中山道 美江寺〜加納

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年10月29日美江寺〜加納曇り4時間32分26311歩18.42km12521円

樽見鉄道

打ち捨てられた柿
まえがき
今回は2日で御嵩まで歩いて美濃路をやっつけたいので普段ならのんびり下道で行って来るのだが今回は昼には歩いていたおこうと本気モードに入っており、途中から東名に乗っかったが、途中で腹が減ったので小笠PAで朝っぱらからモツ煮定食をオーダーするほど気合いが入っていた。 でおばちゃん曰く、ご飯てんこ盛りのどんぶりを俺様に示し、「ご飯これで足りる?足りなかったらお代わりしても良いからね」というサービスぶりだが、そんな食えるわけないので「いやもう十分でございます。」であった。
しかしなぜに静岡で上州名物モツ煮なのかわからんが・・・・まぁ安くて量も多く味も申し分ないので良しとしよう。
ご飯増量は遠慮したのに、激しい睡魔に襲われたので新城PAで一寝入りしてから東海北陸自動車道を岐阜各務ヶ原ICで降りてJR西岐阜駅近所の駐車場に入れた。お値段24時間停め放題で600円と県庁所在地の一駅隣とは言え随分安い。
そこから満員の東海道線に詰め込まれ、大垣駅ではホーム上の事務所で手書きの切符を買って今度は一転してがらがらの樽見鉄道に乗りこんだ。
日頃の行いが良いようで1時間に一本しかない列車へ待ち時間わずか10分足らずで大垣駅をレールバスは唸りを上げつつのんびりと発車した。すると美江寺手前のアナウンスの際に「富有柿発祥の地でございます。」。そーいや車窓には水田に混じって柿畑もあるなぁなどと思いつつ美江寺に到着。
わんわんと激しく犬に吠えられながら水田脇を歩いていると、柿が水田に投げ捨ててあった。さすが富有柿発祥の地、余ったから肥料にするべぇ って事なのだろうか。

柿畑

高札場跡

いこまい河渡まつり

なまず?

河渡宿と書かれた木製の標柱

河渡宿の町並み

河渡一里塚跡

長良川

長良川2

はんぐ屋

加納宿西番所跡

金津園のお風呂街

脇本陣跡(その1)

脇本陣跡(その2)

和宮さんの歌碑

当今本陣跡

金華山

細畑一里塚

細畑一里塚(反対側)

マンホール

おみせやさん

新加納一里塚跡

美江寺〜加納

12時48分前回のゴール地点の美江寺駅前からスタート。車内アナウンスにも有ったが富有柿の発祥の地だけに柿畑が有るが富有柿だか次郎柿だかはわからない。柿に限らず、腹の足しにもならない分際で皮剥いたり種取り出したりと面倒な果物全般があまり好きではないのである。
つか、目一杯まで飯を平らげると、食後のデザートなんぞ入る余地なんか無いし。
この先も所々でビニール袋に4〜5個入った柿が庭先などの無人販売で100円にて売られていたが車で立ち寄った先ならともかく、ご苦労なことに歩いての旅なので素通りさせて頂いた。
そんなわけで食い物の事を考えていたら、朝からモツ煮定食(ごはん大盛り)をやっつけたとは言え腹が減った。だが悲しいことにしばらくは住宅街しか無さそうなので長良川を越えて岐阜市内に入るまではごはんおあずけを覚悟せねばなるまい。
あちこちの水田で白鷺をやたら見かけるのだが、白って保護色になるんか?。
どうみてもこの時期の水田では目立つようにしか思えないのだが・・・やはり食っても美味くないに違いない
とまた食い物のことを考えていると、左手の水路から「バサッバサッ」と激しい音がする。で見ると
「うっ」
「鵜」
である。さすが岐阜県、長良川で鵜飼いにコキ使われる毎日に嫌気をさして逃亡したものだろうか。
さて美江寺駅前を出発してから15分ほどで、何やら案内板が有った。さすがに河渡宿には早すぎると思いつつ、近寄ってみると高札場の案内板である。

高札場跡
きりしたん制札など
幕府や領主が行政的
に周知の必要な事項
を木製の高札に書い
て掲げ住民に知らせる
場所であった。江戸時
代の中山道分間延絵
図によると、このあたり
に高札場があった。
ここが中山道であるという確信を持っているときは「格別大層なことは書かれてねぇや。」
などと思うのだが、これがさんざん道に迷ってこの道で合っているのかと不安この上無い状態でかつての旧街道で有ることを示すものがあるととってもありがたく思えるのだから、誠に勝手なものである。ですぐそばには本田(ほんでん)代官所跡の案内板ががあった。
まぁ代官所の脇に高札場があるならまぁもっともだというわけで、まだまだ先の河渡宿目指して歩くのだった。

本田代官所跡(ほんでんだいかんしょあと)

江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地

の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、

古文書等から推測すると、寛文十〇年(一六七〇)、

野田三郎左衛門が初代代官に任じられ、この

地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後

に川崎平衛門定孝(十一年間在任)という名代

官を迎えるなど、この地の人々に大きくかか

わった。明和七年(一七七〇)大垣藩に預けら

れるまで続いた。今も「代官跡」「御座敷跡」

 
「牢屋敷跡」という地所が残っている。

瑞穂市教育委員会

まだ歩き始めて1時間も経っていないので、まだまだあちこちキョロキョロする余分な体力が有り余っているので、信号機をぱちりと撮影。 漢字では交差点名が「生津」であるがローマ字では「NAMAZU」である。本当なら「NAMADU」が正解であるような気がするが、きっと作成者は和製データベースエンジンとして名高い「NAMAZU」のシンパであろう。(わけがない)
でも沼津のローマ字はNUMAZUだっけかNUMADUだっけかと考えつつ10分ほど歩くと河渡宿と記された木製の標柱があった。
特に見付跡とか本陣跡とか宿場であったことを示すものはなくす〜っと通り過ぎて長良川の土手に近づいた頃、一里塚跡と彫られた石柱があり、傍らの石版には以下の通り記されていた。
   中山道河渡宿
 江戸時代、江戸と京都を結ぶ重
要な街道として中山道が整備され
六十九の宿場が、設けられた。河渡
宿は江戸から百六里二十七町、五
十五番目の宿場であった。
 加納宿へ一里半、、美江寺宿ヘは
一里六町を隔て、長良川の渡しを
東に臨み、大名行列や旅人が往来
宿泊して大いに繁栄した。
 ここはかつて一里塚のあった場
所である。塚は道の両側に夫々あ
リ榎が植えられて、塚の大きさは
五間四方であった。
 平成五年五月
  中山道河渡宿文化保存会、記

で一里塚を過ぎて、長良川の土手を進み河渡橋を目指す。岐阜市という大都市を流れる割にはとても水が綺麗なんで、おいらが鮎釣っているクソ田舎の川とはえらい違いだなと感心いると平日だからか釣り人の姿は見かけないが対岸では投網を打っているようである。
そーいえば午後から天気が崩れるという予報ではあるが日頃の行いが良いせいか?しばらくは大丈夫だなと考えながら河渡橋を越えて岐阜市に入った。
まぁ岐阜まで来れば飯屋ぐらいあるだろと探すが、あったと思えば喫茶店ばかり。
軽食程度では俺様の胃袋は満たされないので、あきらめずに探すとついに
「とんかつ、麺類」
と書かれた看板を発見。一応のれんも下がっているし営業中の札も掲げてあるからと「ガラッ」と勢いよく戸を開けると、俺様の視界に飛び込んできたものは・・・
主人は座敷に寝そべり、おばちゃんは新聞を広げている光景だった。
まぁ14時半過ぎというランチタイムの修羅場を過ぎ、ディナータイムまでのひとときの平和を俺様による突然の襲撃により乱してしまい、申し訳ないと思いつつも、朝からモツ煮定食をやっつけたにも関わらず
味噌かつ定食
を選び、当たり前のようにビールを頼むと大瓶しか無いと言われたので、胃袋に相談すると「ご飯少なめで頼んだら?」と答えが返り、念のため膀胱にも大丈夫かと相談すると、「これから岐阜市内だし公園とか行けばトイレ有るよ」というので味噌かつ定食+ビール大瓶をご飯少なめでお願いした。
早速やってきたビールをやっつけながら、テレビで新潟の地震の報道をやっているのを眺め、人様が大変な事になっている時にブラブラ散歩してしかも昼間っからビールなんかやっつけて誠に申し訳ない次第である。
でお待ちかねの味噌かつ定食がやってきました。春に大津でやっつけた味噌かつに付いていたみそ汁はダシの味>味噌の味であったが今度のはさすがに中京圏突入だけに、当然ながら
イソフラボンてんこ盛りの赤出しである。
まぁこの程度ではビビらない程度に中京圏の食生活にはなじんでいる俺様なので問題はないが、付け合わせのサラダにまでしみこんでいるペースト状で練りからしに加えて水にさらすのがちょっと足りないのか噛みしめる毎に目に来るオニオンスライスの波状攻撃に俺様の涙腺は緩みっぱなしになってしまった。
たまたまテレビでは96時間ぶりに奇跡的に車の中から救出された男の子についての報道をやっていたがあくまで、そっちで目頭が熱くなったわけではない。
で豪華ランチをやっつけてパンパンに膨張した腹をさすりながら再出発した俺様の視界に
はんぐ屋
と看板を掲げた店が現れた。どうやら韓国食材の店らしい。うーん。激辛マニアな俺様はチェンジャとか買っちゃおうかなと思ったが、歩き旅だから生ものは無理と判断しスゴスゴと通り過ぎた。
なお店の名はハングルから名付けたと思うがコンピュータ屋が見るとえらくテンション下がりそうな名前である。
で早速先ほど俺様により午後の安らぎを奪われた飯屋の祟り・・・というかビール大瓶やっつけてしまったため尿意が襲いかかるが、さすが岐阜市である。東海道線の高架をくぐった先に公園がありトイレ完備だったので事なきを得る。
すっきりとした俺様は程なく西番所跡と記された石碑を見つけた。というわけで15時20分、美江寺を出てから歩くこと2時間半あまりでどうやら加納宿に入ったようだ。
で先ほど用を足してからまだ15分ほどしか経っていないが激しい尿意に襲われる。やはり人の平和を乱した・・・じゃなくてこーゆー時はビールは中ジョッキまでにしとかないとなと思う俺様は公園の公衆便所を見つけまたまた事なきを得るのだった。
ですっきりした俺様は一種異様な雰囲気に気が付いた。この空気は東海道を歩いたときに多摩川を渡って川崎に入った時に感じて以来である。
あたりを見ると前方にみえるのは有名なお風呂屋さん街だった。
そんなわけでスッキリしたしと歩き始めて5分ほどで駐車場の脇にある脇本陣跡の石碑を見つけた。
続けて今度は立派な門のある家の前にある脇本陣の石碑を見つけ、さらに皇女 和宮の歌碑と案内板が設置されていた。
皇女 和宮の歌碑
 仁孝天皇の皇女 和宮親子内親王は
将軍徳川家茂との結婚のため、文久元
年(一八六一)十月二十日京都桂御所
を御出発、中山道を通行して江戸に向
かわれた。
 同年十月二十六日当地加納宿本陣の
 松波藤右衛門宅 (現在地)に宿泊され
た。その時、自分の心情を詠まれたと
いう歌が伝えられている。
遠ざかる 都としれば旅衣
一夜の宿も立うかりけり
この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛
院宮御詠草」に収められており和宮の
直筆である。
 本年は中山道宿駅制度が設置されて
四百年記念に当り、幕末の日本の国難
を救ったと言われる公武合体のため、
結婚された和宮の遺徳を偲んで、本歌
碑を建立する。
平成十四年六月吉日
    中山道加納宿文化保存会
       原石 根尾産 国島孝男寄贈
          鈴木石材店刻
そんなわけでどうやらこのあたりが宿場の中心地だったらしいが、今は静かな住宅街である。
でどこが宿境だったのかわからないが橋のたもとにベンチが有ったのでしばし休憩。時刻は16時まであと10分というところで、この時期だと17時半を過ぎるとかなり暗くなってしまうが、せっかくなんで明るいうちにゴールしておきたいなと思いながら地図を広げると新那加あたりで切り上げるのがちょうど良さそうである。
地図を片づけて立ち上がった先には、多分近くで見るのはこれで最後と思われる金華山があった。しかしまたあんな山の上に城建てたんじゃ住んでいる殿様は良いが麓から通勤するお侍さんはさぞかし大変たったに違いない。今みたいにロープウェイやリフトもないし荒天時には遭難だってしかねない。
で再び歩き始めて程なく踏切の遮断機が俺様の行く手を阻むかのごとく降りてきた。
左手には「茶所」という名鉄の駅がある。よくふりがなを見ると「ちゃどころ」ではなく「ちゃじょ」と書かれていた。なんでこんな所が「茶どころ」なんだろうとちょっとだけ考えてしまった。
で俺様の行く手を阻もうとした名鉄に較べて、ちょっと先にあるJRはすでに高架なのでなかなか優秀である。
しばらく歩くと一里塚があり、しかも2基ちゃんと残っていた。例によって説明の記された看板を撮ったが見事にブレてしまい、内容を確認できる状態ではなかった。よほど興味深い事象について記されていない限り20文字以上の看板は見ないズボラな性格だからなぁ。
加納宿はすっかり宿場の雰囲気が消え失せているがちょっと離れるとこういったものが残っているだけに侮ることが出来ないぜ。岐阜市
侮ることが出来ないといえば、足下を見ると当たり前だがマンホールがあり、これがまた、ただのマンホールではなく2匹の鵜と鮎がモチーフされており、誰もが岐阜を連想させること間違い無しのデザインである。
目線を上に持って行くと おみせやさん
なる看板があり、誰もがここがお店屋さんで有ることを・・以下略。
あまりにネーミングにインパクト有りすぎて何を商う店なのか確認するのを忘れてしまった「おみせやさん」より歩くこと10分ほどでここいらの地名である「切通」について説明が記された看板が立っていた。
     切通の由来
 切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸
南方一帯の滞溜水を境川に落していたことに
よると言う。
 文治年間(一一八五)渋谷金王丸が長森庄の
地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延
元二年(一三三七)美濃国守護二代土岐頼遠が
土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修
し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。
江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以
後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(
一ハ○二)磐城平藩の所領となるに及びこの
地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた
 切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初
期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄
慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・
菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑
いを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大
きく寄与した。
この看板よりちょっと歩いたところに、看板にも記された手力雄神社の参道があった。中山道は鳥居をくぐらずに左に直角に曲がるのだが、近くならいってみるかとちょっと寄り道してみた。
なんせ
手力=ハンドパワー
なわけで
きっと想像を絶するような御利益が・・・・
と思いつつ歩くこと3分、残念ながらお社はおろか鳥居すら見えないので撤収。
で東海北陸自動車道をくぐり各務原市に入る。ちなみにかなり読み方に無理があるが「かがみはら」と読む。 ほどなく道なり真っすぐな新しめな道と、直角に右に曲がる道との分岐が有ったが、迷うことなく右に曲がり、で次は左に曲がり、先ほどの真っ直ぐの道との交差点に新加納一里塚跡と下記のような案内板が設置されていた。
       各務原市那加新加納町
 慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は。全
国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行なった.
 中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全
長百三十四里{約五三六㎞)の間に六十七の宿場が設けられた。
各務原市内には鵜沼宿が置がれていたが、鵜沼宿と加納宿
の間は四里十町(約一七㎞)と距離が長いため立場(たてぱ)
(建場茶屋)と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。
 皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規
の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿の、ち
ょうど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の
城下町的な意義を持つことなどからも、
中山道の「間の宿」として栄えていたのである。
      平成元年度
        各務原市


時刻は17時を回りそろそろ暗くなった頃、国道21号の旧道に入り、そろそろ新那加の駅前あたりを歩いているはずだ、特に標識は無いけどがタクシーの出入りが何台か有るこの道が怪しいと思うのだが暗くて駅舎は見えなかった。
まぁ間違っていたら明日のスタート地点を今立っているこの場所にすれば良いだけの話である。
で駅とおぼしき方角を目指すと、程なく駅に通じる地下道の入り口が開いていた。電車で今日の宿のある名古屋に戻るのであれば、名鉄でも高山本線でも良いのだが、西岐阜に車を置いてきたので、名鉄では新岐阜からJR岐阜駅の乗り換えが面倒くさい。
そんなわけで名鉄の改札前を素通りし、JR連絡通路の看板に従い階段を上って地上にでると、草むらの中を突っ切る獣道のような道が連絡通路らしい。で高山本線の那加駅は券売機もない無人駅なのでそのままホームに行き待つこと10分あまりで唸りを上げながらディーゼルカーが俺様を迎えに来た。で車掌さんから西岐阜までの切符を求め今日一日歩いたところを電車で戻り、西岐阜からR21,R22と本日の宿泊地である名古屋に戻るのであった。そーいや岐南バイパスの上で名古屋高速の延長工事をやっており、羨ましい限りである。こっちなんざ話は有っても着工まで恐ろしく時間掛かるし、いざ工事が始まっても延々終わらないし・・・

中山道 関ヶ原〜美江寺に戻る加納〜太田へ進む
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