中山道 木曽福島〜原野

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年7月16日木曽福島〜原野晴れ1時間45分8957歩6.27km320円

駅前の坂道

坂道を下りきる。

井戸

左へ

高瀬家資料館

木曽福島関所資料館の塀

木曽福島関所資料館の塀

責め道具の数々

人気が無いのを良いことに

御用提灯

火縄銃とか

そと
というわけで、本日2度目のスタートとなるわけだが、木曽福島に車を置いて中山道の旅のベースキャンプとしているだけにこの坂道は歩き慣れた道だったりする。
しかも街並みは古いが、道路は拡幅されているため余り宿場町といった雰囲気はしない。
突然なんの脈絡もなく釣瓶式の井戸なんかあったりしてもだ。
そして中山道を辿りつつ第一の寄り道ポイントである木曽福島関所を目指した。
メインストリートを抜けると、道幅は江戸時代サイズになり、曲がりくねるが一応標識は備えられており迷うことは無いと思う。
で途中に”高瀬家資料館”というものがあったが、16時ちょっと前という時間でもあり、関所のほうの閉館時間が気になるので高瀬さんちはせめて島崎藤村の夜明け前を読んでからお伺いすることにして今回は通り過ぎることにした。
高瀬家資料館 Takaseke Museum
         
ここ高瀬家は、文豪島崎藤村の姉,"園“の嫁ぎ先
で、作品「家」のモデルとして知られています。”園“は
作品「家」に登場する,お種“であり又、「夜明け前」
の”お粂”です。
高瀬家は、藤原氏の出で、菊池肥後守則澄を祖と
しその後高瀬と改め、則澄より四代目にあたる
高瀬四郎兵衛武浄が大阪冬の陣のころ木曽福島
に入りその子八右衛門武声が山村代官に仕えて
以後幕末まで山村家の家臣として代々御側役、鉄
砲術指南役、勘定役として仕えました。
大火により土蔵、庭園の一部を残し焼失したもの
の旧家の風情を今も伺うことができます。
島崎藤村に関わる史料と関所番や生活に関わる
道具類が所蔵、展示されています。 木曽福島町
どうやら、夜明け前の他、家という作品まで目を通さないといけないらしいがとりあえず木曽福島関所には閉館前に辿り着くことが出来た。
閉館前だからだろうか。おいら意外に人の気配がしない。そんなところで今や学校への侵入者を安全に取り押さえる器具として脚光を浴びる刺又などの責め道具が展示してある。
続いて、明治から大正にかけての木曽福島の古い写真が展示している。

明治40年頃の筏橋

明治40年頃の福島関所跡

大正12年頃の民家
うーん。明治末期から大正とはいえ写真の縦横比が4:3ではなく16:9のハイビジョンサイズに近いように見えるのは気のせいだろうか。
で館内をウロウロすると偉い役人が旅人を吟味する上番所が復元されていたので、閉館間近なせいか他にお客さんも見えないのでちゃっかり座り込んで写真を撮るなど俺様暴走モード突入。壁にはおそらくレプリカだろうが御用提灯など並んでおり雰囲気満点である。
で足下に目をやると女改めの実際とやらについて書かれた板があった。

女改めの実際
当時女の一人旅ということは珍うしいことで付そいの
男子が一しょなのが普通であった。
 それで替通女旅人の一行が関所へ到着するとまず付
そいの男が手形をもって下番所へ行く。関所では下番の
者が「誰様の御女中でございますか」と先方の苗字をたづ
ねて上番の者へ申告する。すると上番は本人から
直接手形を受取って文面その他に不備な点がないか
詳しく調べその上でさらに印かんの引合せ(それぞれ
規定の手形発行権者の印かんが関所にひかえられ
てある)を行なう。印かんも符合し、手形にも不備な
点がなければ実際の女改めになる。
歩行できた女は多く下番所前で手形の検閲がすむ を待
っているか普通であるからその縁に腰掛けたまま下番の足軽が改める。
 女改めの要点は大女、小女、尼等の区別髪の模様等を調
べる。総ての点が手形の文面通りなれば下番の者がその旨上
番につたえる。調べが終わると下番の者が碓氷への書替手形
判をもらいに月番家老の屋敷をまわり帰ってきてようやく許
可が下り、下番の「通れ」の一言で事ずみとなるのである。
 この時間約一刻(ニ時間)を要した。

ちうわけでこの資料館を念入りに見ても20分程度だが、関所だった頃は女性が通るのに2時間というから大変である。
下には女改めについての説明、上を見ると木曽福島を通り過ぎた著名な方々の名前がある。 そんなわけで火縄銃とか見て表へ出た。

上  奥  因  薩  丹  紀  尾  紀  越  長  林  毛  長  小  長  大  松  日  備  安  小  毛  松  久  毛  京  京  京  長  紀  酒  大  長  東  松  松  松  日  日  成  尾     木
州  州  州  摩  州  州  州  州  前  州     利  州  笠  崎  阪  平  光  前  芸  笠  利  平  留  利  都  都  極  岡  伊  井  阪  崎  本  平  平  平  光  光  瀬  州     曽
立  仙  寿  島  亀  簾  家  家  簾  家  大  淡     原  目  町  右  門  女  家  原  大  越  嶋  信  本  二     帯  家  修  御  奉  願  大  相  越  宮  勅  隼  公     路
林  台  仙  津  山  中  老  女  中  簾  学  路     左  付  奉  近  主  中  女  若  和  後  伊  濃  丸  条     刀  女  理  番  行  寺  膳  模  中     使  人        を
      院  簾  簾        中     中     守     ェ     行  正        中  狭  守  守  豫  守     番        中  太           太  守  守     例  正        通
        中  中                          門     女              守        守        女           夫           夫           幣           っ
                                       佐     中                                中                                   使           た
                                                                                                                              参
                                                                                                                              勤
       近  沼  遠  西  岩  高  飛  勅  岩  三  公  阿  奥  細  北  青  大  出  出  高  竹  橋  行  平  倉  三  六  清  高  堀  高  伏  綾  清  太  今  藤  梅  梶      交
      衛  田  藤  国  倉  遠  州  使  村  浦  儀  部  州  川  小  木  炊  納  納  松  屋  本  事  田  橋  宝  條  国  辻  川  野  原  小  水  子  城  井  渓  井   代
       公     用  諸  具  家  大  女  女  玄     主  津  差  路  玄  御  河  権  宮  前  主  宮  少  治  戸  中  三  少  新  中  三  路  谷  御  宰  二  宰  官   の
       姫  ?  ∧  大  視  老  宮  中  中  葉     計  加  次  極  波  門  内  蔵     宰  水  内  内  部  三  納  位  納  三  将  位  前  侍  著  相  位  相      大
              甲  名                 之     守  留  蔵  﨟  輔     頭  頭     相  佑  匠  記  卿  位  言  長  言  位  保  宜  大  従     中  行  中      名
              ?                    助           人                          権     泰  陳  有  説  修  康  美  諭  納  公     将  学  将      ・
              ∨                                                           助     聰  光  容  卿  長  隆  火  卿  言  孝     定  卿            著
               斐                                                                 卿  卿  卿        卿  月     有  朝     国               名
              守                                                                                   臣     長  臣     卿               人
                                                                                                                                
                  長  梅  吉  大  水  越  東  有  阿  広  鷹  松  筒  松  大  稲  井  片  戸  井  酒  青  酒  中  越  四  日  八  勅  近  小  蓮  有  皇  和  本 
                  野  田  田  島  野  前  陽  馬  波  橋  司  平  泉  平  久  葉  伊  桐  田  賀  井  山  井  園  中  辻  野  条  使  衛  林  花  栖  上  宮  願 
                  義  雲  松  圭  出     院  兵  女  大  殿  右  守  縫  保  対  掃  石  采  内  行  大  讃     女  中  中     梅  左  院  光  川  ∧     寺 
                  言  渓  陰  介  羽        庫  中  納  准  勝     殿  加  馬  部  見  女  若  守  蔵  岐     中  納  納     関  大  宮  院  宮  明     新 
                 ∧           守              言  三  門     頭  賀  守  守  守  正     若  正           言  言     宰  臣           治     門 
                  主                             宮  督        守                                         相              天       
                  繕                                                                                                  皇       
                  ∨                                                                                                  ∨       
                                      
この通行記録は木曾街道の上松宿を中心としたもので、ぼう大な記録の中より一部づつを年代不順序に拾ったものである。
最後まで目を通すとなにも福島の関所の通行記録ではなく上松宿の記録だそうだ。しかも著名人と断っておきながら知っているのが明治天皇と和宮と吉田松陰位であったりする。
 国史跡 福島関所跡昭和五十四年三月十三日指定
福島関所の創設された年代は明らかでないが、中山道の開か
れた慶長七年(一六O二)をあまりくだらない頃のことと考えら
れ中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居とともに当時
天下の四大関所と称していたものである。
当初から木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治
二年六月までその機能を果してきた。
この関所は、各藩境等に見られる番所の類と機能を異にし、
特に「女改め」と「鉄砲改め」とに重点が置かれていた。
中山道が東海道とともに当時江戸と京都とを結ぶ幹線の道路
とされていたことや、「女改め」の手形の本紙はこの関所に留め
下り(江戸へ向うもの)のものについては、ここから碓氷関所へ
「書替手形」を発行する、とされていたことなどからみて、
この関所が、徳川幕府による交通政策上、いかに重大視され
ていたかがうかがわれる。廃関後、関所の諸施設は、全部取
りこわされてしまったので、当時の面影はほとんととどめて
いなかったが、昭和五十年夏に行われた発掘調査の結果ヽ
寛文年間(一六六一)〜(一六七O)頃のものと推定される。
関所古絵図にみられる
 一、御関所敷地 弐拾五間三尺
 一、敷地是よリ大道北の柵迄拾六間
 一、御関所間ロ五間奥行五間
 一、下番所間□三間奥行六間
 一、東門外に駒寄拾五間一尺五寸
 一、捨門(西門)外に柵七間五尺その先端駒寄四間四尺
 一、南側根の井山迄東門のつづき柵を三拾九間四尺
の規模にわたる、関所遺構の全容を確認することができた。
これを史跡公園として整備保存する計画がたてられ、史跡公
固に隣接して、昭和五十二年四月二十七日、当時の御番所建
物を再現、関所資料館が完成し、昭和五十四年三月十三日
文部省より国史跡として指定された。
平成二年史跡内の民地の公有化にともない第二次発掘調査を
実施し史跡保存、環境整備の一環として平成四年度に東西両門
と木柵および武家屋敷跡の公園化復元修景整備をしたもので
ある。
木曽福島町教育委員会

木曽川

TVK!?

国道19号に合流

国道19号から逸れる

木造校舎

木造校舎その2

手習天神

カーブミラーの先を下る

下ってみると・・・

超ワイルドな橋

川その2

道路脇にしめ縄

中山道中間点

原野駅前の中山道
というわけで関所を過ぎるとしばらく木曽川に沿って進む。この辺りは今までの木曽川のように断崖絶壁のはるか下を轟々と流れるといった趣とは異なり、ガードレールを跨いで土手を飛び降りればもう河原なので、川へのアプローチに関して言うと今までより遙かに敷居が低い。 で国道361号の橋をくぐると”TVK"とペイントされた軽ワンボックスが数台停めてあるが、間違っても我が地元のローカルUHF局のテレビ神奈川ではなく、地域密着度は数段上の”テレビ木曽福島”かなんかであろう。
で再び、国道19号に出ると落石防止の防護ネットの裏に芭蕉句碑があるようだ。
でもひっきりなしに車が行き交う国道19号を横断し、金網の向こうの芭蕉句碑を確認するのも面倒だったので道路の反対側から写真撮るだけに留めておいた。
しばらく国道19号を歩いていると左手に下っていく道がある。これは国道を逸れてこちらへ進めと俺様の野生の勘は言っているのでその通りにすることにした。野生の勘といっても、江戸時代にこんな山の斜面を削った道を造るのは無理だろうとかちょっとは考えているのである。
それから10分後偉そうなことを言っていた俺様は、今や珍しい木造校舎の残る小学校の敷地に侵入していた。
当初、中山道だったところに学校ができたのかと思ったがどうやらそうでもないらしい。
まぁ土曜日ということもあり、学校が休みと言うこともあり、児童から
「せんせーっ!へんな奴がキター」 とか指を指されなかっただけまだ良かった。
学校を抜けて10分程で、何やら由緒の有りそうなお社があるので近寄ってみると以下の通り説明されていた。

手習天神Tenaraitenjin Shrine
このお宮は、古くは山下天神とよび、木曽義仲
を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として
勧進したものと伝えられています。
源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し養育
したことが記されていますが、山下は上田の古
名で、付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等
の史跡があり、このお宮の古さを物語っています。
境内の「一位(イチイ)」の古木は名木として知
られ'中山道を往来する旅人は必ずここに杖を
とめ参詣したものといわれています。
このお宮の祭は、毎年八月二十四日、二十五日
の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が
大正の初期より行うわれています。

で手習天神を過ぎると、電柱に赤いテープが貼られており、こいつの指す方角には右カーブの手前を下に下っていく道がある。
標識が無ければ普通なら絶対に見落としそうな分岐である。こういったところに行政あるいは観光協会などで案内板を設置してくれているならまだいいのだが、 まぁ歩いて旅する酔狂な奴相手にしても金にならんとふんでいるのか、標識は皆無である。しかし親切な人がいたもので、分岐点には電柱などに赤いテープで進むべき方向を示してくれている。
で赤テープの示す方向に歩いていくと舗装こそされているものの、軽トラはおろか、トラクターがぎりぎり通れる位の道幅しかない。特に幅員制限などの道路標識はないが間違って普通自動車で突っ込んだらえらいことになると思う。
こんな道では特に進むべき方角が記されていない無い限り行こうとは思わないだろう。
坂を下りきると川があった。この川を越えるために鉄製の橋が架けられているが、橋の橋脚に岩を利用するというなかなかワイルドな設計?となっている。
とりあえず橋を渡り、かれこれ木曽福島を出てから1時間半程歩いて疲れたので、しばらく護岸に腰掛けてくたびれた足をブラブラさせながら休憩を取った。川面を渡る風が心地よい。しばら休んでから田んぼの中を抜けて木々の生い茂る林の中の坂を上り普通の道に出た。
さっきのカーブミラーとコーラの自販機間の分岐もさることながら日本橋方面から歩いても、この分岐は負けず劣らずわかりにくい。
やがて両脇に民家が並びはじめてきた。道路の両脇には”しめ縄”が張られており、上松だけでなくここでもお祭りでも有るらしい。
ふと右手に目をやると何やら看板が建っていた。うっかりすると見落としかねない看板だがここが中山道中間点で有ることを示す中山道を旅する者にとって非常に重要な意味を持つ看板である。

 中山道中間点
 Middle Point of Nakasendo
 ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方
 から六十七里三十八町(約二六八キロ)に
 位置しています。
 中山道は、東海道とともに江戸と京都を
 結ぶ二大街道として幕府の重要路線で
 あったことはいうまでもありません。
 木曽路というと深山幽谷の難所と思われ
 がちですが、木曽十一宿が中山道六十九
 次の宿場として指定された慶長六年(一
 六〇一)ころからは整備も行き届き、和
 宮などの姫宮の通行や、日光弊使・茶壷
 道中などの通行に利用されていました。
 英泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数
 多くの名作を残していることからも変化
 に富むこの街道は旅人の目を楽しませて
 くれたに違いありません。
 また、江戸時代に木曽一円を治めていた
 代官山村氏は、中央との結びつきを深め、
 代々向学の士を輩出して政治、経済はも
 とより、文学にもその才を発揮し、木曽
 をして中山道のいう東西文化の接点な
 らしめたのです。        日義村

で看板建ててくれたのが日義村だったりするのだが、この旅を終えて3ヶ月余りで日義村は、開田村、三岳村、木曽福島町が合併し木曽町になってしまった。日義村はここを拠点とした木曾義仲の別名、朝将軍仲に由来するなかなか由緒ある地名が失われてしまった。
また日義村と鳥居峠を隔てて隣あわせの奈良井宿のある楢川村も塩尻市と合併してしまい、木曽町の隣が塩尻市となってしまった。
で中山道中間点の看板より3分程歩くと原野駅の前に着いた。旧跡など見所も余り無く実質一時間半ほどの短い旅だが、なかなか変化に富んでいるコースだった。

原野駅その1

原野駅その2

駅前神社の土俵

原野駅名所案内

番外

とりあえず今日の旅は終了で、車の置いてある奈良井駅まで戻らねばならないが電車が来るのが17:49と約30分待ちだったりする。
で奈良井は塩尻方面だよなと跨線橋を渡って上り線ホームに向かい案内板を見ると、塩尻、長野方面は判るが、特急電車が止まらない原野駅で新宿方面は飛躍しすぎのような・・・
また で何やら上り線ホームの隣は神社になっているようだ。真新しい幟も立っていることからどうやらこの神社のお祭りらしい。まるっきり人気の無い駅前の神社には奉納相撲でもやるのだろうか。ちゃんと土俵まである。
とりあえず、まだ20分以上電車は来ないようなので、ウロウロしてみたが目新しいものは無いが、名所案内と記された看板が有ったので眺めてみると”木曽駒ヶ岳”、”木曽駒高原”と暇つぶしにちょろっと散歩してみるかと言うようなものはなく、また西1kmと大雑把に解説された明星岩なるものがあるがこれですら時間的に難しい。
仕方がないのでベンチに腰掛けて待ち、やがてやってきた電車にて奈良井へ向かった。 というわけで、
街道に沿って進むと宮ノ越−原野だが
時系列で進むと奈良井−下諏訪となる。

中山道 上松−木曽福島に戻る薮原−宮ノ越(原野)へ進む
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