日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 | |||||||||||||||||||
2005年8月09日 | 長久保〜小田井 | 晴れ | 9時間07分 | 45894歩 | 32.13km | 1650円 | |||||||||||||||||||
![]() 上田駅 ![]() 上田交通 ![]() 上田交通 ![]() 真田幸村公銅像 ![]() 水車 ![]() 上田の観光案内 ![]() 28℃ |
まえがき 昨日は、早すぎる終バスのお陰でえらい目にあったが、今日は遅すぎる始発バスを言い訳にのんびり9時に上田駅を出発だ。それでも7時前に起床は基本である。 いつの間にやらこんな所に新幹線が通る一方、千曲川をのんびり渡ってくる上田交通の別所線という私鉄ローカルがあり、かつての信越本線はいつの間にかしなの鉄道という第三セクターの鉄道になっている。 ボーと窓から眺めていくと新幹線やら昔、東横線を走っていた車両が未だに現役な上田交通の電車がおもちゃのように動いている。 朝遅い分、真田幸村ゆかりの上田城を見ていこうかと思ったが、今日も長久保から約30km先の御代田まで歩いて電車でここへ戻る予定であるので、昨日さんざん無駄な体力を使った事もあり出発ギリギリまでホテルで くつろぐ事にする。まぁ宿場毎に泊まれば交通の心配は無いのだが、ホテルに連泊すると余分な積荷をホテルに置いていくことが出来る利点があるのだ。というわけで余分な着替えやら置いて若干身軽にスタート。 さて、駅前に出るとさすがは真田幸村ゆかりの地なわけで、真田幸村公が馬にまたがった銅像がある。 でよくわからないのがでっかい水車だ。で上田の観光案内があったので見てみるか。
並んでいる客は俺様を含めて3名足らずである。すでに気温が28℃となっているが数字ほどの暑さは感じられない。 バスに揺られること1時間余りで長久保に辿り着いた。途中の依田窪病院までは乗客がいたが、あとは俺様貸し切り状態であった。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() 長久保宿その1 ![]() 道標 ![]() 長久保宿その2 ![]() 釜鳴屋その1 ![]() 釜鳴屋 ![]() 長久保宿本陣 ![]() 一福処濱屋 ![]() 一福処濱屋内部 ![]() 明治初期の長久保宿 ![]() 松尾神社の鳥居 ![]() 草むらの中山道 ![]() 笠取峠 ![]() 学者村? ![]() 笠取峠 ![]() 笠取峠 ![]() 立科町 ![]() 一里塚 ![]() 笠取峠の松並木その1 ![]() 笠取峠の松並木その2 ![]() 笠取峠の松並木その3 ![]() 峠越えの一杯 ![]() 笠取峠の松並木その4 ![]() 笠取峠の松並木その5 ![]() 領界石 ![]() 笠取峠の松並木その6 ![]() 誰かの句碑 ![]() 笠取峠の松並木その7 ![]() 保科五無斎さんの碑 ![]() 笠取峠の松並木その7 ![]() 道祖神 ![]() 芦田宿入り口 ![]() 芦田宿入り口その2 ![]() ひまわり ![]() 道祖神 ![]() 芦田宿その1 ![]() 屋号が入った家 ![]() 芦田宿脇本陣跡 ![]() 芦田宿本陣跡 ![]() 町!! ![]() 芦田バス停 ![]() 立科町のマンホール ![]() ガードレールに描かれた顔 ![]() 田んぼ |
というわけで9時58分、昨日のゴール地点の長久保宿の中の交差点をスタートした。昨日は気付かなかったが旅館があるじゃん。ただ、毎日宿が違うと全行程の荷物を毎日背負わないといかんのでそれもちょっと考えものである。 今回は上田のホテルで連泊しているおかげで、無用な荷物は置いてきたので積荷は昨日より軽くなっている。 で交差点の角には「中山道 長久保宿 左ぜんこう」と読める道標がある。やはり、昨日終バスに間に合わず歩いた道は善光寺に続く道だったようである。 で、前方に見えるのが笠取峠だろうか。まぁ和田峠の様に一日掛かって越える様なスケールでは無いが、最初から峠というのは気が重い。 ぱっと見では住宅街の長久保宿をまずは笠取峠を目指して進むと左手になにやら説明が書かれた看板の建った家が有る。 釜鳴屋と書いてある。
で直ぐ近所には立派な門構えのお宅がある。そばに寄ってみると本陣跡らしい。しかも現存する中山道の本陣のなかでもっとも古いと書かれている。
だが施錠されているのか入り口が開かないので、とりあえず一服していると、どこからともなく人がやってきて、鍵を開けてくれた。 折角だし、なにより今日はゴール地点が電車の駅なので、気ままに寄り道して
などとさも知っていたかのように書いてしまうが実は、3行以上の説明は見るのだるいので、写真に撮って後でさも現地で読んで納得したかのように書いているのである。 ネタバレはともかく中へ入ると土間と板の間が飛び込んできた。夏場はひんやりして具合が良さそうだが冬はとっても寒そうだ。 どうやら誰かが常駐して管理しているわけでもないようで、一番乗りの俺様一人がこの建物の中にいるわけである。 土間にはこの手の資料館ではおなじみの脱穀機とか千歯こきとか年代物の農機具が置いてあり、壁には長久保宿の地図と主な建物を記した地図と明治初期の長久保宿の写真がある。変わっていないのは道幅位なもので、家も風景もぜんぜん別物である。 で2階へ上がると駕籠とか宿場関連の展示があった。まぁ悪く言ってしまうとどこかの資料館と展示してあるものと一緒なわけだが、宿場内だけで通じた紙幣である宿場札は結構な数が展示されていた。 で下へ下るとお茶をどうぞと(当然セルフサービスだが)あるのでお茶を一杯頂いて街道に戻った。 笠取峠に向かって緩やかに坂を登っていくと人家が途絶え畑が広がる先には鳥居が建っている。うっすらと松尾神社と書いてあるのが読める。松尾神社への参道イコール中山道の様だ。 松尾様と言えば酒造の神様だが、長久保宿には釜鳴屋が元酒蔵だったそうだが現存する酒蔵は無かった様である。 寄ろうとも思ったが、あくまで酒造の神様であって”酒呑”の神様ではないし、お参りして裏手から中山道に復帰できれば良いのだが、松尾神社の裏手の土手の上を通る中山道の高低差を考えるとはしごでも掛かっていないと通り抜け出来そうにもなく、かといってお参りしてここまで戻ってくるのもかったるいので、パスさせていただいた。
中山道は松尾神社を大きく迂回するように通っているので、寄り道どころかショートカットになるじゃねーかと言うことに気付いて少々悔しい思いをするする。 で今歩いているこの道は立派な右手の国道ができたため車の往来は少ない。ただし、国道が大きくカーブを描きながら緩やかに登っていくのに対し、こちらの道はタイトコーナーの連続でおまけに急勾配である。 加えて中山道は、タイトコーナで徐々に高度を稼ぐ道をショートカットするかのように上っていく。やがて国道に合流し、長久保宿を出発してから1時間ほどで笠取峠に辿り着いた。
立科に入って程なく反対車線の土手の上に一里塚がある。国道を造ったときに大分削ったようである。 峠から下りに差し掛かると何やら、雑誌が散らばっている。素人なんちゃらと書かれたエロい本だ。きっと笠取峠を登るトラックが、ちょっとでも荷を軽くしようと、放り投げたものだろう。 峠から20分ほど下ると松並木に差し掛かった。 笠取峠の松並木とある。東海道は、大磯、舞阪、知立、御油と大規模な松並木があったが中山道では関ヶ原あたりや高宮辺りにちょろっと残っている位でこれだけ大規模なのは京都から歩いてきてここが初めてである。
国道を横断し反対側の松並木に向かうと程なく「従是東小諸領」という石碑が建っていた。
で、誰かの句碑があり、吉村煙嶺さんという方の俳句のようだがどんな人だか知らないし、彫った字が読めん。 松並木を歩いていると再び、石碑がある。保科五無斎さんの作品のようでこちらは「おいらが死んだら佐久の山部に送ってくれ。焼いても生でもいいから」と何となく読めるが詩なのか遺書なのか悩むような文字が彫られている。 さらに松並木を進むと道祖神がある。なんとなくほのぼのとして可愛らしい。 松並木を抜ける再び国道を渡るともう芦田宿入り口と書かれた看板が建っている。しかし宿場町ならば両脇に家が並んでいるが、畑やら空き地など微妙な隙間があるのでおそらく、先の看板はここから芦田宿ではなくこの道が芦田宿の入り口へつながっているよという意味なんだろうと解釈するのだが、側にあった中部北陸自然歩道の標識は芦田宿をスキップして「塩名田13km、笠取峠2.3km)と書かれている。 まぁいずれにせよ芦田宿はもう目と鼻の先なわけだろうが、11時に笠取峠を越えてここまで2kmちょいの道のりでなぜ今12時なんだろうとそっちの方が気になった。 自らの悪行を振り返るとそーいやベンチに20分は座り込んで一杯やっていたような・・・今まで、馬籠峠、塩尻峠、和田峠と峠越えの一杯をやっつけてきたが、これらに較べると笠取峠はわざわざ酒呑んで無事を祝うようなスケールではないな。 畑の傍らに咲くひまわりと道祖神に癒されつつ程なく軒下に屋号とおぼしき物が掲げられているお家などあり宿場町っぽい家並みが現れた。 さらに5分ほど歩くと脇本陣跡、続いてやたらと立派な門構えのある本陣跡に着いた。
一方日本語であるはずの「唐破風とともに懸魚、蟇股、頭貫、肘木などで構築きれ・・・」というくだりは正直よくわからん。 さらにしばらく歩くと、「町」というストレートな地名標識があった。さすがに町なわけでバス停があった。しかもさすがに町というだけに長久保と違って18:40まで小諸行きのバスがある(平日だけだが)。 まぁ長久保からここまで1時間半で来るのも結構無理があるので長久保でバスを乗り過ごしたからといってメリットが有るわけではなさそうだ。 で足下に目をやると当然ながら金なんか落ちていなかったが蓼科山と唐松(多分)と白樺湖(だったりして)をデザインに使ったマンホールがあった。 たかがマンホールとは言え、図案に郷土愛?が見られるが、マンホール見ながら歩く人もそれほど居ないだろうなぁ。 等と思いつつ前方のガードレールに赤いテープが貼られている。見慣れた中山道の目印にしては図柄が複雑すぎるし分かれ道が有るわけでもないなぁと近づいてみると、赤いビニールテープで赤い涙を流している顔が描かれていた。 どうやら、突っ込んでこないでねという警告らしい。 家並みが途絶えると、高台から田んぼを見下ろし「ファッションセンターしまむら」の向こうに浅間山の山裾が見える。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() 間の宿茂田井への分かれ道 ![]() 中山道茂田井間の宿の標柱 ![]() 茂田井一里塚跡 ![]() 茂田井宿の街並み ![]() 大澤酒造 ![]() 大澤酒造の鎧兜 ![]() 元禄の酒の入ったとっくり ![]() 歴代首相の国酒の色紙と表彰状 ![]() 試飲コーナ ![]() 武重酒造 ![]() イナゴ ![]() 茂田井宿外れ ![]() 望月町マンホール ![]() 望月宿入り口 ![]() 大伴神社 ![]() 望月温泉みどりの村入口 ![]() 重要文化財 真山家 ![]() 脇本陣 ![]() 望月歴史民俗資料館 ![]() 望月のバスターミナル ![]() 前の山を越えるらしい ![]() 鹿曲川 ![]() 長坂の石仏群 ![]() 長坂から望月宿を望む ![]() 草ぼうぼうの中山道 ![]() 瓜生坂 ![]() 瓜生坂を振り返る ![]() 瓜生坂本来の下り口 ![]() 瓜生坂一里塚跡 ![]() 元禄の道標 ![]() 祝言道祖神(百沢) ![]() 百沢の集落 |
12:30、中山道茂田井間の宿という標柱が建つ分かれ道があった。芦田宿から30分も歩いていないし特に難所が有るわけではないのに間の宿とはなぁと思いつつ、茂田井宿へ向かう。
看板を見るとただの酒蔵では無いようで看板には本業の「大澤酒造」の他「大澤酒造民俗資料館」、「しなの山林美術館」と3つの名前が記されている。 まずは民俗資料館からお邪魔してみる。するといきなりごっつい鎧兜がお出迎えだ。 で階下の日本酒コーナへ行くと、元禄の酒というものが展示されていた。華やかな吟醸酒の影で、日本酒を何年か寝かした古酒がマニアの間では密やかなブームになっているが、300年古酒とは恐れ入った。
目線を上に向けると「村山富市さん」やら「海部俊樹さん」など歴代の首相の「国酒」と書かれた色紙が掲げられ、鶴岡八幡宮やら穴守稲荷の御神酒の許可証がある。 これは試飲コーナが楽しみだと、さっきワンカップをやっつけたにも関わらず飲む気まんまんの俺様だった。 で試飲コーナーに立った俺様は、どれにしようかなと悩む事無く並べられた酒瓶を右から傾けるのであった。 「信濃のかたりべ」は純米酒だがすっきりして飲みやすい。とは言え水みたいなという表現は似合わずしっかりとした個性を持っている。「善光寺秘蔵酒」は独特な風味がといずれも秀逸付けがたいがとりあえず積荷が1kgほど重くなってもいいから、信濃のかたりべは買って帰ろうと思い、店員を呼ぼうと「すいませ〜ん」とか「ごめん下さ〜い。」と呼んでみたが忙しいようで出てきてもらえなかった。 まぁよくよく冷静に考えて見れば、置いてきた着替えに加え4合瓶を背負って碓氷峠を明日越えないといかんことに気付いたので、まぁいずれ車などで近くを通ったら寄っていくことにしよう。 で一旦表に出て別棟の「しなの山林美術館に寄ってみる」山の油絵などが展示されているが著作権の問題もあるので良識有る俺様は写真撮影は遠慮しておいた。ただ、鹿の剥製がいたのでツーショット写真を撮らせてもらったぜ。 で街道に戻って歩き出すと、またまた酒蔵だ。 足を止めて見ると「国登録有形文化財 武重酒造」とある。どうやら年季の入った建物らしい。傍らには若山牧水の歌碑があり
で再び歩き始めると、長野県民?の好物?イナゴがいた。イナゴの佃煮は高速道路のサービスエリアや土産物屋でしか見たことが無いが実際にスーパーなんぞで売られているのだろうか。こうして泊まりがけの旅だと晩飯を仕入れるためにスーパーに立ち寄ることもあるのだが、今回はそういった機会にも恵まれず、本当にイナゴが長野でメジャーな食材なのか確認はできていない。 今回は出来なかったが旅先でスーパーに立ち寄ると、自分の生活圏と異なる食文化を感じることができたりするわけで こちらでは身の部分がこちらを向いて並べられているあじの干物も、伊勢では皮を表に並べられていたり、即席麺コーナに寿がき屋の味噌煮込みうどんが並んでいたらここは中京圏だなぁとか、カップうどんのどん兵衛に”W”の刻印が有ればここは関西なんだなとか感じることができる。 というわけで、イナゴが道路に現れるほど長閑な中山道を進むと、間の宿茂田井に関する看板が立っていた。
で15分ほど歩くと、これより中山道望月宿という標識があった。芦田宿から1時間半程度なので6kmちょいと言ったところだろうか。で、中山道望月宿の下には「佐久市望月支所」と書かれており、これまた平成の大合併の余波でおいらの知らぬ間に佐久市に合併されてしまったようだ。 大伴神社の鳥居の前に中山道望月宿と刻まれた石の標柱があり、間違いなく望月宿に入ったようだ。しかしこの大伴神社に限ったことでは無いが、歩き疲れた俺様を拒むかのような急な石段である。 で、望月といえば先ほどの辛く苦しい合宿(大げさな!)だが、その際お世話になった「望月温泉みどりの村」と記された標識がある。まぁ歩いて5分位の所ならちょいと立ち寄って温泉でも入っていこうかなと思うが、そういうわけにもいかん距離なので通り過ぎた。 重要文化財の真山家など、宿場町の趣が残されているがよく考えたら状況的に風呂より先に飯なわけだが、食堂の類は残念ながら見あたらない。 つづいて脇本陣、本陣跡があり、佐久市立歴史民俗資料館があった。あらら、望月町も合併して佐久市になっちゃったのかよ。 まぁ折角なので歴史民俗資料館に立ち寄ってみる。 2階に上がるとなにやら棟方志功チックなものすごいスケールの版画が展示されている。で展示室には機織りの機械、農機具とどこの民俗資料館にも置いてありそうな定番のグッズが陳列されており、望月宿に関する年表が展示されていた。
そういえば川沿いの宿場町ってあまりなかったなぁ。もともと宿場も街道も対岸にあったらしいし。 で難しいことはよくわからんが、要するに「こんど和宮様が通るので関係者によろしくしといてね」といった文書が展示されていた。
しかしまた数千人規模の行列でありながらこんな小さな集落でどのように宿を確保し食事を用意したんだろうか。
でこちらも紙だが、これは一般人が旅するときに欠かせない往来手形が展示されていた。
しかしまた松代から出てきた喜兵衛さんの手形がここに有るってことは、ここ望月で旅が終わったってことで、ここに居着いちゃったというなら良いが、ここで行き倒れちゃったというならちょっと悲しい。 まぁ松代だったら上田を経て善光寺街道を進んで長久保で中山道に合流で2日もあれば余裕なはずだが・・・ 逆に本当に諸国を巡って松代まであとちょいの望月宿で力尽き果てたとしたら余りに悲しすぎる。 で望月歴史民俗資料館を出発し5分ほど歩くと無駄に広いバスターミナルがあった。奥の石垣の上に線路があって、駅舎の跡かなぁと思ったが、そうでも無いらしく単に広いだけの話らしい。で家並みの隙間から対岸の山が見えるが、車はトンネルで中山道はこの山を越えるらしい。気がつくと14時を回っており、昼飯無し確定となったようだ。 で橋を渡り対岸を歩くと、中山道長坂分岐点という看板が建っていた。中身を見ると先ほどの大洪水で流される前の旧道と洪水後にに改められた新道との分岐点とのことである。
長坂の入り口には誰かを供養するためなのか、旅の安全を祈るためか石仏が並んでいる。 坂の途中で2車線幅の道路に出たが、トンネルがあるためこちらの交通量は少ないようだ。道路を渡り、草ぼうぼうの中山道を進んでいくと「瓜生坂」と言う石碑とすり減って判読不能な石碑or石仏があった。はて、坂の入り口にあった石仏は長坂で上り詰めると瓜生坂・・・地名は長坂で、坂の名前は瓜生坂ってことか? 振り返ってみるとなかなかの急坂である。暫く進むと「道はここから斜めに下っていた」とあるが、すでに本来の道は自然に還ってしまっているようである。 さらに進むと一里塚があった。
もと来た道を戻るのも癪なのでそのまま進んで坂の下に出る道を探すとかなり進んでからようやく坂の下を川沿いに延びる道に出ることができた。 思わぬ回り道をしてしまったが、地図ではおいらが進もうとしたルートは点線で記述され、現在通れないことを意味していた。そんなわけで素直に瓜生坂抜けたら素直に国道沿いを歩いた方が良いらしい。 再び国道に戻ると、元禄の道標とかすれた文字で書かれた案内板の脇に石碑がある。「右中仙道、左布施谷」と書いてあるらしい。というわけでおいらは左側からやってきたので、牧布施から中山道に入ってきたことになる。 こうした回り道やら、笠取峠の松並木で一杯やってたり、望月歴史民俗資料館に立ち寄ったりで、予定ではこの辺りを13:40位に通過予定だったが現在14:50と一時間以上遅れている。 で百沢の集落に続く道に入ると道祖神があった。以下の説明によるとかなりレアな道祖神らしい。
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![]() 国道142号 ![]() ハチヒゲおじさん ![]() 国道、県道から逸れる ![]() 御代田まで16km ![]() 塩名田まで3.4km ![]() 八幡宿の街並み ![]() 八幡宿本陣 ![]() 八幡神社 ![]() 旧浅科村のマンホール ![]() 田んぼ ![]() 一里塚跡 ![]() 一里塚先の分岐 ![]() 橋の上から舟つなぎ石 ![]() 千曲川 ![]() 橋から下って舟つなぎ石 ![]() 十九夜塔 ![]() 塩名田バス停 ![]() 佐久鯉 ![]() また佐久鯉 ![]() 塩名田宿の標柱 ![]() 分かれ道 ![]() 先ほどの道と合流 ![]() リンゴ畑やら水田やらお家やら ![]() 長野新幹線 ![]() りんごの木 ![]() 相生松 ![]() こども科学館 ![]() 小海線中仙道踏切 ![]() 小海線清里方面 ![]() 小海線佐久平方面 ![]() 信号を左で岩村田宿 ![]() 岩村田宿 ![]() リッター133円 ![]() 従是善光寺道の道標 ![]() 浅間山 |
というわけで百沢の集落を抜け、国道142号にでると、なにやら人の顔をどアップにした看板がある「ハチヒゲおじさんの店」とあり、ハチミツを売っているお店のようだが・・・おとっつあんのひげのように見えるのは全部ミツバチかよ!! しばらく歩くと、国道142号から逸れ、県道下仁田浅科線に入る。道路標識には「御代田16km」とありどうやら当初の予定では18時過ぎに辿り着くはずの今日のゴール地点である御代田駅には19時過ぎになりそうである。その道路標識の下には、塩名田宿3.4km<-八幡宿->笠取峠11.9kmと書かれた標柱が建っている。でこの県道からも一旦逸れて再び合流し八幡宿に入った。 道路は拡幅されつつも歩道はなく、美濃路の伏見宿のような感じである。まぁあっちは国道21号なので交通量は半端ではないがこちらは時間帯も有るのかそれほど交通量はない。もっとも伏見宿は手前まで片側2車線化工事が進んでおり、伏見宿の辺りはバイパスで迂回することになりそうだが・・・。 さて5分ほど歩くと年代物の門構えの脇に本陣跡と記された標柱が建っていた。八幡宿と言いながら宿場町らしいものにやっと出会うことができた。 またまた5分ほど歩くと、あちこち彫刻が施された立派な門構えの神社があった。同じ八幡と書いて宿場は”やわた”で神社は”はちまん”だそうな。 というわけで八幡宿の見所となると八幡神社くらいしかなかったのだが、なんとか明るいうちにゴールしたかったので、寄り道はせずに通り過ぎた。 宿場を抜けると田んぼが広がっている。ふと足下に目をやるとあさしなと書かれた山と川らしきものがモチーフされたマンホールがある。以前はここいらは浅科村だったようだが佐久市に合併されてしまったようだ。おそらく山は浅間山で川は千曲川だろう。 この田んぼが広がる長閑な中山道を進んでいると一里塚跡が有った。塚の上にはなにか石碑があるのだが微妙に崩された字体のおかげで何を意味するのかわからない。 この一里塚を過ぎて県道を左に逸れて坂を下ってしばらくで千曲川のほとりに出た。下流側には長野新幹線の鉄橋があり、その気になればもう東京まで90分ちょいで帰れる距離まで歩いてきた・・・と思ったのだがよく考えりゃ東京−名古屋もそれくらい掛かるか。 でなにやら舟つなぎ石という説明がある。
再び県道に戻ると塩名田バス停があり、ぼちぼち宿場に入ったようである。商店の壁に掲げられた看板には「佐久鯉」と書かれてありその下には切り鯉、塩焼き、あらい、味噌煮といったバラエティに溢れた料理法が書かれている。しばらく歩くとまたもや 看板に佐久鯉と記された商店がありすっかり文化圏も佐久に変わったようである。でようやく中山道塩名田宿と書かれた標柱があり、他にこれといった物は残されていないようだがどうやらここが塩名田宿で有ることには違いないらしい。 というわけで標柱一本しか宿場の名残をとどめていない塩名田宿を過ぎ、県道を渡って緩やかな坂道を登っていくと道が二手に分かれている。 まぁ左手の道は崖っぷちに沿うように通じており、昔の道はそんな危険なところは通さないだろうと考え右手の道を進む。 で五分ほどで先ほどの道と合流したようである。おそらく、近世になってからショートカットの為作られた道であろう。周りをみると建ち並ぶ家がこれまでと違って割合新しい家が多くどうやら新興住宅地のようである。 でも開発の途中なのだろうか、リンゴ畑やら水田もまだまだ残っており、その水田の向こうには長野新幹線の高架が見える。 かれこれ30分ほど歩いているが余り風景は変わり映えせず、道路脇の畑にはまだ青いりんごの実がなっている。 で国道141号に差し掛かると佐久平駅開業の影響だろうか。風景は一変し道の両脇には真新しいショッピングセンターやら様々な店が並んでいる。まぁ昼飯の時間はとうに過ぎているのでここを右に向かえば清里かぁと思いつつ横断した。 これまで旧街道っぽいものは無かったが、塩名田を出てから1時間あまりでなんかの石碑とそいつを囲むように植えられた木があった。一里塚跡かと思ったらどうも違うようで擦れた標柱にはなんかの記念物のようである。調べると相生松とのことでなにやら石碑まであるのだが全く読めない。 相生の松よりしばし歩いたところにコンビニがあったのでビールやらお茶やら仕入れ、お茶ぬるくとも飲めるがビールは無理なのでその場で流し込み体力の回復というか酔っぱらった勢いで再び歩き始める。 一応酔っぱらいつつもそろそろ岩村田なので、強引にこの辺りをゴールにすることもできるなと思ったが、明日の碓氷峠越えを考えると少しでも先へ進んでおいたほうが良いし、明日の予定に運行本数の少ない小海線を加えるのもなぁと言ったところで先へ進むことにした。 すると前方に銀色のドーム状の屋根の建物が見える。こども科学館とかいう建物らしく新興宗教の怪しげな道場ではないようなので安心しつつ、小海線の踏切を越える。とりあえず電車の来る気配は無さそうなので清里方面と佐久平方面の写真なんぞ撮ってみる。 程なく前方に信号機が現れた。ぼちぼち左に曲がるはずだがと電柱を見るとやはり赤いテープで左を示している。 で左に曲がってみると商店街なのだが、やはり空き店舗率は高い様だ。で営業中のガソリンスタンドがあり、俺様の近所ではレギュラーガソリンが当時120円台前半な時に133円と10円ほど割高になっている。まぁ長野県で給油するなら、全国統一価格な高速のSAのほうがよっぽど安いので、なるだけ長野県では給油しないよう心がけているのだが、こうして一年経ってみると去年の長野プライスが近所の安売りプライスに相当しており、そりゃもうびっくりなわけである。 ひょっとしたら反対側の歩道には何かあったのかも知れないがガソリンの値段の話で岩村田宿を語り尽くしてしまうほど何もないので先を急ぐ。 で両脇の商店がまばらになった頃、「従是善光寺道」という道標があった。ここから善光寺というと国道18号を右に長野を目指すわけで、中山道経由なら京都からならば洗馬、長久保、日本橋ならば追分から善光寺に向かうわけで、中山道いずれから来てもこの位置の道標は役に立たないはずでこいつはおそらく甲府辺りから善光寺参りをする人たちの為に建てられたものであろうと勝手に判断した。 で、一旦寂れたように見えた商店街だが次第に息を吹き返し、通る車の数に合わせて店が増えてきた。その原因は上信越道の佐久インターの様である。でその上信越道の向こうには浅間山が見える。天気予報ではかなり怪しげな天気だったのだがとりあえずここまで雨に降られずに済んだ。まぁ昨晩、タクシーで上田に辿り着いた瞬間降られはしたが・・・ | ||||||||||||||||||||||||
![]() 上信越道 ![]() 払ってあげてください ![]() 狭い道に進む ![]() 街道の面影の残る道 ![]() 御代田町 ![]() 御代田町の街並み ![]() 小田井宿 ![]() 小田井宿問屋跡 ![]() 瓦葺きのバス停 ![]() 問屋その2 ![]() 小田井宿本陣跡 ![]() 御代田駅入口 |
というわけで上信越道を越えると大分車の交通量が減ったような気がする。これまで大分景気の良い感じがかなり薄れてきた。そんな中、会社の門の前で「会社は未払い」とまた切実な看板が建っていた。日本経済回復の兆しとかいってもまだまだ地方にまで行き渡ってはいないようである。まぁ会社も払えるなら払っているだろうし、まぁ会社の信用に響くような看板を撤去出来ないほど弱っているのだろうか。 でヤバめな会社より5分ほどで狭い道となる。岩村田以来旧街道っぽいの道である。 18時35分、ようやく御代田町に入った。もう日暮れとの戦いである。御代田町に入ったとは言え、今日のゴールとなる御代田駅はおろかその手前の小田井宿にもまだ辿り着いていない。 と思ったらカーブの向こうには「小田井宿」と記された標柱が建っていた。 暫く進むと問屋跡と記された標柱が建っている年代物の門構えのお家がある。その向かいにはバス停が有るのだがなんと待合所の屋根が瓦葺きだった。でまたまた問屋跡がある。なにも残っていなかった岩村田宿と較べると小田井宿、かなりやる気が有るようだ。 また、小田井宿に関する説明が記された看板が建っていた。 でちょっと離れたところには本陣に関する説明があった。
宿場の日本橋側の境には小田井宿の案内板があり、それによれば毎年八月一六日は小田井宿祭りとのことである。祭りと言えば、2004年の守山から関ヶ原までの旅の中での高宮宿ー鳥居本宿の間にあった集落での祭り、2002年東海道、桑名—京都の旅の中で大津ー京都間での山科手前の祭りに出くわしそれぞれ、ビールで祭りの雰囲気を堪能させてもらっているのだが、今回は微妙に外してしまったようで残念である。 で気がつくとすっかり暗くなってしまったが、前方に御代田駅と記された看板がある。だが、中山道はしなの鉄道の線路に突き当たるまで進み、線路と平行して上田側に進めば良いようなのでもう少し中山道を進み、長久保を9時58分にスタートしてからおよそ九時間後の19時05分ゴールと相成った。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() 御代田駅 |
番外今日もまたゴールだったと思ったらゴールじゃ無かったわけで、駅舎はどこよというわけで線路沿いに歩いていると道が二叉に分かれている。左手は坂を下る道で、右手は線路を陸橋で跨いだ先にパチンコ屋が見える。パチンコ屋=駅前のごく当たり前の図式が脳裏に浮かんだのそっちへ向かうと、駅舎は反対側に見下ろす位置にあった。 どうやらこちら側からのアクセスは全く無いようで戻るのも悔しいからと進んでいくとちょいと大きめの道が線路を跨いでいるので、改札があるかなと期待して行ってみるが、改札は無く、代わりに御代田駅の構造が手に取るようにわかった。 ホームは2面式で下り線側のみ改札が設けられており、上り下りのホームのアクセスのため跨線橋が設けられている。この跨線橋の上り線側の一端が二叉の分岐点からはさも改札が有りそうに見えたのもこのトラップの一因となっていた。 しかもこの橋からはホーム、駅舎全景が見渡せるにも関わらず、ぐるっと大きく回り込まないと駅前に到達できない。というわけで15分ほど無駄足を踏んでようやく御代田駅にたどり着いた。 しかしまた、今時有人改札というのも今時珍しい。ホームのまばらな人影を見る限り無人駅でも不思議ではない。でやってきた電車は小諸止まりだったが一応上田方面への連絡はスムーズだった。で上田に着き、駅前のローソンで晩飯に缶ビール2本とざるそばとからあげくん、朝飯のためにおにぎり2個とお茶を仕入れてホテルに戻った。 |
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