中山道 御代田−横川

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年8月10日小田井〜坂本雨のち晴れ9時間16分
45分ほど入浴時間 
41416歩28.99km17320円

御代田駅
まえがき
というわけでいきなり雨である。傘を差して二晩逗留した上田を後にし御代田駅に向かう。で御代田駅に着くと昨日来たときは気付かなかったが駅舎にスタジオが併設されており、「ここは世界一ちいさなテレビ局」と書かれている。でケーブルテレビ局の脇を通り過ぎ駅前にでると困ったことに雨降りである。まぁ豪雨と言ったほどでもないのでカッパは抜きで傘だけで出発するが、雨降りの中碓氷峠を越えられるものだか少々不安である。

雨降りの中スタート

線路をくぐった後の中山道

一里塚

御代田帳のマンホール

浅間山方面

二叉の道を右へ

追分まで1.8km

国有地

温水路

左手は相変わらず雑木林

国道18号合流点手前

プチ三条大橋

中山道69次資料館

宿場の名が記された杭

浅間の焼け石

国道18号に合流

振り返って追分を撮影

高崎まで55km

分去れの碑

追分宿入り口

追分宿

追分一里塚その1

追分一里塚、対面

激しく渋滞中

標高1003m

東京まで161km

右手に逸れる

軽井沢町のマンホール

仮宿の街並み

仮宿公園

遠近神社

再び国道18号へ合流

古宿の街並み

古宿

キャベツ畑

中軽井沢

浅間山方向

気温21℃

不安が広がる道

突き当たりを左

再び国道に復帰

標識の先を左に

左手に逸れる
というわけで9時41分、しなの鉄道の線路に突き当たった昨日のゴール地点からスタートした。
中山道は線路で分断されているが、線路の下に歩行者用の通路があるので、大回りしたり、踏切の無いところを強引に横断しなくて済むのでありがたい。
しかもこんな雨降りの日には一時的にでも雨宿りできるのでなおさらである。で地下道をくぐり線路の反対側に出た。
線路をくぐった先には車がようやくすれ違うことができる道幅まで拡幅された中山道が緩やかな傾斜を描いていた。おかげで場所によっては雨水で川のようになっている。 出発してから5分余りで一里塚入り口と記された標柱があった。道路の移設で塚だけ残ったのだろうか。まぁ見に行くほどの物でも無かろうと通過。その後撮るべき物が無いのでまたまた足下に目を移すとマンホールがある。どうやらヤマユリをモチーフにしたものの様である。
こうして今日は一日雨降りなのだろうか。風景もなんだか色彩を感じられず、まるで水墨画の風景を眺めているようである。
やがて道が二叉に別れるが、電柱にぶら下がる電線の数からしして右側が中山道だろうと迷わず進むと「追分まで1.8km」と記された案内標識があり、どうやら間違ってはいなかったようである。
でさらに進むと左手の杭と柵で囲まれた雑木林に、競売物件の看板が建っている。なんでこんな所にと思ったが、軽井沢も近いのでおそらくバブル期に別荘地かなんかでっち上げようと土地を確保したはいいが、バブルがはじけてしまって持っていた所もトンでしまったのであろう。
で国有地の看板が立てられた競売物件から5分も歩かぬうちに裏返しの看板がある。振り返ると御代田町と書いてあるので軽井沢町に入ったのだろう。で傍らには池が有り、貯水池かと思えば温水路と書かれた看板が建っているのだが温水路って何でしょう。
この池を過ぎると再び右手は雑木林となる。右手は新しい家が並び始めているが目の前が雑木林だと夏なんかカブトムシやクワガタならまだしも、両手サイズの巨大な蛾がバタバタと羽音を立てながら飛来してきそうだ。
出発から50分あまりで、国道18号が見えてきた。合流点手前に一見すると民家か、民家をベースにした喫茶店の様な中山道69次資料館があるのだが、今日は残念ながら休館日の様だった。
広い庭には、京都三条大橋から日本橋までの宿場の名を記した杭やら立て札が配置されている。全部回ってみようかと思ったが、よく考えたら端から見ると庭をグルグル回る変なオヤジにしか見えないのでやめた。
このほか、これまで緩やかに上ってきた道には笑坂という名前がありその由来について記された立て札が建っていた。
ここは
中山道笑坂
浅間山麓の
坂道を
上って来た
旅人が
追分宿の
燈火を見て
笑みを
こぼした所
まぁそんなに大した登りでは無いし、御代田と追分はそれほど離れていないので、燈火が点る頃まで頑張って追分まで来ることも無いのだろうが、今でも御代田駅から離れると雑木林に囲まれていたりと寂しいところも有るので江戸時代ならば燈火を見れば安心して、思わずほっとすることもあったのだろう。
ん?コスモス街道??
と足を止めると「狩人」と言っても30代以前の世代にはピンと来ないだろうが、狩人のヒット曲の「コスモス街道」のモデルになったと立て札に書いてある。
ここは
コスモス街道
兄弟の歌手狩人が
昭和52年
分去れから続く
中山道を
「コスモス街道」と
歌い
「あずさ二号」に次ぐ
ヒット曲となった。
と言われても、あずさ二号ならともかく、コスモス街道はメロディーラインも歌詞も思い浮かばないのだが・・・・
でこんどは「浅間の焼石」という立て札が建っている。
浅間の焼石
九百年前(天仁元年)
の大噴火で、この付近
一帯は追分火砕流に
覆われた。
噴火でこのでっかい岩が飛んできたのかと思えば、火砕流で押し出された溶岩が冷え固まったものの様である。
で北国街道との追分を経て国道18号に合流した。道路は夏休みのせいか、結構混んでいる。
前方に目を遣ると年代物の燈篭がある。近づいてみると「分去れの碑」と「森羅亭万象の歌碑」と記された杭が有る。
分去れの道標
(わかされのみちしるべ)

(右従是北国海道 左従是中仙道)
 中山道と北国街道分岐点に位置
する 「分去れ」は、今も賑わった
ありし日の面影をとどめている
 右は北国街道姥捨山の「田毎の
月」で知られる更科へ、 左は中山
道で京都へ、そこから桜の名所
奈良吉野山へ向かうという意味で
ある。
軽井沢町教育委員会
軽井沢町文北財審議委員会

史跡追分宿の分去れ
中山道と北国街道の分岐点で
ある。
 「さらしなは右
 みよしのは左にて
 月と花とを追分の宿」
とうたわれているように、ここ
を右すれば北国街道月の名所の
更科や越後路、左すれば桜の名所の
吉野や関西方面に分かれたとこ
ろである。ここに幾多の旅人が
さまざまな感慨をこめて左右に
袂を分かたことであろう。
安置された石仏、石碑、石灯に
????がしのばれる。
分去れの碑から程なく国道18号と中山道との分岐となるが、見事なほど何も残っていない。これまでかつての宿場町を思い描くことが出来ないほど、道が拡幅されて新しい家が立ち並んでいた宿場は有ったが、ここまで何も無く寂れきっている宿場は東海道の鈴鹿峠東側の坂下宿を思い浮かべるが、いずれも幹線道路の付け替えで取り残された様である。
再び、国道に合流にすると追分一里塚があった。これだけ近くから取るとただの草山にしか見えない。でこの一里塚は、国道18号を挟んで反対側にもある。まさか江戸時代にこんな道幅の道は無いだろうから、少なくともどっちかの塚は後年になって復元されたものだろう。
史跡追分一里塚
 慶長九年徳川家康の命により
江戸を起点とし、主要街道に一
里ごとに塚を築造させた。 この
中山道には一里ごとに街道 の左
右に塚がつくられ旅人往来の道
標として重要な使命を果したの
であった。
 今はこの街道の塚が大部分崩
壊してしまったが この追分一
里塚はよくその原形を保って当
時をしのぶことのできる貴重な
ものである
軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会
えっ?復元じゃないの?
で、国道18号は気の毒なほど渋滞しているが、渋滞の先にはガソリンスタンドが有るが、なんとレギュラーガソリンがただでさえ高い長野県で観光地プライスが加わりリッターあたり132円である。おいらの所に較べると20円近く高いのだが、2006年8月現在ではおいらの所もガソリン高騰のおりリッターあたり140円以上しているので、きっと150円台になっているに違いない。となるとハイオクは160円位するので、リッターあたり6kmしか走れない車は60km走ると1600円なので、電車で移動した方が安上がりである。
というわけで信濃追分駅に続く交差点に出た。余りに渋滞がはげしいので信濃追分近くの軽井沢へは駐車場に車を停めて電車で行きなよという看板がある。渋滞とは関係なしに歩く俺様は標高1003mの看板の通り気温は20℃程度なので非常に快適である。
ここの交差点には「東京まで161km、高崎まで55km、松井田33km」と標識がありなかなか情報量が濃い。
今、国道18号を東京方面に向かって進行方向左側を歩いているのだが、この先で18号か右に逸れないといかんようなので、横断して右側を進む。
先ほどの渋滞が嘘のように静かな道である。とは言え、地元車やら渋滞迂回とおぼしき他県ナンバーの車が走っているので全く車が通らないわけではない。
ちなみにこの辺りの地名を「仮宿」となっており、なにやら街道にちなんだ名前の様である。
ここまで、1時間20分とだいたい想定した時間通り歩くことが出来ているようだが、時速4kmペースで想定すると、この先休んだり峠道でペースダウンするとかなり想定した時間での移動は厳しくなる。
とりあえずここまで予定通りというのも寄り道もせず、道も険しく無かったって事である。まぁ雨降りという若干のハンデはあるんだが。
そういや雨も大分小振りになったが、これまで降った雨の影響で無事に碓氷峠を越えることが出来るか心配になってきた。
と余計な心配するとなぜかうつむき加減で歩くことになるので自然と路上にあるマンホールに目がいく。そーいや軽井沢のマンホールはまだ撮ってなかったとパチリ。ただ、雨で反射するのと露光時間が長すぎてブレてしまって見づらいが、どうやら浅間山とその山麓の木々をモチーフにしたものらしい。
しばらく歩くと自販機があったのでお茶を仕入れる。目の前には遠近神社とその敷地に併設された仮宿公園がある。
自販機の有る店の軒を借りて少々休み、出発すると国道18号と、碓氷バイパスの分岐に出た。どうやら渋滞は軽井沢中心部に向かっているらしい。
で国道18号に合流し、再び右に逸れると古宿と呼ばれる地名となる。ここも仮宿同様に宿場と関連が有りそうな地名である。雨は上がり前方の離山が見えるほど視界が開けてきた。中山道はこの山の南斜面を巻くように迂回して沓掛宿を経て碓氷峠へ続いている。
真夏だと言うのに快適だなぁと思えば畑には高原野菜の代表格のキャベツが植えられている。静かな高原軽井沢も一旦ここまでで再び国道18号に出ると、またすげー渋滞である。そんな渋滞の列をすたすたと歩くおいらが追い越していく。まぁ世の中車で辿り着けない所は無いが、車で行かない方が無難な所もあるって訳で、軽井沢は無論後者に違いない。
かつての沓掛宿の中心だった中軽井沢の駅前を過ぎ湯川に掛かる橋を渡る。赤い橋の向こうに浅間山の山裾が見え、雲の切れ間から青空ものぞいている。国道上の電光掲示板には気温21℃と表示され、雨露でズボンが濡れる可能性はあるが、もう雨は降りそうにないので快適に碓氷峠を越えることができるだろう。
さてそろそろメシの時間だがこの渋滞じゃどこも混んでいそうだなと思いつつ、宿場町の雰囲気を感じることが出来ないまま軽井沢町役場の前で地図を確認すると湯川を渡った所で国道を横断して川沿いに下りしなの鉄道を越えて線路に沿って進むのがもともとのルートの様だがそれらしき道はない。地図には踏切らしき物はないのでおそらくすでに消滅したルートだろうと考え、適当なところで残ったルートに合流するかと考えると、いかにも軽井沢っぽい洋食の店があった。ランチとは言えビーフシチューが600円だか700円でだったので、混んでるかなぁと思いつつおそるおそる戸を開けると、昼時なのに客はおいら一人だった。
とりあえず、ビールとビーフシチュー定食(米)を頼み、ビールを飲みながらルートを見直すと、しばらく行った先で国道と踏切を渡れば正規ルートに復帰出来るようである。
さてこの60年代アメリカを意識した店、立地は悪くないし、ビーフシチューも十分うまいし何で客が入ってこないのか若干心配しながら飯を食っているとようやくお客さんが入り始めた。
一昨日は和田峠の力餅、昨日はコンビニで買ったカレーパンとシンプルな昼飯だったが、今日はなかなか豪勢なランチであった。
再び出発しここぞと思われるところで国道を横断するが、現れた道は舗装もされていない両側をススキやら夏草に覆われた道だった。
どっかの建設会社の資材置き場で行き止まりかと思われたがやがて視界が開けると踏切が見えたので一安心。踏切を渡り突き当たりを左へ進む。
って折角ルート復帰したがしばらく先で中山道は森にふさがれ、またまた踏切を渡って国道18号に戻るしかないようである。
やむなく踏切を渡り再び国道18号に復帰する。やはり観光地が近づいたせいか、貸し自転車でサイクリングと言った人たちが増え始めた。おそらく中軽井沢から旧軽方面へ行くなら最速の交通手段だろう。
道は今度は左手に逸れる。国道やら信越本線が開通する前までは、どうやら森に消えた道がここへつながっていたのであろう。

離山

軽井沢その1

軽井沢その2

ここは原宿かって位の賑わい

芭蕉句碑

教会

碓氷峠まで3.3㎞

上信越国定公園 碓氷峠の碑

碓氷峠までの道のり

熊に注意

ぬかるんだ林道

これが中山道?

朽ち果てた道標

今登ってきた道?

崖のような・・

下ってみるとピンクのリボン

碓氷峠最後の登り

熊野神社

朽ちかけた看板

霧積温泉

ずっとこんな道なら・・って左に分岐

また左

横川駅まで10km3時間45分、坂本宿まで7.5km3時間

もはや車両通行不能か?

人馬施行所跡

化粧水

侍マラソン

陣場が原

一つ家跡

ぴんぼけ〜

あり得ない光景

あり得ない光景の前の道

山中坂 その1

山中坂 その2

ゴールまで3km

Uターン不可行き止まりの看板

プレハブ小屋
というわけで木立の切れ目から離山が見える。これを過ぎるとずっと木立か別荘地となっている。で歩くこと30分余りで薄暗い木立の中の道がいつの間にか小洒落た建物に代わりそれに伴い人も増えてきた。
いや増えてきたというようなレベルではなく、なんだか休日の原宿竹下通りに匹敵する人通りである。
この旧軽銀座が、中山道であり軽井沢宿だと言うことは知らなかった。
追分から沓掛、軽井沢とかつての宿場の雰囲気を見いだすことが出来ないままようやく人混みを抜けると芭蕉句碑があった。
  芭蕉句碑
       芭蕉翁
馬をさへ   
  ながむる
   雪の
    あした哉
松尾芭蕉(一六四四〜一六九四)
「野ざらし紀行」(甲子吟行)
中の一句。前書に「旅人をみる」
とある。雪のふりしきる朝方、
往来を眺めていると、多くの旅
人がさまざまな風をして通って
行く。人ばかりでない、駄馬な
どまでふだんとちがつて面白い
恰好で通っていくよの意。
 (飯野哲二編「芭蕉辞典」による)
碑は、天保十四年(一八四三年)
当地の俳人 小林玉蓬によって、
芭蕉翁百五十回忌に建てられた
ものである。
       軽井沢町
で芭蕉句碑の周りには木立の中の教会とトイレがあったのだが教会と縁のない俺様は迷わずトイレに向かい碓氷峠への道に備えたのであった。
芭蕉句碑の側にあった道標によれば碓氷峠まで3.3kmと予想以上に近いので今、13時45分だからまぁ15時くらいには峠にたどり着ける勘定である。
ここには町内観光案内図が掲示されていたが、殆どが明治以降の別荘地として発展を遂げたことを示す史跡で、中山道にちなんだ史跡は表示されていなかった。
で、木立の中の舗装された道を碓氷峠目指して進む。
のんきに進んでいくこと3分あまりで、碓氷峠まで2.9kmの道標の脇に「熊に注意」の看板があった。まさかハイシーズンの軽井沢に熊が出るわけは無いだろうがいずれにせよこれから先の道は容易ならざる道の様である。
早速、舗装が無くなり雨降り後でぬかるんだ道が現れた。
さらに進むと獣道のようなものが沢に向かって一気に下っている。おまけに前方には倒木が進路を塞いでいる。下ったはいいが果たして登れるのかと確認すると沢の向こうに道らしきものが見えるので意を決して下ってみる。
下りきると朽ち果てて文字が読めない道標が建っていた。どうやら一応中山道だかハイキングコースの様である。
でなんとか登り切ったところで振り返ってみると、果たして今通ってきたところは道なのだろうかと思わざるを得ないようなすげーところである。
で一難去ってまた一難というか、さっきの迫力をさらに上回る崖が現れた。さっきは微かに踏み跡があったが今度は踏み跡が残っておらずこれを下って良いものか悩む。で意を決して下ってみると、国土調査のピンクのリボンが枝にくくりつけてある。
こんな所まで国土調査を行うなんてお役人さんもなかなか大変である。
で道無き道を強引に進むこと10分余りで碓氷峠手前の最後の登りというか崖をよじ登るとズボンの裾が雨露でぐしょぐしょになってしまった。
江戸時代の旅人さんたちもこんな崩落して道無き道は間違いなく通って無いはずなので(馬はおろか駕籠すら無理。)無理してこんな所通らなくても碓氷峠群馬側で十分峠道の雰囲気は味わうことは出来る。
で当たり前のように峠の茶店で力餅をビールで流し込み、碓氷峠の下りに備えた。
十分すぎる休息の後、熊野神社脇に差し掛かるが、峠だというのに、これ以上登らせるのかっつーか本殿が見えないほど長い石段が俺様の行く手を遮っているような気がしてそのまま通り過ぎることにした。

熊野神社の由緒

主祭神
 新宮 速玉男命        群島県鎮座
 本宮 伊邪那美命 日本武尊 県境鎮座

御由緒
 当社は県境にあり、御由緒によれば、日本武尊が
東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれた時、
八咫烏の道案内によって無事嶺に達する事ができた
ことより熊野の大神を祀ったと伝えられる。
 碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され、走水
で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と
嘆かれたという。 (日本書紀より)
 これら御由緒より「日本太一」という烏午王札が
古来から起請文や厄難消除の御神札として頒布さ
れている。
歴史大略
 鎌倉時代に武士団の篤い信仰を受け、群馬県
最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている。
 江戸時代には諸大名始め、多くの人々が中山道
を行き来した。関東の西端に位置し、西方浄土、
二世安楽、道中安全叶える山岳聖地として、
権現信仰が最も盛んとなった。
 「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に
唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に
伝わって行った。
          碓水峠熊野神社社務所

おいらのあやふやな歴史の知識は戦国時代から幕末くらいまでなのでそれ以前や明治以後は非常に怪しい。しかも神話時代なんてと思ったがそーいや、うちの近所にも日本武尊さんが座っていったという石が有るので、日本武尊さんくらいは勉強しておこう。
で参道の入り口の燈篭の脇に安政遠足(とおあし)決勝点という立て札があるが、毎年安中から碓氷峠に向けて侍マラソンと称しているマラソン競技(42.195kmも無いが・・)のゴール地点を表している。
これは、安政年間に侍さんたちが鍛錬の一環として行った安政遠足を今に復活させたものである。
だからといって群馬県安中市を「日本におけるマラソン発祥の地」と呼んでしまうのはどうか・・・と思う
で峠を下り始めると、朽ちた看板が2つ出てきた。一つは山火事防止、もう一つは霧積温泉の看板である。2時間も歩くのか・・・。
まぁとりあえず今のところ未舗装ながらまだ車が走れそうな道である。と思ったら左手の細い道が中山道か・・・
まだ四駆でデフロック付きの軽トラなら余裕で突入できそうな感じである。でなにやら石碑があるので見ると

  思 婦 石
群馬郡室田の国学者、
関橋守の作で
安政四年(一八五七)
の建立である。 
ありし代に
  かへりみしてふ
       碓水山
今も恋しき
    吾妻路のそら

よくわからなかった。
でまた道は左に逸れ、案内板が無いと迷うこと必至である。街中なら地図と周りの建物や施設と照らし合わせて現在地を知ることが出来るが、木立の中の山道では地図上の道の曲がり具合と今まで歩いた道の曲がり具合を脳内で照らし合わせて現在地を知ると言った高度な方法が必要だがとりあえず、中山道の案内板やら要所要所にある侍マラソンのコースの案内板のお陰で現在地がわからなくともおそらく麓まで下ることはできると思う。
で標識に目をやると 横川駅まで10km 3時間45分
坂本宿まで7.5km 3時間
いま14時50分だから、横川駅には19時以降到着予定って遅すぎではないか。まだ、さっきの霧積温泉のほうが近いじゃんかと下っていくと道の両側は草で覆われ、雨水が流れたところだけV字上にえぐれて土が露出している。もはや車の通行は・・・いやまだジムニークラスなら行けるかな?
そんな怪しげな道を進むと、人馬施行所跡なるものがあった。要は人やら馬の無料休憩所らしい。
人馬施行所跡
 笹沢のほとりに、文政十一年
 江戸呉服の与兵衛が
 安中藩から間口一七間
 奥行二十間を借りて
 人馬が休む家をつくった。
それは良いけど、さっきからなにやら後方から、カサカサ・バキバキと言った不穏な物音が聞こえる。
しかも次第に俺様に近づいているようだ。以前、奈良井宿と藪原宿の間の鳥居峠の山道でバキバキという音がする方を見ると黒い毛の生き物が逃げていったという恐怖体験をしているのでかなりビクビクもので、時折後ろを振り返りながら下っていくと、何のことはないMTBでダウンヒルを楽しむ人たちだった。
とりあえず端っこに寄ってMTBな人たちをやり過ごしてしばらく歩くと化粧水跡という立て札があった。昔はここにあった沢の水で化粧を直したと言うが、今ではなんとなく生い茂る夏草の根本が湿っているような・・・・というレベルである。
さらに5分下ると、万葉集に収録された子持山の歌碑が建てられている。
子持山
万葉集巻第十四東歌中
      読人不知
兒持山若かへるでの 
   もみづまで
寝もと吾は思う
 汝はあどか思う
    (三四九四)
地図で見ると子持山の脇を抜けているのだが、木立の中なので周りの風景は全くわからない。
そもそも、歌の意味がわからない。
傍らには陣場が原の看板が建っており、この辺りが新田義貞、足利尊氏、そして武田信玄、上杉謙信が戦った古戦場とのことである。
奈良時代から鎌倉、室町時代を経て戦国時代までこの一角をカバーしているのだが、奈良時代にすでに碓氷峠に人の往来があったというのにびっくりだ。
ってよくよく考えると、熊野神社は日本武尊を祀っているし、しかも走水で入水した連れ合いをここで嘆いている・・・となると日本武尊の活躍した年代は諸説あるが少なくとも奈良時代より前だ。
さらに三分ほど下ると、整地されて家があった様な一画がある。一つ家跡と看板がある。
一つ家跡
ここには老婆がいて、
旅人を苦しめたと
言われている。
この看板の奥には朽ちた看板があり、「江戸時代に老婆の商う店があった。」とあるから、強引な客引きか、えげつない商売でもしていたのだろうか。
まぁ約三百年間続いた江戸時代に、婆さんが商売していた時期なんて僅かな時期で有るにも関わらず現代まで語り継がれるのだから青島幸男扮する「いじわる婆さん」に匹敵するようなすごい婆さんに違いない。
で、朽ちた看板からはこの側に一里塚が有ったとの記述も辛うじて読み取ることが出来る。
さて15時15分を回り、ぐったりした俺様の撮る写真はかなりの確率でピンぼけだ。そんな俺様はこの直後あり得ない光景を目にする。
ここまで、碓氷峠から車が下って来れるような道ではないのだが、なぜか浄化槽タンクとおぼしき物と一台のボロボロに朽ちたバスがあった。
どうやら、ここまでバスが通れるほどの道が有ったが、道路が崩壊してしまい取り残されてしまったようだ。
一応、この朽ちたバスのある廃墟の前までは路面状況はともあれ車の通行には差し支えない道幅が有るのだが果たして軽井沢から下ってきたのか、横川から登ってきたのか・・・
まぁどっちでもいっか。
程なく山中坂という立て札があり次のように書かれていた。
    山 中 坂
山中茶屋から子持山の山麓を
陣場が原に向かって上がる
急坂が山中坂で、この坂は
「飯喰い坂」とも呼ばれ
坂本宿から登ってきた旅人は
空腹ではとても駄目なので、
手前の山中茶屋で
飯を喰って登った。
山中茶屋の繁盛は
この坂にあった。
これから急坂になるのか。どう考えても碓氷峠は坂本から登った方がしんどいに決まっているので軽井沢からの下りでは途中で飯食わないとバテるほどの急坂と言われても実感は無い。
坂の途中に安政遠足ゴールまで3kmの立て札があった。ゴール地点の熊野神社を通り過ぎたのが14:45、現在15:22って事は40分弱で3km下ってきているわけで、登りでは絶対にあり得ないタイムである。
そういえばまだ、この辺り車が通れそうな道幅はあるのだが、ついに、「この先通り抜け出来ません。Uターンもできません。」という看板が建っていた。
つーか、車で来てこの看板を目にする人は多分居ないと思う。
山中坂を下ると、プレハブ小屋が目に入った。側には山中学校跡という看板が建っている。
山中学校跡
明治十一年、
明治天皇御巡幸の時、
児童が二十五人いたので
ニ十五円の奨学金の
下附があった。
供奉官から十円の
寄付があった。
このプレハブ小屋が学校だったとすれば、まさか明治の時期にプレハブは無いだろうから、昭和50年代位まで分校として使われていたのだろうか。ってさっきの山中坂上の廃墟位しか人が住んでいた形跡はないしなぁ。
で側には山中茶屋について書かれた看板が有った。

山中茶屋

山中荼屋は峠の
まんなかにある荼屋で
慶安年中(一六四八〜)に
峠町の人が川水をくみ上げる
ところに荼屋を開いた。
寛文二年(一六六二)には
十三軒の立場茶屋ができ
寺もあって荼屋本陣には
上段の間が二か所あった。
明治の頃小学校もできたが、
現在は屋敷跡、墓の石塔
畑跡が、残っている。
残っていると言うから散策してみようかと思ったが、入る者を拒むかのように草木が生い茂っているので探索はあきらめることにした。中山道が現役だった頃はそれなりの賑わいを見せていたらしい。

まだ車で通行可能か?

馬頭観音

さすがに車の通行は無理

かえるくん

視界が開ける。

まだ山深い山中

栗が原

なんでこんなところに車が

車じゃ登って来れまい

座頭ころがし

一里塚

両側が崖

北向馬頭観世音

南向馬頭観世音

堀り切り

木の皮が剥かれた木

釜飯の蓋

カエル君2号

カエル君2号その2

坂本まで2.5km

刎石茶屋跡

弘法の井戸

風穴その1

風穴その2

馬頭観世音
覗から見下ろす坂本宿その1
覗から見下ろす坂本宿その2

上り地蔵下り地蔵??

刎石坂
刎石坂その2
柱状節理
堂峰番所

堂峰番所石垣跡?

国道18号
というわけで碓氷峠東側の中間点を過ぎた様だが、ここまで40分余り・・・現在15:25と言うことは16時過ぎには峠の入り口へ辿り着き、さらに15分余り歩けば温泉に辿りつける予定だ。
さっきからあるくこと3分位の間隔で案内板が建っているが、またまた看板があり入道くぼと書かれている。
    入道くぼ
山中茶屋の入り口に
線刻の馬頭観音がある。
これから、まごめ坂といって
赤土のだらだら下りの
道となる。
鳥が鳴き、林の美しさが
感じられる。
でまごめ坂と書いてあってなぜに「入道くぼ」なのかはよくわからないがとりあえず馬頭観音はある。
ただし、この馬頭観音ははなんだか石に線が彫られたタイプである。
馬頭観音から3分ほど下ると、カエルがいた。体中のイボイボから察するにヒキガエルのお友達のようである。但しトノサマガエル級の大きさなので成体のヒキガエルに較べるとかなり小さい。
ここまでずっと木立の中を方角もわからぬまま下ってきたが、木立の隙間からやっと薄日が差してきた。で一瞬視界が開けるが、まだまだ深い山の中のようである。
5分ほど下ると「栗が原」と案内板の有るところに辿り着いた。
  栗が原

明治天皇御巡幸道路と
中山道の別れる場所で、
明治八年群馬県最初の
「見回り方屯所」があった
これが交番のはじまりである。

巡幸道路の分かれ道とあるが、そのような分岐は見あたらない。すでに崩れ去ってしまったのだろうか。でここに屯所が有って交番の始まりと強引な説明がある。
で、栗が原から下ること7分余りでまたまた、衝撃的な光景が飛び込んできた。
そこにはナンバーが外されトランクが開いたマークIIの姿があった。どうやら昭和後期から平成にかけてのモデルの様なので、少なくとも20年前までは車が通行できた様である。
どう考えても土がむき出しになったこの坂を上がって来るのは無理なので、峠から下ってきたか巡幸道路が当時車が通れたかのどちらかであろう。
しばらく下ると座頭ころがしという看板があった。
 座頭ころがし(釜場)

急な坂道となり

岩や小石がごろごろしている

それから赤土となり、

湿っているので

すべりやすい所である。
まぁ急と言っても、果てしなく転がっていくほど急な坂には見えないが、確かに赤土が露出しており滑りやすい。
座頭ころがしから下ること5分あまり・・・。本当に5分置きに何らかの看板が有るので退屈はしないのだが、前方にまた何か看板が建っている。
近付いてみると一里塚と書かれているが塚は見あたらない。
一 里 塚
座頭ころがしの坂を
下ったところに
慶長以前の旧道
(東山道)がある。
ここから昔は登っていった。
その途中に小山を切り開き
「一里塚」がつくられている。
この前の一里塚が45分前に通過した一つ家跡なので、下りとは言え4kmを45分となると結構なペースで下っているようだと思ったが内容を見ると中山道以前の一里塚・・・?
天下統一前にどこを起点に一里塚を建てたんだろう。頻繁に建ててくれており退屈させない看板であるが、内容についてはきちんと裏を取った方が良いようだ。
この怪しげな一里塚を過ぎると幅1mあまりの道を左右どちらに踏み違えても転落するような鞍部が現れる。その手前に何やらまた看板が建っている。
看板の上にある岩には石仏がちょこんと乗っている。
  北向馬頭観世音
馬頭観世音のあるところは
危険な場所である。
一里塚の入口から下ると
 ここに馬頭観世音が
岩の上に立っている
観音菩薩
文化十五年四月吉日
信州善光寺
施主 内山庄左衛門 上田庄助
坂本世話人 三沢屋清助
危険なところと言うだけに、谷側にロープが張られた所を抜けるとまたもや、岩の上に石仏が鎮座している。
今度は南向馬頭観世音だそうな。

  南向馬頭観世音
この切り通しを南に出た途端に
南側が絶壁となる。
昔、この付近は山賊が
出たところと言われ、
この険しい場所をすぎると、
左手が岩場となり、
そこにまた馬頭観世音が
道端にある。
 寛政三年十二月十九日
    坂本宿 施主七之助

まぁ今の世の中、どんだけ道は険しくとも山賊に出くわす心配は無い。ここを抜けると両脇が谷となっており、傍らには「掘り切り」と記された看板が立っていた。
  掘り切り
天正十八年(一五九一)
豊臣秀吉の小田原攻めで、
北陸・信州軍を、
松井田城主大導寺駿河守が
防戦しようとした場所で
道は狭く両側が
掘り切られている。
うーん。多分、道が狭いから正面切って突入しようにも、狭いんで一気に攻め落とせなかったと言うことだろうがこの程度の高低差ならば、両サイドから槍でうりゃ〜と突いたり、背後に回って奇襲掛けることも出来そうだ。
本当に申し訳ないが、これらの看板群は突っ込みどころ満載である。
で、しばらくすると一本の杉の木が目に入った。木の皮がべりべりとめくられている。さては熊かと思い一瞬ビビったが高さからして鹿だろう。
まだまだ、動物の生息圏のまっただ中にいるようだが5分も歩くと、直径12cmほどの白くて丸いものが落ちている。よく見ると有名なおぎの屋の釜飯の蓋だった。
こんな山道登っていくのに、クソ重い上かさばる釜飯を持って行く人の気が知れない。ましてやこんな所に捨てていく馬鹿が・・・と思ったが、赤土の露出した道を荻野屋の釜飯の蓋で石畳を作ろうという壮大な計画の第一歩なのかも知れない。
まぁとにかく人間の生活圏に近づいた様だと思ったら前方に東屋が見える。碓氷峠からここまで一時間半歩き通しで休むところが無かったので当然休憩。
下りは良いが登りはここから熊野神社まで2時間以上掛かると思われるが、腰を下ろして休むところが無いので大変である。
人の生活圏に近づいた割りには、東屋には人の気配はなく代わりに、またまたカエルが居た。このカエル君2号はイモリの腹の様な赤いまだらが有り、今まで見たこと無いカエルである。
おとなしそうなので、手のひらに乗せてみるがじっとして動かない。いくら一人旅の寂しい身の上と言ってもカエル君と旅を共にするのもどうかと思い、元の丸太の柵の上に戻してやった。
木立に囲まれた人気のない東屋で久々に腰を据えて休むつもりだったが、どうも俺様を警戒するかの如く飛び回るキイロスズメバチが鬱陶しいので東屋を後にすると、「坂本まで2.5km、熊野神社まで6.4km」と記された道標が立っていた。
おいらは30分も歩けば国道に出て、峠の湯とかいう温泉にたどり着けるはずだが、碓氷峠を目指す人は、これからトイレ無し、休憩所なし、ろくな水場もない山道を6.4kmも登って行かねばならないので大変そうだ。
でふと見ると看板があり、平安時代の中頃にここに関所があったんじゃ無いかなと書いてある。
碓氷坂の関所跡


昌泰二年(八九九)

碓氷の坂に

関所を設けた

場所と思われる
まぁ1100年以上昔の事なので、はっきりしたことは言えないようだ。
しかし、京の周りにあった逢坂の関や不破の関なら都の警護といった目的が思いつくのだが、なんでこんな所に関所なんかあったんだろう。
で近所には四軒茶屋跡と記された古い看板と、刎石茶屋跡の新しい看板があった。
四軒茶屋跡


刎石山の頂上で昔ここに

四軒の茶屋があった屋

敷跡である。今でも石垣

が残っている。(力餅、わらび餅

などが名物であった。)
刎石茶屋跡

ここに四軒の

茶屋があった、

現在でも石垣や墓が

残っている。
でまた刎石茶屋跡と思われるすっかり植林されて薄暗い木立の写真を撮ってみる。肉眼では気付かなかったが、鹿だか熊だかわからんが木の皮を剥いだ跡があった。
一方、中山道は急激に高度を下げ、ただでさえ狭い道が夏草に覆われてより一層狭くなっている。ここを下っていくと程なく、弘法の井戸と記された看板があった。
  弘法の井戸
諸国をまわっていた
弘法大師が
刎石茶屋に水がないので、
ここに井戸を掘れば
よいと教えたと
伝えられている霊水である。
弘法の井戸と名の付く井戸はあちこちにあるが、ここもその一つの様である。
しかし、本当にこれだけの井戸を開削したとなれば、弘法大師は錫杖でダウジングでもやっていたに違いない。
で実際の井戸を見ると石組みの井戸だが木立の中で薄暗いため水面を確認することが出来なかったので。フラッシュを焚いて撮影してみると、意外に水面は近いところにあり、深さもそれほど無いようである。
というわけで錫杖でダウジングやって水脈を掘り当てたと言うより、わき水をここに集めているようである。
弘法の井戸を過ぎた登り坂の途中に、何やら看板が建っているので見ると、風穴と書いてあった。
風 穴

 刎石溶岩のさけめから、

水蒸気で湿った風が 

吹き出している穴が

数カ所ある。
で風穴に手をかざしてみると、確かに妙に生暖かい湿った風が吹き上げている。
側の崖を見上げると馬頭観世音があり、峠道の厳しさを物語っているようだ。まぁおいらは下りだからかなり気楽なわけだが。
馬頭観世音を過ぎると、「覗」と記された看板があった。
覗
坂本宿を 

見下ろせる場所で
          
山梨の老木がある。

一茶は

「坂本や袂の下ので

    夕ひばり」

     と詠んだ。
看板の脇には、木立の切れ間があり、下界を見下ろすことが出来る。そこから覗き込むと坂本宿が箱庭のように見えるのだが、あいにくの曇天でやや霞んでいた。
だがまだまだ下界は遠いようだ。
でなぜかわからないが、萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の一節があった。
見よこの嵩高な山頂に一つの新しい石碑が建っ てる
いくつかの坂を越えて遠い「時代の旅人」は、
そこを登るであろう
そして秋の落ちかかる日の光で人々は石碑の
文字を読むであろう。そこには何が書いてあるか?
見るものは黙しうなずきそして皆行き去るだろう
時は移り風雪は空を飛んでる ああ!
だれが文字の腐蝕を防ぎ得るか
山頂の空気は稀薄であり鳥は樹木にかなしく
鳴いてる       
だが新しい季節は来たり氷は解けそめ再び人々は
その麓を通るだろう
その時ああだれが山頂の墓碑を見るか
多数の認識の眼を越えて
白く雪の如く日に輝いている
一つの義しき存在を
芥川龍之介の死より
   朔太郎
いささか唐突な感がある朔太郎の詩の一節から、1分ほどで「上り地蔵下り地蔵」と記された案内板があった。
 上り地蔵下り地蔵
 十返舎一九が
「たび人身をこにはたく
 なんじょみち、石のうすいの
   とうげなりとて」と・・・
その険阻な道は刎石坂である。
 刎石坂を登りつめたところに、
 この板碑のような地蔵があって
 旅人の安全を見つめていると
 ともに、幼児のすこやかな成長を
見守っている。
だが、いくら辺りを見廻しても、薄く剥がれたような石がたくさん有るばかりでどれが地蔵だといった感じである。
で薄く剥がれた様な独特な平べったい石は坂の山側は石組みの壁のように、足下は石畳のようにその数を次第に増していった。 しばらく下ると「刎石坂」と記された看板があった。
刎 石 坂
 刎石坂には多くの石造物が
 あって碓氷峠で一番の難所で
 ある。むかし芭蕉句碑も
ここにあったが
いまは坂本宿の上木戸に
移されている。
 南無阿弥陀仏の碑
大日尊、馬頭観世音がある。
ここを下った曲がり角に
刎石溶岩の節理が
よくわかる場所がある。 
なるほど、この平べったい石は溶岩が冷え固まったものなのか。で有るはずの南無阿弥陀仏の碑とか大日尊や馬頭観世音は石が多すぎてわからない。 でさらに下った曲がり角に確かに柱状節理がある。
柱状節理
火成岩が冷却固結
するときき裂を生じ 
自然に四または六
角の柱状に割れた
ものである。
柱状節理自体はあちこちで見かけるが、火成岩ってことはこの刎石山は元々火山だったってことだろうか。
でこの溶岩の冷え固まった跡から15分ほどで道がV字上にえぐれたところに差し掛かった。またまた看板があり、堂峰番所と記されている。
 堂峰番所
堂峰の見晴しのよい場所
(坂本宿に向って左側)の
石垣上に番所を構え、
中山道をはさんで定附同心の
住宅がニ軒あった。関門は両方の
谷がせまっている場所をさらに
掘り切って道幅だけとした
場所に設置された。現在でも
門の上台石やその地形が石垣と
共に残されている。
どうやらこの谷の上から、通行する旅人を監視していたようである。
この堂峰番所から五分ほど下って16:58、ようやく国道18号に出た。峠の熊野神社を起ったのが14:45なのでかれこれ2時間15分ほどかかった訳である。

熊野神社まで8.3km

猿に注意

中山道口バス停

中山道入り口

またまた山道

旧信越本線

旧信越線を利用した遊歩道

トンボ

旧信越本線

旧信越本線その2

中山道に復帰

かぎや

脇本陣跡

中山道坂本宿屋号一覧

脇本陣跡 永井

本陣

上信越道

坂本宿東の入り口

国道から左に逸れる

坂本宿0.9km松井田宿7.2km

薬師坂

薬師坂の碑

横川の関所


夕闇の中山道

おぎのや
というわけで碓氷峠から下ってきた峠道もここでほぼ終了である。またまた東屋があったので休憩。目の前は漫画でも有名となった碓氷峠旧道なので、たばこなんか吸いつつ気合いの入った走りをする車でも無いかと見ていたがファミリーカーのぬるい走りっぷりしか拝むことが出来なかった。だいたい上信越道を使えば軽井沢まであっという間だし、碓氷バイパスもとうに無料化されているので、この道を通る意味はあまりない。
で脇には中部北陸自然歩道「上州路碓氷峠のみち」と題された解説文と碓氷峠への道のりを記した地図とがある。
中部北陸自然歩道「上州路碓氷峠のみち」
 信越線横川駅から首都圏自然歩道
を後にして国道18号線に沿って進
むと群馬県最後の宿場町「坂本宿」
を通り現在の位置、旧中山道の碓氷
峠越えのみち入り□である。
 ここからは、しばらく急坂が続き
息が切れるが、古代の遺跡から近代
の史跡が散在し興味を尽きさせない。
 急坂を上り終え緩い上り坂になり、
森林の中をしばらく歩くと群馬県と
長野県の境の「熊野神社」に到達す
る。
 なお、このみちは安政遠足マラソ
ンコースとして使われており、5月
の第2日曜日に例年開催される。
環境庁・群馬県
と急坂を登り終えると緩い上り坂となり・・・などとすごく大雑把に書いてあるが、下りですら2時間以上掛かっているので登りだと軽く2時間半は歩き通すことになるはずである。
この看板の隣には、猿とか熊が出るという看板があった。熊ですか・・・ということはさっき木の皮が剥がれていたのは鹿が食べた跡ではなく熊の仕業かも知れないわけね。
でここには一応中山道口というバス停があるが、一日一往復でしかも行楽シーズンの休みの日以外運行無しである。
さてこの先どう進むかと道路の反対側を見ると、ガードレールの切れ間の両側に赤いテープで矢印が記されているのでこれを進めば良いのであろうと、再び歩き始めた。
またまた木立の中の道を進み、舗装路に出て貯水タンクの脇を抜けて再び国道に合流した。
このまま国道を下っていけば坂本宿を経て横川駅でゴールなのだが、折角近所に「峠の湯」とか言う温泉が有るのでこれは立ち寄らねばなるまいと寄り道することにする。
というわけで温泉目指して一旦中山道から逸れて国道18号を碓氷峠方面に登っていく。残念ながら交通量は少なく道幅も広いものの歩道はない。で旧信越線の線路を遊歩道にしたところを越えて途中を右に曲がって坂を下り、折角なので旧信越線を利用した遊歩道を下っていく。
すっかりもう秋のようで空にはトンボが舞っている。で17:20に温泉に着くとその隣にはすでに廃線となったはずの信越線が架線も撤去されずに残っている。後で調べると横川にある鉄道文化村からここまでトロッコ列車を走らせているようである。
峠の湯の駐車場は結構停まっている車も多く、混んでいるかなと思ったが風呂の方は、さすがに入りっぱなしと言うわけにも行かないせいか洗い場が空くのを待つほどでは無かった。透き通ったお湯の中で今日一日の疲れを癒しつつ湯上がりの生ビールなんぞやっつけつつ、ふとおいらが休んでいる間の様子が気になったので会社に電話すると、なにやら俺様物件がトラぶった様だが何とか鎮火した模様。安心して残りのビールをやっつけて、すっかり温泉と生ビールで体力を回復した俺様は、暗くならない内にと18:00に峠の湯を後にした。建物自体はそれほど大きなものではないが敷地はものすごく広い。
出口を探すことに少々迷いつつ18:17中山道に復帰する頃には折角洗い流した汗がまたじわじわと顔やら背中を流れ始めた。
今は国道18号となっている街道に復帰すると道が拡幅されているせいかあまり宿場の面影はないがそこはもう坂本宿のようである。
前方には最初雲かと思ったほど異様な山容をした妙義山が見える。
いまではすっかり普通の民家の前に小林一茶とその定宿だった「たかさごや」についての解説が書かれた看板があった。
小林一茶の定宿「たかさごや」
 信濃国柏原が生んだ俳人小林一荼
(一七六三〜一八二七)は、郷土と江戸を往来するとき
中山道を利用すると「たかさごや」を定宿とし
ていた。寛政〜文政年間、坂本宿では俳諧
短歌が隆盛し旅籠、商人の旦那衆はもとより
馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に
熱中したという。
それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋
を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までいけ
つけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義
に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音
とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷
彿させる。碓氷峠の刎石山の頂きに「覗き」と呼
ばれるところがあって坂本宿を一望できる。
一茶はここで次の句を残している。

坂本や袂の下は、タひばり

  若山牧水宿泊の[つたや」
碓氷峠にアプト式鉄道が開通してから
十五年後の明治四十一年ごろになると、繁栄
を極めた坂本宿もすっかり見る影を失い
寂れてしまった。
この年の八月六日、牧水は軽井沢に遊んでから
碓氷峠を越えて坂本に宿をとろうとした。
ただ一軒残っている宿屋「つたや」に無理に頼ん
で泊めてもらうことにした。
寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出、月
下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り
唄に一層の寂寥感を覚え口をついて出たのがて次
の歌である。
  秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し
 坂本の宿の 糸繰りの唄
というわけで牧水が遊びに来た頃には、小林一茶が定宿としていた「たかさごや」は宿屋を廃業していたようだ。 しばらく歩くとまた木の看板が家の前にある。しっかりとした門構えから本陣かと思ったら「かぎや」という旅籠跡だった。
   坂本宿のおもかげ残す「かぎや」
「かぎや」は坂本宿のおもかげを残す代表的旅籠、
建物である。伝承によれば、およそ三百七十年前、高崎藩
納戸役鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅
籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけ
たといわれる。まず目につくのは、家紋の丸に結び雁金(かり
がね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸
方に向う旅人にわかり易く工夫されている。屋根は社寺風
の切妻、懸魚(けんぎょ、又はげぎょ、屋根の破風に取りつけに装飾)
があり、出梁の下には透し彫刻が施されている。
問口六間で玄間から入ると裏まで通じるように土間が
ある。 奥行きは八畳二間に廊下、中庭をはさんで八
畳二間。往還に面しては二階建て階下、階上とも格子
戸である。宿場は街道
文化の溜り場である。
坂本宿も、俳句、短歌、狂歌など、天明、寛政のころは
最盛期で当時の当主の鍵屋幸右兵衛門は、紅枝
(べにし)と号し次の作品を残している。

  末枝や露八木草の根に戻る(紅枝)
で隣には脇本陣があり、坂本宿の屋号一覧が街道の地図に並べられていた。これを見ると今より家が多く、碓氷峠を控え繁栄していた往時が偲ばれる。
脇本陣跡を過ぎるとまた脇本陣跡があった。今はすっかり碓氷バイパスに交通量が流れてしまい、静かな街並みとなっているが、本陣2つに脇本陣が4つと相当大きな宿場だったようである。
ぼちぼち宿場が終わりになる頃、前方に上信越道が見えてきた。その奥に見える妙義山が近づいてきた。 で道路脇には「武井九夏」について書かれた看板が有る。どうやら郷土が生んだ俳人らしいがおいらはまったく知らないのでそのままスルーし、程なく振り返ると「中山道坂本宿」と刻まれた大きな石碑が建てられているところを通り過ぎた。どうやらここが坂本宿の東側の入り口となっているようである。
10分ほど真っ直ぐ歩くと、国道は勾配を緩くするため大きく左に迂回するが中山道は急坂でショートカットする左手の細い道をすすむ。
坂の途中には坂本宿0.9km松井田宿7.2kmと記された標識が建っている。もう時刻は18:41ととっぷり日も暮れて辺りも暗くなりつつあるのでおいら的には次の宿場よりも横川駅までの道のりが知りたいところである。
で坂を下りきると、薬師坂と刻まれた石碑があり、この坂には薬師坂と名が付けられていることがわかったが坂の由来を示すものはなかった。
再び国道に合流すると、橋のたもとには「川久保橋」と書かれた案内板があった。
  川久保橋      
碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋
が架けられていた。この橋は、正しくは碓氷御関所橋と
呼んで中山道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であった
ため増水期になると度々流失した。
関所設立当初は軍事目的を優先したからである。
橋が流失すると川止めとなリ、旅人や書状などの連絡は
中断された。このため関所には大綱一筋麻麻綱一
筋が常備されていて宿???   として使われ書状
を対岸に渡すことに使われた。を投げ渡し
して大綱と張り、大綱に竹輪を通して、麻縄を撚り丁
度ケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。
川止めとなっても増水の険を冒して渡河をする人もいた。
なかでも、参勤交代の大名行列は日限も予定されている
ので渡河を強行したという。大名の渡河に際しては、
番頭も川原に罷り出て見届けた。
で橋を渡り、一旦碓氷峠バイパスと合流してから左手に逸れて坂を登るとかの有名な横川の関所があった。
でも真っ暗だし、階段登るのだるいのでパス。
ここから夕闇の中山道を歩くと5分ほどでかの有名な釜飯屋のおぎのやの看板が夕闇の中光っていた。とりあえずこれでめでたく碓氷峠を越え無事にゴールと相成ったわけだ。 そもそも、予定では松井田辺りまで歩けるはずだったが、前半の雨と、碓氷峠が想定した以上時間が掛かりとどめに温泉でくつろいだことが敗因と言えば敗因だが、まぁ仕方がない。

横川駅

電気機関車

横川駅構内
横川駅

番外

今日は、さすがに駅前がほとんど中山道なので迷うことなく横川駅に到着。良かった良かったといった感じだが、どうやら電車が行ってしまった直後なのでこのまま1時間余りこの横川駅で過ごさねばならないようである。
釜飯も終わってしまったようなので、やむなく辺りをウロウロすると電気機関車が留置されており、峠を控えた駅といった雰囲気である。
とりあえずトイレがあったので用を足し、戻ってくると、アプト式の模型が展示されていた。
まぁホームを行ったり来たりするのも飽きたので、喫煙所でたばこを吸っていると、珍しくお客さんが来たとばかりにいっぱい蚊が食いついてきやがる。こうして蚊と格闘しながら30分ばかり駅で過ごした頃にようやく高崎行きの電車がやってきた。
多少なりとも冷房は効いているしとそちらに避難。20時ちょい前に高崎に向けてガタゴトと走り出した電車は30分余りで高崎に着き、駅弁屋で名物のだるま弁当をを買い、2時間半以上湘南新宿ラインに揺られて、家路に着いたのであった。

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