中山道 下諏訪−長久保

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年8月08日下諏訪〜長久保晴れ8時間41分44470歩31.13km11620円

御柱
まえがき
今回は和田峠を越えて長久保までがんばれば後はなんとかバスで上田まで行けそうなので、上田に宿を取り、八王子からあずさに乗って下諏訪を目指した。実は長久保からのバスをあてにしたがためにえらい目に遭うことなんざこの時点で気づくことはない相変わらずノープラン俺様であった。
でお盆だし、やかましくて子供が駆けずり回る電車は苦手なので、グリーン車でいくかと・・・え?喫煙席なしかよと思いつつ、煙くもなく静かなはずのスーパーあずさに乗り込んだが、結局前の席のつがいの他愛のない会話がやかましかった。
とりあえず、ミニ幕の内弁当を広げながら、朝っぱらからビールを流し込んでいるともう笹子トンネルに差し掛かった。
で飯を食い終えた俺様は更新が滞っているホーモページの更新をすべくノートパソコンを広げるが、飯食い終わって1時間余りで上諏訪に着いた。ここで鈍行に乗り換えるのだが、乗り換える電車が飯田線の豊橋行きである。
時刻表によれば213km離れた豊橋に15時54分に辿り着くおよそ6時間半の旅となる。単に豊橋に向かうだけなら大回りになるが中央本線で名古屋に出て、東海道線で豊橋に向かった方が1時間は早いという、存在意義に巨大なクエスチョンマークが着いてしまいそうなローカル線である。
未だに車から眺めただけだが長野・愛知・静岡県境辺りは「えっ?こんな所電車が走るの!」といったスゲー所なので、機会があれば訪れたいところである。
さて、ずいぶん長いこと禁煙を強いられていたのでとりあえず発車まで時間があるので一服しておくか。とむやみやたら長いホームの端っこの喫煙所に向かい一服。そうこうするうちに発車時間になったので豊橋行きに乗り込み 9時25分に下諏訪駅にたどり着いた。
下諏訪駅は前回の
奈良井−下諏訪
の際、下諏訪に車を置いてから電車に乗って奈良井へ行ったり、ゴール地点もここ下諏訪駅だったが、いずれも時間が無かったり、着いた頃には真っ暗だったりと説明をじっくり見る機会が無かったが、今回はチェックしておこう。
御 柱
諏訪大社で七年目ごと寅、申年に行なう
御柱祭は神殿の御造営と共に霧ケ峰高原
に続く東俣国有林で伐採の樅の巨木を
数千人に及ぶ氏子が曳行、社殿の四隅に
 建立する、他に類を見ない豪快勇壮な祭り
 である。御柱建立の意義は四方鎮護の
 しるしでもあることから、平成十年の長野
 冬季オリンピック開会式に「聖なる空間」
  の創造にと「建て御柱」が行なわれた。
 ここに建つ御柱は、その冬李オリンピック
会場に建てられた御柱である。
         平成十年四月
なるほど、この御柱は御柱祭で使ったものではなく、長野五輪で使われたものなのか。となると本物の御柱は諏訪大社に行かないと拝めない様だが、今日は和田峠を越えて30km以上歩かないと行けない強行軍なので寄り道するわけにも行かないので、諏訪大社は中山道の旅を終えたら甲州街道を新宿の大木戸を目指すときにでも立ち寄ることにしよう。

下諏訪駅入り口

国道20号

なんかのモニュメント

下諏訪宿

下諏訪宿高札場

下諏訪宿の街並みその1

本陣

下諏訪市街

注連掛

ここを登るの?

ここから登る

石碑

石碑2

水力発電所の導水路

てっぺん

木落し坂

天下の木落し坂

木落とし坂(現物)

地蔵堂

地蔵堂の張り紙

和田峠まで5.5km

和田峠まで5.5km地点

浪人塚

また国道に出た

振り返るとこんな感じ

道路下の一里塚

和田峠入り口

和田峠入り口その2

西餅屋茶屋跡

木立に覆われた中山道

行く手を遮る倒木

石小屋跡

下諏訪市街

古峠から下諏訪方向
というわけで9時35分、前回のゴール地点の下諏訪駅入り口交差点をスタートした。今回はおそらくコンビニはおろか飯を食うところが無く、市街地に出る前に食糧を入手せねばならないのだがここまでコンビニは無かった。
で折角歩き始めた国道20号だが、もうお別れである。信号を直進し今日一日のお付き合いとなる国道142号に進む。信号を渡るとセブンイレブンが有ったので昼飯代わりのカレーパンとウィスキーのポケット瓶とワンカップと酔い覚ましの伊藤園のお茶「濃い味」を仕入れ、坂道をえっちらおっちら登っていく。
すると程なくなんか、しめ縄をかたどったモニュメントとベンチがあった。どうやらここら辺りが宿場の入り口らしい。
でなにやら、このよくわからないモニュメントを解説したプレートが有ったので引用する。
 下諏訪町は、中山道と甲州道中の交わるところ、諏訪
神社総本社の門前町であり、豊かな温泉が湧く宿場町と
して街道一賑わった。
 諏訪大社で、七年目ごと寅・申年に御柱祭を執り行な
う。一二〇〇余年前、第五十代桓武天皇は、この祭りに
信濃一円挙げての課役を命じたといい、今に諏訪地方全
市町村が奉仕する正に天下の大祭である。奥山から切り
出した樅の巨木を、大群集が木遣りのかけ声にあわせて
曳行、社殿の四隅に建てる。途中には崖のような急坂を
ひき落とす「木落し」などの見せ場もあり、雄大・豪快
なことは言語に絶する。
 「おんばしらグランドパーク」の正面、御柱を印象づ
ける巨木の年輪を表現したモニュメントに取り付けた曳
行の男綱・女綱を、より合わせ天に伸びる形は、協力・
団結・成長を、円形の広場は人の和・平和と地域の発展
を表現する。
 湯の町を象徴して、中央に温泉が流れ、復元した高札
場と背景の格子塀がこの地の歴史と文化の面影を今に伝
える。
しめ縄では無くて、御柱の曳き縄だったのか。傍らには高札も再現されている。まぁとりあえずスタートしてから間もないので、せっかくのベンチだが素通りして「中山道下諏訪宿」と書かれた提灯の下をくぐり先を急いだ。
うーん温泉宿がずらりと並んでいるのかと思ったがそうでもなく、静かな街並みである。やがて道はT字路に突き当たり、右へ行くと諏訪大社秋宮、左は国道142号、中山道である。諏訪大社にも足を伸ばしたいところであるが、およそ30km先の長久保発、上田行き最終のバスが17時代で有ることを考えるとあと7時間余りしかないので寄り道は極力避けないといけない。こういった時間に余裕の無い旅もつまらんのだが、気になったところは後でもう一度立ち寄れば良いのだと思いつつ 立派な門の前に明治天皇御小休所の石柱が立っていた。隣にある案内板によれば本陣跡とのことである。門も立派だが開いた門の先に建物が見えない位立派な庭である。

下諏訪町文化財
 史跡 本陣遺構
江戸時代中山道の大きな宿場として
殿盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼
本陣の大半がそのままここに残って
いる。維新前は公卿や大名たちの
休泊所になり、文久元年(一八六一)
十一月には関東へ御降嫁の和宮さまの
お泊所になり明治十三年六月二十四日
明治天皇ご巡幸のときにはお小休所
になった。
 昭和四十七年二月二十三日指定
             下諏訪町教育委員会

本陣跡を過ぎると、これまであちこちに出てきた平安時代を代表する「和泉式部」がまた出てきた。

和泉式部の守り本尊  銕焼地蔵尊と”かね”
 

 今から千年あまり語り
つがれて来た伝説です。
下諏訪の湯屋別当方に
”かね”という幼い娘が
奉公していました。
  畑に行く時はいつも道端のお地蔵様に自分の弁当
 の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
 ある時”かね”をそねんでいた仲間がつげ口をした
 ことから別当の妻はおこり、焼け火箸でかねの額をう
 ちすえました。いたさにたえかねた”かね”は日頃信
心のお地蔵様のもとに走り、ひざまづいて泣きながら
 祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れでており、自
分の痛みは消え、傷はなくなり美しい顔にかわ
 っていました。
  お地蔵様が”かね”の身代わりになってくださっ
 たのです。この話は瞬く間に拡がって誰言うことなく
「かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様」と遠近に
 聞こえ、お参りする人で賑わうのでした。たまたま都
からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き、”かね”
 をぜひにと、都に伴い養女としました。 雅致夫妻
のもとで書道・歌道などを学んだ”かね”は宮中に仕
えるようになりましたが歌人として群をぬき、やがて
 和泉守橋道貞と結婚、和泉式部となりました。

百人一首のなか
あらざらむ この世の
 ほかの おもひでに
いまひとたびの
 あふこともかな

善光寺大本願寺百二十世一条智光尼公上人
ご染筆のこの歌碑が
銕焼地蔵堂前に建
てられています。
どうやら、和泉式部の出生地はここ諏訪地方と伝えられているようである。ただ、焼け火箸を凶器として振り回したとされる別当の妻のその後について触れられていないのは、時代劇の水戸黄門や大岡越前に代表される”勧善懲悪”、”因果応報”の要素に欠けており、少々不満である。
で地蔵は道路渡ってお寺さんの中に有りそうなので、寄り道出来ない俺様は先を急いだ。
その先は交差点となっており、真っ直ぐ進むと今までの上昇指向のベクトルを否定するかのような下り坂で、右は国道142号となっている。
まぁここまで登っておいて下ることもあるまいと思い、なにも考えずに右に向かってみたところ国道とは言うもののなにやら右側は山の斜面、左側は崖下となっており果たして江戸時代にこんなところに道を作れたのかどうか不安になってきた。そこで地図を検めるとどうやら中山道は崖下を通っている様なのだが、崖下へ行こうとする道は無く、先ほどの交差点まで戻らないとならず、飛び降りるわけにも行かないのでこのまま進み、諏訪大社秋宮の境内を後方から見下ろしつつやがて、中山道と合流した。
この後、時には国道から逸れることは有っても国道に沿って進む。やがて右手に空き地の様な場所があり、御柱祭の看板が建っている。説明が記された看板によれば「注連掛」という場所とのことである。
注連掛(しめかけ)
この地を「注連掛」(しめかけ)という。
棚木場から約四・七キロの道のりと木
落を終えた八本の御柱は、注連掛の台
上に曳き揃えられる。曳行の最後を締
めくくるのは「山の神返し」の木遣り。
 山出しの翌日に、春宮一、二、三、
四之御柱、秋宮一、ニ、三、四之御
柱の周囲を白樺(しらはり)の木を立て
て注連縄で囲い、注連掛祭(御柱之
山口祭とも呼ぶ)が行われる。御柱を
清めて里曳きまでの休め奉るところ。
白樺の木を立てて注連縄で囲うのは、
悪霊が入り込まないようにするためと
言われている。
御柱祭(おんばしらさい)
 古代人が神をまつるには二つの形があり、一つ
は岩に出現させる岩座(いわくら)信仰であり、
一つは木に神を下らせる神籬ひもろぎ)信仰
があります。特に主流として神蘇籬仰が発展
し、人々は森の中の大きな木を神祭りの社と
して神社の原形をつくりました。下社のご神木
に春宮ではスギ、秋宮ではイチイの神木があ
り、地鎮祭などで神官が中央に一本の青木を
立て、天に向かって声を上げる、あの極めて自
然な祭りの形が御柱に通じると思思われます。
 正式には「式年造営御柱火祭」(しきねんぞ
うえいみはしらたいさい)という。諏訪大社下社
の秋宮・春宮の宝殿の造営と御社殿の四隅
に計八本の御柱を建てるお祭りです。
 日本三大御柱として出雲の大黒柱、伊勢の
心の御柱、諏訪の御柱があります。
注連掛から歩くこと10分余りで国道から右に逸れる山道が見えてきた。きちんと行き先の案内が建っておりおいらが目指す和田峠まで8.9kmとある。 今10時33分ってことは14時前には和田峠に達するようである。なお諏訪大社秋宮から3.1km歩いたらしい。この階段を登っていくのかと思ったがどうやら行き先の案内板の示す方向からしてここを登る訳では無いようだ。 側には芭蕉句碑が建てられている。 落合橋のバス停を過ぎ、程なく和田峠と記された案内板が現れた。なにやら句碑もあるが名が読めない肝心の句も
「山吹や・・・・」以下達筆すぎてかな以外判読できない。 、案内板の示す右手の道を進めば良いらしい。
しかしまた激しい上り坂である。なんせ隣には水力発電用の導水路があり、夜間はポンプで水をくみ上げ日中に落差を利用してタービンを回す仕組みの様だ。
ようやく上り詰めた俺様は愕然とした。さっきの和田峠まで8.9km地点から8分歩いて、いまここにある標識では9.5kmってことは400mしか進んでいない。
まぁあれだけの坂道なので平地のようには進めない様である。辺りを見回すとここは「御柱祭り」で山から引きずってきた「御柱」を落とすことで有名な木落し坂だった。
いやただの木落とし坂ではない。わざわざ石碑には天下の木落し坂と刻まれている。
で下をのぞいてみると「坂」なんて生やさしい物ではなく、坂というより「崖」である。

諏訪大社 御柱木落し坂
 諏訪大社の御柱祭は、七年目毎申。寅年に
行います。規模の大きさ、勇壮・豪快なこと
は比類なく、天下の大祭として知られています。
樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に
建てるのですが、山から引き出す「山出し祭」
が御柱年の四月、町内を曳行し建立する「里
引き祭」を五月に行います。
 曳行途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御
柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ
場「木落し」です。男意気に駆られる若者た
ちが、群がりうちまたがった御柱を、一〇〇
メートル余り・傾斜度四五度近い崖のよう
なこの木落し坂頂上から、一気に引き落とし
ます。落下の反動で、若者たちの大半は放り
出され御柱とともに転がリ落ちる、一帯を埋
めつくす大観衆は一瞬息をのみ、驚声と大喚
声が沸き上がり、その豪壮さは筆舌に尽くせ
ません。
  「男見るなら七年一度
     諏訪の木落し坂落し」
と唄われてきました。この木落し坂での木落
しは、下社春宮・秋宮の御柱八本を三日にわ
たって行います。
           下諏訪観光協会
ふと気付いたのだが、申年と寅年にやってたら7年に一度ではなく6年に一度のような気がするのだが気のせいだろうか?
傍らには木落としにゆかり有る文学碑がある。
木落とし坂を後にし、途中産廃処理場やら建築廃材山積みとか、あまり目にしたくないものが並んでいたりするが、とりあえずここまでは歩道が有るのでまぁ良しとしよう。で両脇に民家の並ぶ旧街道を進むと再び車の行き交う国道に合流したり、離れたりと木落とし坂を出てから45分も歩いた頃、このクソ暑い中、ご苦労な事に道路工事をやっている脇にちいさなお堂があった。
なんとなく近づいてみると標柱に「中山道樋橋宿本陣延命地蔵尊大菩薩堂」とある。長い名前だ。正式には下諏訪から和田まで宿場は無いのだが、おそらく間の宿か本陣というのは茶屋本陣の事だろう。
標柱には「享保年間本陣の嫡子小松平兵衛が出家して全国六十余州の社寺仏閣を六年間にに亘り、納経巡拝を遂行したとき、この尊像を背負って伝えられている。その時の納経集院帳が保存されている。巡拝し終わった記念の供養塔を元文元年、堂宇の前に平兵衛が自らの手で建立してある。
で脇に回ると「お地蔵様、早く帰ってきてね!!待ってます」という張り紙がある。どうやら盗まれたのか、誰かが今一度「お地蔵さんを背負って全国六十余州の社寺仏閣を六年間にに亘り納所巡拝」しているのかどうかわからないがともかく不在の様である。
お地蔵様を盗んだところで、どうするんだろう。だっこすると夏場とかひんやりして気持ちいいかも知れないが少なくとも俺様はあまり欲しいとは思わない。
でひっきりなしに車の行き交う歩道のない国道から右手に逸れ、木立が良い具合に日差しを遮ってくれる静かな道へ進む。
まぁよく言えば静かな道だが、ペット霊園なんぞあるようなうすら寂しい道でもある。この入り口近くの標識には、「和田峠5.5km」とある。
10時33分の段階で和田峠8.9kmで、11時29分現在和田峠まで5.5kmってことは時速3kmちょいと言ったところだろうか。で工場を抜け国道の下をくぐると浪人塚と記された案内板があった。ちょっとコースから逸れるが立ち寄って見た。
 史蹟浪人塚(このうら五〇米先)
  和田嶺砥澤合戦跡
元治元年(一八六四)十一月二十日
水戸浪士の一行千余人勤王の
志をとげようと和田峠を
越えてきた。それを高島、松本両藩が
防いだ激戦地あとで塚には
討死した浪士を葬り櫻を
植え墓碑が建てられている。
  下諏訪町教育委員会

下諏訪町文化財 史跡 浪人塚 ここは浪人塚といい、今から一ニO年前 元治元年(一八六四年)十一月二O日に、 この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち 千余人と松本、諏訪の連合軍千余人が 戦った古戦場でもある。 主要武器はきわめて初歩の大砲十門 くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍 刀が主要武器として使われた.半日戦に 浪士軍に一O余、松本勢に四、諏訪勢に 六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者を ここに埋めていったが、高島藩は塚を造って 祀った。碑には、当時水戸に照会して得た 六柱だけ刻まれている。明治維新を前にして 尊い人柱であった。  昭和四十六年三月五日 指定   下諏訪町教育委員会
この下諏訪の水戸浪士VS高島・松本藩の連合軍の戦いにの様子については、島崎藤村の夜明け前にも登場している。
他の藩のほとんどは水戸浪士に対して触らぬ神に祟りなしというか、ポーズだけだったのにここ和田峠では諏訪(高島)と松本から兵を送り込んで戦闘になったらしい。
塚の前には、ベンチや芝生なんかがあり、ここまで殆ど休んでいない俺様には格好の休憩ポイントだったが、戦で散った方々の前で座り込んで一服する気にはなれなかったので再び和田峠を目指すことにした。
で国道の下をくぐり、工場の脇を抜け再び国道に合流する。腹立たしいことに車道の幅は登坂車線まであるのに歩道は無い。
まぁ、こんな所歩く人は皆無なので仕方がない。ひたすら車の行き交う国道だったり、道路の付け替えで廃道となった個所を歩くこと一時間弱で一里塚の標識が有った。ただ、存在を示す矢印がなぜか下向きである。おそらく国道を通す際に道路の高さをかさ上げしたためだと思われるが、これまで旧街道らしい物はまるでなかったとは言え、ここまで上り詰めて確認しにいく体力は残っていなかった。
一里塚から程なく、峠越えの山道の入り口に辿り着いた。和田峠まで1.5kmと標柱には記されいる。入り口付近は下草も刈られておりまぁ30分も歩けば和田峠かなと軽い気持ちで登り始めた。
左手に人為的に平らにならされた草っ原にに何か案内板が有るので見ると、西餅屋茶屋跡とある。
下諏訪町文化財
西餅屋茶屋跡
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と
和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた
「立場」(人馬が食う食する所)であった。
中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道とし
て重視されていた。ここは茶屋本陣の
小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒
があり、藩境にあったので、時には穀留
番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦の
ときは、高島藩の作戦で焼失されたが、
すぐに再建された。現在は道の「曲之手」
(直角な曲り)茶屋跡が残っている。
昭和四十五年九月十六日 指定
        下諏訪町教育委員会
        
まぁ「茶屋跡が残っている」という表現に何となく微妙な違和感を感じつつ木立の間の中山道を進んだ。
茶屋跡から直ぐに道幅が人一人通るのが精一杯といった感じの頼りない小道となった。進むことさらに10分余りで道は雨などで流れた水により浸食され道というよりV字状にえぐられた川底みたいな感じである。やがて俺様の行く手を遮るかの様に木が倒れていた。
倒木から薄暗い木立の中を登ること25分で石小屋跡という説明が記された看板が建っており石垣があった。
中山道 石小屋跡
 中山道の古峠は、標高一、六〇〇メートルの峠で
難路で知られていた。下諏訪側の峠近くは急坂で
風雪の時は旅人も人馬も難渋した。大雪の時には雪割
り人足も出動した。下原村の名主勝五郎は、安政
二年(一八五五)に避難場所と荷置場を造ろうと、
郡御奉行所に口上書を差し出し、馬士の出金、旅人
等の援助を乞うて、五十両ほどで石小屋を築いた。
 石小屋は、山腹を欠いて高さ約二メートルの石積み
をし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けた
もので、石垣からひさしの雨落ちまで二・三メートル
長さ五十五メートルという大きいものであった。
人馬の待避所や荷置場には絶好の施設であった。
 その後、慶応三年に修理したが、現在は石垣の
一部を残すのみである。
平成九年五月
     下諏訪町教育委員会
石垣しか残っていないが結構でかい建造物だったようだ。ただできあがったのが幕末なので、どれだけ利用されたのだろうか。
やがて登るに従い鬱蒼とした木立が途絶え、そこから見下ろすと下諏訪の市街が遠く望むことができた。
ほどなく、13:30、予定時刻より40分遅れで古峠に着いた。

古峠(和田側)

石畳

トンネル

餅食って出発

広原一里塚

まぁ一杯

左手に石碑がある

近藤谷一郎巡査殉職の地





殉職警察官近藤谷一郎巡査君之碑

接待茶屋

木立の中の中山道

三十三体観音

男女倉

一里塚入り口

唐沢一里塚その一

唐沢一里塚その二

藁葺きのバス停

国道を右に逸れる

和田村のマンホール

まだ和田宿に着かない

藁葺きのバス停その2

梅花藻

梅花藻が生えてた側溝
というわけで古峠につくとあれこれ看板が並んでいる。和田村と書かれていることからここから先は和田村ということらしい。
とりあえずカレーパンをかじりながらウロウロしてみる。
和田峠といえば縄文時代からの名物?黒耀石なのだが残念ながら見つけることが出来なかったのであちこちにある和田峠の説明等が書かれた看板を見てみる。
 この道は、江戸時代の中山道である。和田宿は慶長7年、(1602)中山道の設定により
開設された。下諏訪宿まで和田峠越えの5里余(約20km)の道筋は、慶長19年(1614)
ごろ完成したといわれている。
名称は、はじめ「中仙道』であったが.東山道のうちの中筋の道ということで、享保元
年(1716)に「中山道」と改められた。
中山道は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、京都までの69宿、132
里10町(約520km)をいう場合もある.1日7里(28km)とすれば、17日の行程である。
木曽路を通るので「木曽街道」とも呼ばれた。信濃には26宿があった。
 和田宿は、江戸板橋宿から28番目の宿場である。宿成立以前から人家のあった中町・
下町を中心に、上町が、さらに周辺の雨原・細尾・鍛治足・久保などから人を集めて宿を
構成し、さらに正徳3年(1713)には下町に続く追川越えの橋場・新田を宿場に組み人れ
ている。宿場は、幕府の公用旅行者の継ぎ立て業務を取り扱う所であったが、参勤交代
で中山道を通行する34家の大名や,一般旅行者が休泊する場所でもあった。
 天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると,
宿の長さ7町58間(約870m)、人数522人、家数126軒,うち本陣1脇本陣2、問屋2、旅籠屋28、
(大12.中4,小12)となっている。問屋、本陣.脇本陣、木問屋等は中町付近に集中し、そ
れらを中心に上町や下町まで旅籠屋や伝馬役、歩行役を勤める家、茶店、商家などが並ん
でいた。それらの多くの家が農業を兼ねていた。
 和田宿は下諏訪宿まで中山道随一の長丁場であるうえ、上り2里半.下り2里半という
和田峠の難所をひかえ、継ぎ立てにあたる伝馬役,歩行役の苦労は並大抵ではなかった。
天保3年(1832)に和田宿で動員した人足は、延17、759人,馬は延7、744匹にのぼっている。
文久元年(1861) 11月の和宮通行の際は、4日間に延8万人が通っている。その後も幕末
まで大通行がしばしばあった。50人・50匹の宿常備の伝馬でまかないきれない分は、元禄
7年(1694)に定められた助郷制によって、近隣の村々から動員された。幕末はとくに出
動回数が多く助郷村の負担は大変なものであった。
うーんわざわざ峠に建てなくても宿場の中に立てれば良いような看板である。

中山道
古 峠
 中山道設定以来、江戸時代を通
じて諸大名の参勤交代や一般旅人
の通行、物資を運搬する牛馬の往
き来などで賑わいをみせた峠であ
る。頂上に、遠く御嶽山の逢拝所
がある。冬季は寒気も強い上に、
降雪量も多く、冬の和田峠越え。の
巌しさは想像を絶するものがあっ
たであろう。
 明治九年(一八七六)東餅屋から
旧トンネルの上を通って西餅屋ヘ
下る紅葉橋新道が開通したため、
この峠は殆んど通る人はなくなり
古峠の名を残すのみである。
文化庁 長野県 和田村

やはり、さっきの石小屋は作ったはいいが20年程しか活躍しなかったようである。まぁ100年以上表舞台から外れた道を今こうして辿ることが出来るのはすごいことだが下諏訪からの登りのアプローチが歩道無し国道というのがちょっと残念である。
残念といえば塩尻峠のように休むところが無いことである。まぁ車で入っていけるところでは無いので設置やメンテナンス、そして冬季は結構雪が降ることを考えると無理もないなぁと、和田宿へ向けて下り始めた。
下り始めて気付くのだが、下諏訪側の雨水に浸食されてV字状にえぐれた道とは違って和田側は石畳である。当然中山道の名残ではなく、後付オプションであろう。峠隔てて道がこれだけ違うとついつい比較してしまうわけだがやはり温泉に諏訪大社と観光資源が豊富な下諏訪町は、ここまで手が行き届かないのだろうかと邪推してみる。かといってカラータイルで敷き詰められた無駄に整備された遊歩道作るくらいならむしろ下諏訪側の様にワイルドな道はそれはそれで楽しいと考えてしまうからまぁ勝手なもんである。
峠を下り始めてから15分あまりでビーナスラインをくぐるトンネルに突き当たった。トンネルといっても沢の水を通す土管に申し訳程度に人が歩けるスペースを確保した様な物だが、盛り土で高くなった道路を渡る手間が省けるだけでも大いに有りがたい。
さらに下り、再び車道を渡り、東餅屋に着いた。なにやらドライブインが有るので、カレーパン+酒では、軽く燃料を投入することにした。
とりあえずビールと名物らしい力餅を頼み、待っている間、周りを見ると店の中には黒耀石やらハチミツやら並んでいる。そー言えばここ和田峠で採れた黒耀石が全然離れた場所の縄文時代以前の遺跡から発掘されると聞いた覚えがある。そんな遠い昔からのブランド品?である和田峠の黒曜石だが、結構これまで足下を見ながら歩いていても見つからなかった。まぁ割とお手頃な値段で並んでいるが、落ちてたら拾うが買ってまでして持って帰る物では無いだろうと考えているうちにビールが運ばれてきた。
やはり、歩いた後のビールはうまい・・・。いやまだ歩いている途中だっけか。今日の旅は一日数本のバスをあてにしているので、一応タイムスケジュールを立てて、区間毎の通過予想時刻を建てており、長久保には17:30着予定。18:40の上田行きのバスに乗れればセーフ。乗れなかったらどうしよう?という不安な旅路である。でこの先の長久保まで15km地点の通過予定時刻が13:20で今14時ちょっと前だ。まぁ一時間マージンがあるし、これからは下りだし、少しはペースを上げられるだろうと地図を見ながらビールをやっつけていると名物力餅がやってきた。
まぁビール飲みながら餅という組み合わせも妙だなと思いつつ、透けて見える餅の中の黒い物に不安を感じつつ、一つやっつけてみた。
予想通り、中の黒い物体は”あんこ”だった。まぁ一般的にあんこ入った餅はビール飲みながらやっつけるものでは無いが、俺様クラスになるとどんな組み合わせでも酒が飲めるので大した問題ではない。

中山道 東餅屋
 標高一五三一メートルの和田峠
は急坂が多く降雪の際はもとより、
雨や霧の日も旅人は難渋した。こ
の峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、
落合に茶屋があり人馬の休息所と
なっていた。
 この東餅屋では、五軒の茶屋が
名物の餅を売っていた。寛永年間
(一六二四〜一六四三)より、一軒
に一人扶持(一日玄米五合)を幕府
から与えられ難渋する旅人の救助
にもあたっていた。幕末には大名
休息のための茶屋本陣もおかれ土
屋氏が勤めていた。鉄道が開通す
るとともに往来も途絶え、五軒の
茶屋も店をたたみ、今は(ドライ
ブイン以外家はなく)石垣を残す
のみである。

  文化庁 長野県 和田村
でビールとあんこ餅で生き返った俺様は、ドライブインを出た。 すると和田峠遺跡群について記された看板があった。
 和田峠遺跡群
 旧石器時代の石器の材料とされた黒
耀石は、和田峠周辺に多く産出されて
いる。
平成二年〜四年の分布調査により、そ
の黒耀石の露頭は十ケ所程確認された。
さらに、和田川の段丘には数多くの後
期旧石器時代の遺跡群が形成されてい
ることが明らかになった。特にキャン
プ場から一里塚、そして湿原の周辺に
、たくさんの遺跡が集中している。出
土した石器は黒耀石石器資料館に保管
されている。
          和田村教育委員会
やはり旧石器時代は、霧ヶ峰一帯でも人が住めるほど温暖だったのか、その当時の人間がむやみやたら寒さに強かったのか・・・。
ドライブインを出てから5分余りで、塚が見えた。一里塚のようである。
中山道
広原一里塚
 このあたりを広原といった。そ
の名のとおり背は笹と萱の生い茂
る原であった。
 冬の降雪期には山頂より吹きお
ろす吹雪で一面の雪の原と化して
道も埋もれるとき、五間(九メー
トル)四方のこの塚は旅人の道し
るべとなったであろう。
 この塚は江戸より五二番目の一
里塚に当たる。
文化庁 長野県 和田村
なんでこんな峠道の途中が広原というのか謎だが、とにかく復元では無く現存する一里塚のようである。52番目の一里塚と言うことは日本橋まで残り208kmってことだ。
まぁ後一週間歩き続ければ日本橋に辿り着く勘定になるが、さすがにそんな体力も時間もない。
体力といえば、さっきドライブインで休んだばっかりだが、しばらく歩くと東屋があったので、荷物の中からワンカップを取り出してやっつけることにした。
地図を見ると、この辺りがどうやら前もって地図に記しておいた長久保まで残り15km地点のようである。今14:20だがまぁあと4時間も有れば長久保に着けるはずだが、18:40のバスに間に合うかどうかかなり微妙になってきた。
ワンカップをちびりちびりやりながら、ずるずるのんびり休憩と行きたいところだが、グイっと酒を飲み干して出発した。
10分ほど下ると道の脇に石碑が建っている。周りには何もないがと思いつつ碑を見ると「近藤谷一郎巡査殉職の地」とある。
こんな寂しいところで何があったんだろうと思いつつ、まぁ後で調べりゃいっかと先を急ぐ。
和田峠下諏訪側と違い所々沢があるので、タオルを濡らして首筋にあてがったり涼めるので有りがたい。沢の脇にはオレンジ色のカタバミのような花が咲いているがなんて花だろう。
草花の知識もあれば、街道歩きの楽しみも増えるのだろうが、俺様にそこまで脳味噌のキャパシティがあるかどうか自信がない。
さて程なく車道に出た所に大きな石碑があるので見ると「殉職警察官近藤谷一郎巡査君之碑」と彫られている。
「殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑」について

 近藤谷一郎巡査は、慶応三年一〇月二〇日、新潟県北蒲原郡において
近藤谷右衛門の長男として生まれ、明治二二年二月四日長野県巡査を拝
命し、同年三月九日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰と
なった。
 上田警察署丸子分署に勤務中の明治二二年八月二二日、窃盗犯人を下
諏訪警察分署へ護送する途中、当接待地籍において、やにわに逃走した
犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受
けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。
享年二二歳。
 犯人は頭部を負傷し、接待地籍の茶屋へ逃げ込んで来たが、茶屋の主
人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りかかっ
た住民二人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所へ届
け出て事件が判明した。近藤巡査の遺体は、翌八月二三日捜索隊によっ
て谷川の中で発見された。
 治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の
霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年八月二二日の命日に、村民を
あげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から四八年過ぎた昭和一二年、丸子警
察署庁舎改築を機に、依田窪全町村長の発意により、この地に「殉職警
察官近藤谷一郎君之碑」の慰霊碑が建立された。
 慰霊祭は、例年八月二二日の命日に和田村民の手によってしめやかに
開催されてきたが、昭和六三年の百回慰霊祭をもって和田村主催から、
和田村教育委員会の管理となり、その後、和田村更生保護婦人会の方々
が命日前に慰霊碑周辺の清掃、供花等の供養を続けていただいている。
平成一四年八月

和田村役場
丸子警察署
先の「近藤谷一郎巡査殉職の地」は護送中の犯人により命を落とした警察官の碑だったわけで 警察官になって半年も経たぬうちに殉職されるとは気の毒な話である。
この慰霊碑の近所には接待茶屋というのが復元されていた。でもそろそろ時間に追われる旅になりつつあったので写真だけ撮って素通りした。
再び、木立の中の中山道を進む。すると道路脇に沢山の石仏が祀ってあった。
中山道
三十三体観音
 かつて、この山の中腹にあった
熊野権現社の前に並んでいた石像
である。旧道の退廃とともに荒れ
るにまかせていたが、昭和四八年
(一九七三)の調査発堀により二九
体が確認されここ旧道ぞいに安置
された。内訳は、千手観音一三体、
如意輪観音四体、馬頭観音一〇体、
不明二体で四体は未発見である
 峠の難所を往来する人馬の無事
を祈ってまつったものであろうか。
文化庁 長野県 和田村
なにやらまだほじくり返されていない仏様が4体あるようだ。
10分ほど歩くと国道に出た。頭上には男女倉口 標高1100mと書いた標識が建っている。かれこれ800mくらい登って、600mくらい下ってきたようだ。
今では、岡谷から、湖北トンネル、木落とし坂トンネル、新和田トンネルでここまで車で10分掛からず辿り着ける所をわざわざ五時間半以上掛けて歩いて山越えするんだから酔狂な話である。 ちなみに男女倉と書いて「おめぐらぐち」と読むらしい。
国道を歩くこと10分余り、左手に「中山道唐沢一里塚」と標識があり、その指し示す方向は再び山の中である。標識に従い山の中に入っていくと、直ぐになだらかなふくらみが目に入った。
国道のルートから外れたお陰か、左右の塚が残っている。
唐沢一里塚
 この塚は、江戸より五一番目の
一里塚である。
 一里塚は、 江戸日本橋を基点と
して一里(約四キロメートル)ごと
に道の両側に五間(約九メートル)
四方の塚を築き、多くはその上に
榎や松を植えて旅人の目じるしと
し、また、憩いの場所ともしたも
のである。
 和田、下諏訪宿間に一里塚は六カ
所あったが、これはその一つである。
この塚は、中山道の一部路線変
更により山中にとり残されたもの
で、天保二年(一八三一)の絵図画
ではすでに路線からはずれている。
現在樹木は残っていないが塚
は二基ともほぼ原型をとどめてい
る。
文化庁 長野県 和田村
つか、すでに江戸時代後期にはすでにルートから外れて放置されていた訳ね。
この一里塚は小高い起伏の上に位置しており、これを迂回するように国道が走っているが、江戸時代後期にはどうやらこちら側にルート変更されていた様である。
そんなわけであっという間に坂を下って国道に合流した。
距離的にも山道の上り下りで時間的にも体力的にもロスだが、まぁ江戸時代後期から路線変更で放置プレイされた一里塚が現存することはなかなか興味深いことである。
国道に戻り、国道を下っていくと前方に人が住むには小さすぎる藁葺き屋根の建物があった。扉峠入口というバス停である。
国道をしばらく歩き、左手に分かれる道が中山道の様なのでそちらへ進む。どうせ国道の方が近いんだろうけど・・・・
すると前方に人が住むには小さすぎる藁葺き屋根の建物が見える。近づいてみるとバス停の待合所であった。
一日数本しかバス走っていないところにこんな手の込んだもの作っちゃって・・と思ったが、考えようによっては本数が少ない分、むしろ待ち時間が多くなるので有意義なのかも知れない。
藁葺き屋根のバス待合所にほっとしたのもつかの間で、再び国道を歩く羽目になる。
で時計に目をやると16時を回っている。下諏訪を出てから六時間半あまり経つがまだ距離にして20km余りの和田宿に着かない。
登りで遅れた分を下りで取り戻せるかと思ったが、和田峠下りの通過タイムを考えるとせいぜい平地を歩くスピードに毛が生えた程度である。
今度は右側に逸れて、中山道は細い路地となる。いよいよ和田宿かと思ったがまだの様である。
ここ和田村も、合併の話が出ており、この木曾海道和田と書かれた安藤広重の和田峠を模した足下のマンホールのデザインもいずれかわってしまうのかなぁと記念に撮影。
(これを歩いているときは和田村だったが、書いている頃には長門町と合併して長和町になっていた。)
藁葺き屋根のバス停の大手バス停を過ぎが有った。 国道を渡って今度は左手の道を行くと側溝に水に水草が生えていたが、ただの水草ではなく、醒ヶ井宿にも生えていた梅花藻である。
またまたバス停が有ったので、時刻表なんか見てみると、16:35上和田発上田行きが最終だった。まぁこの最終バスで乗っていれば、この後の悲劇を招くことが無かったかも知れないが、翌日どうやって上田から上和田まで行くのという問題が生じていたかも知れない。
しばらく進むとまたまた、バス停があったが、今度は軒になんだか丸い物がぶら下がっている。何だろうと近づくとスズメバチの巣だった。
そーっと忍び寄って写真を撮ろうとした瞬間、一匹の蜂が虫ケラの分際で俺様に向かってきやがった。虫ケラの分際で生意気な!と思ったが、刺されたらかなわんので猛ダッシュで逃げた逃げた。 なぜ、バス停にスズメバチが巣くっているのに放置しているのか考えた。俺様に襲いかかったスズメバチはキイロスズメバチなのでいわゆる普通に蜂の子として食用とするクロスズメバチとは別種だが、そんなことお構いなしに食べ頃サイズに育つまで待っているのだろうか。
とりあえず和田峠を越えてまだ走れることに感心しつつ、たった今演じた醜態を見られていないだろうなとキョロキョロするが人の気配は無い。
でキョロキョロしたら、家の玄関先に昔の屋号を記した木の表札がぶら下がっており、どうやらやっと和田宿に入ったようである。

和田宿

和田宿の街並み

脇本陣跡

ふる里宿場みこしin和田

本陣

かわちや

和田宿外れ

和田中学校

和田小学校

国道に合流

薄暗い道

獅子舞が彫られた石像

石像から和田宿方面

三千僧接待碑

藁葺きのバス停

バイパス分岐の公園

国道152号分岐

長門町

四泊

田んぼの中の砂利道

長久保宿遠景

長久保宿入り口

松本方面

歴史有りそうな造りの家
というわけで高札場跡を示す看板を過ぎたってことで宿場に入ったらしい。

中山道
高札場跡
 幕府の高札を掲示した場所であ
る。記録によればここに正面三間
(約五・五メートル)、奥行七尺(約
二・一メートル)の一段高い敷地に、
正面二間(約三・六メートル)の屋
根つきの高札場があった。
 高札は交通量の多い場所に掲げ
て、法度・次宿までの駄賃定書・犯
罪人の罪状などをしるし、人々に
周知徹底させるためのものであっ
た。旅人はここでは、笠など、かぶ
りものを取るのが習わしであった。
 ここに掲げられていた高札は、
 正徳元年(一七一一)五月 定 六枚
 享保六年(一七二一)二月定定 一枚
 享保六年(一七二一)七月 定 一枚
 明和七年(一七七〇)四月 定 一枚
などである。
文化庁 長野県 和田村
さらに進むと脇本陣跡が広場になっており、トイレも併設されていたので拝借する。再び街道に戻ると道路両脇に提灯がぶら下がっており、「ふる里宿場みこしin和田」という横断幕が掲げられている。横断幕が掲げられている建物はなんだか由緒ありげなので近づいてみると本陣の様である。残念ながら開館時間は過ぎていたため外観だけ拝見して通り過ぎる。本陣から歩くこと2分程で「かわちや」と看板に記された建物があった。説明によると旅籠だった建物を利用した資料館とのことであるがこちらもすでに閉館していた。
中山道
かわちや (歴史の道資料館)
 文久元年(一八六一)三月十日の
大火で焼失したが、その年の十一
月、本陣、脇本陣等と同じく再建
されたものである。  
 和田宿の旅籠のうちでは規模が
大きい方である。出桁造りで格子
戸のついた宿場建物の代表的な遺
構であり、江戸末期の建築様式を
よく伝えている。    
 昭和五六年度、歴史の道整備事
業の一環として総工費三〇〇〇万
円で、延床面積四二二平方メート
ルを復元し、「歴史の道資料館」と
したものである。   
文化庁 長野県 和田村
和田中学校、和田小学校を通り過ぎ、およそ8km先の長久保を目指すのだが、長久保から出る最終バスが18:40と残り1時間50分と時間的にはギリギリである。
やがて中山道は国道に合流するようだが、交通量の多い国道より、国道と閉校して集落の裏手を通る薄暗い道を進んだ。この道は殆ど使われていないのか舗装こそされているものの朽ち木や竹が倒れかかっていたりする。
再び国道に出ると、石像がある。左側の獅子舞と子供が彫られた石碑に心曳かれたので何となく撮って見た。
図柄から新しい物の様である。左側の物は千手観音か阿修羅像?のようである。一応今歩いているところは国道とはいえ、依田川の対岸にバイパスが出来たため比較的交通量は少ない。
さきほどの石像からしばらくで、何やら看板とその裏にでっかい石碑がある。
中山道
 三千僧接待碑
 信定寺別院慈眼寺境内に建立されて
いたものだが 寛政七年(一七九五)
この地にうつされた。 諸国遍歴の僧侶
への接待碑で一千人の僧侶への供養接
持を発願して見事結願し、一躍二千を増
した三千の僧侶への供養接待を発願し
たと碑文に刻まれている。
 碑を見れば誰の目にもわかるように
一千僧の一の字を三千僧の三の字に改
刻した後が歴然としている。当時三千
という僧侶への接待用の食べ物は米飯
ばかりでは到底賄いきれないところか
ら麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀に
ても賄い 更に天保年間の六年に亘る
凶作続きの際にはじゃが芋の粥などで
賄ったことがあると言われる。
    和田村・長野県・文化庁
三千僧接待碑と刻まれた石碑が建っており、ここを通りかかった3千人の旅の坊さんをもてなしたということらしい。
で当初一千人の坊さんを目標にしたところ、あっさりとクリア?しちゃったので調子こいて??さらに二千人上乗せでやってみるべとトライしたところ見事に三千人の坊さんに飯を食わせることに成功したと言うことらしい。
石碑は、当初千人の坊さんクリアの時に建てたらしく、三千人の坊さんをクリアした時にもういっぺん石碑を建てるのも手間だったらしく、一千僧の一の時に横棒を足して三千にしてしまったとの事である。確かに、”三”と”僧”の間が不自然に開いている。
この石碑から10分ほど歩くとまた藁葺きのバス停に辿り着いた。もういい加減珍しくもなんともないので素通りし、さらに10分ほどでバイパスとの合流点に設けられた公園にて休憩。まぁ現在時刻が17時40分をちょっと回った位である。
想定時刻では17時10分にこの辺りを通過していることになっていたが、まぁ和田峠越えた時点では一時間オーバーだったから、まぁ30分縮めただけでもまぁ良しとしよう。
ふと見ると「歴史の道 中山道」と書かれた案内板があった。内容は和田宿について書かれたもので、良く見れば和田峠に設置してあった物と内容が同じだった。
そんなわけであと30分ほどで着くであろう長久保をめざして出発した。
程なく、国道152号との分岐に差し掛かった。この国道152号は、大門街道、塩の道、秋葉街道と名前を変えて浜松へ抜ける道である。浜松市街は片側2車線の立派な道だが、そこへ辿り着くまでが殆ど峠道であり加えて途中2カ所ほど未開通区間があり林道が補っており、その道の険しさと距離から、国道ではなく酷道と呼ばれていたりもする。
苦労の末ようやく、17時50分ようやく長門町に入った。これを書いている時点で長門町は和田村と合併したたため長和町となっている。
長門町に入って程なく「四泊」というバス停を見つけた。地図にはこのあたりの地名として四泊と記されているが、なんでまたこんな名前なのだろうか。
さて中山道はいつの間にか田んぼの中の砂利道に入る。まぁ少々国道より遠回りだが、歩道のない国道を歩く事に較べれば苦にはならない。
再び国道に戻り、酷道152号と142号の併用区間を過ぎ142号へ進むと長久保宿が見える。いよいよゴールなわけである。
国道142号を左に逸れて長久保宿へ向かう。
街道脇には、普通の民家に混じって格子窓の風情有る民家もあって迫り来る夕闇とともに宿場町の雰囲気が漂っている。。 この道を真っ直ぐ行って、交差点を右に曲がれば中山道な訳だがとりあえず今日は18時16分この交差点をゴール地点にした。

飛魚バス停

番外

ゴールだったと思ったらゴールじゃ無かったわけで というわけで中山道を逸れて真っ直ぐ行ったところにあるバス停を目指す。この道も結構古い道の様なので、もしかしたら善光寺へ通じる道なのかも知れないと思いつつ、バス停に到着。
であると思ったバスが無い。17:10が最終バスとなっており、もしやJRのバスではなく別会社のバスかとも思いバス停を探すが見あたらない。
先のバス停を行ったり来たりするが、他に交通機関は無さげなのであきらめて依田川沿いの道をすでに辺りが暗くなりつつなる中、上田目指して進むことにした。依田川を渡ると宿場町の雰囲気のある通りに出た。 ふと依田川の向こう岸に依田窪病院という大きな病院があった。病院ならば、客待ちのタクシーもいるかなと思ったが、外れると痛いので通り過ぎた。
そっかタクシーという手があったな。携帯サイトでタクシー呼べないかとアクセスするもつながんない。auのサーバのキャパシティを越えるアクセスが有るらしい。やっとつながったと思ったらエリア外。だいたいタクシー呼ぼうにも現在地がわからん。
まぁとにかくこんな畑の中の道を行くよりか国道を歩いた方が幾分ましなので国道152号に出た。
気がつくと長門町から武石村に入っていた。
するとさすがは国道。バス停も有るじゃん。え?何このバス停「飛魚」だが残念ながらバスが来る時間は終わっていた。
するとさすがは国道。ラーメン屋がある。ラーメン食ってビール飲んでできあがった所で店の電話でタクシー呼ぶかとも思ったが、こんな自家用車 が普及しているところでタクシーなんか呼べるのかという疑問が湧き、もうちと進んでみることにした。
するとさすがは国道。ジャスコも有るじゃん。ホテルでの晩酌のネタでも仕込みたいがこの状況で荷物増やしてもなぁと通り過ぎる。
いい加減くどくなってきたのだが国道は152号と254号に分かれていた。上田は152号を進めば良いらしい。だがここから16kmも離れていたら4時間も掛かるし今20時だから着いたら0時じゃねーか。そろそろこの状況を打破しないとな。
するとさすがは国道。コンビニも有るじゃん。でもビール飲んでのんきに歩く状況ではないなぁと通り過ぎる。
するとさすがは国道。電話ボックスも有るじゃん。そっかタウンページでタクシー会社探せばいいじゃん。
するとさすがNTT。ちゃんと電話の所在を記してあるぞ。ここは丸子町か。丸子と上田に営業所のあるこのタクシー会社に電話して・・・さっきの152号と254号の分岐のコンビニに来て貰うことにした。
もう無事に帰れるとなればコンビニで晩飯とか晩酌とか仕込んでタクシーを待った。
程なくやってきたタクシーに乗り込み、料金5000円也で上田駅前のホテルに着いた。帰って歩数計を見ると56000歩も歩いていた。40kmかよ!!
まぁ東海道を歩いたときは桑名から関までの67000歩というのがあるから、距離では大したこと無いが、まぁ中山道の最強難所をクリアした上に余計に10km歩いているからなぁ。
とりあえず風呂入ってビール飲んでさっさと寝よう。

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