中山道 新那加駅〜日本ライン今渡駅

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年10月30日加納〜太田曇りのち雨5時間56分30668歩21.47km13741円
まえがき
ホテルで天気予報を見ていたら昨日は何とか雨に降られずに済んだが今日は確実に降るらしい。まぁ3日間雨降りっぱなしの伊勢街道に較べれば大したこと無いのだがやはり憂鬱である。
で例によってスケジュールが「名古屋泊まって前回まで歩いたところから歩けるところまで歩く」と非常に大雑把なので、前日のゴール地点までどうやって辿り着くかなんかは出発当日の朝にホテルでコーヒー飲みながら決めているのである。
昨日のゴール地点は名鉄各務原線の新那加か高山本線の那加だが、昨日高山本線乗ったし、若干名鉄の方が近いのでこっちで行こう・・
うーん。新岐阜回っていくのが良いのか犬山経由の方が良いのか。これは来た電車で決めるほか無さそうである。どっちもそんな変わるわけではないし。と犬山行きの急行に乗り込む

新那加駅前

各務原市民公園

名鉄各務原線の跨線橋

各務山その2

各務山その3

犬山遊園

鵜沼宿

鵜沼宿の街並み

芭蕉句碑

芭蕉句碑 その2

これよりうとう峠

うとう峠途中の坂その1

うとう峠途中の坂その2

うとう峠途中の池

うとう峠の石畳その1

うとう峠一里塚

うとう峠の石畳その2

うとう峠の坂

うとう峠入り口(坂祝側)

国道21号と高山本線をくぐるトンネル

鳥と岩in木曽川(Zoom)

鳥と岩in木曽川(標準)

木曽川

日本ライン

木曽川の岩

坂祝駅

坂祝の街並み

坂祝町酒倉

加納〜

9時26分昨日のゴール地点の新那加駅前からスタート。今のところ雨は降っておらず本日のメインイベントである「うとう峠」越えるまではこのまま降らずにいて欲しいところである。
10分ほど歩くと「各務原市民公園」という古木が生い茂るだだっ広い公園に差し掛かった。ここは元岐阜大学の敷地だったようで移転後は古い木を残したまま公園としたらしい。今日は鵜沼宿まで殆ど国道21号やら国道だった所を歩くのでこういった緑はうれしいのだが歩き始めてからまだ10分では休むわけにもいかない。
それでもキンモクセイの大木の下を通りかかったときに花は散っていたがほのかに香りが残っており良い感じである。
そんなわけでアロマリフレッシュにより蘇った俺様は(まだ10分位しか歩いていないが・・・)程なく、各務原市役所前に差し掛かった。間違い無く雨が降る様な陽気だというのに駐車場にはなにやら観光バスが停まっておりどこかへお出かけの様である。とってもご苦労様と思いつつ、そんな中を歩く俺様はもっともっとご苦労である。
市役所を過ぎると右手には自衛隊の各務原飛行場があるのだが、土曜日だからかなにも飛んでおらず、ただでさえ旧街道の面影とはほど遠い所を歩いているのでひたすら歩く一方、これでは後でほーもぺーじ載せる文章考えるの大変だよなぁと考えながら歩いていると、名鉄各務原線の六軒という駅の前に差し掛かった。
そーいや醒ヶ井宿にも六軒という地名があったような・・・あそこは茶屋が六軒あったので六軒だがここもやはり茶屋かなんか有ったんだろうか。
でも来るときに各務原線には「二十軒」という駅も有ったよなぁと考えていると傘を差すほどではないがポツリポツリ雨が降ってきた。
中山道は国道21号に合流し、その先で名鉄各務原線を跨線橋で越えるのだが歩道がなかった。
まっすぐ行けば「なんかあるべ。」と跨線橋を進まずにまっすぐ行くと川崎重工の門があり、その脇に歩行者用の跨線橋が設置されていたが、跨線橋の手前に「歩行者、自転車はこっち」とか看板くらい出しておいても良いと思う。
というわけで無事に?名鉄各務原線の跨線橋の頂上を10時12分に征した俺様の視界に広がったのは荒涼とした赤茶けた禿げ山だった。
地図で確認すると各務山というらしい。美濃赤坂の様に石灰岩を採掘しているのか砂利を掘り出しているのか知らんが人の手で切り崩した様である。
せっかく登った跨線橋を下り、三柿野という駅を過ぎ再び国道21号を歩くのだが、駅名は三柿野なのに信号の地名は川崎町でどうやら川崎重工に由来するらしい。
一企業の分際で由緒ある地名を変えるとはと憤慨しつつさらに進むと三ツ池町となっており、なんか神奈川に戻って来たような気がした。
一方道路状況は、所々歩道橋がない箇所が有ったりするのでなかなか危険である。車道は片側2車線なのに・・・・
これまでは名鉄が左側に平行して走っていたが、代わって高山本線の線路に沿って進んでいく。すると踏切の警報が鳴り響いた。
ちょうど各務山をバックに一発写真を撮るかと構えて列車が来るのを待っていたのたが、どうにもデジカメのシャッターは押してから一呼吸の間があるためタイミングがとっても難しい。
列車の先頭を収めるつもりが結局2両目と3両目の間あたりになってしまった。
やがてえらい質素な高山本線の各務原駅を過ぎ、今度は高山本線を跨線橋で越えた時に振り返ると各務山がずいぶんと後方に有った。
やはりデジカメは時計内蔵していると便利だなぁ。このときの時間は10時52分だそうです。
再び国道21号を左に逸れてしばらく行くと公園があったので木の下のベンチで休憩する。羽場公園というらしい。実はトイレを拝借したかったのだがおばちゃんがせっせと掃除しているので、雨宿りしているフリしてタバコなんか吸って、掃除が終わるのを待っていたのだが一向に終わる気配がない。
仮にもおばちゃんとは言え、女性の前で用が足せるほど図太い神経を持ち合わせて居ない俺様は、加えていたタバコを携帯灰皿にグリグリと押し込みつつ、もうしばらくで鵜沼宿だしトイレぐらい有るだろうと渋々羽場公園を後にした。
まぁトイレもそうだがさっきからぼちぼち腹減ってきたのでこっちも鵜沼宿に期待しよう。これまで国道21号沿いに飯屋は有ることにはあったが、開店が早い店でも11時だったので素通りし、まぁガストとか牛丼屋などチェーン店は有ったが折角見知らぬ地に来て普通のもの食って帰るのも癪だしなぁ。なにせよほどのアクシデントが無い限りネタにならない。
で腹ぺこを抱えながら何やら気が付くと、知らず知らずのうちに坂道を登ったらしく、ずいぶん下の方に国道21号が見え、遙か彼方に犬山遊園の観覧車が霞んで見える。
下まで行けば飯にありつけそうだし、鵜沼宿まで行けばなんかしら有るだろう。
と歩くこと5分あまり、11時25分鵜沼宿に入った。・・・・
なんにもねぇ!!
飯屋もトイレも写真の通り無さそうである。その代わり芭蕉句碑があり「更科」という文字だけは読み取れたが、すでに俺様には更科で思いつくものといえば「蕎麦」しか思いつくことが出来ないほど腹が減っているので、説明は後で確認しようと解説された案内板を写真に収めて通り過ぎた。
鵜沼宿と芭蕉


一、貞享二年(一六八五−陰暦)三月、「野ざらし紀行」の芭蕉は、
  大垣を経て鵜沼に来り二十四・五日ごろ脇本陣坂井邸に一泊し、大
  針に吟行した。そして木曾川を船で下り、桑名を経て熱田に留杖し、
  四月末江戸に帰庵した。

一、貞享五年(一六八八)岐阜で鵜飼見学をした芭蕉は、七月五日ご
  ろ再ぴ鵜沼に来り坂井邸にて「汲溜の水泡だつや蝉の声」を吟じ名
  古屋を経て鳴海に至り、名古屋に戻って滞留した。

一、 同年八月八日ごろ名古屋から越人等と鵜沼に来り三度び坂井邸に
  宿る。主の所望にて楠の化石に「ふぐ汁も喰へぱ喰せよ菊の酒」と
  即典の吟を書き翌九日は一か月早い菊花酒の饗応をうけ十日は句碑
  を彫りあげた°

一、 翌十一日鵜沼を発ち木曾路を更科紀行に旅立ったが、美濃を離れ
  るとき「送られつ送りつ果ては木曽の秋」と吟じ美濃の俳人達との
  別れをおしんでいる。そして十五日は銕捨山の月見をなし善光寺に
  詣で八月末江戸に帰庵した。

一、明治維新となり宿駅が廃止され明治十五年頃(一八八二)坂井邸
  の句碑は犬山高桑某の庭に移されたが同三十七年(一九〇四)薬師
  寺へ奉納された。

一、 昭和四十年(一九六五)五月脇本陣坂井邸跡(現武藤邸)にこれ
  等の三碑を建て俳聖芭蕉塚を建立した。

                      昭和四十年五月二十三日紀
                            芭蕉翁顕彰会

                      平成三年四月建
                           各務原市
どうやら芭蕉さんも鵜沼宿に何度か立ち寄った様だが普通、旅籠クラスで現在の高級旅館並だというのにさらにランクアップして脇本陣に泊まるとはなかなか社会的地位のある人だったらしい。
頻繁に旅立って超人的な移動をこなし、その上泊まるところは本陣と来れば芭蕉=幕府の隠密説も納得ができる。

中山道鵜沼宿
 鵜沼は古代から、交通・経済の要衝として栄えた土地
で県下屈指の古墳や歴史を秘めた城跡・神社仏閣が残っ
ています
 特に交通関係では、古代・中世の東山道各務駅や宇留
間市の立った所、近世では中山道「鵜沼宿」として宿駅
制度の拠点であり、人と物の集散地であったようです。
 碑の建つ現在地は「鵜沼宿」の中心であり、脇本陣坂
并家の跡地で本陣の桜井家に隣接しています。
 宿場として、西町と東町が正式に中山道鵠沼宿として
決定されたのが、慶安四年(一六五一年)で中山道六九
次中江戸から五三番目の宿場で豹一〇〇里三〇町(三九
六㎞)です。太田宿から木曽谷最後の山路「うとう峠」
の難所を越えてニ里九町(豹九㎞)、加納宿まで広大な
 「各務野」を越えヽ会の宿(立場)の新加納を経て四里
七町(豹十七㎞)です。
 旅篭の数は年代によって増減はありますが、天保一江
一四
年には大八軒・中七軒・小十軒で人口二四六人、家数六
八軒であったようです。本陣は桜井家、脇本陣は野□家
                  と坂井家で交替
(中山道分間延絵図〉
で勤め問屋も兼
ねていたようで
す。
 鵜沼宿の面影
は明治二四年の
濃尾大地震によ
り壊滅的な打撃
を受けたのは残
念な事です。わ
ずかに残る遺跡
をたどって歴史
を探訪してみる
のもおもしろい
と思います。

平成三年四月各務原市

折角鵜沼宿について案内の看板が有るのにそんなものには目もくれず、飯屋はどこよ等と考えながら、緩やかな坂を下りぼちぼち国道21号に再び合流するちょっと手前で俺様の視界に突如絶望的な石碑が飛び込んできた。
「ここは鵜沼宿、これよりうとう峠」
ってことは峠の茶屋なんぞあった江戸時代ならいざ知らず、ベンチなんぞ有ればまぁまぁという現在では峠越えるまで飯屋はあり得ないわけである。 まぁ最悪の事態を想定して非常食のカロリーメイトが有るのでそいつで何とかがんばろうとうとう峠向かう坂道を登っていったのはいいが、どう見ても普通の住宅街である。景色を見渡すと結構高いところにいるし、これで間違いだったらしんどいなぁと登っていくと、池に差し掛かり、地図と見比べたところどうやらこの道で合っていそうである。
一段と雨がひどくなってきたが歩道を覆うように生えた木々のおかげでうまいこと雨を避けながら坂を登っていくと「日本ラインうぬまの森」の看板が建っていた。
ようこそ
日本ラインうぬまの森へ
 自然豊かな日本ラインうぬ
まの森は、旧中山道が杉木立
とともに延び、一里塚など貴
重な文化財や、モミジ・ハギ
ツツジなど四季折々の森林が
楽しめ、野鳥も数多く生息
しております。
 また、標高233メートルの
頂上は、信州木曽を源とし、
伊勢湾まで延々と流れる母な
る木曽川を眼下にし、また、
豊かな濃尾平野が一望できる
展望台があります。
        各務原市

「うぬまの森」の中の中山道は石畳となっており、こんな雨降りの時には足を滑らさないよう細心の注意を払わないと洒落にならない事態が待ちかまえているので、慎重に歩いていくとうとう峠の一里塚跡があった。塚が有ったと思われる場所には「うとう峠一里塚」と書かれた木の杭があり、傍らには説明を記してある看板があった。
うとう坂郷一里塚と中山道
       
 江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)・「中山道分間延絵
図」(寛政12年7月〜文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里
塚より.東の坂を「乙坂」「長坂」とか「うとう坂」と呼んでいました。
「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。
 うとう坂にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた
目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕籠の乗り賃支払いのめ
すとなリ、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両
側に直径9mほどの塚をつくり.榎か松がうえられました,ここでは片
側だけが残り幅10 m 、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられました。
 江戸時代に、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏
御用部屋記録」を里ると.天保3年の文書に、この坂を通って10日ほど
かけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の
距離は、9里(36㎞)から10里 (40 ㎞)が多く、関東平野に入ると14里
(56 ㎞)という場合もあります。1日の距離数から当時の交通事情
が推測できます。              
え?残ってた?どうやらすっかり自然と一体化してわからないようになっているのかもしれない。
市指定史跡
 旧中山道うとう峠一里塚
(各務原市緑苑東ニ-一六)
 慶長五年(一六〇〇年)、関ケ原の戟いに勝利をおさめた徳川家康は、慶長六年に東海道
各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の整備に着手しました。美濃を通る中山道では、慶長九
年(一六〇四年)に大鍬宿、同十一〜十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(一
六三四年)には加納宿、元禄七年(一六九四年)には伏見宿が新設されて美濃中山道十六宿
体制が完成しました。また、この間の寛永年間(一六二四〜一六四四年)には大名の参勤交
代制が敷かれ、各宿駅に問屋・本陣・助郷制が整備されています。
 各務原地域を通る中山道は、慶安四年(一六五一年)にそれまでの木曽川を越えて犬山善
師野から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ「うとう峠」を越えて太田宿へ
至る道に付け替えられました。うとう峠の(うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)
で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い などの意味があると考えらねます このうとう
峠と鵜沼宿との間は、十六町(約一・八キロメートル)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の
神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。
 うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ
「北塚』・「南塚」が残っています。北塚は直径約十メートル・高さが約ニメートルで良く
原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分
が壊されてしまいました。
 かつて各務原地域には、ここ以外に各務山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありま
したが現在ではすべて消滅しています。一里塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるととも
に、当時の人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残さ
れた財産と言えます。

 平成六年二月吉日

各務原市教育委員会

急な石畳の坂を下っていくと、東屋があったのでそこでカロリーメイトを昼飯としてやっつけ、激しさを増した雨に傘だけではこの先、ずぶ濡れになってしまいそうなのでリュックサックに雨カバーを装着し、合羽のズボンを着用しながらしばし休憩。
さらに下っていくと石畳は無くなり、落ち葉の積もったハイキングコースのような中山道を下っていくと、木立の向こうからトラックの走る音が聞こえてきた。
やがて視界が開けたところに「坂祝町」の名のある看板が建っていた。どうやら各務原市を抜けて坂祝町までやってきたようである。

 中山道は、太田宿から現在の国道21号線の
坂祝・各務原境までは木曽川に沿ってありました。
しかし、この先鵜沼までが大変急傾斜の危険な
場所であったため、ここから山合いに入りこみ、
うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。
なるほど。木曽川沿いを通るにはあまりに崖が険しくデンジャラスだったので山越えルートが開拓されたのか。
しかしまた、隣には無駄に大きな「姫街道」看板がある。
で大雨降ったら通れなくなりそうな高山本線と国道21号をくぐる水路兼通路を通ると、増水して激しい木曽川の流れが飛び込んで来た。
濁流の中にぽつんとそびえる岩のてっぺんに何かいる。鳥だというのはわかるが何という鳥かというところまでの区別は・・というか、俺様の鳥に関する知識が足りないせいも有るだろう。目一杯ズームしても鳥で有ることは間違いないとしてそれ以上の事はわからなかった
なにはともあれ、なんかすべてを超越した神々しい姿に思えてしまう。
さて、いつまでも見とれているわけにもいかんので我が身に降りかかる現実を見つめると、とっても急な階段を上がって喫茶店の駐車場までよじ登らないといけないようなのでゼェゼェハァハァといいながら登ってみると喫茶店があり、一応飯にありつくことが出来そうだが、喫茶店メニュー程度ではお腹と背中がくっつきそうな俺様の胃袋は満たされないので通過。続いて隣にあったラーメン屋も通過。
腹減って死にそうとかいっている割に我が身のわがままさにあきれながら、どうやらこの先木曽川沿いには歩道が無さそうなので歩道のある反対側に渡った。
雨には降られたけど、木々の中を流れる木曽川も水墨画のようでいいもんだなぁとマイナスイオンをたっぷり浴びつつ歩いていると、現在歩いている歩道と高山本線の間に石畳を模した歩道が雑草に覆われていた。やはりカロリーメイトだけでは全然足りないし、あふれんばかりのマイナスイオンも全く腹の足しにはならないし、雨もひどくなってきたし・・・。すると前方に焼き肉屋の看板が見えた。ただ名前がなぁ。聞き覚えのある知り合いの名前を冠した○○○屋かよ。
文句を言いつつも12時50分、○○○屋の引き戸をガラリと開けると・・・・。珍しく先客がいた。
ここんところ遅めの昼飯ばかりだったので、戸を開けると客が誰も居ないとか、店主が座敷に寝そべっていたりとかいう場面にばかり遭遇していたのである。
でメニューを見るとカルビやらロースに混じって「とんちゃん焼き」なるものがあったので生ビールとともに注文。
飛騨地方の名物?で「鶏ちゃん焼き」という鶏の肉やら臓物を独特な味噌だれに漬けて鉄板の上で焼いたものは知っているが、おそらくそいつの豚バージョンだろうと思いつつ運ばれてきた生ビールをもう半分ほどやっつけてしまった頃、そいつはやってきた。
予想通り、味噌ダレに漬けた豚の臓物を鉄板で焼いたものである。
うめぇ
飯がいくらあっても足りねえぜ
ただ下ごしらえが今ひとつなのか若干臭みは有ったが・・・・
と夢中になってやっつけていると、よそのテーブルでは「猿が柿を食い荒らす」とか「イノシシが・・」と野生動物と戦うお百姓さんの会話が聞こえてきた。
ハクビシンをよけ損ねて交通事故
狸がゴミ箱漁って困る
というような大都会に住んでいる俺様には信じがたい会話が繰り広げられていた。
デザートのリンゴをやっつけて再び御嵩へ向けて出発。
飯食っている間に少しは小やみになったかなぁと期待をしていたが、相も変わらずザーザー降りである。
しかしまた旧街道の面影が全くない国道21号の歩道を歩いて、トラックの水しぶきを食らうより木曽川の土手でも歩いた方がマシだろうと判断し、遊歩道となっている木曽川の土手に向かった。なにやらペンキで「日本ライン」と書いてある。
そーいやこのあたりの木曽川はドイツのライン川をパクって「日本ライン」と称している。残念ながらドイツに行ったことはないので蘊蓄もここまでで、「いや〜ライン川に較べるとねぇ」の様な蘊蓄を装った自慢が出来ないのが残念である。
その「日本ライン」に目をやると、ひたすらでっかい岩が有るばかりでバーベQとか出来そうな河原というか平らなところがまるで見あたらない。なんというか荒涼とした風景である。
ふと人が住んでいる方である俺様から見て国道21号を挟んで左側に目をやると、一本の路地の両側に家々が連なっており、もしかしてあっちが中山道?と坂祝の駅の方に向かってみる。
実は雨もひどいしここで切り上げる事も考えたがまだ13時半だし、しかもさっきとんちゃん焼きを流し込んだ黄金の液体は何?あんたそれで車乗って帰るつもりなの?という事もあり、マイナスイオン一杯の中を歩くことにした。
高山本線の脇を歩いていると、「A」「エー」とかアルファベットとその下に読み仮名がふってあった。まぁ通学時に毎日見てれば覚えるだろうという大人の浅ましい知恵の様である。いくら子供でも毎日同じものを見てれば興味も薄れるだろうに・・・
つか21世紀になって未だに戦争しているような頭の悪い民族の文字なんざ26文字しかないんだから50音覚えるよりかは簡単だろ!
さて、高山本線の線路沿いに進み、小学校やら役場を過ぎたらイカした地名に出くわした。「酒倉」とある。
それは良いけどなんだか道の様子が違う。地図を確認するとどうやらそのまま国道21号を進んでいれば良かったようである。
仕方なく工場の壁沿いに国道21号の方角に向かって歩いていくと、当然ながら歩くにはあまりに味気ない国道21号に突き当たったのだが、壁沿いに歩いた工場は「パジェロ」作っている工場だった。「パリ・ダカールラリーで幾度も好成績を上げ・・・」というより今や数多のリコール隠しが発覚したためマイナスイメージを未だにぬぐい切れない車作っている所である。など書かれて見るものみんなネタにしてしまう俺様の餌食になってしまった可哀想な車作っている所である。

美濃加茂

日本ライン下り

日本ライン下りその2

太田宿の街並み

太田宿本陣門

旧太田脇本陣林家住宅

御代桜酒造

太田橋

太田橋可児市側
なんだか余計な寄り道をしたようだが14時10分、太田宿のある美濃加茂市に入った。
いや、寄り道ではなく道を間違えたようで本来のルートは、木曽川の土手を歩いていないといけないらしいので、国道21号線を横断し土手に出た。例えこっちが間違いだとしても川沿いを延々歩いた方が車の心配もいらないし、気分も全然ちがう。しかしまたこの増水した木曽川をライン下りの船が下っていった。おそらく平水時よりえらく早く犬山に着くんじゃねーだろかと余計な心配をしてしまう。
しばらく土手を歩いていたが中濃大橋手前にて東屋が有ったので休憩した。東屋よりもぼちぼちトイレが有るとうれしいのだがと勝手なことを考えつつ、足を止めたついでにリュックサックの防水カバーの具合を確認したが調子よく水をはじいてくれており、浸水は無いようなので一安心である。伊勢街道を歩いたときには地図が雨で濡れてしまい、しかもインクジェットプリンタで印刷したものだからたまらない。伊勢神宮にたどり着く頃には地図はもはや判読不能となっていた経験から地図を確認すると濡れてはいなかったが、もうちょっと手前で土手を下って左手の方に進むのが正しいルートの様でなので、保育園の脇を抜け、中山道に復帰。
中濃大橋をくぐった後に、左直角コーナーを曲がり十字路を右に後はしばらく道なりとさっき地図見たときにここまで覚えた。まぁ俺様の脳味噌では3つ位のステップを記憶するのが目一杯だし、それ以上は三歩歩くときっと忘れてしまうに違いない。
そんなわけで、14時34分に太田宿に入った。すぐに太田宿本陣の門があったが門だけ残るのも不自然なのできっと復元だろうけど、石碑だけよりもいにしえへの想像力をかき立てられるのでなかなかいい。
と思った俺様の認識が甘かった。下の通り江戸時代後期に作られ、移築や修繕を経て門だけ残ったと看板に説明があった
美濃加茂市指定有形文化財旧太田宿本陣門
 旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代
になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の
面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。
 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861年)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍
徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道
中の家並なども新築・修繕されたといわれています。
 この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、
両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に
移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、
平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理を行いました。





中山道分間延絵図
 この「中山道分間延絵図」(正式に
は「五街道其外分間延絵並見取絵図」
の一部}は、江戸幕府により中山道な
ど五街道とその主要な脇街道の実態
を把握するために作成されたもので
す。幕府の記録によると、道中奉行
の直轄事業として寛政十二年(一八
00)から文化三年(一ハ○六)にか
けおよそ七年の歳月をかけて完成し
ました。彩色を施した精密な絵図で、
街道の実状を忠実に伝えています。
 「太田の渡し」は、中山道き
っての難所でした。水深が
深く流れが速いこと、また出
水が多かったためです。川
幅は平常時で八.五間(約一五
五メートル)ありました,
渡し場は、江戸時代の初め太田村の
祐泉寺付近にありましたが、流路が
変化したことなどから、江戸時代後
期には、この絵図にも示されている
ように、より上流の下古井村内(現
在の太田橋の下流約二00メートル
付近と推定)に設けられていました。
 東西の長さ六町十四間(約
六八〇メートル)の太田宿に
は、天保十四年(一八四三)
家数が百十八ありました(
本陣、脇本陣のほか問屋場、
旅籠屋などが軒を連ねてい
た様子がうかがえます。
 宿の西には「尾張殿地方役
人出張役所」(尾張藩代官所)
が描かれています。天
明二年(一七八二)に設置され(現在
の太田小学校付近)、加茂、恵那、土
岐の三郡を支配していました。坪内
逍遙は、この代官所の役人の子とし
て安政六年に生まれています。
二00三年三月美濃加茂市

先の本陣門よりしばらくに旧脇本陣林家住宅などあり、久々に宿場らしい雰囲気を堪能していたらごっつい木造の建物があり。なんだろなと見てみると「御代桜酒造」であった。
歩きじゃ無ければ、買っていくのだが荷物が㎏の単位で増えるのでやめておいた。
で旅籠だった小松屋さんを現在、お休み処(無料)として公開されているので寄ってみる。実はトイレを借りに来たのだが、雨宿りついでに見学させて頂くと、まずは中山道についての説明書きが記されていた。

              中山道
 中山道は、江戸時代に五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州
街道)のひとつとして聞かれました。信濃国を通るので、木曾街道・岐蘇路な
どとも呼ばれていました。江戸日本橋を起点に六十九の宿場が置かれており、
草津宿から先は東海道と合流して京都へと続き、往きかう旅人たちで賑わいま
した,京都までの距離およそ136里(約530km)の間に、いくつもの峠越え
や川を渡る難所がありました。
 この地には中山道の太田宿が置かれ、江戸から京都へ向かう場合、太田宿に
入る前には木曾川を渡らなくてはなりませんでした。木曾川の渡し場のことを
 「太田の渡し」といい、中山道の難所のひとつとして「木曾のかけはし、太田
の渡し、碓氷峠がなくばよいjとうたわれました。
 この街道では、参勤交代で往来した大名や皇女和宮をはじめとする多くの姫
君たち、天狗党の一行をこわごわ見ていた坪内雄蔵(後の坪内逍邁)、そして
名もなき大多数の旅びとたちのさまざまなドラマが展開されたのです。


太田の渡しを難所と記してあるが、これは後ほど写真入りで説明するが21世紀になってなお現役の難所である。               太田宿  大田宿は、江戸日本橋からおよそ九十九里(約385㎞)の位置にあり、伏 見宿との間には木曽川が流れてており、交通の要衝として栄えました。町並は東 から上町・中町・下町と大きく分れ、一九世紀中頃の規模は東西に六町一四間  (約673mあり(宿内戸数か118戸の規模でした。この宿場に本陣と脇本 陣が中町にそれぞれ一軒あり、旅籠屋などがありました、  本陣や脇本陣以外の旅宿を旅籠屋といい、主に一般庶民や私用の武士たちが 宿泊しました,、記録によると太田宿には旅籠屋が20軒あったとされ、旧小松 屋(吉田家)もその内の一軒でした.  この宿場町には、今も残る江戸時代の面影を残すとともに、次の時代に向け てその姿を連綿と受け継いでいます。 で何が展示されているのかと見ると、槍ヶ岳に初登頂した播隆上人の肖像画と年譜がある。
生まれは越中河内村で生まれ、槍ヶ岳初登頂の後、誰でも登れるようにと鉄の鎖を掛けた後、 ここ美濃太田の脇本陣で息を引き取り、祐泉寺で盛大に弔われた。 播隆上人については、新田次郎著「槍ヶ岳開山」という小説にもなっている。 で隣には、「芸術はバクハツだ!」の名言で知られる岡本太郎の父ちゃんである岡本一平の写真と年譜が飾られていた。
どうやらお休み処ありつつ、美濃太田ゆかりの人に関する展示を行っているようだ。まぁ合羽着ていなければ畳の上でくつろいでしまいたいが、脱ぐのも面倒だったので早々に一旦表に出て用を足して、再出発。
程なく宿場を抜けた頃、車に乗った親子連れの父ちゃんに呼び止められ「このあたりにスポーツ用品店あった?」
という想定外の質問を食らいしばし唖然。さすがに「知るかボケ」というわけにも行かないので、「この通りに無ければ21号沿いには無いよ〜」とちょーテキトーに答えておいた。今なら今渡の駅の近所のバローでも行けば有るんじゃないともう少しまともな答え方ができるんだが・・・
なんせ、これを書いているのが11月の末で、26,27日で今渡から恵那まで歩いてしまい、いい加減こっちを完結しておかなければならないわけで大変なのである。
さて話は逸れたがその後、宿場を出たところで本来のルートは木曽川べりに行かなければいけないのだが、こっちもルートを逸れてしまい国道21号をそのまんま歩いてしまった。
で太田橋のたもとに辿り着いて愕然とした。いままで俺様の道中の安全に大変な寄与をしてくれた歩道が途切れ、東海道の天竜川橋並の危険地帯となっていた。さすがに車が向かってくる中、傘をさしてシャッター切るのは無理だったので車が来ないうちに写真を撮ったのでわかりにくいが、背の高い車が来ると傘がぶつかりそうな狭さである。そんな中、反対車線ではおばちゃんが自転車乗って悠然と橋を渡っていた。
なおこの橋の中間点から日本ライン下りの船の発着場・・・いや下るのみなので出船場になっており犬山まで行くことができる。
もう十分過ぎるほどマイナスイオン堪能したが雨の船下りも乙だよな。熱燗片手に・・・と思ったが川下りは出来ても川上りが出来ないので あきらめて危険な橋の後半部分を渡り可児市に入った。
なおこの太田橋は現在工事を行っており、工事完了後には歩道が出来るらしい。
時刻は15時10分を回り、ゴール予定の御嵩駅まで残り10km程度、2時間半程度の所用時間だが17時過ぎるともう暗いし、ここなら「日本ライン今渡駅」に近いので、今渡交差点で切り上げることにした。

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