中山道 長久保−小田井

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年8月09日長久保〜小田井晴れ9時間07分45894歩32.13km1650円

上田駅

上田交通

上田交通

真田幸村公銅像

水車


上田の観光案内


28℃
まえがき
昨日は、早すぎる終バスのお陰でえらい目にあったが、今日は遅すぎる始発バスを言い訳にのんびり9時に上田駅を出発だ。それでも7時前に起床は基本である。 いつの間にやらこんな所に新幹線が通る一方、千曲川をのんびり渡ってくる上田交通の別所線という私鉄ローカルがあり、かつての信越本線はいつの間にかしなの鉄道という第三セクターの鉄道になっている。
ボーと窓から眺めていくと新幹線やら昔、東横線を走っていた車両が未だに現役な上田交通の電車がおもちゃのように動いている。
朝遅い分、真田幸村ゆかりの上田城を見ていこうかと思ったが、今日も長久保から約30km先の御代田まで歩いて電車でここへ戻る予定であるので、昨日さんざん無駄な体力を使った事もあり出発ギリギリまでホテルで くつろぐ事にする。まぁ宿場毎に泊まれば交通の心配は無いのだが、ホテルに連泊すると余分な積荷をホテルに置いていくことが出来る利点があるのだ。というわけで余分な着替えやら置いて若干身軽にスタート。
さて、駅前に出るとさすがは真田幸村ゆかりの地なわけで、真田幸村公が馬にまたがった銅像がある。
でよくわからないのがでっかい水車だ。で上田の観光案内があったので見てみるか。
真田
村

 真田氏は上田の北、現在の小県郡真田町に
本拠をもつ領主でしたが、戦国時代末の幸隆
のときに、信濃へ進出してきた武田信玄に仕え
て頭角を現しました。武田氏の家臣として、
真田氏は幸隆・昌幸の2代で真田の地から峠を
越えた上野国(群馬県)の吾妻郡や沼田(利根郡)
にかけて勢力を築いたのです。そして、天正
10年(1582)の武田・織田両氏の相次ぐ滅亡
による混乱の中で真田昌幸は、周辺の上杉・
北条・徳川という強豪のはざまにあって目覚
ましい働きをみせ、その勢力をさらに拡大し
ます。天正11年(1583)には上田城築城にとり
かかり、上田盆地を中心とする小県郡一帯を
もその支配下におさめました。こうして成立
した。真田領は石高は10万石足らずですが、
上信の2国にまたがり、上田沼田間だけでも約
100kmもあるという広大なものでした。 
真田氏としては、昌幸の次男であった幸村が
有名です。幸村は慶長5年(1600)の上田城
籠城戦(関ケ原合戦の一環)後、天下を取った
徳川家康によって父・昌幸とともに高野山に
流されました。そして、その山属の九度山で長
く暮らした後、豊臣秀頼に招かれ、大阪冬・夏
の両陣に於いて、徳川勢を相手に大活躍しまし
た。幸村はここで討死しましたが、「真田、日本
一の兵」と言わせた程の武勇は、その後永く後
世に語り継がれることとなりました。
   +-信網……長篠合戦で戦死
   +-昌輝……長篠合戦で戦死
幸隆--+-昌幸-+-信之……松代へ移封
   +-信尹 +-幸村(信繁)--大助
   
天正11年(1583)●真田属幸、上田城築城開始
天正13年(1585)●第1次上田合戦(神川合戦)
        真田勢、7千人余の徳川軍を撃属
慶長5年(1600)●第2次上田合戦。西軍に属し上田に籠城
        した昌幸・幸村父子、西上中の徳川秀忠
        軍(3万8千人)を退ける
       ●信之、上田城主となる。上田6万5千石、
        沼田3万石、計9万5千石
       ●昌幸・幸村父子は高野山に流される
慶長19年(1614)●幸村、大阪城へ入り真田丸を築き活躍
元和元年(1615)●幸村、大阪夏の陣で奮戦の後、戦死
元和8年(1622)●信之、松代(長野市)へ移封となる

上田



 上田城は、真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって
天正11年(1583)に築城が始まりました。
 その後まもなく、上田城は天下にその名を知られる
ようになります。それは、真田氏がこの城に立てこもり、
2度にわたって徳川の大軍の攻撃を受け、みごとこれを
撃退したからにほかなりません。
 最初の合戦は天正13年(1585)に行われました。
攻め寄せた徳川軍は7千人余り、これを迎え撃つ真田軍
は2千人弱。しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、
徳川軍は思わぬ大敗を喫し、1千3百人余りの死者を出し
ました。これに対して真田方の死者は40人ほどであった
と伝えられています。
 慶長5年(1600)、上田城は再び徳川軍の攻撃を受け
ます。豊臣方についた真田昌幸・幸村父子は、関が原
に向かう徳川秀忠率いる3万8千の大軍を、わずか2千
5百の城兵で迎え撃ちます。この時も、徳川軍は上田城
攻略に手間取リ、数日間釘づけにされます。そのあげく、
関が原の決戦に遅れるという大失態を演じてしまいます。
 上田城は、石垣も少なく、一見したところ
それほど要害堅固な城には見えません。しかし、
実際には、周囲の河川や城下町を含めた全体が、
きわめて優れた構造となっていたことが、現在
の学術的研究によって明らかになってきました。
全国に数多い近世城郭の中で、2度も実戦を経験
し、しかもこのような輝かしい戦果をあげた
城は、ほかに見ることができません。
 上田城は関ケ原の戦いの後、徳川軍の手で
取り壊されましたが、寛永3年(1626)、上田
に入った仙石氏により、真田氏時代の姿に近い
形で復興され、その後松平氏の時代になっても
ほとんど変化はありませんでした。
 廃藩置県後の明治7年(1874)、上田城は
民間に払い下げられ、再び廃城になります。
この際、本丸付近を一括して購入した丸山
平八郎氏は、明治12年(1879)、松平神社(現
真田神社)創建にあたリ、本丸南側の土地を’゜
神社用として寄付、ついで、明治26年(1893)
には、残りの土地を遊園地用として寄付しま
した。これが現在の上田城跡公園の始まりです。
 三の丸一帯は、藩主屋敷のあった上田高校
付近を除いて、市街地となっていますが、本丸・
二の丸には土塁・掘跡などが残り、本丸の三基
の隅櫓は当時の姿を留めています。

ぷらぷらしていてもまだ時間があったのでコンビニでおにぎりにカレーパンといった食料とカップ酒など燃料を仕入れバス停に並ぶ。
並んでいる客は俺様を含めて3名足らずである。すでに気温が28℃となっているが数字ほどの暑さは感じられない。
バスに揺られること1時間余りで長久保に辿り着いた。途中の依田窪病院までは乗客がいたが、あとは俺様貸し切り状態であった。

長久保宿その1

道標

長久保宿その2

釜鳴屋その1

釜鳴屋

長久保宿本陣

一福処濱屋

一福処濱屋内部

明治初期の長久保宿

松尾神社の鳥居

草むらの中山道

笠取峠

学者村?

笠取峠

笠取峠

立科町

一里塚

笠取峠の松並木その1

笠取峠の松並木その2

笠取峠の松並木その3

峠越えの一杯

笠取峠の松並木その4

笠取峠の松並木その5

領界石

笠取峠の松並木その6

誰かの句碑

笠取峠の松並木その7

保科五無斎さんの碑

笠取峠の松並木その7

道祖神

芦田宿入り口

芦田宿入り口その2

ひまわり

道祖神

芦田宿その1

屋号が入った家

芦田宿脇本陣跡

芦田宿本陣跡

町!!

芦田バス停

立科町のマンホール

ガードレールに描かれた顔

田んぼ
というわけで9時58分、昨日のゴール地点の長久保宿の中の交差点をスタートした。昨日は気付かなかったが旅館があるじゃん。ただ、毎日宿が違うと全行程の荷物を毎日背負わないといかんのでそれもちょっと考えものである。
今回は上田のホテルで連泊しているおかげで、無用な荷物は置いてきたので積荷は昨日より軽くなっている。
で交差点の角には「中山道 長久保宿 左ぜんこう」と読める道標がある。やはり、昨日終バスに間に合わず歩いた道は善光寺に続く道だったようである。
で、前方に見えるのが笠取峠だろうか。まぁ和田峠の様に一日掛かって越える様なスケールでは無いが、最初から峠というのは気が重い。
ぱっと見では住宅街の長久保宿をまずは笠取峠を目指して進むと左手になにやら説明が書かれた看板の建った家が有る。
釜鳴屋と書いてある。
長門町指定文化財竹内家住宅(釜鳴屋)
一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長門町大字長久保五七九
一、指定の理由 江戸時代建造物、町屋造り
    説明
 釜鳴屋は、寛永時代より昭和初期まで洒造業を
営む。この住宅の建立年代は江戸時代前期といわ
れているが不詳である。大きさは間口九間半(一七・
二七メー卜ル)奥行十間半(一九・〇八メートル)の正方形に近
い形で、建坪約百坪(三三〇平方メートル)、片側住居二
列型の典型である。「通りにわ」(土間)は幅三間半
(六・三六メートル)で奥まて通し、その中に細長く板敷
をとつている。土間の上は、巨大な小屋組が現れ
ている。屋根は当初板葺き。昭和五十年葺きかえる。
屋根には『本うだつ」が上げられている。
 「うだつ」については、多くの論考があるが機能に
ついては、防火のためと格式の表示のためのニ論
がある。「うだつ」には、ここに見るような(本う
だつと二階の軒下部分の「軒うだつ」の二種がある。
竹内家には、笠取峠立場図版木と宿場札(長
久保宿のみ通用の札)の版木も、町文化財として
指定されている。
長門町教育委員会


いやぁ、江戸時代前期といえば少なく見積もっても築300年なわけで普通のおうちに混じってとんでもない家が建っているもんだ。
で直ぐ近所には立派な門構えのお宅がある。そばに寄ってみると本陣跡らしい。しかも現存する中山道の本陣のなかでもっとも古いと書かれている。
長門町指定文化財
 長久保宿旧本陣
石合家住宅
一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長門町大字長久保五八九
一、指定の理由  本陣建築として重要
    説明
 江戸初期の本陣建築で、大名、公卿等の宿泊し
た御殿の間と呼ばれる上段之間、二之間、三之間
入側等を現存する。書院様式で、大柄な欄間意匠
には、寛永前後(一六二四前後)の風格がしのばれ中山
道旧本陣中、最古の建築として貴重である。
 嘉永三年(一八五〇」の本陣絵図には、上段之間ほ
か客室、茶之間、台所等二十二室然主要部分で、
ほかに問屋場、代官詰所、高札場を併置し、御入
門ほか幾つかの門、御番所二ケ所、御湯殿四ケ所
雪隠七ケ所、土蔵、馬屋等があった。
 旧本陣石合家には、江戸初期よりの古文書、高
札等貴重な文書、史料が数多く残されており町文
化財に指定されている。
長門町教育委員会
で本陣よりしばらく歩くと反対側にもなにやら味のある建物が建っている。案内板によれば一福処濱屋と書いてある。
だが施錠されているのか入り口が開かないので、とりあえず一服していると、どこからともなく人がやってきて、鍵を開けてくれた。
折角だし、なにより今日はゴール地点が電車の駅なので、気ままに寄り道してサボれる見聞を広める事が出来るわけだ。
長久保宿歴史資料館一福処濱屋の由来
 長久保宿歴史資料館一福処濱屋は、中山道
長久保宿竪町の上位(江戸方)に位置しています。

 現在の建物は、明治時代の初期に旅籠として
建てられましたが、中山道の交通量が滅った
ために開業には至りませんでした。
 間口は九間と広く、総二階建て・延床面積
四〇〇平方メートル程の宿内でも大きな建物
です。また、一階より二階部分を突出させた
「出梁造り」が特徴的で山間部の旅籠建築に
多く見られる手法です。
 平成十二年に建物の所有者である福永家・
黒澤家からご寄付を受けて、地域住民の語らい
の場や長久保宿を訪れる旅人の休み処として
また、宿場関連の歴史民俗資料の展示公開の
場として活用を図るよう改修を行いました。
 一福処濱屋を貴重な旅籠建築の歴史的建造物
として長久保宿の面影を後世に伝えるものです。
           平成十四年六月
           長 門 町
           長門町教育委員会
休館日月曜日(月曜日が祝祭日の場合はその翌日)
どうやら、旅籠として開業しようとしたら明治維新になってしまい、通る旅人もパッタリと減ってしまい開業には至らなかったという不遇な生まれの建物である。
などとさも知っていたかのように書いてしまうが実は、3行以上の説明は見るのだるいので、写真に撮って後でさも現地で読んで納得したかのように書いているのである。
ネタバレはともかく中へ入ると土間と板の間が飛び込んできた。夏場はひんやりして具合が良さそうだが冬はとっても寒そうだ。
どうやら誰かが常駐して管理しているわけでもないようで、一番乗りの俺様一人がこの建物の中にいるわけである。
土間にはこの手の資料館ではおなじみの脱穀機とか千歯こきとか年代物の農機具が置いてあり、壁には長久保宿の地図と主な建物を記した地図と明治初期の長久保宿の写真がある。変わっていないのは道幅位なもので、家も風景もぜんぜん別物である。
で2階へ上がると駕籠とか宿場関連の展示があった。まぁ悪く言ってしまうとどこかの資料館と展示してあるものと一緒なわけだが、宿場内だけで通じた紙幣である宿場札は結構な数が展示されていた。
で下へ下るとお茶をどうぞと(当然セルフサービスだが)あるのでお茶を一杯頂いて街道に戻った。
笠取峠に向かって緩やかに坂を登っていくと人家が途絶え畑が広がる先には鳥居が建っている。うっすらと松尾神社と書いてあるのが読める。松尾神社への参道イコール中山道の様だ。
松尾様と言えば酒造の神様だが、長久保宿には釜鳴屋が元酒蔵だったそうだが現存する酒蔵は無かった様である。
寄ろうとも思ったが、あくまで酒造の神様であって”酒呑”の神様ではないし、お参りして裏手から中山道に復帰できれば良いのだが、松尾神社の裏手の土手の上を通る中山道の高低差を考えるとはしごでも掛かっていないと通り抜け出来そうにもなく、かといってお参りしてここまで戻ってくるのもかったるいので、パスさせていただいた。

長門町指定文化財松尾神社本殿
一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
二、所 在 地 長門町大字長久保字宮所七九一

二、指定の理由 建築彫刻として貴重

      説 明
 この本殿は諏訪の宮大工、三代立川和四郎富重
の建築で、万延元年(一、八六〇)に再々建した
もので総欅で三社の高床造りである。
本殿の欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ、鶴
が舞い遊んでいる姿や、貫の木鼻には象のはなな
ど、実にみごとな彫刻がしてある。
 神社は旧郷社で、祭神は大山昨命であり、本社
は京都市右京区松尾町の官幣大社松尾神社で、酒
造守護の神として往古より酒造家の尊信あつく遠
くより参詣する人が多かった。
 以前は長久保の町裏地籍にあり、その当時は大
欅の森があったが小学校々庭拡張のため昭和三三
年五月現在地に移転した。その際略式の四神の祭
祀のあることが発見された。
   見学上の注意
一、指定地域内の現状をき損しないこと。
一、火気に気をつけること。
        長門町教育委員会
笠取峠を目指して登っていくと、先ほどの松尾神社の裏に出た。ちゃんと階段で抜けられるようになってるじゃん。
中山道は松尾神社を大きく迂回するように通っているので、寄り道どころかショートカットになるじゃねーかと言うことに気付いて少々悔しい思いをするする。
で今歩いているこの道は立派な右手の国道ができたため車の往来は少ない。ただし、国道が大きくカーブを描きながら緩やかに登っていくのに対し、こちらの道はタイトコーナーの連続でおまけに急勾配である。
加えて中山道は、タイトコーナで徐々に高度を稼ぐ道をショートカットするかのように上っていく。やがて国道に合流し、長久保宿を出発してから1時間ほどで笠取峠に辿り着いた。
  笠取峠立場図版木
 長門町堅町の釜鳴屋に保存されている
版木には、峠の斜面に建てられた江戸期
の立場茶屋の様子が写実的に描かれてい
る。当時の峠は、現在の国道一四二号の
峠より数㍍南に位置し、路面も今より数
㍍高所にあった。今では、ぐみの古木以
外に面影はない。
どうやら国道を造ったときに山を削って堀割状にしたため、旧道は無くなってしまったようだ。 峠左手には、学者村と墨で書かれた標柱が建っており、側の看板を見ると別荘地の様である。でなぜ別荘地が学者村なのかよくわからん。 峠を越えると立科町と書かれた標識が有り、長門町から立科町へ入ったようだ。
立科に入って程なく反対車線の土手の上に一里塚がある。国道を造ったときに大分削ったようである。
峠から下りに差し掛かると何やら、雑誌が散らばっている。素人なんちゃらと書かれたエロい本だ。きっと笠取峠を登るトラックが、ちょっとでも荷を軽くしようと、放り投げたものだろう。
峠から20分ほど下ると松並木に差し掛かった。 笠取峠の松並木とある。東海道は、大磯、舞阪、知立、御油と大規模な松並木があったが中山道では関ヶ原あたりや高宮辺りにちょろっと残っている位でこれだけ大規模なのは京都から歩いてきてここが初めてである。
長野県天然記念物
笠取峠の松並木
  この道は江戸時代の中山道である。
 はじめは「中仙道」であったが、享保元年
(一七二六)から「中山道」と改められた。
 慶長七年(一六〇二)幕府は中仙道の整備に着
手、この松並木はその一環として同年幕府から
 小諸藩に赤松数百本が下付されたものを植栽し
たものである。
 以後小諸藩により補植、保護がなされてきた
 笠取峠の松並木は中山道の名所として知られ
 四季を通して旅人の目を楽しませ、松籟を聞か
 せてきた。
 大正一三年(一九二四)長野県による調査と保
 護が加えられ、昭和四十九年(一九七四)長野
 県天然記念物に指定された。
 現在百本余の老松が往時を今に伝えている。
 
長野県教育委員会
立科町教育委員会
        
しばらく歩くとベンチが有ったので、早速峠越えの一杯だ。でワンカップを片手にウロウロすると文字や絵の消えかかった木の看板が有ったので眺めてみる。絵の方はどうやら広重の浮世絵らしい。さらに近づくと文字は判読出来そうである。
笠取峠の松並木
 笠取峠の松並木は慶長7年(1602年)頃、徳川幕府から赤松753本が小諸藩に下付され
南東約15町(約1.6㎞)に植えつけられた。昭和49年(1974年)長野県天然記念物とし
て指定され、現在110本余りの老松が往時を今に伝えている 
 

中山道の成立と中仙道から中山道へ
 関ヶ原戦後、徳川家康は中山道と東海道の総代官頭大久保長安らに行わせた。それよ
り、さかのぼること1568年には武田信玄が相模海蔵寺の荷物運送に甲斐から諏訪に入り
(のちの甲州街道)塩尻、木曽を通る道筋を使用している。また、この頃諏訪から芦田
を経て碓井峠を抜ける道筋も利用されていた。命を受けた総代官頭大久保長安らは地元
大名らと、昔から存在していたこの街道を早急に改修整備することによって、慶長7年
(1602)中山道全線を開通した。東海道53次と並ぶ東西日本を結ぶ交通の大動脈の成立
であった。その後、若干の変更が加えられ、18世紀に入った頃、江戸板橋宿を起点に近
江大津宿で東海道と合流するまでの、信濃26宿を含む69宿(駅)が確定する。1716年に
は「中仙道」と表記されていた街道名が「中山道」と書くよう正式に改められた。


佐久の宿場
信濃16宿の内佐久には9宿がある。
標高差の大きい難所碓氷峠を越え二手橋を渡って軽井沢宿、湯川を渡り4.5kmで宿場の
名を失った沓掛宿(現中軽井沢)、北国街道との分かれ追分宿、農業が中心の小田井宿
、甲州下仁田にも通じる交通の要所岩村田宿、千曲川にかかる橋(約182m)を守る塩名
田宿、三村が往還添いに混存する八幡宿、駒(馬)の里望月宿、笠取峠登り口の芦田宿
である。近年こうして整備された中山道は、現在碓氷峠から一般県道旧軽井沢・軽井沢
(T)線を通り軽井沢町道、国道18号を通って追分、軽井沢町道、御代田町道、主要地方
道佐久・軽井沢線、等の援助を乞うて、五十両ほどで石小屋を築いた。
主要地方道下仁田・浅科線、国道142号、一般県道東部・望月線望月町道、一般県道牛
鹿・望月線、立科町道、主要地方道諏訪・白樺湖・小諸線、国道142号を通って笠取峠を
越える。(H4.1.1現在)
呑んで調子よくなっていたら15分もサボっていたぜ。まぁこれから先昼飯は期待できそうにも無いから昼飯食っていたと思えば良いか。しかし昼飯がバターチキンカレーパン(中辛)というのは寂しい限りだ。
国道を横断し反対側の松並木に向かうと程なく「従是東小諸領」という石碑が建っていた。
従是東小諸領

この石標は、小諸藩が文化3年(一八〇六)に領分境の
東西へ建立したうち西側のものである。
 藩領の西端、中山道笠取峠(ここより西一・七キロメートル)に
あったものの復刻である。これを境に西は幕府領である。

藩領東端の石標は「従是西小諸領」と刻まれ、中山道小田
井宿と追分宿との間、追分原(現御代田町)にあった。
なにやら、国道を挟んでおいらが一杯やっていたところはベンチくらいしか無かったが、こちら側は公園となっているようで、トイレまであった。まぁこっちは人通りも多いから、昼間っから酒かっくらうには向こう側で良かったのかも知れない。
で、誰かの句碑があり、吉村煙嶺さんという方の俳句のようだがどんな人だか知らないし、彫った字が読めん。
松並木を歩いていると再び、石碑がある。保科五無斎さんの作品のようでこちらは「おいらが死んだら佐久の山部に送ってくれ。焼いても生でもいいから」と何となく読めるが詩なのか遺書なのか悩むような文字が彫られている。
さらに松並木を進むと道祖神がある。なんとなくほのぼのとして可愛らしい。
松並木を抜ける再び国道を渡るともう芦田宿入り口と書かれた看板が建っている。しかし宿場町ならば両脇に家が並んでいるが、畑やら空き地など微妙な隙間があるのでおそらく、先の看板はここから芦田宿ではなくこの道が芦田宿の入り口へつながっているよという意味なんだろうと解釈するのだが、側にあった中部北陸自然歩道の標識は芦田宿をスキップして「塩名田13km、笠取峠2.3km)と書かれている。
まぁいずれにせよ芦田宿はもう目と鼻の先なわけだろうが、11時に笠取峠を越えてここまで2kmちょいの道のりでなぜ今12時なんだろうとそっちの方が気になった。
自らの悪行を振り返るとそーいやベンチに20分は座り込んで一杯やっていたような・・・今まで、馬籠峠、塩尻峠、和田峠と峠越えの一杯をやっつけてきたが、これらに較べると笠取峠はわざわざ酒呑んで無事を祝うようなスケールではないな。
畑の傍らに咲くひまわりと道祖神に癒されつつ程なく軒下に屋号とおぼしき物が掲げられているお家などあり宿場町っぽい家並みが現れた。
さらに5分ほど歩くと脇本陣跡、続いてやたらと立派な門構えのある本陣跡に着いた。
県宝
旧芦田宿本陣土屋家住宅
昭和63年8月18日制定
 土屋家は、慶長初期に中山道芦田宿が設置されたとき、その
開発に従事するとともに、本陣をおおせつかり明治に至るまで、
代々勤めた。
 江戸時代後期における土屋家は、客殿、主屋、問屋場、荷蔵、
酒造蔵、 長屋等多くの建物によって構成されていた。
 現在も、当時の面影を良く残している客殿が本指定物件で、
これは中山道芦田宿本陣の客室部として、寛政12年 (西暦
1800年)に改築され明治維新まで大名、公家などの宿泊や
休息に使われた。
 客殿は、間口5間(約9メートル)奥行11間〔約20メートル)
の切り妻造り、妻入り、桟瓦葺で屋根の前後に鯱をかかげている。
 玄関は、唐破風とともに懸魚、蟇股、頭貫、肘木などで構築
され江戸後期の様式を良く表している。
 内部上段の間は、床の間、違棚、欄間の透彫、組子細工等室内
の意匠にも意を用いた書院造りであり京風の造作となっている。
 建物全体の規模が大きく、上段の間、広間、小姓部屋、湯殿、
雪隠などがあり、客室部としての原形がほぼ完全に残され、江戸
時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存され
ている。
Tnis building was built in the 17th century,
Edo period.
It was used as a stopping piace and for
lodging by "lords" (the head of samurai)
and aristocrats.
It is well-known for its fine decorations.
 昭和63年11月
                     立科町教育委員会
                     長野県教育委員会

なんと英文の解説まである。「この建物は17世紀の江戸時代に建てられ、侍のヘッドやら貴族が泊まったり休んだりした。そいつは装飾がなんたらかんたら」と割合簡潔に紹介されている。
一方日本語であるはずの「唐破風とともに懸魚、蟇股、頭貫、肘木などで構築きれ・・・」というくだりは正直よくわからん。 さらにしばらく歩くと、「町」というストレートな地名標識があった。さすがに町なわけでバス停があった。しかもさすがに町というだけに長久保と違って18:40まで小諸行きのバスがある(平日だけだが)。
まぁ長久保からここまで1時間半で来るのも結構無理があるので長久保でバスを乗り過ごしたからといってメリットが有るわけではなさそうだ。
で足下に目をやると当然ながら金なんか落ちていなかったが蓼科山と唐松(多分)と白樺湖(だったりして)をデザインに使ったマンホールがあった。
たかがマンホールとは言え、図案に郷土愛?が見られるが、マンホール見ながら歩く人もそれほど居ないだろうなぁ。
等と思いつつ前方のガードレールに赤いテープが貼られている。見慣れた中山道の目印にしては図柄が複雑すぎるし分かれ道が有るわけでもないなぁと近づいてみると、赤いビニールテープで赤い涙を流している顔が描かれていた。
どうやら、突っ込んでこないでねという警告らしい。
家並みが途絶えると、高台から田んぼを見下ろし「ファッションセンターしまむら」の向こうに浅間山の山裾が見える。

間の宿茂田井への分かれ道

中山道茂田井間の宿の標柱

茂田井一里塚跡

茂田井宿の街並み

大澤酒造

大澤酒造の鎧兜

元禄の酒の入ったとっくり

歴代首相の国酒の色紙と表彰状

試飲コーナ

武重酒造

イナゴ

茂田井宿外れ


望月町マンホール

望月宿入り口

大伴神社

望月温泉みどりの村入口

重要文化財 真山家

脇本陣

望月歴史民俗資料館

望月のバスターミナル

前の山を越えるらしい

鹿曲川

長坂の石仏群

長坂から望月宿を望む

草ぼうぼうの中山道

瓜生坂

瓜生坂を振り返る

瓜生坂本来の下り口

瓜生坂一里塚跡

元禄の道標

祝言道祖神(百沢)

百沢の集落
12:30、中山道茂田井間の宿という標柱が建つ分かれ道があった。芦田宿から30分も歩いていないし特に難所が有るわけではないのに間の宿とはなぁと思いつつ、茂田井宿へ向かう。
立科町文化財
     一里塚跡(茂田井)
 一里塚は、信長の時代に設けられ、徳川家
康・秀忠が引きついで慶長九年(一六〇四)
に完成した。(慶長見聞集)
 中国で路の側に一里毎に土を盛り、その崩
れ去るのを防いでエンジュの木を植え旅人に
木陰をあたえたという例にならって榎が植え
られたと云われている。
 また、三代将軍家光が「一里塚には「余の
木」を植えよ、」と言ったことから老臣が榎と
聞きちがえて国中の塚に植えたという(現代
教養文庫中山道より)が、ともあれこの頃一
里を三十六町と決定され、五畿七道残るとこ
なく一里塚が築かれたとされている。
 天保年間の、茂田井村差出帳には、当時こ
の両側に土塚があり、榎の根本が残っていた
とある。
           立科町教育委員会
           立科町文化財保護委員会

一里塚の起源が信長だったとは初耳である。道はどんどん下っていくが下った分はいずれ上り坂として返ってくることにうんざりしつつ歩いていると、酒蔵の象徴である酒林が軒にぶら下がったお家がある。
看板を見るとただの酒蔵では無いようで看板には本業の「大澤酒造」の他「大澤酒造民俗資料館」、「しなの山林美術館」と3つの名前が記されている。 まずは民俗資料館からお邪魔してみる。するといきなりごっつい鎧兜がお出迎えだ。
で階下の日本酒コーナへ行くと、元禄の酒というものが展示されていた。華やかな吟醸酒の影で、日本酒を何年か寝かした古酒がマニアの間では密やかなブームになっているが、300年古酒とは恐れ入った。

比重
+1(但、日本酒度として
アルコール 15〜16ml
/100ml
直糖        2〜3g/100g
総酸度      1.6〜1.8/10ml
            (こはく酸として0.106%)
アミノ酸    1.4〜1.5/10ml
            (グリシンとして0.120%)

注 アルコール、総酸度とアミノ酸は体積当た
  りの換算単位であるので、元禄の酒との数
  値比較は必ずしも正しいとは言えない。
形状 もろみを貯蔵したものと思われる
   固型分の混った帯褐灰色の液体

成分 比重    1.025(15゜/4°)

   アルコール  26.45ml/100g
      直糖        6.02g /100g 
      総酸度      6.76/1Og
                  (こはく酸として0.399%)
アミノ酸度        2.46/ 10g
         (グリシンとして0.185%)


  検鏡により酵母菌体の残骸を認める。
”固型分の混った帯褐灰色の液体”ではちょっと飲むのにはとっても勇気がいりそうな代物である。
目線を上に向けると「村山富市さん」やら「海部俊樹さん」など歴代の首相の「国酒」と書かれた色紙が掲げられ、鶴岡八幡宮やら穴守稲荷の御神酒の許可証がある。
これは試飲コーナが楽しみだと、さっきワンカップをやっつけたにも関わらず飲む気まんまんの俺様だった。
で試飲コーナーに立った俺様は、どれにしようかなと悩む事無く並べられた酒瓶を右から傾けるのであった。
「信濃のかたりべ」は純米酒だがすっきりして飲みやすい。とは言え水みたいなという表現は似合わずしっかりとした個性を持っている。「善光寺秘蔵酒」は独特な風味がといずれも秀逸付けがたいがとりあえず積荷が1kgほど重くなってもいいから、信濃のかたりべは買って帰ろうと思い、店員を呼ぼうと「すいませ〜ん」とか「ごめん下さ〜い。」と呼んでみたが忙しいようで出てきてもらえなかった。
まぁよくよく冷静に考えて見れば、置いてきた着替えに加え4合瓶を背負って碓氷峠を明日越えないといかんことに気付いたので、まぁいずれ車などで近くを通ったら寄っていくことにしよう。
で一旦表に出て別棟の「しなの山林美術館に寄ってみる」山の油絵などが展示されているが著作権の問題もあるので良識有る俺様は写真撮影は遠慮しておいた。ただ、鹿の剥製がいたのでツーショット写真を撮らせてもらったぜ。
で街道に戻って歩き出すと、またまた酒蔵だ。
足を止めて見ると「国登録有形文化財 武重酒造」とある。どうやら年季の入った建物らしい。傍らには若山牧水の歌碑があり
よき酒と
ひとのいふなる
御園竹
われもけふ飲みつ
よしと思へり
しらたまの
歯にしみとほる
秋の夜の
酒はしづかに
飲むべかりけり
ひとの世に
たのしみ多し
然れども
酒なしにして
なにの楽しみ
若山牧水さんはかなりの酒好きだったようだ。
で再び歩き始めると、長野県民?の好物?イナゴがいた。イナゴの佃煮は高速道路のサービスエリアや土産物屋でしか見たことが無いが実際にスーパーなんぞで売られているのだろうか。こうして泊まりがけの旅だと晩飯を仕入れるためにスーパーに立ち寄ることもあるのだが、今回はそういった機会にも恵まれず、本当にイナゴが長野でメジャーな食材なのか確認はできていない。
今回は出来なかったが旅先でスーパーに立ち寄ると、自分の生活圏と異なる食文化を感じることができたりするわけで こちらでは身の部分がこちらを向いて並べられているあじの干物も、伊勢では皮を表に並べられていたり、即席麺コーナに寿がき屋の味噌煮込みうどんが並んでいたらここは中京圏だなぁとか、カップうどんのどん兵衛に”W”の刻印が有ればここは関西なんだなとか感じることができる。
というわけで、イナゴが道路に現れるほど長閑な中山道を進むと、間の宿茂田井に関する看板が立っていた。
中山道茂田井入口
 望月宿を抜けると中山道は茂田井に至っている
茂田井は、東の望月宿と西の芦田宿の間にある日
村で、現在は間の宿とも呼ばれている。ここは茂
田井への入口で、坂を下りはじめると、江戸時代
の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
 寛保二年の大洪水で望月新町が道ごと流された
り、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を
望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却
下された経緯がある。
 元治元年十一月十九日、天狗党水戸浪士の中山
道通過に際しては、茂田井村が小諸藩兵士四〇〇
人程の宿となっている。
 また、文久元年十一月七日には、徳川十四代将
軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝
明天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど
大きなできごとがあった.
 一里塚は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田
井の石原坂を上りきった左右に位置しているが、
現在は痕跡がみられるだけである。
望月町教育委員会
西側の茂田井一里塚は「立科町」だったが東側のここ「中山道茂田井入口」は「望月町」らしい。望月町といえば昔々合宿で野山を嫌というほど走らされた忌まわしい記憶があるのだがそいつはさておき 足下に目をやるとマンホールがあった。気がつくと「おすい」と書かれているからどうやら望月町は下水道の設備が整えられているようである。
で15分ほど歩くと、これより中山道望月宿という標識があった。芦田宿から1時間半程度なので6kmちょいと言ったところだろうか。で、中山道望月宿の下には「佐久市望月支所」と書かれており、これまた平成の大合併の余波でおいらの知らぬ間に佐久市に合併されてしまったようだ。
大伴神社の鳥居の前に中山道望月宿と刻まれた石の標柱があり、間違いなく望月宿に入ったようだ。しかしこの大伴神社に限ったことでは無いが、歩き疲れた俺様を拒むかのような急な石段である。
で、望月といえば先ほどの辛く苦しい合宿(大げさな!)だが、その際お世話になった「望月温泉みどりの村」と記された標識がある。まぁ歩いて5分位の所ならちょいと立ち寄って温泉でも入っていこうかなと思うが、そういうわけにもいかん距離なので通り過ぎた。
重要文化財の真山家など、宿場町の趣が残されているがよく考えたら状況的に風呂より先に飯なわけだが、食堂の類は残念ながら見あたらない。
つづいて脇本陣、本陣跡があり、佐久市立歴史民俗資料館があった。あらら、望月町も合併して佐久市になっちゃったのかよ。
まぁ折角なので歴史民俗資料館に立ち寄ってみる。
2階に上がるとなにやら棟方志功チックなものすごいスケールの版画が展示されている。で展示室には機織りの機械、農機具とどこの民俗資料館にも置いてありそうな定番のグッズが陳列されており、望月宿に関する年表が展示されていた。
望月宿略年表

1543(天文12)年   
1543(天文12)年9月  
1555(弘治元)年   
1561(永禄4)年   
1575(天正3)年   
1582(天正10)年6月 
  同  6月   
1582(天正10)年7月 
1582(天正10)年11月 
1588(天正16)年5月 
1590(天正18)年6月 
1592(文禄元)年1月 
1600(慶長5)年9月  
1600(慶長5)年   
1602(慶長7)年   

1603(慶長8)年   
1604(慶長9)年   
1614(慶長19)年  
1615(元和元)年  
1635(寛永12)年6月 
1624〜44(寛永年間)
I635(寛永12)年  
1648(慶安2)年2月  
1654(寛文4)年   
1655(寛文5)年   

1670(寛文10)年  

1673(延宝元)年6月 
1677(延宝5)年   
1687(貞亨4)年   
1694(元禄9)年10月 
1696(元禄9)年   
1702(元禄15)年12月
1742(寛保2)年8月  
1742(寛保2)年   
1749(寛延2)年   
1757(宝暦7)年9月 
1765(明和2)年4月 
1781(天明元)年10月
  天明初年〜  

1783(天明3)年  
1787(天明7)年  
1808(文化5)年  
 1809(文化6)年
1819(文政2)年6 
1823(文政6)年4月 
 1833(天保4)年 
 1837(天保8)年2月
 1841(天保12)年5月
 1854(安政元)年
 1858(安政5)年 
 1858(安政5)年10月
 1860(万延元)年3月
1862(文久2)年11月

1854(元治元)年1月
 1867(慶応3)年10月
1868(慶応4)年 

       
 1868(明治元)年4月
1869(明治2)年6月
1869(明治2)年8月
1871(明治4)年7月
1872(明治5)年6月
1873(明治6)年6月

ポルトガル船種子島に漂着し、鉄砲伝来
望月城(城主盛昌)が、 武田晴信(信玄)に攻められ屈す。 武田氏の支配下になる。
武田晴信、長尾景虎と信濃川中島で戦う。
 武田信玄、上杉謙信と川中島合戦、甲軍に合流していた望月盛時.戦死。
 信長・家康軍鉄砲隊にて武田勝頼を破る(長篠の合戦)。望月義勝死。
明智光秀、信長を本能寺で討つ。
 秀吉、山崎の合戦にて光秀を破る。
北条氏直信濃に入り、望月氏は北条氏に属す。
徳川方の依田信蕃に攻められ、望月城落城。 城主望月昌頼死.
秀吉、刀狩令を発する。
家康、江戸城に入る。
秀吉、朝鮮に出兵(文禄の役)。
関ヶ原の戦い。家康ひきいる東軍が、石田三成ひきいる西軍を破る。
 大森久左衛門吉国、望月に宿駅の開設を命ぜられる。
 望月の駅場完成。義邦は庄屋・本陣・問屋の三役を命ぜられる。
 (庄屋は後に他へ移る)
 徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府江戸幕府設立。
 街道に一里塚を築く。
大坂冬の陣、翌年大坂夏の陣、豊臣氏滅ぶ。
一国一城令、武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定。
参勤交代制確立。
望月新町成立。(道筋は新町一中之橋一望月宿つまり、鹿曲川右岸)
 望月宿田畑開墾奨励。
慶安御触書。(百姓の日常守るべききびしい規範を示したもの)
江戸・京・大坂に町飛脚組合創立。
中山道各宿、馬役50人、徒歩約50人と定められる。望月と芦田は
合宿となる。
小諸領内総検地(寛文の竿入)。 「望月町縄打帳」あり。村々難渋し、
江戸表へ越訴(上州でとめられる)。
分地制限令出される。(田畑の分割相続を制限したもの)
望月大伴神社本殿建立。
生類憐れみの令発布。
松尾芭蕉没(51才)。
福王寺阿弥陀如来を修補彩色。
赤穂浪士の討入り。
戌の満水。本宿は宿入口より52軒流出。新町残らず流出。
望月新町移転。鹿曲川左岸で本宿の続きへ(現在地)。中山道道筋も変わる。
鹿曲川大満水。
鹿曲川大満水。
望月宿大火。東側旅籠屋21軒焼失。翌日鹿曲川大洪水。
助郷人馬出入裁許。宿方申立て通り、望月・芦田合宿にて50人50疋と確認。
大森久左衛門吉氏、軽井沢から和田までの十一宿取締役を命ぜられる
(文化2年まで)。
浅間山大噴火。上州の一揆佐久へ乱入。大凶作。
松平定信老中になり、寛政の改革。
鹿曲川大水。床上浸水多し。
十返舎一九「東海道中膝栗毛」刊。
本陣大森家火災。焼失。
本陣再建。
広重、「東海道五十三次」刊行。
大凶作。大塩平八郎の乱起こる。
天保の改革始まる。追分宿大火。
ペリ一再来。日米和親条約締結。
井伊直弼大老就任。日米修好通商条約調印。
安政の大獄。吉田松陰ら死刑
桜田門外の変。井伊直弼刺される。
皇女和宮ご降嫁のため、中山道にて京から江戸へ。11月7日望月宿通過、
八幡宿に泊。
水戸藩勤王派(天狗党)、中山道を西に進軍。望月宿に泊。
大政奉還。
春日出身の桜井常五郎、赤報隊に加わる。官軍先鋒として中山道ぞい
に信州に入り、望月を通る。しかし、やがて西郷らの都合でニセ官軍
とされ、処刑される、(ニセ官軍事件)
江戸開城。7月、江戸を東京と改称。
藩籍奉還。
川西三十三カ村の百姓、課役御赦免を願い出て藩へ強訴(川西騒動)
一揆衆は茂田井村、望月宿、八幡宿を通り御馬寄へ。
廃藩置県。8月、部落解放令。
富岡製糸所設立。8月、学制発布。12月、徴兵令
と川沿いの宿場なのでちょこちょこ水害を食らったらしい。そのため芦田、望月と短い距離に間の宿茂田井が出来たのだろうか。
そういえば川沿いの宿場町ってあまりなかったなぁ。もともと宿場も街道も対岸にあったらしいし。
で難しいことはよくわからんが、要するに「こんど和宮様が通るので関係者によろしくしといてね」といった文書が展示されていた。
覚
久世大和守殿御渡御書付写
 大目付江

和宮様當春申御下向
たるベき旨,先達而
仰出され候処、東海道筋
荒所等も多く.御通行
御差支に付、中山道ヘ御道替
仰出され候、御下向の儀暫く
御差延仰出され、猶又御頃合
之儀は追而仰出さるべく候。

右の通向々へ達せらるべく候

 (文久一年)
    三月 
公儀より御渡成され候
和宮様御下向御道替
仰出され候、御書付の写、相廻し候間
でさらに追い打ちを掛けるかのように、和宮さんが来たら馬やら人やらいっぱい要るので「だせ!」と言われたらさっさと出せよという助郷証文が展示されていた。
しかしまた数千人規模の行列でありながらこんな小さな集落でどのように宿を確保し食事を用意したんだろうか。
追で此の触書早々相廻し、承知の旨
別紙請書相添え、留り村より芦田望月
両宿へ相返し、それより廻宿先へ相返べく候
                以上
和宮様
御下向の節宿継
人馬多く入候間
左の村々中山道
芦田望月両宿へ
当分助郷申
付条問屋方より
相触次第人馬
遅参致さず滞無く
差出相勤申べく候
尤、當事年季
休役中の分も
今般御用に限り
是又相勤べきものなり。

(文久元年)
 酉九月九日
(酒井隠岐守)
隠岐御判

信州佐久郡
  板橋(南牧村)村
  外二十ヶ村
同州小県郡
  伊勢山(上田市)村
同州更級郡
  若宮(埴科郡戸倉町)村
  外三一ヶ村

同州埴科郡
  岩野(長野市松代町)
  外九ヶ村
 
 同州佐久郡
  塩沢(立科町)村
 外七ヶ村
同州小県郡
 藤原田(丸子町)村

同州佐久郡
  牛鹿(立科町)村
  外一九ヶ村
本書は文久元年(一八六ー)、和宮御下向(仁孝天皇の第八皇女、孝明天皇の妹、
和宮が徳川一四代将軍家茂に降嫁)による大通行のため、当分助郷(臨時に人馬
を供出、伝馬役を勤めさせる)に指定したときの助郷証文である
うーん。昔も今も紙切れ一つで駆り出された訳だな。
でこちらも紙だが、これは一般人が旅するときに欠かせない往来手形が展示されていた。
  往来手形
一真田伊豆守御百姓喜兵衛親子
四人者宗門真言宗高厳寺旦那ニ
相違無御座候此度諸国修行ニ
罷出国々御番所無相違御通し
可被下候尤宿等難儀仕候切は其所
御役人中様以御慈悲被仰付可被下候
ピ而往来手形如件
   信州松代大岡宮平名主
           又市印
 天明元年丑十二月
    国々
    御番所
   在々所々
   御役人中
   往来手形

一此喜兵衛親子四人者拙寺旦那二而宗門
真言宗此度諸国業二罷出申候
国々御関所無相違御通し可被下侯
若何方二面相果申候共其所之御役人中
以御慈悲御葬可下候此方故障
無御座候為念仍而如件
       信州松代大岡花見村
            高巌寺印
 天明元丑十二
 国々
   御番所
在々町々
   御役人中
今でこそ、どこにだっておいらのようにぷらぷらと行くことが出来るが、関所があった時代は旅芸人とか一部の人を除いて自由に往来出来たわけでなく、名主さんやお寺さんに往来手形を用意して貰わないといけなかったのだが、喜兵衛さん親子はお百姓さんで有りながら諸国修行と称して旅に出ているが、12月の農閑期とは言え田畑とセットのお百姓さんが修行の旅にでるなんて有りなんだろうか。
しかしまた松代から出てきた喜兵衛さんの手形がここに有るってことは、ここ望月で旅が終わったってことで、ここに居着いちゃったというなら良いが、ここで行き倒れちゃったというならちょっと悲しい。
まぁ松代だったら上田を経て善光寺街道を進んで長久保で中山道に合流で2日もあれば余裕なはずだが・・・
逆に本当に諸国を巡って松代まであとちょいの望月宿で力尽き果てたとしたら余りに悲しすぎる。 で望月歴史民俗資料館を出発し5分ほど歩くと無駄に広いバスターミナルがあった。奥の石垣の上に線路があって、駅舎の跡かなぁと思ったが、そうでも無いらしく単に広いだけの話らしい。で家並みの隙間から対岸の山が見えるが、車はトンネルで中山道はこの山を越えるらしい。気がつくと14時を回っており、昼飯無し確定となったようだ。
で橋を渡り対岸を歩くと、中山道長坂分岐点という看板が建っていた。中身を見ると先ほどの大洪水で流される前の旧道と洪水後にに改められた新道との分岐点とのことである。
中山道長坂分岐点
 瓜生坂から下る中山道は、自動車道を横切って
ほぼ直行するように進んでおり、途中大応院跡や
長坂の石仏群をとおり、ここに至っている。
 大応院は、当山派の修験寺で、寺社奉行からで
る命令や交渉ごとを司った触頭も勤めていた(上
田市横谷家文書)。ここから二㌔㍍ほど下った古宮
の鹿曲川左岸の断崖にあった佐久補陀山観清寺の
別当も兼ねていたが、末裔滋田家の本尊馬頭観音
坐像や飯綱権現立像など、また長坂の古碑群を残
して明治五年に廃寺になった。
 中山道は、ここから望月新町のあった鹿曲川右
岸を下流に向って進み、西に折れて中之橋を渡り、
大通りの望月本町に至っていたが、寛保二年の大
洪水で新町が道ごと流されてしまい、その後、道
とともに新町が移転された。そして中山道はこの
長坂橋を渡り、枡形をとおって新町が移転された
東町に上り、北側にやや進行して望月本町をとお
る旧来の道とつなげられた。
 したがって、ここは初期中山道と変更後の中山
道の分岐の場所である。

              望月町教育委員会
で順調に坂道を下ってきたが、どうやらここへきて、長坂とやらを登り目の前の山を越えないとならないらしい。
長坂の入り口には誰かを供養するためなのか、旅の安全を祈るためか石仏が並んでいる。
坂の途中で2車線幅の道路に出たが、トンネルがあるためこちらの交通量は少ないようだ。道路を渡り、草ぼうぼうの中山道を進んでいくと「瓜生坂」と言う石碑とすり減って判読不能な石碑or石仏があった。はて、坂の入り口にあった石仏は長坂で上り詰めると瓜生坂・・・地名は長坂で、坂の名前は瓜生坂ってことか?
振り返ってみるとなかなかの急坂である。暫く進むと「道はここから斜めに下っていた」とあるが、すでに本来の道は自然に還ってしまっているようである。
さらに進むと一里塚があった。
 中山道瓜生坂の一里塚

 慶長九年(一六〇四)徳川家
康は、大久保長安を総奉行とし
て五街道の大改修をし、江戸日
本橋を起点として一里(約四キ
ロ)ごとに道の両側に方五問の。
一里塚を築き、その上に榎を植
えさせた。ここは南方の一里塚
跡で北方の塚は、道路で半分削
られているが、斜面上方に位置
している。瓜生坂の一里塚の手
前は、塩名田宿のはずれにあり
先方は、芦田宿手前の茂田井間
宿に位置している。
      望月町教育委員会
坂を下ると、142号に出たが、どうやらこれを渡って暫く進んだ後にに坂を下るらしいのだが、それとおぼしき道は下草がびっちり生えた土手のようで下りきった先には民家の庭先となっており、どう見ても道では無さそうだった。
もと来た道を戻るのも癪なのでそのまま進んで坂の下に出る道を探すとかなり進んでからようやく坂の下を川沿いに延びる道に出ることができた。
思わぬ回り道をしてしまったが、地図ではおいらが進もうとしたルートは点線で記述され、現在通れないことを意味していた。そんなわけで素直に瓜生坂抜けたら素直に国道沿いを歩いた方が良いらしい。 再び国道に戻ると、元禄の道標とかすれた文字で書かれた案内板の脇に石碑がある。「右中仙道、左布施谷」と書いてあるらしい。というわけでおいらは左側からやってきたので、牧布施から中山道に入ってきたことになる。
こうした回り道やら、笠取峠の松並木で一杯やってたり、望月歴史民俗資料館に立ち寄ったりで、予定ではこの辺りを13:40位に通過予定だったが現在14:50と一時間以上遅れている。
で百沢の集落に続く道に入ると道祖神があった。以下の説明によるとかなりレアな道祖神らしい。
 祝言道祖神(百沢)
 長野県安曇地方で発生し
た道祖神で、宮廷貴族の装
いをした男女が酒を酌み交
す華麗な祝言像である。
 安曇系は主尊が日本神話
の神々で、着衣も神々の装
束で造像されるのが通例で
あるが、この道祖神は宮廷
貴族風の精緻な造像である
 発祥地安曇地方にも類例
のない貴重な遺産である。

    望月町教育委員会

国道142号

ハチヒゲおじさん

国道、県道から逸れる

御代田まで16km

塩名田まで3.4km

八幡宿の街並み

八幡宿本陣

八幡神社

旧浅科村のマンホール

田んぼ

一里塚跡

一里塚先の分岐

橋の上から舟つなぎ石

千曲川

橋から下って舟つなぎ石

十九夜塔

塩名田バス停

佐久鯉

また佐久鯉

塩名田宿の標柱

分かれ道

先ほどの道と合流

リンゴ畑やら水田やらお家やら

長野新幹線

りんごの木

相生松
こども科学館
小海線中仙道踏切
小海線清里方面
小海線佐久平方面
信号を左で岩村田宿
岩村田宿
リッター133円

従是善光寺道の道標
浅間山
というわけで百沢の集落を抜け、国道142号にでると、なにやら人の顔をどアップにした看板がある「ハチヒゲおじさんの店」とあり、ハチミツを売っているお店のようだが・・・おとっつあんのひげのように見えるのは全部ミツバチかよ!!
しばらく歩くと、国道142号から逸れ、県道下仁田浅科線に入る。道路標識には「御代田16km」とありどうやら当初の予定では18時過ぎに辿り着くはずの今日のゴール地点である御代田駅には19時過ぎになりそうである。その道路標識の下には、塩名田宿3.4km<-八幡宿->笠取峠11.9kmと書かれた標柱が建っている。でこの県道からも一旦逸れて再び合流し八幡宿に入った。
道路は拡幅されつつも歩道はなく、美濃路の伏見宿のような感じである。まぁあっちは国道21号なので交通量は半端ではないがこちらは時間帯も有るのかそれほど交通量はない。もっとも伏見宿は手前まで片側2車線化工事が進んでおり、伏見宿の辺りはバイパスで迂回することになりそうだが・・・。 さて5分ほど歩くと年代物の門構えの脇に本陣跡と記された標柱が建っていた。八幡宿と言いながら宿場町らしいものにやっと出会うことができた。
またまた5分ほど歩くと、あちこち彫刻が施された立派な門構えの神社があった。同じ八幡と書いて宿場は”やわた”で神社は”はちまん”だそうな。
というわけで八幡宿の見所となると八幡神社くらいしかなかったのだが、なんとか明るいうちにゴールしたかったので、寄り道はせずに通り過ぎた。
宿場を抜けると田んぼが広がっている。ふと足下に目をやるとあさしなと書かれた山と川らしきものがモチーフされたマンホールがある。以前はここいらは浅科村だったようだが佐久市に合併されてしまったようだ。おそらく山は浅間山で川は千曲川だろう。
この田んぼが広がる長閑な中山道を進んでいると一里塚跡が有った。塚の上にはなにか石碑があるのだが微妙に崩された字体のおかげで何を意味するのかわからない。
この一里塚を過ぎて県道を左に逸れて坂を下ってしばらくで千曲川のほとりに出た。下流側には長野新幹線の鉄橋があり、その気になればもう東京まで90分ちょいで帰れる距離まで歩いてきた・・・と思ったのだがよく考えりゃ東京−名古屋もそれくらい掛かるか。
でなにやら舟つなぎ石という説明がある。
舟つなぎ石
塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。いまは頑丈な中津橋が架けられて
いるから、これを渡るのになんの支障もないが、江戸時代には、これを渡るのは
たいへんなことだった。橋を架けても、洪水でじきに流されてしまったからである。
しかもここは、江戸時代の主要街道の一つである中山道だったため、橋が流された
からといって、いつまでも放置しておくわけにはいかなかった。
 このため地元塩名田宿一御馬寄村をはじめとして、この地方の人々は、渡川を
確保するためにたいへんな苦労をしなければならなかった。
 木内寛先生の「中山道千曲川往還橋」という論文によれば、その橋
には次のような変遷があった。

          〜享保五年(一七二一)御馬寄側が投渡した橋・塩名田側が平橋
                  (両岸から中州へ架橋)
享保六年(一七二二)〜寛保二年(一七四三)御馬寄側が刎橋・塩名田側が平橋
寛保三年(一七四四)〜寛延二年(一七五〇)舟渡し。
寛延三年(一七五一)〜享和二年(一八〇三)御馬寄側が刎橋・塩名田側が平橋
享和三年(一八〇四)〜明治五年(一八七三)長さ七〇間余の平橋
 このように江戸時代をつうじて、たび
たび架橋方式が変わったのは、千曲川が
「近郷無類の荒川」であり、二、三年に
一回以上の割合で橋が流されたからである。
幕府が崩壊し、明治時代になると、それ
まで一三〇村による「中山道塩名田宿・
御馬寄村の間千曲川橋組合」での維持・
管理方式を続けることができなくなって
しまった。
 そこでつくられたのが船橋会社で、この
会社によって明治六年(一八七三)に船橋
 (九艘の舟をつないで、そのうえに板を
かけわたして橋としたもの)が架けられ、
渡川が確保されたのである。舟つなぎ石は、
その船橋の舟をつなぎとめたもので、だ
から上部に穴があけられているのである。
 明治二五年に県によって木橋が架
けられ、船橋の役割はおわった。
 こうした歴史を、今に伝えているのが
舟つなぎ石なのである。
         浅科村教育委員会
というわけで時間がないからと寄り道は避けても休養は必要だよなと言い訳しながら橋のたもとにベンチがあったので10分ほど休憩し、重い腰を上げて中津橋を渡る。向こう岸にあるでっかい岩が舟つなぎ石の様であるが、この水深で船を渡して架橋すると船底が痛んでしまいそうなほどしか水は流れていない。橋を渡ると、舟繋石について手書きの案内板が建っていた。
 村文化財指定船繋石
この千曲川は無類の荒川で洪水のたびに往還
橋が流失し中山道往来の支障をきたすと共に
その維持管理が大変でした。
この大石は明治六年(一八七三)から同二十五年(一八九二)
まで凡そ二十年間千曲川架けられていた「船橋」の
台船を繋ぎ留ておいた石で綱を通した上穴が明け
られています。船橋というのは九艘の船を二本の
針金でしかりと繋ぎその上に
たかかかか
し片もので橋の長さ 約さ約六十一間(一一一メート
ルあったとされております。始めは船橋会社により
運営され、一人八疋、馬一疋一銭六厘の渡し賃がかとられ
ましたが明治十一年に官営となり渡賃はなくなり
ました
浅科村教育委員会
で橋が架けられた地点が微妙に往時の中山道と異なるので橋を渡ってから下流側に少し進んで坂を登る途中に古びた石碑があった。刻まれた文字を見ると十九夜塔とある。二十三夜塔は木曽路にあたりに結構あったが十九夜は初めてお目に掛かった。
再び県道に戻ると塩名田バス停があり、ぼちぼち宿場に入ったようである。商店の壁に掲げられた看板には「佐久鯉」と書かれてありその下には切り鯉、塩焼き、あらい、味噌煮といったバラエティに溢れた料理法が書かれている。しばらく歩くとまたもや 看板に佐久鯉と記された商店がありすっかり文化圏も佐久に変わったようである。でようやく中山道塩名田宿と書かれた標柱があり、他にこれといった物は残されていないようだがどうやらここが塩名田宿で有ることには違いないらしい。
というわけで標柱一本しか宿場の名残をとどめていない塩名田宿を過ぎ、県道を渡って緩やかな坂道を登っていくと道が二手に分かれている。
まぁ左手の道は崖っぷちに沿うように通じており、昔の道はそんな危険なところは通さないだろうと考え右手の道を進む。
で五分ほどで先ほどの道と合流したようである。おそらく、近世になってからショートカットの為作られた道であろう。周りをみると建ち並ぶ家がこれまでと違って割合新しい家が多くどうやら新興住宅地のようである。
でも開発の途中なのだろうか、リンゴ畑やら水田もまだまだ残っており、その水田の向こうには長野新幹線の高架が見える。
かれこれ30分ほど歩いているが余り風景は変わり映えせず、道路脇の畑にはまだ青いりんごの実がなっている。
で国道141号に差し掛かると佐久平駅開業の影響だろうか。風景は一変し道の両脇には真新しいショッピングセンターやら様々な店が並んでいる。まぁ昼飯の時間はとうに過ぎているのでここを右に向かえば清里かぁと思いつつ横断した。 これまで旧街道っぽいものは無かったが、塩名田を出てから1時間あまりでなんかの石碑とそいつを囲むように植えられた木があった。一里塚跡かと思ったらどうも違うようで擦れた標柱にはなんかの記念物のようである。調べると相生松とのことでなにやら石碑まであるのだが全く読めない。
相生の松よりしばし歩いたところにコンビニがあったのでビールやらお茶やら仕入れ、お茶ぬるくとも飲めるがビールは無理なのでその場で流し込み体力の回復というか酔っぱらった勢いで再び歩き始める。
一応酔っぱらいつつもそろそろ岩村田なので、強引にこの辺りをゴールにすることもできるなと思ったが、明日の碓氷峠越えを考えると少しでも先へ進んでおいたほうが良いし、明日の予定に運行本数の少ない小海線を加えるのもなぁと言ったところで先へ進むことにした。
すると前方に銀色のドーム状の屋根の建物が見える。こども科学館とかいう建物らしく新興宗教の怪しげな道場ではないようなので安心しつつ、小海線の踏切を越える。とりあえず電車の来る気配は無さそうなので清里方面と佐久平方面の写真なんぞ撮ってみる。
程なく前方に信号機が現れた。ぼちぼち左に曲がるはずだがと電柱を見るとやはり赤いテープで左を示している。
で左に曲がってみると商店街なのだが、やはり空き店舗率は高い様だ。で営業中のガソリンスタンドがあり、俺様の近所ではレギュラーガソリンが当時120円台前半な時に133円と10円ほど割高になっている。まぁ長野県で給油するなら、全国統一価格な高速のSAのほうがよっぽど安いので、なるだけ長野県では給油しないよう心がけているのだが、こうして一年経ってみると去年の長野プライスが近所の安売りプライスに相当しており、そりゃもうびっくりなわけである。
ひょっとしたら反対側の歩道には何かあったのかも知れないがガソリンの値段の話で岩村田宿を語り尽くしてしまうほど何もないので先を急ぐ。 で両脇の商店がまばらになった頃、「従是善光寺道」という道標があった。ここから善光寺というと国道18号を右に長野を目指すわけで、中山道経由なら京都からならば洗馬、長久保、日本橋ならば追分から善光寺に向かうわけで、中山道いずれから来てもこの位置の道標は役に立たないはずでこいつはおそらく甲府辺りから善光寺参りをする人たちの為に建てられたものであろうと勝手に判断した。
で、一旦寂れたように見えた商店街だが次第に息を吹き返し、通る車の数に合わせて店が増えてきた。その原因は上信越道の佐久インターの様である。でその上信越道の向こうには浅間山が見える。天気予報ではかなり怪しげな天気だったのだがとりあえずここまで雨に降られずに済んだ。まぁ昨晩、タクシーで上田に辿り着いた瞬間降られはしたが・・・

上信越道

払ってあげてください

狭い道に進む

街道の面影の残る道

御代田町

御代田町の街並み

小田井宿

小田井宿問屋跡

瓦葺きのバス停

問屋その2

小田井宿本陣跡

御代田駅入口
というわけで上信越道を越えると大分車の交通量が減ったような気がする。これまで大分景気の良い感じがかなり薄れてきた。そんな中、会社の門の前で「会社は未払い」とまた切実な看板が建っていた。日本経済回復の兆しとかいってもまだまだ地方にまで行き渡ってはいないようである。まぁ会社も払えるなら払っているだろうし、まぁ会社の信用に響くような看板を撤去出来ないほど弱っているのだろうか。
でヤバめな会社より5分ほどで狭い道となる。岩村田以来旧街道っぽいの道である。
18時35分、ようやく御代田町に入った。もう日暮れとの戦いである。御代田町に入ったとは言え、今日のゴールとなる御代田駅はおろかその手前の小田井宿にもまだ辿り着いていない。
と思ったらカーブの向こうには「小田井宿」と記された標柱が建っていた。
暫く進むと問屋跡と記された標柱が建っている年代物の門構えのお家がある。その向かいにはバス停が有るのだがなんと待合所の屋根が瓦葺きだった。でまたまた問屋跡がある。なにも残っていなかった岩村田宿と較べると小田井宿、かなりやる気が有るようだ。
また、小田井宿に関する説明が記された看板が建っていた。
でちょっと離れたところには本陣に関する説明があった。
町指定遺跡中山道小田井宿跡

小田井宿は、中山道六十九次の一つで板橋宿から数えて
三一番目、追分宿と岩村田宿の間に位置し、日本橋から四〇里
三一町(約160kin)の距離にあった。皇女和宮をはじめとし、
て宮家公家の姫君の休泊に利用されることが多かったことか
ら「姫の宿」とも呼ばれた。
 天正一六年(一五八八)三月、小田井町割諸事?によれば
このとき町割りがおこなわれ、その家数は二六だったいうことから、
このころから小田井宿の整備がはじまったといえよう。そして、
慶長七年(一六〇一)各宿駅館の「駄賃」などがさだめられている
ので、このころまでには宿場としての形態を整えたものとおもわ
れる。
 「中山道宿村大概帳」によれば天
保一四年(一八四二)には一〇九軒
の家があり、三一九人が住んでおり
本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠五軒、
問屋場二カ所などがあった。
 小田井宿が宿場としての役割を終
えたのは明治三年(一八七〇)だが、
その遺構は現在も随所に残されてい
る。
現在地は高札場跡である。
昭和五十三年六月一日
 御代田町教育委員会
 
町指定 中山道
史跡  小田井宿 本陣跡(安川家住宅)
安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣
をつとめた。現在その本陣の客室部を良好に残し
ている。
 客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の
間・上段の間・入側などは原型をよく留めており
安川家文書で宝暦六年(江戸時代一七五六年)大規
模改築が行われたと記されていることから、その
際の建築と考えられる(長野県史編纂時の調査による)。
また湯殿と厠は、幕末の文久元年(一八六一年)の
和宮降嫁の際に修築
されたものであろう。
 厠は大用所・小用
所とともに二畳の畳
敷となっている。

昭和五十三年六月一日
 御代田町教育委員会
 
中山道小田井宿
 小田井宿は天正年間(一五七三ー九二)に誕生し、慶長(一五九六
ー一六一五)以降、宿駅としての機能が整えられました。
 昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側
に寄せられましたが、東・西の入口にあった桝形もわずかにその形
を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった
本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君
の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています、街道の繁栄期
であった文化・文政期には、文政五年(一八二二)で一九九戸・人
口五二四人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に
生きた宿場であったようです。町並みは寛延元年(一七四八)で七
町二三間(八〇五米)ありました。和宮より拝領の人形が残され、
それにちなんで八月−六日には小田井宿祭りが行なわれます。
 現在地は東の桝形です。
 
ただでさえ酒パワーのお陰でブレブレの写真なのだが、迫りくる夕闇のためフラッシュ発光禁止だと露光時間が長めとなりさらに一層ブレブレな写真となってしまう。 まぁ小田井宿から御代田駅まで2km程度なのであと30分余りでゴールである。
宿場の日本橋側の境には小田井宿の案内板があり、それによれば毎年八月一六日は小田井宿祭りとのことである。祭りと言えば、2004年の守山から関ヶ原までの旅の中での高宮宿ー鳥居本宿の間にあった集落での祭り、2002年東海道、桑名—京都の旅の中で大津ー京都間での山科手前の祭りに出くわしそれぞれ、ビールで祭りの雰囲気を堪能させてもらっているのだが、今回は微妙に外してしまったようで残念である。
で気がつくとすっかり暗くなってしまったが、前方に御代田駅と記された看板がある。だが、中山道はしなの鉄道の線路に突き当たるまで進み、線路と平行して上田側に進めば良いようなのでもう少し中山道を進み、長久保を9時58分にスタートしてからおよそ九時間後の19時05分ゴールと相成った。

御代田駅

番外

今日もまたゴールだったと思ったらゴールじゃ無かったわけで、駅舎はどこよというわけで線路沿いに歩いていると道が二叉に分かれている。左手は坂を下る道で、右手は線路を陸橋で跨いだ先にパチンコ屋が見える。
パチンコ屋=駅前のごく当たり前の図式が脳裏に浮かんだのそっちへ向かうと、駅舎は反対側に見下ろす位置にあった。
どうやらこちら側からのアクセスは全く無いようで戻るのも悔しいからと進んでいくとちょいと大きめの道が線路を跨いでいるので、改札があるかなと期待して行ってみるが、改札は無く、代わりに御代田駅の構造が手に取るようにわかった。
ホームは2面式で下り線側のみ改札が設けられており、上り下りのホームのアクセスのため跨線橋が設けられている。この跨線橋の上り線側の一端が二叉の分岐点からはさも改札が有りそうに見えたのもこのトラップの一因となっていた。
しかもこの橋からはホーム、駅舎全景が見渡せるにも関わらず、ぐるっと大きく回り込まないと駅前に到達できない。というわけで15分ほど無駄足を踏んでようやく御代田駅にたどり着いた。
しかしまた、今時有人改札というのも今時珍しい。ホームのまばらな人影を見る限り無人駅でも不思議ではない。でやってきた電車は小諸止まりだったが一応上田方面への連絡はスムーズだった。で上田に着き、駅前のローソンで晩飯に缶ビール2本とざるそばとからあげくん、朝飯のためにおにぎり2個とお茶を仕入れてホテルに戻った。

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