中山道 上松駅〜木曽福島駅まで

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年10月10日上松〜福島曇りのち雨1時間56分11703歩8.19km7973円

屋台

関所祭りの大名行列
番外編:2002年9月5日
なんたらは風邪をひかないというたとえがあるが、頭痛いのと気持ち悪いのは前夜の酒のせいだと思い、昼飯食う頃には直っているだろうとタカをくくっていたが夕方になっても調子が悪い・・・
というわけでどうやら風邪をひいたようである。まぁ風邪をひいたのがわかったので「なんとか」ではないがかなり鈍い神経をしているといわれても仕方がない。
まぁ風邪の対処として「熱い風呂に入る」とか人それぞれ千差万別であるが、俺様の場合は、「酒飲んでひたすら寝る」である。
一口に酒と言ってもビールやらワインやら様々なものがあるが、この場合の酒はなんと言っても日本酒に限る。
ところがあいにく日本酒を切らしており、しょうがないので芋焼酎お湯割りをやっつけて床に入ったのだが、翌朝になっても復活せず、金曜、土曜と寝ていたが、完全復活とは言えない状態だったので風邪薬を買いに飛騨の高山までジムニーを走らせた。
前夜の台風の影響でR20の相撲湖ー高尾が通行止めとなっており、このまま行って相撲湖インターに辿り着けないとショックでかいので所々山肌を伝ってきた雨水が川のように流れているR413道志道を進み、御坂峠を越えて一宮御坂ICから中央道に乗っかった。
うーん。R20より、前を走る車が居ない分このルートの方が早いような気がする。
で気がついたのだが、水温計が普段より高めをさしている。思えば先週、ラジエータのサーモスタットを直したついでに水漏れ防止剤をぶっ込んだのだが、流路のどこかで詰まったのだろうか・・。というよりクソ面倒なエア抜きをサボったせいだろうと途中寄ったPAで、ラジエータキャップの圧力抜きのボタンをポチっと押したところ、リザーブタンクにゴボゴボと音を立てて泡が吹き出してきた。以後途中車を停める度にエア抜きを行い水温計は漸くいつもの真ん中より針三つ下あたりを指すようになった。
で松本ICで降りてR158を走ると、新島々の駅を過ぎて山間部に入ったとたん、ぬるい走りの車に捕まってしまった。まぁ遅いだけなら良いがブラインドコーナーでセンターライン越えるような奴は山道走らせちゃいかんと思う。でこういったぬるい車に捕まり、しかも道を譲ることを知らない奴が多いので、R158を逸れて野麦峠を目指すと今までどこにも通行止めの案内が無かったのに途中でゲートで閉鎖されていた。頭に月夜沢峠越えて開田村という無謀な考えが脳裏をよぎるがご丁寧に施錠していやがったので泣く泣くもと来た道を戻って境峠を越えてR19経由R361で高山到着。今までは高山手前に美女峠なる名前とは裏腹にえらい道が有るのだが、最近久々野〜高山間に開通した飛騨ふるさとトンネルを使ったのでちょっとした時間短縮となった。
で台風一過で青空が広がっているかと思えば、確かにお日様は出ているが土砂降りの雨なので一時間ほど爆睡。今日は高山祭なので晴れていれば屋台の引き廻しが行われるのだが、この陽気じゃ無理だよな。さすがに重要文化財クラスの屋台を雨ざらしにするわけにゃいかんだろう。で風邪薬を仕入れてもと来た道を戻り途中で蕎麦食ってイワナ食って木曽福島到着。なにやら関所祭りという幟があちこちに立っている。で車を停めて木曽福島駅を目指す道中、大名行列が俺様の行く手を阻むのであった。まぁ何度か木曽福島を訪れているがこんなに人が一杯いる木曽福島は初めてである

中山道最大級の危険地帯?

見るからに危険そうな釣り橋

木曽の桟?

木曽川

いかにも旧街道な道

沓掛一里塚跡

道なのか川なのか

道なのか草むらなのか

杉木立の中山道

御岳遙拝所入り口

御岳遙拝所

木曽福島宿入口
一里塚
塩渕

崖に沿った細い道

木曽福島駅
というわけで、駅に着いたら塩尻方面の電車がすでに来ており、あわてて原野までの切符を買って改札を抜けたとたん電車が走り出した。やむなく、30分後に来る中津川方面へ向かう電車をベンチで寝て待ち上松駅へ向かうと何やらさわやかウォーキングとかいうJR東海の企画が大当たったのか電車の中はジジババで一杯である。
そんなわけで、いささかゲンナリしながら上松駅で降りて、原野(はらの)目指して13時42分に上松宿を出発した。 駅を出発してから程なく木曽川沿いの国道19号を歩くのだが、歩道が無い上路肩も30cmほどと人が歩くスペースは現代の東海道の難所である天竜川に架かる橋とほぼ同じで、しかもこっちは曲がりくねっているので遙かに危険である。まぁ道幅自体は広いので乗用車クラスが通り過ぎても別に怖くは無いがトレーラとか突っ込んでくると冷や汗ものである。
そんなわけでデンジャラスゾーンを10分ほどで通り抜けると、木曽川に掛かる朽ちかけた釣り橋があるのだが、一応フェンスで閉鎖しているけどその気になれば跨いで行けるほどの高さなのでもしかすると、万一の際に管理責任問われるとイヤなので表向きは渡っちゃだめだけど実はまだ現役なのかも知れない。
でその危険な香りのプンプンする釣り橋のたもとを境に木曽川側に歩道が復活してバンザーイかというと先日の台風で激しく増水した木曽川の濁流が眼下に広がり足がすくむ様である。
まさか路肩が崩れたりしないよなぁ。間違ったって上からなんか崩れてきたりしないよなぁと戦々恐々モードで歩いた。
現在は国道19号が山の斜面削って木曽川の川面からずいぶん高いところを通っているが、中山道は川べりの岩づたいに丸太で足場組んで板渡して進んでいたらしい。しかし、江戸時代の初め松明を落として焼け落ちてしまったので石垣とか組んだのが木曽の桟であると案内板に記されている。なお木曽の桟は今じゃ国道19号の真下に有るため対岸に渡らないと見えないらしいがのぞき込むと木曽川に張り出した国道19号の下にちょっとだけ石垣が見ることができる。
しかし、普段は緩やかに流れる木曽川だが、今日は台風通過後だけにゴムボートで中津川まで下ったら電車より速いかも知れない勢いなんで本当に大丈夫かな?。R19号を洗い流したりしないよね。
で木曽の桟を過ぎると木曽川沿いの歩道が無くなり代わって国道19号の斜面側に作られているので、メンドクセーと思いつつも車の切れ目を狙って斜面側の歩道に横断した。
しばらく進むと左手に緩やかに登るいかにも旧街道な道があるのでこっちか?と思い進んでみたところ沓掛一里塚跡と記された案内板があったので野生の勘?的中なわけだ。
沓掛一里塚Kutsukake Ichiri-zuka
・上松町史跡指定・
この一里塚は上松の北の入口である
沓掛にあります。昔は中山道の両側
にありましたが、明治四十三年(一九
一〇年)中央本線の鉄道敷設工事の
折に、山側(西側)の一基は取り壊さ
れ川側(東側)の一基が残っています
上松で原型をとどめているのは、こ
の一基だけで貴重な存在です
 この一里塚の位置は
   京へ六十六里
   江戸より七十一里です。
しかしまたドングリがバラバラ落ちているが、熊に襲われるここ最近のニュースが脳裏をよぎった。前に鳥居峠にて熊と遭遇しており、その際は、おいらが「あっ熊」って気づく前にくまさんが「げっ人だ」と気づいたようで難を逃れたが、鉢合わせしたらこの狭い道じゃ逃げようがない。
まぁ熊に襲われるのもイヤだが、おいらを襲った熊が射殺されるのも気の毒なので「森のくまさん」を口ずさみながら進むことにした。
で中央線の下をくぐろうとすると水浸し・・・。ここは川なのか道なのか・・・
さらに線路沿いを進むと、ここは草むらなのか道なのか・・・
すでに中山道も何度か、本当に道か?というようなところは何度か遭遇したし今更驚く事はないだろうが、なんかどんどん人の 踏み跡が消えかかってきておまけに草藪に隠れた側溝に足を突っ込みそうになるし・・・やはり道を間違えたようである。
さっき馬頭観音が有ったからあそこまでは合っているんだろうけどなぁと右手の土手をながめるとどうやらこっちが道らしい。
気合いで土手をよじ登り、街道復帰。
するとまた雨が降ってきた。しょうがないので傘を取り出して杉木立の中を進む。うーんマイナスイオンたっぷりだぜ。などと森林浴を楽しめる状況ではない。結構大粒の雨である。
どうにもここ最近雨に祟られているが、木曽福島〜原野は次回に回すことにして今日は木曽福島で切り上げようと歩いていると、御岳遙拝所 と記された案内板があった。
とりあえず木曽福島にてリタイヤすると決めたら、余裕が出来たので遙拝所の石段を登ってみた。
予想通り、高山から木曽福島へ向かう道中、長峰峠や九蔵峠できれいに見えた御岳は雨に煙って見ることが出来なかった。

御 嶽 遥 拝 所
 木曽の路筋の内、御嶽山の仰がれるのは鳥居峠の
外は此の地だけで有る。遥に王滝川の渓谷を通し
て仰ぐ御嶽の雄姿は其の信仰心をそそった事で
有ろう。遥拝のため、鳥居が建設された此の鳥居は
寛永九年壬申毀損の記録が有るから相当古くから
有ったものと思われる。此の遥拝所は御嶽山四方遥
拝所のIつで、北は長峰峠、西は三浦山、東は鳥居
峠、此の神戸のものが南方からの遥拝所で有る。
寛永二年山村良忠再建したが、それも亦朽損した。
文政四年七月金剛院順明によって石の華表に
建替えられた。石柱周囲五尺五寸、高さ三間で
有る。境内二畝二十六歩で有る。
           (木曽福島町史より抜粋)
           
 木曽福島町町制百周年記念事業の助成を得て、石段、
案内板、ベンチ、鳥居額縁を整備したもので有る。
                 木曽福島町下条区
                 
この御岳遙拝所に辿り着いたのがカメラの撮影時間から14時47分という事になっているので、ここまで1時間ちょい歩いたことになるが、歩道無しのR19号を10t車ならまだしも重機積んで疾走するトレーラと30cmほどの路側帯ですれ違ったり、道無き道を熊に怯えながら進み、途中から雨に降られといろいろあったので、わずか一時間の散歩がえらい長いように感じてしまう。
そもそも、高山辿り着くだけでかなりのエネルギーを使い、高山市内では酒瓶抱えてウロウロ・・・
これはこれまでの木曽路の旅に関して言えばすべて条件一緒だった。
高山へ酒買いに行った帰りか、中でもヘビーなのは乗鞍岳でご来光を拝んでから鳥居峠を越えているんだっけ。俺
なんだかんだいいつつ、とにかく余計な体力を消耗したにも関わらず御岳に嫌われた俺様はトボトボと石段を下りて再び杉木立の中を進む。
約15分後の15時02分、いつの間にかR19に出て、R19から左に逸れて木曽福島市街へ向かうところだった。
何せこの前の中山道、関ヶ原−美江寺のネタを書き終わらぬまま木曽福島を散歩しているので当然の事ながらこれを書く頃にはかなり旅の記憶が薄れているのだ。
今まではそれを補う意味で写真を撮っていたり、歩いた道のりを地図で思い出しながら何とか文章らしくしていたのだが、雨でカメラ出すのが億劫だわ、地図には載っていない様な道を歩いているわで記憶の糸を辿る術が無いのである。
そんなあやふやな記憶の中、県道から右に逸れた道を進むと沼田野という地名について記された案内板があった。

ここは沼田野です

 沼田は湿地を意味する地名として全国的に分
布している。享保九年(一七二四)の「岩郷村家
数書上帳」には「家数七軒」とある。沼田野の木
曽川べりには、木曽氏の墓地と伝承されている
御墓島という地字があり、戦後農地開放までは
長福寺の寺領であった。
水田の一角に文化年間(一八〇四〜一八一七)建
立の「朝日将軍苗裔木曽弾正少弼伊予守義元公
墓」と刻んだ石碑が建っている。

             木曽福島町史より^
で先の沼田野から歩くこと5分あまりで今度は中平だ。

ここは中平です
 元禄七年(一六九四)の「岩郷村御役木惣百姓中ヨリ出ス高之覚
」には中平は「長吉・長兵衛」の二人の名がでているが、享保九
年(一七二四)の「岩郷村家数書上帳」には中平の部落名はでてこ
ない、明治十一年の「福島村誌」には「(川渕橋)同上、中平里に
在り、里中の用水の下流に在り川渕一名中平と云う。
長四尺幅二間二尺」とあり中平が川渕の一部であったと考えられ
る,天保九年(一八三八)の「木曽巡行記」には「中平は木櫛挽き売
る」とありここには立場茶屋がおがれ木櫛を売っていた。
川渕現在の中平から塩渕までの木曽川べり(関西電力塩渕えん
堤付近)に集落があったことが考えられる。享保九年(一七二四)
の「岩郷村家数書上帳」には「家数五軒川渕」とあり寛保二年(ー
七四二)の「福島村、岩郷村地図」には田沢の対岸に川渕とあるが
、明治七年(一八七四)の「岩郷村地図」には川渕は載っていない。
                     木曽福島町史より
さらに10分ほど歩くとタイトル「中山道」について長ったるしい懇切丁寧に記された看板があった。ここまで長いと現地で目を通さずにデジカメで撮って後日確認することが多い。

    中山道
中山道(中仙道)は江戸時代の五街道の一つで
江戸日本橋を起点に、浦和、高崎と北上し、
軽井沢、岩村田から、下諏訪、塩尻を通って
木曽谷に入り、中津川から太田、関ケ原に抜
けて京都に至る街道である。
東海道に次ぐ江戸—京都間の重要な道であり
中世までは東山道といった。また木曽十一ケ
宿を通過するために木曽路、木曽街道とも呼
ばれた。
木曽十一宿とは、北から贄川、奈良井、薮原
宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、
妻籠、馬籠、の十一の旧宿場町のことで、贄
川の北に「これより南、木曽路」馬籠の南に
「これより北、木曽路」の石碑が今も旅人たち
を迎えて建っている。この十一宿のうち、妻
籠、奈良井の二宿は現在も往時の宿場町の面
影をよく伝えており、「文化財保護法」による
「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されて
いる。建ち並ぶ昔ながらの木造民家、格子窓
時代映画に見るような古い旅籠など、まるで
江戸時代に迷い込んだような思いがする。ま
た木曽福島には、尾張藩の代官・山村氏が居
住し、福島関所も置かれて、木曽路の行政や
商業の中心地となっていた。その役割は近代
以降にも引き継がれている。福島の関所は箱
根、新居、碓氷と共に日本四大関所のIつと
されていた。その関所は復元されて隣の関所
資料館とあわせて公開され、また代官屋敷の
一部と庭園も見学できる。
     山岳観光社 「木曽路・御岳」より
この案内板の前が旧中山道である。
三十四家の諸大名が、参勤交替の際大名行列
をして通った往還である。すぐそばに一里塚
があり「江戸ヨリ七十里、京へ六七里」の石碑
が建っている。
  平成十一年九月
中組区ふれあいロード整備委員会


と先の説明にあった通り一里塚跡の石碑があった。しかし沼田野からここまでやけに看板が多いのだが今度は塩渕という地名について書かれた看板があった。
ここは塩渕です
 天正十二年(一五八四)の木曽義昌朱印状には、「上
塩渕」、「塩渕中屋」、「塩渕彦三郎」の名がででくる。
享保九年(一七二四)の「岩郷村家数書上帳」には
「家数拾四軒塩渕」とある。
シオという地名は川の曲流部につけられることが多く
塩渕も木曽川の曲流部にできた渕とすると地形的にあ
っている。
又、塩渕には次のような言い伝えが残っている。
昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところ
その馬が、木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったと
ころから塩渕という地名がついたと伝えられている。
                木曽福島町史より


まぁ馬がコケて積み荷の塩をブチまいたから塩渕という地名の云われだとする言い伝えも有るようだが、木曽川の川っぷちと中山道は大分離れているのでおそらくネタであろう。
まぁとにかく静かな良い感じの集落が続いている。で再び県道に出るのかと思ったら、中山道を示す赤テープをが指し示す方向は高台を目指す細くて人一人分の踏み跡しか無い道だった。
登るにつれ、左側にフェンスはあるものの断崖絶壁となっており、フェンスのおかげで転落のおそれはないが、台風22号、23号の襲来により緩んだ路肩が崩落なんかしちゃった日にはしゃれにならない。なにやら心なしかフェンスも崖に向かって傾いているような気がするし。
まぁなんとか5分後には、木曽福島駅の駅前に出ることができた。で雨も止む気配もないので車停めた地点に最も近い所で撤収

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