十一日目 六合駅から東名高速岡津バス停まで

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2002年7月11日藤枝〜掛川晴れ6時間30分約40746歩31.3km交通費 5440円

掛川まで23kmか。楽勝だな。

大井川川会所周辺の町並み

川会所
バスが来ない・・・
と言うわけで台風通過直後に東名高速バスで出かけようと言うのは間違いだったのか20分ほどして来たのは、ほぼ1時間前に来るはずの静岡駅行き。なにやら事故渋滞で大変なことになっているらしいのでこいつに乗るが加えて静岡IC出てから工事渋滞のお陰で予定では10時過ぎに西焼津にいるはずが10時40分に静岡駅。そんなわけでほとんど1時間予定より遅く六合駅着。で台風一過で見事に晴れた六合駅から掛川宿目指してGo。うーん。予想通り強烈な向かい風だが、お陰で汗でべちゃべちゃにならずに済むぞ。おまけにほどよくアスファルトが柔らかくなっているので膝や足首へのダメージが少なくていいぞ。と島田宿を目指す。島田駅前も商店街となっているがシャッター閉まったままの店が多い。
島田市はおいらの住む田舎町と同じく市の花がバラという共通点があるんで他人事とは思えず心配になった。
商店街を抜けて住宅街に入り 50分ほどで島田宿川会所着。ここいらはそのまんま時代劇のロケで使えそうな当時の町並みを再現してました。しかし川合所は誰もいない。うーん川札を求めないといかんのだが・・・川留めか?。と不安になりつつ河原に向かう。

蓮台の模型と俺様(はく製)

増水で渡れそうにもない大井川

長いわ。風強いわの大井川橋
なにやら広大な河川敷は東海道53次を広重の浮世絵と歌などの石碑を並べた公園になっている。下流側が日本橋らしいので行ってみようと思ったがあんまりにも遠いのでやめた。なんせこの先金谷から日坂までは坂登ったり下ったりのとんでもない難所だ。おまけに1時間以上ここまでロスしているし先を急がねばならない。と言いつつ蓮台が放置されていたので乗ってみるがやはり担ぎ手はいない。うーんこれだけ台風で増水してりゃ無理かと大井川橋を渡ることにする。
超ぉ〜長げぇ〜
全長1kmは有るのだろうか?。歩いて渡っているのはおいらくらいで、皆さん自転車で追い風爆走か、顔歪めて向かい風と戦ってました。

大井川鐵道

石畳の金谷坂

茶畑

茶!
で吹けよ風呼べよ嵐状態の大井川を15分ほどで渡りきり、金谷宿。昔の人は無事川越を果たすと川祝いと称してここ金谷で一杯やっつけたようだが・・酒屋が見あたらない・・・それ以前に店がないぞとしばらく歩くと線路・・・。SLで有名な大井川鐵道である。なにやらレトロな客車と電車が留置されてますが残念ながらSLはおろか走る電車すら見なかった。まぁ平日だし仕方がない。
で金谷駅に近づくと店があり酒屋も有るようだが、昼間っからワンカップもアレだしなによりそろそろ坂道が始まっているのでやめておこう。
で駅手前で東海道線をくぐるとまたさらに強烈な登り坂。おまけに山が風を遮るせいか、せっかくここまで汗をかかずに来たのに一気に汗ダラダラ。んで金谷坂の途中にある石畳茶屋で煎茶セットを頼み休憩。お茶がうまいわ〜。まぁお茶の葉も良いのだろうが水だろうなぁ。水がいいからここいらのおねーちゃんはみんな肌が白くて・・などと邪な事を考えつつ熱い煎茶すすって汗を引っ込め再び石畳の金谷坂を登る。
で途中”すべらず地蔵”なるもの発見。なにやら試験に滑らずとか御利益があるそうで、とりあえず
俺様のギャグがすべりませんよう
と願を掛けてみたりするが・・・・で15分ほど掛けて登り詰めると一面茶畑。おまけにロケーションが良いようで各種の無線の中継所がありますな。で信玄君の息子勝頼君が家康君をボコりに行く拠点となった諏訪原城跡の看板が有ったので新田次郎さん著の武田信玄全4巻&武田勝頼全二巻を繰り返し読むほど武田マニアな俺様としては足を延ばそうと思ったが入り口の看板から結構有りそうだしそろそろ時間との戦いが始まりつつあるのでやめておいた。
と言いつつ菊川坂手前の東屋で一息ついてふと山を見ると・・・
って金谷の人ってほんとお茶目なんだから

価格破壊!!

ミラクルボディV

小夜の中山途中の坂。

久延寺

久延寺の夜泣き石
で併走する普通の舗装の農道をこっちの方が楽かなぁとチラリチラリと眺めつつ石畳の菊川坂を下りきると今じゃ静かな集落となっている間の宿菊川。でもこんな所にも価格破壊の波が・・で90円のミラクルボディとかいうスポーツドリンクを成分表見ながらこりゃ効きそうだと一気飲み。で小夜の中山目指してとんでもない急坂を上っていくとMTBを押している人がいた。こんにちはと声を掛け「こんな坂じゃ自転車は荷物にしかならんですよね。」と言うと「2〜3倍はキツイよ」と本当に苦しそうに答えて頂きました。身軽なおいらは先に行き・・・まぁ下りも傾斜が半端じゃないし自転車乗りにはきついよなぁ。で登り詰めるとあちこちに俳句やら歌が記された石碑があったりするが・・・やはりとんでもない難所だけに何か残さずに居られなかったのだろう。ここで俺様も一句。
      ふ
    小 ざ
  マ 夜 け
  ジ の る
  辛 中 な
  い 山  
俺  
様  

どうやら前回の成田山のボケ封じも先ほどのすべらず地蔵も御利益は無かったようだ。 とぼやいているとスタートから3時間余りで久延寺。なにやらここにも夜泣き石があるが・・・本物はR1金谷バイパス沿いじゃ・・・いつもあそこ通るのが掛川バイパス無料になる夜なんで立ち寄った事が無いが看板あったよなぁ。
久延寺にある夜泣き石の説明

伝説小夜の中山夜泣石

 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、 菊川の里へ働
きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、
苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱し
ていたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い
逃げ去った。
 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、
お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言
った。
 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、   久延寺の和
尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子
となった。
 そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞
いたところ、『去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦
を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇
とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号を
きざみ、立ち去ったと言う。

         文化元年滝沢馬琴の『石言遺響」より

夜泣き石入口

階段を登る

庭園

夜泣き石
2005年10月9日追記
いつの間にやら夜間のみ無料だった静岡の一国バイパスも全日無料となり、通行料金400円→0円になった藤枝バイパスを真っ昼間に堂々と?通り過ぎ、日坂に差し掛かると、先行する車が平坦な道60km/h、下り坂80km/h、登り坂40km/hと鬱陶しい運転しやがるおかげで、後続車がつながってしまいさながら大名行列状態だったので、本物?の夜泣き石でも見物してアホをやり過ごすかとバイパスを逸れてついでに飯でも食って行くかと500円という破格値天ぷら蕎麦で腹ごしらえ。
で土産に子育て飴なんぞ買い、ここから”30m”という看板に従って階段を上っていくと、小さな公園の片隅に夜泣き石が祀られていた。
夜泣き石の側には下記のように記された看板が立っており、久延寺にある夜泣き石の説明とは微妙な違いがある。

夜泣石の伝説
 只今居ります場所は国道一号線沿いですが、これより四〜五百メートル山を
のぼりますと旧東海道が通って居ります。旧道の頂上にはお観音様をお祀りし
た久延寺という昔からのお寺があります。
 この寺に、或る日の夕方、臨月の身に成った婦人が安産をお祈りして帰る途
中、丸い石にもたれて休んで居りますと、突然刀を持った山賊が出て来て婦人
を丸い石に切りっけ、ふところにあったお金を取り去っていきました。
 婦人は殺されましたが、幸い刀の先が石に当った為、お腹を斬りとおさなか
ったので赤ちゃんは無事切り口から生まれ、婦人の魂は九い石にのり移り助け
を求めるため泣きました。
 山頂のお坊さんは泣き声に気づき山を西の方に下り訪ねてみると道の真ん中
の丸い石のかたわらで婦人は殺され赤ちゃんは虫の息で居りました。この有様
ではお寺まで赤ちゃんの泣き声が聞こえるはずが無い。泣いたのはこの丸い石
に違いない。先ず婦人を始末して赤ちゃんをお寺に連れて帰りました。お乳が
無いので早速水飴を作り育てました。
 幸い子供は肥立ち良く成長し、音八と名付けられました。日頃、住職さんよ
り生い立ちの事を聞いて居りましたので、大人になったら母親の御魂を休めた
いと思って暮らして居りましたところ、お観音様のお告げであるか、刃物の研
師に成る様にと夢を見ましたので、十五歳になった音八は西の方に旅立ち大和
の国、思知村へ行き、研屋源五郎宅に身を寄せました。幾多の苦労を重ね一人
前の研師に成った時、一人の侍が来て一振りの刀を研いで下さいと音八の前に
差し出しました。見ると、刀の先に大きな刃こぼれがありましたので「大変名
剣ですが・」と尋ねてみると、侍は思わず知らず我若き頃、遠州の山の中で
石に当てた時の刃こぼれある事を語りました。
 長い年月、胸にあった思いを語り合い亡き母の御魂を休めたという事です。
 旧東海道はあまりにも険しい峠道でしたので明治十三年、日坂から金谷の間、
約五キロの日本で始めての有料道路(中山新道)が開通しました。
 そして旧道にあった夜泣石も現在の場所に移りました。
追記おわり

夜泣き石跡

広重の日坂。激しくデフォルメしてます。

で実際の風景。赤丸が夜泣き石があったところ

馬喰橋一里塚
とまた30分も茶畑の中を歩いていると夜泣き石跡。明治天皇がお通りの際に邪魔になるからとどけたらしい。ここは広重の東海道五十三次の日坂で描かれているが、実際はそんなにたいした傾斜ではないが、その前後がとんでもない急坂だし、こう書きたくなるのもわからんでもない。
で日坂宿方面もとんでもない下り坂で膝がイヒヒと笑うので膝に体重を掛けぬよう飛ぶように掛け下る。こっちの方が足には負担が掛からないようであっという間に日坂宿。ここも昔の屋号を掲げてます。で軽トラの豆腐屋と競争するがごとく掛川目指して歩く。で昔のR1に出たところで・・猿に注意の看板が・・猿は猛獣だしなぁ。まぁ目だけは合わさんでおこうと考えながらまた歩く。掛川バイパスをくぐりしばらく大型車がバンバン通るR1沿い進み、掛川駅方面へそれて馬喰橋一里塚。どこにでもベタベタ座るパンクじゃなくて正統派ロッカーな俺様には嬉しいベンチ装備。
ここまで5時間10分。ここで考える。ここから東名高速の掛川バス停まで30分も掛からないだろうが30分バス停でぼけーとするのもアレだし、袋井よりの岡津まで行けばちょうどのタイミングじゃ無いだろうかと地図を見れば5kmという見当なんで先へ進むことにする。で駿府城で家康さんにしてやられたおいらはまたもや山内和豊発案?の七曲がりと呼ばれる宿場入り口を曲がり角だらけにする策略に見事にはまりまた道に迷う。まぁなんとか東海道に復帰し時計を見ると残り30分。・・・・残る距離は3km・・・気合いを入れて歩くがどうにも間に合いそうにない。であきらめてコンビニでビール1リットルほど仕入れて東名高速沿いに辿り着くもバス停入り口を探すが見あたらない。この階段かと思っていくとR1越える歩道橋だったり、紆余曲折の末結局15分遅れで岡津バス停着。

番外

なんだ20分待てば静岡行きが来るじゃん。とよく見ると※印。週末限定かよ!というわけで1時間20分待ち確定!どうやら前回ツバメ君こない事件は※印見落としたせいか・・・・。などあきらめモードで誰もいないバス停で一人ビールで酒盛りしつつ30分後にバスが来た。なんだ教習車かよ。まぁJRバス東海さんもいろいろ大変みたいだし。で結局最終の東京行きに乗り込みさらにビールで酒盛りの俺様だったが、密閉された車内でスルメはご迷惑だったかなぁ。

10日目 府中−丸子−岡部−藤枝に戻る12日目 掛川宿−袋井宿−見付宿−浜松宿へ進む
秋葉街道 掛川〜森へ進路変更する。(東海道に戻れません)
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