中山道 奈良井−下諏訪

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年7月17日奈良井〜下諏訪晴れ11時間38分59014歩41.31km10258円

下諏訪駅

御柱

塩尻駅

奈良井駅から宿場方向

奈良井駅
まえがき
突発的に出発したので、泊まるにも宿をとっておらず、やむなく車中泊と相成った。
それでも風呂ぐらい入りたいので、2005年10月1日に飯田市に編入された南信濃村の温泉を目指した。通常なら権兵衛峠で中央アルプスを越えるのだが、道路崩落で通行止めなので牛首峠を越えて、辰野から入ってきた。
飯田市というと、辰野から高速で30分もあれば行けるのでなんだ近いじゃないかと思ってしまうが旧南信濃村は飯田インターから部分開通している三遠南信道全長4kmもある矢筈トンネルを経ても飯田ICから1時間は掛かるし、隣はもう静岡県である。静岡県側もいつの間にやら水窪町だったのが平成の大合併で浜松市になってしまった。
まぁそんなわけで温泉でくつろいだ後、どこで一夜を明かすかと考えたが、コンビニもトイレもないこの山の中で過ごすには装備が不十分なので再び中央道に戻り駒ヶ岳SAで仮眠。
翌朝、岡谷インターで降りて、コンビニで朝飯となるおにぎりを仕入れ、下諏訪駅に着くが駅前に駐車場が見つからなかったので、諏訪湖湖畔の駐車場を拝借し、とぼとぼ駅まで歩いた。
歩いている途中、歩数計に電池切れのサインが出ており、今日は結構な長丁場となることから、歩いている途中に完全に電池切れになりかねないので早々に調達せねばならない。
駅まで行けばコンビニくらい有るだろうとタカをくくっていたが、見渡す限り見慣れた看板は無く残念ながら電池調達の野望は絶たれたのであった。
代わりといっては何だが、7年に一度の御柱祭で使われた御柱が駅前に突き刺さっていた。
でなにやら電車も来ているようだったのでのんびり鑑賞しているわけにもいかず、キヨスクに一縷の望みを預けたが
電車来ているじゃん
と猛ダッシュ。
ここで乗り遅れると1時間待ちとなるところで、今回は気合いを入れて奈良井から下諏訪まで戻ってこないと、この次が中山道最大の難所”和田峠”を控えており、道のりの険しさもさることながら下諏訪を出るとおよそ30kmに渡って一日数本のバスを除いて公共交通機関が期待できない区間なので、今回塩尻辺りでゴールとなると、塩尻峠と和田峠がセットになったスペシャル強行軍か余計な日程を組まないとならず、なんとしても次回スタート地点は下諏訪に持って行きたかったのである。
まぁそんなわけで無事に電車に乗ることができ、本日越える予定の塩尻峠をトンネルで抜け塩尻に着いた。
でこの電車は松本を抜けて長野へ行ってしまうので塩尻で中津川方面に向かう電車に乗り換えねばならないのだが次の電車まで15分ほど待つので、ベンチに腰掛けておにぎりとお茶でそそくさと朝食を済まして中津川行きの電車に乗り込み、またまた奈良井駅にやってきた。

奈良井駅から贄川方向

奈良井川

中村邸?

奈良井川

第3仲仙道踏切

木曽平沢の街並みその1

平沢の街並みそのに2

二十三夜塔

押込一里塚跡

一里塚側の公園

行き止まり

これは道?

眼下に道が・・

大丈夫なんか?

整備された道

入り口

大丈夫なんか?
というわけで7時18分、下諏訪宿を目指して奈良井駅前をスタートした。以前、鳥居峠を越えてここに訪れたときは楢川村だったのだが、市町村合併により塩尻市になってしまった。
しばらく線路沿いに歩いて中央本線を踏み切りで越え、奈良井川を渡って洗馬あたりまでこの奈良井川の流れに沿って進むことになる。
川を渡る手前に庚申塔だか馬頭観音と思われる石碑があり、傍らにある看板には奈良井駅まで0.7kmなどと書いてあるがそのうち”中村邸”というのはどういう中村さんちなんだろうか?
中央本線を踏みきりで越え、奈良井川に掛かる橋のたもとに、標識が建っており、それによると木曽平沢駅まで1.5kmとのことなので奈良井駅と木曽平沢駅は2kmちょいの駅間距離ということになるが、東京近郊を除けばかなり短い駅間距離になるのではないだろうか。
奈良井川を越えて川沿いの道を歩いているとベンチなんか有ったので早くも休憩モード。
のんびりと川面を眺めながらこの水は日本海に注ぐんだなぁと妙な感慨にふけりながら地図を確認しこの後は国道19号に沿って歩き、木曽平沢の手前で左に逸れれば良いことを確認。
まぁ昨日は大して歩いていないのでダメージも少なく、休憩というより単にサボっただけのような気がしつつも国道19号を目指す。
奈良井駅を出てから30分程で、国道19号を逸れて中央本線の第3仲仙道踏切を渡る。今まで第14とか13だったので、塩尻に辿り着くまでにあと2回の踏切が残っているだけということになる。
踏切を渡ると木曽平沢の集落に入る。木曽漆器の町だけに通りには漆器を扱う店が軒を連ねている。これはまさに
隣近所が商売敵
しかも家並みの古さからして先祖代々仲違いしているんではなかろうかと余計な心配をしてしまうほどである。
漆と言えば春にタラの芽を摘みに行った時に間違って漆の芽を摘んでしまい、俺様のモミジのような愛くるしいお手手?が真っ赤に腫れ上がるのではと危惧されたがその後、手は何でも無かったものの漆をつかんだ手で用足しをしてしまったために大事なところが当社比20%UP位になってしまったというあまり思い出したくない記憶がある。
平沢の集落を抜けるとには二十三夜塔があり側には二十三夜信仰に関する説明があった。
神に願かけ叶はぬならば
 ニ十三夜さまお立ち待ち

と云う民謡があるように下弦(二十二日
二十三日}のおそい月の出を待つ。これ
を拝む風習があリ宿{当番の家}に参
集して飲酒談笑して月の出るまで待つ
のであるが特に「お立待」といつて月の上
るまで腰かおろさす立ちつゞけている
という願かけをする者がありうっかり
して座ってしまつたり立っているだけ
では苦痛なのでこの晩集っているもの
が踊りをおどってまぎらわすことがあ
ったという
亦御嶽山の中興の祖として信者から崇
敬された覚明行者の命日を二十三日と
して供養したことが伝へらられ一月五月
九月十一月の四回その晩は頭(世話人
が先にたって集り胡座を敷いて経を読
んでおつとめをしたと云う
これらの伝説を後世に残すため文化七
年今から約百年前宮原六蔵氏他碑
の裏側に刻てある八氏により二十三夜
の碑が建てられたものである。
またこの附近の石垣はその頃の中仙道
のあとで手甲脚絆姿の旅人達が往来し
た当時の面影を残している

 昭和四十九年五月
           平沢十二日同志会

元村役場だった塩尻市役所楢川支所を過ぎ道の駅楢川の脇を抜けた。車で立ち寄るとついつい地物の野菜とか漬け物など買ってしまうのだがまだ朝早いのか開いていないのでそのまま素通りし国道19号に合流するとセブンイレブンが有ったので、歩数計の無くなりかけた電池と俺様の燃料としてウィスキーとカップ酒を仕入れた。
どこかで座るところ見つけて交換しようと再び国道を歩いていると歩道が途切れやがったので右手に渡り、右に逸れて中央本線沿いに歩く。
周りは畑と製材所くらいしかない長閑な所である。ほどなく国道に合流し奈良井川を渡り、再び右手に逸れると畑の脇に白い杭が刺さっており「押込一里塚跡」と記されている。
ちょっと離れた所に芝生が植えられた小公園があったので立ち寄り、歩数計の電池を交換した。
一里塚の前の道を進むと民家の前で終わっている。いや停まっている車の脇に細い道が山の上へと続いている様なので意を決して進むと国道19号の土手の上に出た。
今度こそ行き止まりかの様である。どっかで分岐する道なんかあったかと考えつつ、これ以上前進することは無理なのでやむなくもと来た道を戻ると何やら下に下る道というには余りに心細い微かな踏み跡がある。
遙か眼下には道路が見えるもののその微かな踏み跡すら夏草で覆われて途中から怪しくなっている。
意を決して下っていくと突然整備された道が現れた。で下りきるが日本橋側からきた場合の入り口となる場所にも特に「中山道」というような表現はない。
有ったとしても途中から道がヤブに消えるので親切な標識も罪な標識となってしまう。
降りてきた場所には車もあまり通らない分際で2車線幅の立派な道なのだが、余りに道が新しすぎるので中山道の痕跡を探すと、道路左手の法面にどこからか移設されたのかも知れないが道祖神と馬頭観音があった。

水場(スイカ冷却中)

贄川の街並み

贄川関所木曽考古舘

贄川関所

土手下の道を進む

行き止まり

山の中腹の石碑

小休止

急な坂道

ガードレールの切れたところを右に

若神子一里塚

若神子一里塚その2

この草ぼうぼうの道?

草むらなのか道なのか

廃トンネル

是より南木曽路
というわけで草ぼうぼうの道から程なく、小綺麗な鉄筋コンクリ製の集合住宅が現れたかとい思うと、水場があり、スイカなんか冷やしている。
やがて街道も狭くなり、両脇に並ぶ建物の雰囲気から贄川宿へ入ったようである。
程なく贄川関所の資料館に到着。なにやら看板が有るので写し取ってみる。
贄川関所木曽考古舘

贄川関所は明治二年福島関所と
ともに廃止され原型は残っていないが
明治九年の贄川村誌の「古関図」や
寛文年間のものの「関所番所配置図に
よリ現在の位置に復元したものであります。
また木曽考古舘は村内簗場(やなば)遺跡
等で出土した土器石器類を展示して
あります

とりあえず入館料を払い、中に入ると、和宮御降嫁の様子とその時同行した岩倉具視が贄川宿に泊まった際に宿屋の娘2人に宛てたとされる恋文が晒されていた。
まぁ恋文とは言え、2人の娘を菊の花に例えたりと至っておとなしい内容で、今からしてみればこれが「ラブレター?」と言った感じである。とは言え後に有名になったためにこうして晒されてしまうのも気の毒な話である。

申十一月
和宮様、御下向之節贄川の駅、綿屋久蔵方
ふたりの娘今咲出る花の粧ひを
巌倉少将のお好みに

霜月五日の午の時ばかりに信濃国なる贄川駅
わたや某のもとにいたりつきぬこの家すまいと
清らかにてすがすがし庭のさまもまた面白し
薙のもとをみれば、二本の菊咲でけり今や
花盛にしてたぐひあるべくもあらず
こは仙人の植つらんと、いぶかしき点に
なa^哀れ都にもうつし植まほし事と
おもはゆれど あるじはいかならん人か
もとより知るよしもあらねば言ひ出んやうもなく
これかれと思ひわずらふ.折しもはや未の時も過
つらん。行先いそぐるゝ旅にしあれば
とく従者共のすゝむるまゝにすべきやうもあらじ
人しれず袖をしぼりつつも立出ぬ。しかはれど
いかなる中へにかあならん。日にそいて
其儘わすれがたくて心のやるかたなきままに
はじらうこともうちわすれてかくなん
あなかしこおこがまし業とてとがめたまいぞ
        旅人しらず
贄川の驛路なる
綿や某の
籬の菊の元へ
  以下省略
  
贄川のきしのしらぎく ひと枝は
  めぐめ我世の長きかざしに

信濃路や ふみ見るまでは あらぬとも
    手にはふれぬときくよしもかな

信濃なる山の陰ぢに おもひきや
 かかる黄金の玉もありとは

岩倉具視の恋文といわれるものである
文久元年十一月五日、和宮御降嫁の行列に同行し
 贄川宿「綿屋」の二人の娘に宛てて出されたものである
 恋文は昭和五年の贄川宿の大火により焼失して
しまったが文久二年三月晦日に筑摩郡笹部村
(現松本市笹部)の庄屋(現笹部源篤氏蔵)が
 書き写したものが残されている。

和宮親子内親王の木曽街道御降嫁御通行
和宮親子内親王は仁孝天皇の第八皇女にて孝明天皇の
御妹君にあたられ、弘化三年五月十日御降誕、母君は
権大納言実久の息女の(観行院)
和宮とは御幼名にて文化元年四月親王貴下
御名を親子内親王と申し上げ、後将軍御落飾の
后は静寛院宮と申し上げる。
 和宮は文久元年十月二十二日京都をお立ちになり
十一月十五日に江戸にお着きになられた。
木曽街道へは美濃中津川にお泊りの後、木曽路に
お入りになられた。馬篭で御小休され妻籠で御午食、三留
野
でお泊まりになられた。次の日は野尻で御小休、須原で
御昼食、桟槙沢御野立で御小休、上松にお泊り
遊ばされた。木曽路で第三日目は福島御昼食、
宮ノ越御小休、薮原でお泊り遊ばされ、第四日目は
奈良井で御小休、贄川本陣にて御昼食、本山に
お泊りという御日程で御進みなられている。
 御行列も菊亭中納言、八條三位、正四位
葉差頭?、今城中将、千種少将等がそれ
ぞれお供した。その他、人足三百三十〜三百五十
人程で御一行だけで人足千二百七十一人、馬
四十頭を従がえる大行列であった。
 和宮様御通りの前日には廣橋一位殿を
はじめ正二位中山中納言、従三位野宮宰相
正四位下小倉侍従他、御一方がそれぞれ
色々なお荷物などをお持ちになってお供の
他に人足等が多数随行された。
 松本民俗資料館の資料によると京都方
及び江戸方の随員が約三万人、それに人足等
約三万人で一組の行列が木曽路を通過する
のに三泊四日を要している。
行列やお荷物の通行で前後十日程は
木曽谷の各宿は大変な騒ぎと賑わいであった。
 また各宿場では道や橋の普請、宿舎の
増改築、食糧の確保等々行列通過の諸
準備には巨額の経費と労力をようしたという
一方、行列の警護のため、木曽谷の各宿は
百数十人の尾張藩士が出張して厳重に
出入の人々の取調べや、宿内の火の要心に
努めたといわれている。
 贄川関所も例外ではなく特に役目上、厳重
な上にも厳重な取締りがおこなわれたようである



手形の種類と定義

尼 (是ハ普通ノ女デ髪ソリタルヲイフ)

禅尼(是ハヨキ人の後室姉妹ナドノ髪ソリクルヲイフ)

比丘尼(是ハ伊勢上人、善光寺上人等ノ弟子又ハヨキ人ノ後室等ノ召仕ヘソノ他熊野比丘尼等ナリ)

髪切(是ハ髪ノ長短ニ不奇少々切候共又短切候トモ髪切也)

小女(是ハ當才ヨリ十五才マデ振袖ノ内少女タルベキ也)

乱心者

首

囚 人(搦の囚人但是ハ男女共)

手負者

死骸(但是ハ男女共)

遠島者


   中山道の旅
中山道は慶長五年(一六〇一年)関ヶ原に戦いに
勝利し天下統一に成功した徳川家康が
翌年全国統治上の最重要幹線道として
東海道に伝馬制度を定めたのに続いて
四代家綱が万治二年(一六五九年)幕府
直轄下の主要道路とした五街道(東海道
中山道、甲州街道、日光街道)の一つである。
中山道は江戸から京都まで一三五里三二丁で
六十九次の宿場が設けられていた。
このうち木曽は十一宿で木曽谷を縦断して
いたため木曽街道とも呼ばれた。
山中険阻な道にもかかわらず「川留め」「舟渡」が
ないことから京都の公卿の輿入れ道中など
特に女性の道中に好まれた。又諸大名の
参勤交代、御岳詣り、商人の往来も多く
この道の生んだ史話、逸話 も多い

 役   人

当時福島に目明し役、二人
上松、須原、三留野、馬籠
贄川にそれぞれ目明し一人をおいて
十手捕縄を扱わせた。
その費用は全てで十三両三分で
これを各村に割り付けた。
福島二人のうち一人が目明し役
頭取を仰せ付けられた。
この目明し役はすべて町人が
採用された。
木曽谷に、福島と贄川と割合近い場所に2つも関所が設けられたのは、単に「入り鉄砲に出女」を取り締まるだけでなく、檜一本=首、枝一本=腕一本と言われた貴重な財源である木曽檜の持ち出しを監視していたという意味も有るのかも知れない。
でこのほか、この辺りで発掘された石器なども展示されており、石器時代から豊かな土地であったことが伺える・・・と思ったが、石器時代には野尻湖でナウマン象の化石が出てくる程温暖だったのでずっと継続して人が住んでいたとは言えないのかも知れない。
贄川関所・木曽考古館を後にするにあたり、地図を確認すると、贄川駅の脇を抜けて線路沿いに進めば良いようである。
線路沿いの真新しい舗装の道はやがて右にカーブを描きつつ線路と離れて奈良井川へ下って行くようである。地図だと線路沿いに真っ直ぐなので、畑と線路の間の畦道を進んでみるとどんどん人の踏み跡は薄れていき、藪に突き当たって終了していた。
だが良く見ると、なにやら草がなぎ倒されており誰か、ここで道を見つけようとあがいた形跡がある。もしやと思いその跡をたどっていくと高低差2mほどの斜面になっており、降りたら最後、這い上るためににはものすごい労力を強いられそうなので、次に線路側に進路を向けるがこちらも進むことは難しいのでやむなく退却。
一言で退却といっても、道が途切れてから線路が通る盛り土の斜面に茂った草藪を10mほど無理矢理突入しており、草はチクチク痛いわ、足下の土は崩れてずっこけそうになるわといった難儀を強いられつつ、道らしい道まで戻ってきた。
で、先ほどの奈良井川に下っていく道の途中に活路が無いだろうかと進んでみるがそれらしき道もなく、惰性で下っていくとちょっとした公園になっていたので休みがてら地図を確認すると俺様が進もうとしていたルートは「辿ることが困難」であることを示す点線で記されていた。
では奈良井川の河原を下って行けないだろうかとも考えたが、それも無理のようなので、恨めしげに高低差100mは有ろうかという贄川関所を眺めていると、なにやら石碑の様なものが山腹に見える。
下の方は草に埋もれて判読出来ないが「中山」と彫ってあるところまではどうやら確認できる。おそらくスペース的にも場所的にも間違っても「中山式腹巻」ではなく「中山道」と刻まれているはずだ。
ここから関所まで一気に登れそうな道らしきものがあるが背丈ほどに伸びた夏草に覆われており、再び遭難しそうなのでもと来た道を戻ることにした。
途中、左手に道らしき痕跡がありどうやら、あの「中山道」と記された石碑の前に続いているようだ。
というわけで30分以上のロスとなったが、関所の前の中央本線を橋で越え、贄川駅の側にトイレと東屋があったので再び休憩。
用を足して、飲まなきゃやってられんよとばかりにニッカのポケット瓶を取り出して流し込み、まだ朝の10時だというのに半分くらい空けてしまい、こんなんで大丈夫か思う反面、ゴールまで酒足りるのかと余計な心配をする俺様であった。
そんな幸せな俺様をよそに過酷な旅をされている人が書いたと思われるメッセージが東屋の壁に書かれていた。
「2005.6.2
 ホムレス 一文無 名古屋まで」
って名古屋まで160kmもあるじゃん。日付は一ヶ月以上前なので時間的には余裕で名古屋まで行けるだろうが果たして無事に辿り着けたのだろうか。事情こそ異なれどお互い歩いて旅しているだけに消息が気になるところである。
かなり良い調子になって再び国道19号をしばらく歩き横断歩道を渡ると国道は緩やかに下っているのだが左手に急な登り坂が見える。
見るとガードレールに赤いテープの矢印があり、ここを上らないといけないようである。贄川関所から藪の中に消えた道は中央本線と国道19号により分断されてここに通じていたようである。これなら日本橋から進んでくれば藪の中へ突っ込むことはまず無いだろう。
国道19号の道幅からは想像も出来ないがどうやら大きく山の斜面を削り取って道を造ったようで中山道は斜面を迂回するように山越えルートとなっているのだろうか。
まぁ国道19号を真っ直ぐ進めば10分程度で辿り着ける距離を20分掛けて大回りして再び国道19号に出てみるとなにか看板が建っているので振り返って土手の上を見ると若神子一里塚跡と記されている。一里塚が遙か頭上に有ると言うことは元々の中山道は国道19号拡幅の際に大きく削り取られたらしい。

若神子一里塚
   (塩尻市指定文化財60.3.15楢川村文化財(史跡)指定)
 一里塚は、街道の里程の目安として一里おきに道の両側に
設置された塚で、榎や松が植えられ往時の旅人の休息の場とも
なっていた。
 この若神子一里塚は、中山道に設けられた一里塚のうち楢川
地城内の5箇所の一里塚のうちのひとつで江戸時代には道の
両側に2基あり、それぞれに榎が植えられていたが、明治43年の
中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され現存する1基も国道
19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径約5m、
高さ1mほどを残すのみとなっている。
塩尻市教育委員会
しばらく国道を歩き奈良井川を橋で越えたところで右手にまた旧街道の臭いがする道がある。みればやはりガードレールに赤いテープの矢印が貼り付けてあるのだが、かろうじてかつてアスファルト舗装されていた痕跡が認められるものの、沢山のひび割れから草が生えており自然に還りつつある道である。
まぁ旧中山道を「1日中山道」(いちにちじゅうやまみち)と読んだ女子アナがいたがこうしてへんてこな道に飛び込むとうまく言い得ているなぁと思ってしまう。
まぁこうしてすでに酔っぱらって怖いもんなしの俺様なのでいざ突入。
ってすぐにアスファルト舗装の痕跡は消え、草ぼうぼうの道となった。右手には煉瓦造りの古いトンネルがぽっかりと口を開きちょっと気味が悪い。
すでに酔っぱらって怖いもんなしの俺様だがやっぱり気味が悪いのであんまり見ないようにして通り過ぎた。
このトンネルはおそらく寸法からして鉄道用のものと思われることから中央本線の旧ルートではないだろうか。世の中、おいらのように旧街道を歩く人もいれば鉄道廃線跡を歩くのを趣味としている人も居るようでこうしてみると木曽谷は森林鉄道や中央線のルート変更により廃線となった区間が点在しているなかなか濃い地域である。
廃トンネルを巻く様に迂回すると国道19号の上に出た。左手の柵の下には国道19号、右手には落石防止ネットで覆われた崖とこれもまた有る意味怖い所である。
また、足下の小石を蹴飛ばして道路に落っことすと大変なご迷惑なので細心の注意を払いつつ進むとやがて畑が現れ鋭角に右に曲がって再び国道19号にでた。
国道19号に出て5分ほどで11時02分、奈良井を出てから4時間余りで「是より南木曽路」の石碑があった。これで近江路、美濃路、ときて木曽路もクリアしたことになる。ところでここから先は信濃路ってことで良いのだろうか

これより南木曽路 Northern Entrance of Kisoji
この地は木曽路の北の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。
石碑は、桜沢の藤屋百瀬栄が昭和一五年に建立。裏に「歌二絵二其ノ名ヲ
知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂二至ル南二十余里ナリ」とある。
その隣には石碑があり、以下の通り記されていた。
桜沢木曽路入口
不気味なほどに静かな路傍
にに一人有って、その雰囲気
に浸っていると、直ぐ道で
の渓谷から慌ただし。羽音
がして、ガァーという鳴
声と共に明け鴉が一羽路
姿も見せずに闇空へと
舞い上がった。それを合図
のように辺りが白みはじめ
て、あたかもこれより
「木曽路ー。」
 写真文集「木曽路」の
 中の一文をしるす。
一九七三年春
沢田正春
沢田正春さんって方は存じてないのでググってみると、木曽を中心に活動された写真家の様である。
さらに隣には東海北陸自然歩道の贄川を経て奈良井、鳥居峠を越え薮原までについて記されている。 中部北陸自然歩道 案内図
Chubuhokuriku Long Distance Nature Trail Guide Map
木曽工芸の里峠越えのみち 17.1km
Kiso-kougei-no-sato.Nature Trail of cross pass
沿線の風景

  『是より南木曽路』の石碑の立つ桜沢は、その碑文 
のとおり木曽路の北の玄関口です。ここからいくつ
かの集落を経ると、木曽11宿の北端で、木曽福島関
所の副関として重要であった贄川宿に入ります。南
へ向うと木曽漆器の産地・平沢があり、匠の里モデル
工房が7軒あります.ここでは木曽漆器の製造工程
や作品を直接みることができ、漆器を制作する体験
コースもあります。奈良井川の清流に沿って行くと
木曽11宿で最も繁栄した宿場の奈良井宿があり、
300年にわたる街道文化を今に伝えています。ここ
から、鳥居峠へ登る道は、石畳の道が復元され、峠に
立つと木立ちの間から、奈良井宿と薮原宿を眼下に
望み、遠くに御岳山、木曽駒ヶ岳、乗鞍岳が眺望でき
ます。ここは、木曽川と信濃川の支流奈良川の分
水嶺です。かつては難所といわれたこの峠道も今は
歩道として整備され、どなたにでも気軽に大自然を
満喫することができます。峠から3km程で、薮原宿
に到着します。
とまぁ、鳥居峠をごくごく整備されたハイキングコースの様に書いてあるが、運が良い?と「森のくまさん」に遭遇できるなかなか侮れないワイルドな山道である。

日出塩駅前

一里塚跡

第2仲仙道踏切

本山宿

木曽方面

松田鉄弥先生頌徳碑

本山学校跡

本山宿の碑

本山宿の街並み

本山そばの里

本山宿の標柱

本山宿の街並みその2

洗馬宿高札場跡

芭蕉句碑

洗馬宿の街並み

洗馬宿脇本陣跡

洗馬宿本陣跡

洗馬駅前の街道

あふたの清水

あふたの清水(水船)

善光寺道追分

肘懸の松

松本方面

肘懸の松

日本最北の銅鐸

ブドウ畑

気温29℃

レンゲ

中山道一里塚を右
第1仲仙道踏切

木曽側

松本側

あれが一里塚?

平出一里塚と乳松

耳塚神社
というわけで木曽路を過ぎ、国道19号を歩くと右手に逸れる道がある。この道は何度か車で通っているが権兵衛峠と並び木曽谷と伊那谷を結ぶ数少ない中央アルプス越えの道である。まあこの牛首峠を中央アルプスの一部として良いのか悩むが、初期の中山道はこの牛首峠を経て辰野へ抜けていたらしい。やがて国道19号から右手に逸れて国道をくぐると程なく日出塩駅に出た。
信濃路?に入ってきてここまで20分あまり11:45分とそろそろ飯時なのだが駅前というのに食堂はおろか立ち食いそば屋すらない寂しい駅である。
かわりに3分ほど歩くと家と家との間に一里塚跡があった。京都から71里、江戸まで61里だそうだが一里塚の名前は記されていないが、京都から284km歩いて残り244kmってことだ。
そしてただただ普通の家しか並んでいない日出塩を抜けると、車道は立体交差で中央本線を越えて国道19号に合流するのだが合流する手前から左に逸れる細い道を進んだ先にあるちいさな踏切があり、良く見ると第2仲仙道踏切と書いてあるからこれを渡って国道に戻れば良いらしい。これであと一つ踏切を渡れば恵那からくっついたり離れたりしていた中央本線ともお別れとなる
11:57分しばらく国道を歩き再び左に逸れると本山宿である。道は拡幅されていて宿場っていう雰囲気ではない。で右手の小高い丘の上に公園を見つけたのでとりあえずトイレを拝借しつつ休憩する。
ここまで来ると、今まで左右に迫っていた山は低くまた距離も離れ木曽谷に較べると大分開けているように感じる。で辺りを見渡すとなにやら石碑が建っているので見ると「松田鉄弥先生頌徳碑」とある。
ググってみたが松田鉄弥先生が何者であるかは判らなかった。だが側に「本山学校跡」という石碑があるのでどうやらこの公園は元々学校だったようである。
歩き始めると本山宿と刻まれた石碑こそあるものの本陣とかそういった痕跡を示すものは無いまま再び国道に合流する直前に「そば切り発祥の地 本山そばの里」という看板が畑の向こうに見えた。まぁ畑が蕎麦畑だったら雰囲気出ているのだがジャガイモ畑なのはご愛嬌ということでとりあえず立ち寄って見ることにした。
なかなかの繁盛ぶりでとりあえずそばとビールを頼んだら、出てきたビールが大瓶で少々もてあましながらも、そばとそば湯でお腹パンパン状態になりながら店を後にした。
なにやらビールとそば湯で歩く度に胃袋のあたりで「ちゃっぷんちゃっぷん」と音がするような気がしつつ歩いていると宿場の外れには「中山道本山宿 そば切り発祥の地」という標柱が畑の中に立っていた。これも畑が蕎麦畑なら風情もあろうものだが、これもまたどう見てもかぼちゃとネギとトウモロコシが植えられていた。
道は再び国道19号に合流して国道をしばらく歩き再び左に逸れて中央本線のガードをくぐると「洗馬宿」の石碑と「高札場跡」の 標柱がお出迎えしてくれた。そばをやっつけてから30分余り。本山宿と洗馬宿の距離が短いのは、木曽路が荒天時に通れないため足止めを食らった旅人を本山宿だけでは吸収しきれないので洗馬宿が補完するような形になっていたのだろうか。

高札場跡
ここは洗馬宿の高札場があったと
ころで、後に御判形(おはんぎょう)
とよばれた。伝馬駄賃御定や幕府
のお触れなどが掲げられていた。
明治以後裁判所の出張所(後に宗
貿村役場)敷地の一部になり、その
建物は『どんぐりハウス』として
移築利用されている。
      洗馬区
その側には芭蕉句碑があるのだが肝心の内容は達筆すぎてわからない。多分判読できても意味がわからんので側に解説でも置いてあると嬉しいのだが・・・
ここも道が拡幅されており、宿場町といった風情はあまりない。
とは言え、贄川、本山には無かった(見過ごしただけ?)本陣や脇本陣跡を示す標柱が立っていた。
脇本陣跡、本陣跡と通り過ぎると洗馬学校跡という看板が掲げられていたので眺めてみる。近くの本山にも本山学校があることから教育熱心な土地柄がうかがえる。
現在その跡地には農林漁業体験実習館というものが建てられている。
  洗馬学校跡
洗馬学校は、明治六年民家に開設
され、開智学校(重文)を建てた
立石清重を棟梁に、明治十一年こ
こに新築移転した。近隣に例を見
ない、廻り階段やバルコニーの付
いた、洋風3層の校舎は、その偉
容からバビロン城と呼ぱれ、屋上
には今井兼平洗馬の像が飾られた。
 洗馬区
何もない洗馬駅前を通り過ぎ5分ほどで「あふたの清水」という看板があった。とりあえず涼めそうだと路地を抜けると
「ふるさとの水20選 あふたの清水 塩尻市」という看板がある。そこから階段を下ると葉っぱの浮いた薄汚い年代物の水船があった。
手を突っ込むと水温は15℃くらいだろうか ひんやりと気持ちがよい。水船から溢れた水でとりあえずタオルを濡らして塩の浮いた顔やら首筋などを拭いて人心地着いたところで、あふたの清水とやらを味見してみる。
あまり美味しくない。そりゃつい一時間前にビール大瓶+そば湯でお腹がちゃっぽんちゃっぽん状態だもの。
でもよく考えるとここは民家の裏の崖下なわけで、衛生面は大丈夫なのだろうか。 どっかの様に「この水は飲めません」とか書いていないだろうかと見ると看板があり
邂逅(あふた)の清水として、木曽義仲
にまつわるいわれもあり、住民の生活
用水ともなっている。
「ふるさとの水20選」
  選定実行委員会
平成十四年十一月十日選定
歴史は有るようだが、飲料水では無く生活用水か・・・生活用水というと洗濯とか野菜洗ったりとかいうイメージだが・・
しかもふるさとの”銘水”ではなくただの”水”だ。一言も”飲料水”とは触れておらずちょっと飲んでしまったが大丈夫なんだろうか。
「あふたの清水」を後に中山道に戻るとほどなく善光寺道と中山道との追分があった。左へ行くと善光寺、右に行けば中山道である。
追分を過ぎてしばらく歩くと肱懸松という曰くありげな松があった。
 肱懸松(肱松)
 「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸
屏風の絵にござる」と歌われた赤
松の名木。細川幽斎が「肱懸けて
しばし憩える松陰にたもと涼しく
通う河風」と詠んだと伝えられて
いる。また、江戸二代将軍秀忠上
洛の時、肱をかけて休んだとの説
もある。左方標柱辺りにあった。
         洗馬区
「あった」と過去形で説明されている所をみると今ある松は何代目からしい。この松を過ぎると前方が開け塩尻峠から連なる山々が見えてきた。やがて国道19号 に合流する。
国道19号へ出ると「平出遺跡」を経てR153を経てR20塩尻峠へ向かう抜け道の所だった。で傍らには日本最北端の銅鐸のモニュメントがあるのだがどういったルートで伝わったのだろうか。もともと諏訪とか安曇は独自の文化があったらしいが大和圏との交流はどういったルートで行われていたのか・・・・最北端ということは北陸では出土していないと言うことは木曽川を伝って来たのだろうか。いつも平出遺跡は抜け道としてしか利用していないのでいずれ立ち寄ってみようと思う。
周りを見渡すといつの間にかブドウ畑が広がっている。時期が早いのか実は青いままだ。ただいま14:08かれこれ7時間近く歩いているわけで国道19号に掲げられた電光掲示板の表示によれば気温29℃ということである。実際には空気が乾いているせいかそれほど暑さは厳しく感じられない。
一方、足下に目をやるとレンゲがまだ咲いている。なんでまたわざわざこんな物を撮ったかというと、この花の名前を酔っぱらったせいか思い出せず、
「えーとこいつの白いのがクローバーで和名がシロツメクサだから赤いのがアカツメクサ・・・・いや。もっと短い名称が付いていたはずだ。うーんなんだっけ?」と道中ずっと思い出せずにいたのである。
過度の飲酒は脳味噌に良くないことを身を以て知るのであった。
でどうやら前方の中山道一里塚交差点を右に曲がり、国道19号とお別れし、かれこれ十何回も超えてきた中央本線の踏切も最後の第一仲仙道踏切を越えて中央本線ともお別れしさてさっきの交差点の名前にもなっていた一里塚はどこじゃいなときょろきょろするが見あたらない。さては行き過ぎたかとおもいきゃ遙か前方の畑の脇に枝ぶりの良い木が見える。さっきの第一仲仙道踏切を越えてから10分近く経過しているってことは遠慮して「中山道一里塚入口」と名付けたほうが良いくらいではないだろうか。
で一里塚の前に辿り着くが、遠くから見えた枝ぶりの良い木は松だった。ところが良く見ると塚とは別に生えておりその名を乳松というらしい。この葉っぱを煎じて飲むと乳の出が良くなるとのことだが、この松で何代目からしいので今となっては薬効というか御利益は不明である。
市史跡平出一里塚
 所在地 塩尻市大字宗賀一二二のロ
 指 定 昭和四十六年三月五日

 一里塚は慶長九年(一六〇四)より徳川秀忠の命により各街道に
築かれ、同十二年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、
本多光重等を一里塚奉行に任命して、中山道筋の幕府領、私領
をとわず人足を徴発して道を整備し 江戸日本橋を基点として
三十六町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、
塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行
の
便宣をはかった。その道賂幅は五間(九m)塚は五間四方、高さ
一丈(2.3m)と定められたが明治以後はその必要もなく、いうとは
なく次々に消滅し、県下でも平出のように原形を保つものは極
くわずかとなった。江戸時代当塩尻市内は、三つの街道にそっ
て、八ケ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのは、この
平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より
五十九番目のもの、また、宝暦六年(一七五六)頃には、この付近に
茶屋二軒のあることがわかっている。塩尻市教育委員会
この一里塚より歩くこと20分程で何やら祠が有ったので近づいてみると「耳塚神社」とあり、のぞいてみると茶碗やら皿が奉納されている。
伝説
耳塚様と呼ばれ昔は耳の病気の直ることを祈った。
桔梗ヶ原の戦いとか安曇王に関係ありともいわれる。
明治二十九年先祖が野ざらしになっていた塚に祠を建て 二本の剣をご神体としてしてまった。 (してしまった。orしてまつった?) 耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴をあけて奉納すると 耳の聞えが良くなると評判になり、伊那地方からなど多方面 から話を聞きつけて参拝した。 ほこらは二度建て替えられ現存するほこらは昭和五十三年建立。
まぁ今では耳の神様に代わって耳鼻科が有るのであまり繁盛はしていないようである。

大小屋交差点を左

堀内さんのおうちその1

堀内さんのおうちその2

阿禮神社

塩尻宿陣屋跡

塩尻宿脇本陣跡

塩尻宿本陣跡

小野家住宅

是より西中山道塩尻宿の標柱

中山道と三州街道との追分

中山道?

旧国道20号?との交差点

木立の中の中山道

眼下に国道20号を望む

東山周辺

東山周辺その2

おおざっぱな標識

大雑把な看板の通り進む

東山一里塚

夜通道

まもなく塩尻峠?

明治天皇塩尻峠御膳水

塩尻峠

明治天皇塩尻峠御野立所

塩尻峠の眺望

俺様流野立

岡谷側へ下る

トラップ有り
養蜂所

諏訪湖

鳥獣保護区なの?

旧中山道の大石

長野県人の好物!?

諏訪湖

石船観音

諏訪湖
国道20号バイパス
すでに中央本線とはおさらばしたもんだと思ったがここでいっぺんガードをくぐり国道153号にでた。で「犬小屋」とは変わった地名だなと良く見れば「大小屋」の交差点で左に逸れてしばらくするとまわりの家はコンクリの塀とは異なる異質な感じのする黒い木の塀の家が現れた。これは重要文化財の堀内さんのおうちということらしい。残念ながら外からでは門構えと塀しか確認できない。
さらに真っ直ぐ進むと神社の境内に突き当たった。木の高さや幹の周りからすると相応の歴史を持つ神社のようである。阿禮神社とあるが本日最大の難所となる塩尻峠を残しているので立ち寄ることなく先を急いだ。
再び国道153号に戻ると酒林を提げた家があり塩尻宿陣屋跡の標柱が建っていた。というわけでいつの間にか塩尻宿に入っていたようである。
酒林とは杉の葉をボール状に束ねて軒からぶら下げた物だが、これは酒蔵だよという看板の様な物で、新酒が出来ると新しい葉で作り直すのである。というわけで陣屋よりむしろそちらの方が気になる酔っぱらいの俺様である。
さらに行くと脇本陣跡に本陣跡と続いて現れどうやら宿場の中心にいるようだが今ではすっかり拡幅された国道なので宿場町といった雰囲気はない。そのくせ歩道がなく、ひっきりなしに通る車のために体を小さくしていないといかんのでたちが悪い。
と思ったら古めかしい造りの家が有った。小野さんの家とのことである。
構造
小野家住宅 附文庫 塩尻町三九
  主屋主部 桁行一四・六メートル 梁行九・一メートル
   切妻造 二階建 南面庇付 桟瓦葺
  北側突出部 桁行七・三メートル 梁行八・二メートル
        桟瓦葺 北面庇付亜鉛引鉄板葺
  文庫 土蔵造 桁行五・五メートル 梁行三・六メートル
     二階建 切妻造妻入り 亜鉛引鉄板葺

 中山道塩尻宿の中心部の本陣・脇本陣、上・下問屋に隣接す
る屋号「いてうや(銀杏屋)」という大旅籠であった。
正面総二階造の部分が旅宿の主要部で、北に接する平屋部分
は台所や内向きの部屋として使われていたらしい。
 二階は客室が五つあり、便所が設けられている。間仕切の帯
戸は砂摺り加工が施され東北隅の客室は西壁から天井にかけて
満開の桜の大木が描かれ、家名にあやかったイチョウの床柱が
床の間にしつらえてある。
 嘉永三年(一八五〇年)頃の二階建町屋造と推定されている。
             塩尻市教育委員会

やがて「是より西、中山道塩尻宿」と刻まれた標柱があり、東に向かって進んでいるということは塩尻宿もこれで終わりということである。
宿境の標柱から歩くこと3分あまりで三州街道と中山道の追分道標に着いた。
道標には
「右、三州街道 筑摩?村 伊那方面至」
「左、中山道 當???  諏訪方面至」
となんとなく読める。おそらく字体からして明治以降に建てられたものであろう。で三州街道となっている道は車がすれ違うことの出来る立派な国道153号だが、一方の中山道はかつての幹線道路とは思えないほどの狭さでこのまま進んで良いものやら悩む様な道である。
やがて国道20号と153号を結ぶ道との交差点に出た。確か長野道ができる前は塩尻峠から下ってきた国道20号は、今のように高出交差点で国道19号に接続せず、この道を経て国道153号につながっていたような気がするのは気のせいだろうか。
まぁどうやら電柱にはご丁寧に赤いテープで真っ直ぐ進めと矢印があるし、交差点脇には道祖神だか馬頭観音だかがあるのでこの道で良いらしい。
かれこれ国道153号に出てから緩やかに坂を登り坂が続いているが、いい加減しんどくなってきた。ようやく長野道を越えふと気付いた。この先国道20号だがどうやって横断するんだろうか。条件としては国道1号の三島から箱根峠へ向かう2車線+登坂車線と々である。車では塩尻峠は何度も超えているが胸に手を当てて考えてもここを法定速度を下回るスピードで走った覚えは無い。
非常に危険だ。・・・などと思っていると国道20号手前でちゃんと地下道への入り口がぽっかりと口を開けて待っていた。とりあえず安全に横断出来る上に日差しが遮られちょっと涼しくて嬉しい。
地下道を越える大きくカーブしながら高度を上げていく国道20号を見下ろしながら進むかと思えば一旦国道20号に合流するがしばらくすると左に逸れて国道とはお別れとなる。
最短距離で越える中山道に対し、車を楽に通す為に緩やかなカーブを描きながらゆっくりと高度を稼ぐ国道20号とはルートがあまりかぶらない様である。
おかげで通行の支障の無いよう舗装こそされているが拡幅もされずにこうして姿を残しているのであろう。
傾斜は比較的緩やかとは言え塩尻宿宿境からかれこれ1時間も休み無く登っているといい加減しんどい。木立の切れ目から周りを見るとかなり登ってきたはずだが峠はまだ見えない。
とりあえず「中山道」と書かれた標識があり、とりあえずここが中山道で有ることに安心するも
標識と呼ぶには
「木曽路←中山道→塩尻峠」
と余りに大雑把だった。
まぁ大雑把だが、とりあえず現在位置と進行方向に誤りが無い様なので例えるなら車で道に迷っているときに突如標識が現れて、自分の知っている地名が出てきたとき位一安心である。
というわけで非常にアバウトな標識に従い進むと一里塚があった。看板に寄れば東山一里塚とのことである。
市史跡 東山一里塚

  所在地塩尻市大字旧塩尻701番地4  
  所有者 ****
  平成元年3月31日塩尻市史跡指定
東山一里塚は東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり古図
には道を挟んで2基描かれているが、南側のみが現存している。
この塚の大きさは幅12m、奥行13m、高さ3mの塚である。
元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、中山道は牛首
峠経由(桜沢口—牛首峠—小野一三沢峠—諏訪)から塩尻峠経由
(本山‐洗馬—塩尻—下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃
つくられたものと推定される。
市内には東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五か所に築かれ
たが、現在は、ここと平出の一里塚が形を残しているだけである。
           塩尻市教育委員会
一里塚より5分ほどで「夜通道」という標柱が建っていた。
「いつの頃からか片丘辺の美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うために毎夜この道を通ったという。」
とあるが残念ながら、この後この二人の恋路の結末がどうなったかは記されていない。しかしまぁ毎日では無く毎夜なのでおいらがヒィヒィ言いながら登っているこの道を真っ暗な中行き来していたのだから恋のチカラも大したものである。
でもこんなことがきっかけで道の名前がでてくるのね。
さてぼちぼち日が傾いてきたが、まだ峠まではしばらく有るらしい。「夜通道」の標柱からさらに峠道を進むこと5分あまり、時刻はあと10分ほどで17時になろうかという頃、「明治天皇塩尻嶺御膳水 長野県」という石碑が建っていたが、すでに水が涸れてしまったのか藪に覆われて見えないだけなのか判らないが辺りを見回しても水が湧いているような気配はなかった。
御膳水からさらに5分程掛けて峠道を上っていくとようやく峠に辿り着いた。この峠は交差点となっており北側へ進むと公園となっており久方ぶりに腰掛けて休憩することが出来そうなので、これから迫る夕暮れも少々気にしつつベンチへ向かった。
途中、明治天皇塩尻峠御野立所という石碑があり、先の御膳水をここまで持ってきてここで茶を沸かしたらしい。
木が生い茂り眺望には少々難があるものの木立の隙間からは、岡谷市街と諏訪湖が見える。
ベンチに辿り着いた俺様は、ここ塩尻峠で野立をされた明治天皇に習い、カップ酒で野立としゃれこんだ。
しかしまぁこうして、明るいうちからカップ酒とはとんでもないロクデナシである。
15分程休憩し、ここまで来ると下諏訪まで行くしかないので、朝からウィスキー、ビールと来とどめに日本酒を流し込み、ふらつく足で峠を下り始めた。
下り始めた時刻を控えるため写真を撮るものの、ブレブレのボケボケとなるほど酔っぱらってしまったようだ。
下り始めて気付いたが塩尻峠はダラダラ登っていく塩尻側に較べ岡谷側は酔っぱらった足には結構しんどい急勾配だった。
しばらく下るとなんか看板が有ったので見ると 「注意・キケン!
 鹿・イノシシ等の捕獲用「わな」
 があります。近づかないでくださ
 い。また、犬や猫等を近づかせな
 いでください。 」
と鹿や猪にもわかるようにわざわざ日本語で罠の存在を看板に記している。
というのはともかく、どうやらこの辺りは人間の生活域と動物さん達のテリトリーが入り交じっているようだ。
さらに下っていくと整然と並んだ木箱が電流柵に囲われていた。どうやら養蜂をやっているらしい。電流柵で囲われているということはあまり出会いたくはないが森のくまさんとかハチミツ大好きプーさんも出没するようである。
やはり坂道は下りの方が速いわけで、あっという間に諏訪湖が近づいてきた。
で先ほど罠が仕掛けてあるよという看板があったが実は鳥獣保護区らしい。
塩尻峠を下り始めてから13分余り、道ばたにでっかい岩が転がっていた。傍らには「旧中山道の大石」という標柱が建っている。
この巨石は昔から「大石」と呼ばれている。「木曽路名所図会」にも、
「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約六メートル)ばかり、
横幅二間余(約三・六メートル)」と記されている。
伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲った
と言われている。ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに
殺され、大石のたもとに埋られた。雨の降る夜に下の村から峠を見ると
、大石の所で青い火がチロチロと燃えていたという。またこの辺は昔よ
くムジナが出て、夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の持っていた
提灯のローソクを奪ったという(ムジナはローソクの油が大好物という)。
ということだが、無惨にも殺された旅人を供養して青い火が収まったとか、盗人をどうにかしたとかなどその後の経過は記されておらず、今も旅人が埋まったままかも知れない上、ムジナに化かされるのも困るので早々に退散した。しかし当時の蝋燭ならいざ知らず、いまじゃパラフィン使った立派な石油製品なので、こんなもの舐めたらお腹が痛くなるに違いない。というかそもそも夜道を蝋燭の明かりだけで歩くなんざ丑の刻参りでもしない限りありえないよな。
とにかく、あまり居心地のよい場所では無さそうなので先を急ぐ。俺様の前を何かが横切った。
反射的にそいつをとっ捕まえると長野県人の大好物と言われる!?「イナゴ」であった。おいらも嫌いではないが、佃煮ならいざ知らず「生」の状態ではどうにも出来ないので、解放してやった。
気がつくと大分諏訪湖が近づいてきた。
すると左手に水が湧いており、標柱が建っていた。
 本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに
足腰の弱い人に対して霊験あらたかであるといわれている。 境内を鳴沢清水といって豊富な清
らかな水が流れていて。参拝者の喉をうるおしている。例祭は五月の八十八夜ころである。
わき水は「あふたの清水」で懲りたのでそのまま通過。
石船観音より程なく広い道に出た。直ぐ側には国道20号バイパスと岡谷インターが見える。これで、ムジナに化かされたり、鹿や猪に追い回される危険から抜け出すことができたようである。
新しくできた国道20号バイパスを越えるのだが、現在の20号の北側を通っているが全通しておらず未だに下諏訪から茅野までの渋滞回避には役立っていない。
このバイパスの建設工事の影響かこの周辺だけ道幅も拡幅されているが程なく、車一台通れる程度の道に戻った。

中山道の石碑

今井さんち

今井さんちその2

一里塚

一里塚辺りの中山道

下諏訪に入ったようだ

諏訪大社の鳥居

魁塚

下諏訪駅入り口
やがて俺様でも彫られた文字を判読出来ることから割合新しいと思われる「中山道」の石碑が有った「左しほじり峠 右しもすは」と刻まれている。
石碑の傍らには中山道の説明と岡谷周辺の史跡を配した地図があった。
 中山道は、東海道・奥州街道、日光街道・甲州街
道とともに、江戸幕府のさだめた五街道の一つとして
重要路線であった。
 この道は、当初、和田峠より東堀・小井川・岡谷を通
り三沢から小野峠を越え、さらに牛首峠(上伊那小野)
を抜け木曽の桜沢に通ずるものであったが.慶長19年
(1614)塩尻峠越えに変わった。
 中山道は、物資の輸送に重要な役割を果たすとと
もに、参勤交代による緒大名の通行、将軍家使用の
宇治荼を江戸に送るための御茶壷道中、あるいは、皇
族および将軍関係のご婚儀による姫君のご通過、さら
に、元治元年(1864)の水戸浪士の通過、明治13年(18
80)民情ご視察のための明治天皇ご巡幸など、いずれ
もこの街道にかかわりをもっている。
 明治になって国道7号線となり、明治19年(1886)に
は塩尻峠の大改修が行われ、特に諏訪側は急坂で
 車馬の通行に不便だったので、旧坂の約3倍の迂回
路を開削した.
昭和27年(1952)に国道20号線となり市内におけ
る主要幹線道路として現在に至っている。
やはり思った通り中山道ルートそのままに国道とすることには無理が有ったようだ。まぁこうして基本的には中山道に沿って勾配のきついところだけ何とかしたのではなく 殆ど接点が無いほど大幅なルート変更した、車一台がようやく通れる程の改修しかされずに残っているようだ。
地図には、古戦場やらお寺さんとか誰それの墓とかお社が多数書き込まれているが、正直さっぱりよくわからんが、とりあえずこの先に一里塚が有ることだけはわかった。
でこの看板の側には立派なお屋敷が建っており、なにやら説明が記されている。

旧御小休本陣 今井家

 旧今井村は、中山道塩尻峠の東
の登り口にあって、古来交通上の
要衝で 江戸時代には、こゝに御
小体本陣が設けられ、今にその旧
観を残して居る。
 中山道は江戸と京都を結ぶ裏街
道として 江戸時代には。幕府の
要人、尾張徳川家をはじめ。参勤
交替の西国諸大名の人馬の往来も
激しく、多くはこの家に御小休に
なった
 文久元年十一月五日。皇女和宮
が徳川将軍家に御降嫁の時 明治
十三年六月二十四日 明治天皇が
山梨 三重 京都方面御巡幸の時
御小休になられた。 
 平成十一年七月十六日、「江戸時
代の姿をほゝ継承して居る点が貴
重である」として主屋等十一件が
国の登録有形文化財に指定された。

今井さんのお宅から歩くこと20分、先ほどの地図にあった一里塚の前に辿り着いた。なんだか資材置き場のような所の傍らにあり、塚は無かったが石碑が建っており、江戸まで56里と彫られている。もう残り224kmか。
というわけで国道20号を渡り、とりたてて何もない住宅街を一里塚から歩くこと40分余り、中山道はどうやら主要地方道でも県道でも無いせいか、岡谷市と下諏訪町の境界がどこだったかわからないまま下諏訪町に入っていたようだ。
で諏訪大社(春宮)へ向かう道を渡ると、右手に魁塚というものがあった。
下諏訪町文化財 
史跡魁塚
ここは赤報隊長相楽総三以下幹部八士
その他の墓である。慶応四年正月江戸城
総攻撃のために出発した東山道総督軍
先鋒嚮導の赤報隊は、租税半減の
旗印をたてて進んだが朝議一変その他に
よって賊視され明治三年同志によって
墓がつくられた。
名を『魁塚』として祭られた。
爾来地元では祭りを絶やさず昭和御大典には
御贈位の恩典に浴した草莽として
維新史の上に大きく輝く人々てある。
  昭和四十九年六月二十四日指定
    下諏訪町教育委員会
赤報隊というと朝日新聞を襲撃した事件しか思いつかないが、オリジナルの方々は幕末に活躍したようである。
再び国道20号に合流すると程なく、下諏訪駅への入り口なのでここで旅は終了なわけである

下諏訪駅

番外

今朝電車に乗った下諏訪駅を通り過ぎ、車の置いてある諏訪湖湖畔の駐車場に戻り、重い荷物を下ろして、代わりにお風呂セットを取り出して、湖畔の湯という銭湯より安い値段ながら温泉でくつろぎ、酒臭い汗を流すのだった。
ただ、アルカリが強く、湯の温度も高い湖畔の湯は擦りきれた尻に染み渡る・・・つか痛てえ位である。とりあえずこの後、車で帰らないといかんので風呂上がりのビールをやっつける訳にもいかず、風呂上がりのお茶で妥協しつつ、さんざん歩いたにも関わらずちっとも減っていない体重計の目盛りにガンをくれつつ、諏訪・・(岡谷だが)を撤収したのであった。で次回は和田峠を越えないといかんのだが、これがまた東海道の鈴鹿峠を軽く凌駕するほど交通機関絶無地帯なんでこれまでの様にゴール地点に車を置いてスタート地点に戻るといった技が使えず、 どうしたものか考えないとなぁ。

時系列では木曽福島−原野に戻る
ルート上では贄川−奈良井に戻る
下諏訪−長久保へ進む
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