「←松井田宿 2.9km 安中宿 6.2km→」と書かれた標柱が立っている。
で12分後にはバス停の脇に「←松井田宿 3.9km 安中宿 5.2km→」という標柱が立っていた。後で気づいたのだがどうやらこの標柱は1km間隔で建てられているようである。
なお、この辺りを右に曲がって2kmほどで磯部温泉な訳だが、ここで温泉に入ると時間的にここでゴールとなってしまう上、次回ここをスタートをする際に駅から遠くなるので、そのまま真っ直ぐ安中を目指して歩くことにする。
しばらく歩くと左手前方の空き地に建てられた看板から香ばしい香りが漂っていた

核シェルター建設予定地

拡大
建てられてから少なくとも数年は経過しているように思われるこの核シェルター建設予定地って・・・。まぁ間違っても近くにターゲットとなるような米軍施設はないし、関東地方を壊滅に追い込むような核ミサイルぶち込まれた日には「核の冬」といった 地球規模のダメージとなるはずなので、そんな無茶は自国に核ぶち込まれたがために報復攻撃するような事態ぐらいしか考えられない・・・。って北の将軍様ならやりかねないか?。
そんな時節柄、物騒な核シェルター建設予定地とやらを過ぎると、変化に乏しい退屈な散歩が続く。明日が安中市長選ということもあり、時折選挙の街宣車が通るほかは、割と交通量も少ない。
退屈な道かと思えば核シェルター建設予定地に続いて意外にもネタは道ばたに落ちていた。
何やら紙切れが落ちており、文字が記されている。なんかのチラシかと思えば選挙の中傷ビラだった。

選挙の中傷ビラ
事実だろうがそうでなかろうが中学校の前にこんなもの撒いとか無くったってよさげなものだが・・。まぁ良識有る大人のやることではないな。
15分ほど歩くと並木が見える。真っ直ぐ伸びていることから杉の木であろう。
近くに寄ってみると、ものすごく大きい。傍らの「史蹟名勝天然記念物保存 昭和八年四月文部大臣指定」という仰々しいでっかい石碑は伊達ではない。
幹だけ寄って撮って見たが、今ひとつ迫力に欠けるので、ローアングルから撮ってみた。しかし杉の木を相手に何を変質者まがいのことやっているんだか俺・・・
で国道18号に近づくと、何やら揃いのジャンパーを着たおっさんらが集まっていた。どうやら候補者のお出迎えのために集まっているらしい。
あまり和やかな雰囲気でも無いのでそそくさと通り過ぎて国道18号との交差点に出た。でここから歩くこと25分でようやく17時18分に「安中宿→」と書かれた標柱に辿り着いた。
ここもすっかり道幅が拡張されており、旧街道の雰囲気は無いが、安中郵便局の植木の脇に安中宿本陣跡と書かれた看板があり、先に通り過ぎた松井田宿と較べると幾分こちらの方が宿場町といった感じである。
この本陣の側には伝馬町という名のバス停がのがあり、かつての宿場町の名残をとどめている。このほか安中宿には「武家長屋」という見所が有るのだが日も大分傾いて来ている上に街道からちょっと外れるようなのでこのままゴールの安中駅を目指すことにする。
宿場も外れに差し掛かると安中駅前の山の斜面に建てられた巨大な亜鉛精錬工場が見えてきた。まもなく国道に合流して橋を渡れば安中駅である。
国道に合流すると碓氷川を久芳橋で越える。橋の中程からも、亜鉛精錬工場が見える。もはや山の半分が工場となっておりなかなかの壮観だ。
橋の上で振り返ると夕日に照らされた浅間山が煙を噴いており、4時間半に渡る壮大な散歩!?のフィナーレを飾るには過ぎた演出である。
というわけで、本来の街道は久芳橋のやや北よりで碓氷川を越えていたので、本来の川越えポイントからの道に合流した地点をゴールとした。

安中駅構内

ハローキティだるま弁当

ハローキティだるま弁当中身

番外

でゴール地点からは国道18号を横断歩道で越えると安中駅だ。コンビニなどネタを仕入れられそうな店が無いので、高崎駅で駅弁とかビールを仕入れることにして、切符を買って時刻表を見ると10分ほどの待ち時間で電車がやってくるようである。 電車が来るまで、ホームのベンチに腰掛けて辺りを眺めてみると、安中の繁華街に駅を作ったと言うより、亜鉛精錬工場のために作られた駅の様である。
でやってきた電車に乗り込み、前回碓氷峠を越えて横川駅に辿り着いたときは、釜飯が終了していたので高崎駅で名物だるま弁当を仕入れたのだが、今回はハローキティだるま弁当を仕入れる俺。最近はすっかり食が細くなっているので量の少ない弁当は有りがたいし、この容器はネタとしても使えるのだが、ただ難点は買うときに「これお願いします」と言うと、「ハローキティだるま弁当ですね。」と店員さんに復唱されて思わず嫌な汗をかいてしまうことだろうか。
ついでに隣に置いた缶ビールが似合わない駅弁ナンバーワン間違いなし。中身もキティちゃんがかたどられたカマボコに、キティちゃんがプリントされたウインナー入りだ。こんな弁当を食っているところを人に見られようものなら、かなりの赤面ものだが、幸いにして高崎始発の湘南新宿ラインのグリーン車には俺様貸し切り状態なので気兼ねすることなく、恥ずかしいカマボコやらウインナーをビールで流し込み、当然の如く愛くるしい容器はお持ち帰りする俺様だった。

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