日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 | ||||||||||
2005年8月08日 | 下諏訪〜長久保 | 晴れ | 8時間41分 | 44470歩 | 31.13km | 11620円 | ||||||||||
![]() 御柱 |
まえがき 今回は和田峠を越えて長久保までがんばれば後はなんとかバスで上田まで行けそうなので、上田に宿を取り、八王子からあずさに乗って下諏訪を目指した。実は長久保からのバスをあてにしたがためにえらい目に遭うことなんざこの時点で気づくことはない相変わらずノープラン俺様であった。 でお盆だし、やかましくて子供が駆けずり回る電車は苦手なので、グリーン車でいくかと・・・え?喫煙席なしかよと思いつつ、煙くもなく静かなはずのスーパーあずさに乗り込んだが、結局前の席のつがいの他愛のない会話がやかましかった。 とりあえず、ミニ幕の内弁当を広げながら、朝っぱらからビールを流し込んでいるともう笹子トンネルに差し掛かった。 で飯を食い終えた俺様は更新が滞っているホーモページの更新をすべくノートパソコンを広げるが、飯食い終わって1時間余りで上諏訪に着いた。ここで鈍行に乗り換えるのだが、乗り換える電車が飯田線の豊橋行きである。 時刻表によれば213km離れた豊橋に15時54分に辿り着くおよそ6時間半の旅となる。単に豊橋に向かうだけなら大回りになるが中央本線で名古屋に出て、東海道線で豊橋に向かった方が1時間は早いという、存在意義に巨大なクエスチョンマークが着いてしまいそうなローカル線である。 未だに車から眺めただけだが長野・愛知・静岡県境辺りは「えっ?こんな所電車が走るの!」といったスゲー所なので、機会があれば訪れたいところである。 さて、ずいぶん長いこと禁煙を強いられていたのでとりあえず発車まで時間があるので一服しておくか。とむやみやたら長いホームの端っこの喫煙所に向かい一服。そうこうするうちに発車時間になったので豊橋行きに乗り込み 9時25分に下諏訪駅にたどり着いた。 下諏訪駅は前回の 奈良井−下諏訪の際、下諏訪に車を置いてから電車に乗って奈良井へ行ったり、ゴール地点もここ下諏訪駅だったが、いずれも時間が無かったり、着いた頃には真っ暗だったりと説明をじっくり見る機会が無かったが、今回はチェックしておこう。
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![]() 下諏訪駅入り口 ![]() 国道20号 ![]() なんかのモニュメント ![]() 下諏訪宿 ![]() 下諏訪宿高札場 ![]() 下諏訪宿の街並みその1 ![]() 本陣 ![]() 下諏訪市街 ![]() 注連掛 ![]() ここを登るの? ![]() ここから登る ![]() 石碑 ![]() 石碑2 ![]() 水力発電所の導水路 ![]() てっぺん ![]() 木落し坂 ![]() 天下の木落し坂 ![]() 木落とし坂(現物) ![]() 地蔵堂 ![]() 地蔵堂の張り紙 ![]() 和田峠まで5.5km ![]() 和田峠まで5.5km地点 ![]() 浪人塚 ![]() また国道に出た ![]() 振り返るとこんな感じ ![]() 道路下の一里塚 ![]() 和田峠入り口 ![]() 和田峠入り口その2 ![]() 西餅屋茶屋跡 ![]() 木立に覆われた中山道 ![]() 行く手を遮る倒木 ![]() 石小屋跡 ![]() 下諏訪市街 ![]() 古峠から下諏訪方向 |
というわけで9時35分、前回のゴール地点の下諏訪駅入り口交差点をスタートした。今回はおそらくコンビニはおろか飯を食うところが無く、市街地に出る前に食糧を入手せねばならないのだがここまでコンビニは無かった。 で折角歩き始めた国道20号だが、もうお別れである。信号を直進し今日一日のお付き合いとなる国道142号に進む。信号を渡るとセブンイレブンが有ったので昼飯代わりのカレーパンとウィスキーのポケット瓶とワンカップと酔い覚ましの伊藤園のお茶「濃い味」を仕入れ、坂道をえっちらおっちら登っていく。 すると程なくなんか、しめ縄をかたどったモニュメントとベンチがあった。どうやらここら辺りが宿場の入り口らしい。 でなにやら、このよくわからないモニュメントを解説したプレートが有ったので引用する。
うーん温泉宿がずらりと並んでいるのかと思ったがそうでもなく、静かな街並みである。やがて道はT字路に突き当たり、右へ行くと諏訪大社秋宮、左は国道142号、中山道である。諏訪大社にも足を伸ばしたいところであるが、およそ30km先の長久保発、上田行き最終のバスが17時代で有ることを考えるとあと7時間余りしかないので寄り道は極力避けないといけない。こういった時間に余裕の無い旅もつまらんのだが、気になったところは後でもう一度立ち寄れば良いのだと思いつつ 立派な門の前に明治天皇御小休所の石柱が立っていた。隣にある案内板によれば本陣跡とのことである。門も立派だが開いた門の先に建物が見えない位立派な庭である。
で地蔵は道路渡ってお寺さんの中に有りそうなので、寄り道出来ない俺様は先を急いだ。 その先は交差点となっており、真っ直ぐ進むと今までの上昇指向のベクトルを否定するかのような下り坂で、右は国道142号となっている。 まぁここまで登っておいて下ることもあるまいと思い、なにも考えずに右に向かってみたところ国道とは言うもののなにやら右側は山の斜面、左側は崖下となっており果たして江戸時代にこんなところに道を作れたのかどうか不安になってきた。そこで地図を検めるとどうやら中山道は崖下を通っている様なのだが、崖下へ行こうとする道は無く、先ほどの交差点まで戻らないとならず、飛び降りるわけにも行かないのでこのまま進み、諏訪大社秋宮の境内を後方から見下ろしつつやがて、中山道と合流した。 この後、時には国道から逸れることは有っても国道に沿って進む。やがて右手に空き地の様な場所があり、御柱祭の看板が建っている。説明が記された看板によれば「注連掛」という場所とのことである。
「山吹や・・・・」以下達筆すぎてかな以外判読できない。 、案内板の示す右手の道を進めば良いらしい。 しかしまた激しい上り坂である。なんせ隣には水力発電用の導水路があり、夜間はポンプで水をくみ上げ日中に落差を利用してタービンを回す仕組みの様だ。 ようやく上り詰めた俺様は愕然とした。さっきの和田峠まで8.9km地点から8分歩いて、いまここにある標識では9.5kmってことは400mしか進んでいない。 まぁあれだけの坂道なので平地のようには進めない様である。辺りを見回すとここは「御柱祭り」で山から引きずってきた「御柱」を落とすことで有名な木落し坂だった。 いやただの木落とし坂ではない。わざわざ石碑には天下の木落し坂と刻まれている。 で下をのぞいてみると「坂」なんて生やさしい物ではなく、坂というより「崖」である。
傍らには木落としにゆかり有る文学碑がある。 木落とし坂を後にし、途中産廃処理場やら建築廃材山積みとか、あまり目にしたくないものが並んでいたりするが、とりあえずここまでは歩道が有るのでまぁ良しとしよう。で両脇に民家の並ぶ旧街道を進むと再び車の行き交う国道に合流したり、離れたりと木落とし坂を出てから45分も歩いた頃、このクソ暑い中、ご苦労な事に道路工事をやっている脇にちいさなお堂があった。 なんとなく近づいてみると標柱に「中山道樋橋宿本陣延命地蔵尊大菩薩堂」とある。長い名前だ。正式には下諏訪から和田まで宿場は無いのだが、おそらく間の宿か本陣というのは茶屋本陣の事だろう。 標柱には「享保年間本陣の嫡子小松平兵衛が出家して全国六十余州の社寺仏閣を六年間にに亘り、納経巡拝を遂行したとき、この尊像を背負って伝えられている。その時の納経集院帳が保存されている。巡拝し終わった記念の供養塔を元文元年、堂宇の前に平兵衛が自らの手で建立してある。 で脇に回ると「お地蔵様、早く帰ってきてね!!待ってます」という張り紙がある。どうやら盗まれたのか、誰かが今一度「お地蔵さんを背負って全国六十余州の社寺仏閣を六年間にに亘り納所巡拝」しているのかどうかわからないがともかく不在の様である。 お地蔵様を盗んだところで、どうするんだろう。だっこすると夏場とかひんやりして気持ちいいかも知れないが少なくとも俺様はあまり欲しいとは思わない。 でひっきりなしに車の行き交う歩道のない国道から右手に逸れ、木立が良い具合に日差しを遮ってくれる静かな道へ進む。 まぁよく言えば静かな道だが、ペット霊園なんぞあるようなうすら寂しい道でもある。この入り口近くの標識には、「和田峠5.5km」とある。 10時33分の段階で和田峠8.9kmで、11時29分現在和田峠まで5.5kmってことは時速3kmちょいと言ったところだろうか。で工場を抜け国道の下をくぐると浪人塚と記された案内板があった。ちょっとコースから逸れるが立ち寄って見た。
他の藩のほとんどは水戸浪士に対して触らぬ神に祟りなしというか、ポーズだけだったのにここ和田峠では諏訪(高島)と松本から兵を送り込んで戦闘になったらしい。 塚の前には、ベンチや芝生なんかがあり、ここまで殆ど休んでいない俺様には格好の休憩ポイントだったが、戦で散った方々の前で座り込んで一服する気にはなれなかったので再び和田峠を目指すことにした。 で国道の下をくぐり、工場の脇を抜け再び国道に合流する。腹立たしいことに車道の幅は登坂車線まであるのに歩道は無い。 まぁ、こんな所歩く人は皆無なので仕方がない。ひたすら車の行き交う国道だったり、道路の付け替えで廃道となった個所を歩くこと一時間弱で一里塚の標識が有った。ただ、存在を示す矢印がなぜか下向きである。おそらく国道を通す際に道路の高さをかさ上げしたためだと思われるが、これまで旧街道らしい物はまるでなかったとは言え、ここまで上り詰めて確認しにいく体力は残っていなかった。 一里塚から程なく、峠越えの山道の入り口に辿り着いた。和田峠まで1.5kmと標柱には記されいる。入り口付近は下草も刈られておりまぁ30分も歩けば和田峠かなと軽い気持ちで登り始めた。 左手に人為的に平らにならされた草っ原にに何か案内板が有るので見ると、西餅屋茶屋跡とある。
茶屋跡から直ぐに道幅が人一人通るのが精一杯といった感じの頼りない小道となった。進むことさらに10分余りで道は雨などで流れた水により浸食され道というよりV字状にえぐられた川底みたいな感じである。やがて俺様の行く手を遮るかの様に木が倒れていた。 倒木から薄暗い木立の中を登ること25分で石小屋跡という説明が記された看板が建っており石垣があった。
やがて登るに従い鬱蒼とした木立が途絶え、そこから見下ろすと下諏訪の市街が遠く望むことができた。 ほどなく、13:30、予定時刻より40分遅れで古峠に着いた。 | |||||||||||||||
![]() 古峠(和田側) ![]() 石畳 ![]() トンネル ![]() 餅食って出発 ![]() 広原一里塚 ![]() まぁ一杯 ![]() 左手に石碑がある ![]() 近藤谷一郎巡査殉職の地 ![]() 沢 ![]() 花 ![]() 殉職警察官近藤谷一郎巡査君之碑 ![]() 接待茶屋 ![]() 木立の中の中山道 ![]() 三十三体観音 ![]() 男女倉 ![]() 一里塚入り口 ![]() 唐沢一里塚その一 ![]() 唐沢一里塚その二 ![]() 藁葺きのバス停 ![]() 国道を右に逸れる ![]() 和田村のマンホール ![]() まだ和田宿に着かない ![]() 藁葺きのバス停その2 ![]() 梅花藻 ![]() 梅花藻が生えてた側溝 |
というわけで古峠につくとあれこれ看板が並んでいる。和田村と書かれていることからここから先は和田村ということらしい。 とりあえずカレーパンをかじりながらウロウロしてみる。 和田峠といえば縄文時代からの名物?黒耀石なのだが残念ながら見つけることが出来なかったのであちこちにある和田峠の説明等が書かれた看板を見てみる。
残念といえば塩尻峠のように休むところが無いことである。まぁ車で入っていけるところでは無いので設置やメンテナンス、そして冬季は結構雪が降ることを考えると無理もないなぁと、和田宿へ向けて下り始めた。 下り始めて気付くのだが、下諏訪側の雨水に浸食されてV字状にえぐれた道とは違って和田側は石畳である。当然中山道の名残ではなく、後付オプションであろう。峠隔てて道がこれだけ違うとついつい比較してしまうわけだがやはり温泉に諏訪大社と観光資源が豊富な下諏訪町は、ここまで手が行き届かないのだろうかと邪推してみる。かといってカラータイルで敷き詰められた無駄に整備された遊歩道作るくらいならむしろ下諏訪側の様にワイルドな道はそれはそれで楽しいと考えてしまうからまぁ勝手なもんである。 峠を下り始めてから15分あまりでビーナスラインをくぐるトンネルに突き当たった。トンネルといっても沢の水を通す土管に申し訳程度に人が歩けるスペースを確保した様な物だが、盛り土で高くなった道路を渡る手間が省けるだけでも大いに有りがたい。 さらに下り、再び車道を渡り、東餅屋に着いた。なにやらドライブインが有るので、カレーパン+酒では、軽く燃料を投入することにした。 とりあえずビールと名物らしい力餅を頼み、待っている間、周りを見ると店の中には黒耀石やらハチミツやら並んでいる。そー言えばここ和田峠で採れた黒耀石が全然離れた場所の縄文時代以前の遺跡から発掘されると聞いた覚えがある。そんな遠い昔からのブランド品?である和田峠の黒曜石だが、結構これまで足下を見ながら歩いていても見つからなかった。まぁ割とお手頃な値段で並んでいるが、落ちてたら拾うが買ってまでして持って帰る物では無いだろうと考えているうちにビールが運ばれてきた。 やはり、歩いた後のビールはうまい・・・。いやまだ歩いている途中だっけか。今日の旅は一日数本のバスをあてにしているので、一応タイムスケジュールを立てて、区間毎の通過予想時刻を建てており、長久保には17:30着予定。18:40の上田行きのバスに乗れればセーフ。乗れなかったらどうしよう?という不安な旅路である。でこの先の長久保まで15km地点の通過予定時刻が13:20で今14時ちょっと前だ。まぁ一時間マージンがあるし、これからは下りだし、少しはペースを上げられるだろうと地図を見ながらビールをやっつけていると名物力餅がやってきた。 まぁビール飲みながら餅という組み合わせも妙だなと思いつつ、透けて見える餅の中の黒い物に不安を感じつつ、一つやっつけてみた。 予想通り、中の黒い物体は”あんこ”だった。まぁ一般的にあんこ入った餅はビール飲みながらやっつけるものでは無いが、俺様クラスになるとどんな組み合わせでも酒が飲めるので大した問題ではない。
ドライブインを出てから5分余りで、塚が見えた。一里塚のようである。
まぁ後一週間歩き続ければ日本橋に辿り着く勘定になるが、さすがにそんな体力も時間もない。 体力といえば、さっきドライブインで休んだばっかりだが、しばらく歩くと東屋があったので、荷物の中からワンカップを取り出してやっつけることにした。 地図を見ると、この辺りがどうやら前もって地図に記しておいた長久保まで残り15km地点のようである。今14:20だがまぁあと4時間も有れば長久保に着けるはずだが、18:40のバスに間に合うかどうかかなり微妙になってきた。 ワンカップをちびりちびりやりながら、ずるずるのんびり休憩と行きたいところだが、グイっと酒を飲み干して出発した。 10分ほど下ると道の脇に石碑が建っている。周りには何もないがと思いつつ碑を見ると「近藤谷一郎巡査殉職の地」とある。 こんな寂しいところで何があったんだろうと思いつつ、まぁ後で調べりゃいっかと先を急ぐ。 和田峠下諏訪側と違い所々沢があるので、タオルを濡らして首筋にあてがったり涼めるので有りがたい。沢の脇にはオレンジ色のカタバミのような花が咲いているがなんて花だろう。 草花の知識もあれば、街道歩きの楽しみも増えるのだろうが、俺様にそこまで脳味噌のキャパシティがあるかどうか自信がない。 さて程なく車道に出た所に大きな石碑があるので見ると「殉職警察官近藤谷一郎巡査君之碑」と彫られている。
この慰霊碑の近所には接待茶屋というのが復元されていた。でもそろそろ時間に追われる旅になりつつあったので写真だけ撮って素通りした。 再び、木立の中の中山道を進む。すると道路脇に沢山の石仏が祀ってあった。
10分ほど歩くと国道に出た。頭上には男女倉口 標高1100mと書いた標識が建っている。かれこれ800mくらい登って、600mくらい下ってきたようだ。 今では、岡谷から、湖北トンネル、木落とし坂トンネル、新和田トンネルでここまで車で10分掛からず辿り着ける所をわざわざ五時間半以上掛けて歩いて山越えするんだから酔狂な話である。 ちなみに男女倉と書いて「おめぐらぐち」と読むらしい。 国道を歩くこと10分余り、左手に「中山道唐沢一里塚」と標識があり、その指し示す方向は再び山の中である。標識に従い山の中に入っていくと、直ぐになだらかなふくらみが目に入った。 国道のルートから外れたお陰か、左右の塚が残っている。
この一里塚は小高い起伏の上に位置しており、これを迂回するように国道が走っているが、江戸時代後期にはどうやらこちら側にルート変更されていた様である。 そんなわけであっという間に坂を下って国道に合流した。 距離的にも山道の上り下りで時間的にも体力的にもロスだが、まぁ江戸時代後期から路線変更で放置プレイされた一里塚が現存することはなかなか興味深いことである。 国道に戻り、国道を下っていくと前方に人が住むには小さすぎる藁葺き屋根の建物があった。扉峠入口というバス停である。 国道をしばらく歩き、左手に分かれる道が中山道の様なのでそちらへ進む。どうせ国道の方が近いんだろうけど・・・・ すると前方に人が住むには小さすぎる藁葺き屋根の建物が見える。近づいてみるとバス停の待合所であった。 一日数本しかバス走っていないところにこんな手の込んだもの作っちゃって・・と思ったが、考えようによっては本数が少ない分、むしろ待ち時間が多くなるので有意義なのかも知れない。 藁葺き屋根のバス待合所にほっとしたのもつかの間で、再び国道を歩く羽目になる。 で時計に目をやると16時を回っている。下諏訪を出てから六時間半あまり経つがまだ距離にして20km余りの和田宿に着かない。 登りで遅れた分を下りで取り戻せるかと思ったが、和田峠下りの通過タイムを考えるとせいぜい平地を歩くスピードに毛が生えた程度である。 今度は右側に逸れて、中山道は細い路地となる。いよいよ和田宿かと思ったがまだの様である。 ここ和田村も、合併の話が出ており、この木曾海道和田と書かれた安藤広重の和田峠を模した足下のマンホールのデザインもいずれかわってしまうのかなぁと記念に撮影。 (これを歩いているときは和田村だったが、書いている頃には長門町と合併して長和町になっていた。) 藁葺き屋根のバス停の大手バス停を過ぎが有った。 国道を渡って今度は左手の道を行くと側溝に水に水草が生えていたが、ただの水草ではなく、醒ヶ井宿にも生えていた梅花藻である。 またまたバス停が有ったので、時刻表なんか見てみると、16:35上和田発上田行きが最終だった。まぁこの最終バスで乗っていれば、この後の悲劇を招くことが無かったかも知れないが、翌日どうやって上田から上和田まで行くのという問題が生じていたかも知れない。 しばらく進むとまたまた、バス停があったが、今度は軒になんだか丸い物がぶら下がっている。何だろうと近づくとスズメバチの巣だった。 そーっと忍び寄って写真を撮ろうとした瞬間、一匹の蜂が虫ケラの分際で俺様に向かってきやがった。虫ケラの分際で生意気な!と思ったが、刺されたらかなわんので猛ダッシュで逃げた逃げた。 なぜ、バス停にスズメバチが巣くっているのに放置しているのか考えた。俺様に襲いかかったスズメバチはキイロスズメバチなのでいわゆる普通に蜂の子として食用とするクロスズメバチとは別種だが、そんなことお構いなしに食べ頃サイズに育つまで待っているのだろうか。 とりあえず和田峠を越えてまだ走れることに感心しつつ、たった今演じた醜態を見られていないだろうなとキョロキョロするが人の気配は無い。 でキョロキョロしたら、家の玄関先に昔の屋号を記した木の表札がぶら下がっており、どうやらやっと和田宿に入ったようである。 | |||||||||||||||
![]() 和田宿 ![]() 和田宿の街並み ![]() 脇本陣跡 ![]() ふる里宿場みこしin和田 ![]() 本陣 ![]() かわちや ![]() 和田宿外れ ![]() 和田中学校 ![]() 和田小学校 ![]() 国道に合流 ![]() 薄暗い道 ![]() 獅子舞が彫られた石像 ![]() 石像から和田宿方面 ![]() 三千僧接待碑 ![]() 藁葺きのバス停 ![]() バイパス分岐の公園 ![]() 国道152号分岐 ![]() 長門町 ![]() 四泊 ![]() 田んぼの中の砂利道 ![]() 長久保宿遠景 ![]() 長久保宿入り口 ![]() 松本方面 ![]() 歴史有りそうな造りの家 |
というわけで高札場跡を示す看板を過ぎたってことで宿場に入ったらしい。
やがて中山道は国道に合流するようだが、交通量の多い国道より、国道と閉校して集落の裏手を通る薄暗い道を進んだ。この道は殆ど使われていないのか舗装こそされているものの朽ち木や竹が倒れかかっていたりする。 再び国道に出ると、石像がある。左側の獅子舞と子供が彫られた石碑に心曳かれたので何となく撮って見た。 図柄から新しい物の様である。左側の物は千手観音か阿修羅像?のようである。一応今歩いているところは国道とはいえ、依田川の対岸にバイパスが出来たため比較的交通量は少ない。 さきほどの石像からしばらくで、何やら看板とその裏にでっかい石碑がある。
で当初一千人の坊さんを目標にしたところ、あっさりとクリア?しちゃったので調子こいて??さらに二千人上乗せでやってみるべとトライしたところ見事に三千人の坊さんに飯を食わせることに成功したと言うことらしい。 石碑は、当初千人の坊さんクリアの時に建てたらしく、三千人の坊さんをクリアした時にもういっぺん石碑を建てるのも手間だったらしく、一千僧の一の時に横棒を足して三千にしてしまったとの事である。確かに、”三”と”僧”の間が不自然に開いている。 この石碑から10分ほど歩くとまた藁葺きのバス停に辿り着いた。もういい加減珍しくもなんともないので素通りし、さらに10分ほどでバイパスとの合流点に設けられた公園にて休憩。まぁ現在時刻が17時40分をちょっと回った位である。 想定時刻では17時10分にこの辺りを通過していることになっていたが、まぁ和田峠越えた時点では一時間オーバーだったから、まぁ30分縮めただけでもまぁ良しとしよう。 ふと見ると「歴史の道 中山道」と書かれた案内板があった。内容は和田宿について書かれたもので、良く見れば和田峠に設置してあった物と内容が同じだった。 そんなわけであと30分ほどで着くであろう長久保をめざして出発した。 程なく、国道152号との分岐に差し掛かった。この国道152号は、大門街道、塩の道、秋葉街道と名前を変えて浜松へ抜ける道である。浜松市街は片側2車線の立派な道だが、そこへ辿り着くまでが殆ど峠道であり加えて途中2カ所ほど未開通区間があり林道が補っており、その道の険しさと距離から、国道ではなく酷道と呼ばれていたりもする。 苦労の末ようやく、17時50分ようやく長門町に入った。これを書いている時点で長門町は和田村と合併したたため長和町となっている。 長門町に入って程なく「四泊」というバス停を見つけた。地図にはこのあたりの地名として四泊と記されているが、なんでまたこんな名前なのだろうか。 さて中山道はいつの間にか田んぼの中の砂利道に入る。まぁ少々国道より遠回りだが、歩道のない国道を歩く事に較べれば苦にはならない。 再び国道に戻り、酷道152号と142号の併用区間を過ぎ142号へ進むと長久保宿が見える。いよいよゴールなわけである。 国道142号を左に逸れて長久保宿へ向かう。 街道脇には、普通の民家に混じって格子窓の風情有る民家もあって迫り来る夕闇とともに宿場町の雰囲気が漂っている。。 この道を真っ直ぐ行って、交差点を右に曲がれば中山道な訳だがとりあえず今日は18時16分この交差点をゴール地点にした。 | |||||||||||||||
![]() 飛魚バス停 |
番外ゴールだったと思ったらゴールじゃ無かったわけで というわけで中山道を逸れて真っ直ぐ行ったところにあるバス停を目指す。この道も結構古い道の様なので、もしかしたら善光寺へ通じる道なのかも知れないと思いつつ、バス停に到着。であると思ったバスが無い。17:10が最終バスとなっており、もしやJRのバスではなく別会社のバスかとも思いバス停を探すが見あたらない。 先のバス停を行ったり来たりするが、他に交通機関は無さげなのであきらめて依田川沿いの道をすでに辺りが暗くなりつつなる中、上田目指して進むことにした。依田川を渡ると宿場町の雰囲気のある通りに出た。 ふと依田川の向こう岸に依田窪病院という大きな病院があった。病院ならば、客待ちのタクシーもいるかなと思ったが、外れると痛いので通り過ぎた。 そっかタクシーという手があったな。携帯サイトでタクシー呼べないかとアクセスするもつながんない。auのサーバのキャパシティを越えるアクセスが有るらしい。やっとつながったと思ったらエリア外。だいたいタクシー呼ぼうにも現在地がわからん。 まぁとにかくこんな畑の中の道を行くよりか国道を歩いた方が幾分ましなので国道152号に出た。 気がつくと長門町から武石村に入っていた。 するとさすがは国道。バス停も有るじゃん。え?何このバス停「飛魚」だが残念ながらバスが来る時間は終わっていた。 するとさすがは国道。ラーメン屋がある。ラーメン食ってビール飲んでできあがった所で店の電話でタクシー呼ぶかとも思ったが、こんな自家用車 が普及しているところでタクシーなんか呼べるのかという疑問が湧き、もうちと進んでみることにした。 するとさすがは国道。ジャスコも有るじゃん。ホテルでの晩酌のネタでも仕込みたいがこの状況で荷物増やしてもなぁと通り過ぎる。 いい加減くどくなってきたのだが国道は152号と254号に分かれていた。上田は152号を進めば良いらしい。だがここから16kmも離れていたら4時間も掛かるし今20時だから着いたら0時じゃねーか。そろそろこの状況を打破しないとな。 するとさすがは国道。コンビニも有るじゃん。でもビール飲んでのんきに歩く状況ではないなぁと通り過ぎる。 するとさすがは国道。電話ボックスも有るじゃん。そっかタウンページでタクシー会社探せばいいじゃん。 するとさすがNTT。ちゃんと電話の所在を記してあるぞ。ここは丸子町か。丸子と上田に営業所のあるこのタクシー会社に電話して・・・さっきの152号と254号の分岐のコンビニに来て貰うことにした。 もう無事に帰れるとなればコンビニで晩飯とか晩酌とか仕込んでタクシーを待った。 程なくやってきたタクシーに乗り込み、料金5000円也で上田駅前のホテルに着いた。帰って歩数計を見ると56000歩も歩いていた。40kmかよ!! まぁ東海道を歩いたときは桑名から関までの67000歩というのがあるから、距離では大したこと無いが、まぁ中山道の最強難所をクリアした上に余計に10km歩いているからなぁ。 とりあえず風呂入ってビール飲んでさっさと寝よう。 |
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