中山道 日本ライン今渡駅〜御嵩駅

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年11月26日太田〜御嵩曇り2時間04分12911歩9.04km9829円
まえがき
というわけで高速道路を走ると金が掛かるし眠くなるわで、いつもの通り下道で日本ライン今渡駅までジムニーで目指した。
下道で行くと決めた割には6時ちょっと前の出発だからかなりお寝坊さんなのに加え、前夜に荷造りしてあればまだ救われるのだが、朝起きて大あわてでリュックにあれこれぶち込んだので、慌ただしい出発となった。
しかも俺様の今渡まで足のジムニーは先々週にラジエータの水漏れが発覚したので、漏れた箇所を先週メタルパテで塞いでおいたので油断ならぬ旅路である。
2時間ほど走ってトイレ休憩のついでにボンネットを開けると、やはり問題の箇所であるタイミングベルトとエンジンの間からクーラントが滲んでいたので、液体ガスケットをパテ代わりに使い、リザーブタンクを見ると水位が「LOWER」のあたりだったので水入れてこれも応急処置。つか水ばっか補充しているからLLCの濃度が薄くなっているんじゃないかと少々不安が残るが再びスタート
静清バイパスの渋滞を避けるためとは言え、いつ爆弾が火を噴くかわからん状況で富士で応急処置をして、富士ICから東名に乗るといういくらJAFの会員であるという保険を考慮しても十分すぎる無茶をしつつ、遠州豊田PAでボンネット開けて再度確認。ばっちり水漏れは収まり、リザーブタンクも大丈夫そうである。
さて、今渡に14時に着けばいいので三ヶ日ICで降りて後は下道で大丈夫だと判断し、本坂峠経由とも思ったが御油から音羽蒲郡でいつも混んでいるし新城へ回ってR301経由というのもありかなぁと。釣橋川手前を右折して見た。
右折してしばらくすると交差点左側より直進してきた軽ワンボックスがおいらの方向に向かってきたダンプの側面に激突し跳ね返されていた。
どっちかが信号無視と思われるがおいらの位置からではよくわからなかったがまぁどっちも乗ってた人は大したこと無さそうなのでそのまま素通りし、宇利峠を越えて愛知県入り。
良い調子で走っているとちょうどお昼時に道の駅「つくで手作り村」に差し掛かったので食事休憩。そば定食を頼んだところそばはそれほどでもないが野菜の天ぷらが非常においしかった。ひさしくこんな野菜食ってないのでちょっと感動。残さずやっつけてから、野菜やらいろいろ見て回ったが、さすがに一日以上車内に放置しても大丈夫そうなのはなかったのだが、桧のおがくず詰めた枕とクッションにフラグが立ってしまったので購入。やっぱ桧の香りは・・・と言いたいところだったが東名乗ったあたりから喉の調子が悪いなぁと思ってたらどうやら風邪ひいたらしい。なんか鼻水も出てきた。その後、豊田、瀬戸のノロノロ走行の中、尿意を堪えつつ14時半を回った頃、に日本ライン今渡駅前の駐車場に到着。うーん。9時間かぁ。歩く時間より車運転する時間の方が長いじゃねーか。まぁこの矛盾は当分続くんだろうなぁ。

今渡公民館南

今渡

太田線の踏切

一里塚跡

今渡〜

そんなわけで前回ゴール地点の「今渡公民館南」交差点を14時48分スタートした。
のっけから歩道が無いが、交通量もそれほど無いし雨も降ってないので、前回の太田橋に較べれば身の危険を感じるほどではない。
で前夜までの準備不足と寝坊の為に大変慌ただしい出発となったと先に書いたように、やはり忘れ物をぶっこいていたのだが、うまいことコンビニが有ったので、お茶と携帯灰皿とサインペンを調達し、装備は万全となった。
出発から20分歩いたがここが中山道で有ることを示すものが無いので地図を確認するとどうやら間違えてはいないようだ。
やがて太田線の踏切が見えてきた。ここまでここが旧街道で有ることを示すものや旧跡などなく、やや退屈なお散歩なのでここいらで、遮断機が降りるとかなんかイベントでも有ればなぁと思いつつ近づくと、その踏切には

と中山道の文字が有ったので一安心。だがたびたび振り返っては見るが遮断機が降りて太田線が通り過ぎることはなかった。
踏切を過ぎると、中山道は片側2車線に拡幅された国道21号バイパスに合流、再びひたすら歩くだけの道となってしまった。
なんか無いかなぁとでっかい市場の前を通り過ぎると用水路があり、地図によれば遠く知多半島の農地を潤す「愛知用水」である。木曽川の水を知多半島まで引くという発想だけでもすごいことだが、それを実行しちゃうのだからなぁ。と感心しながら歩いていると、真新しい一里塚の石碑があった。
しかし、先ほどからパチンコ屋が目立つがやっていけるのだろうか。もう何年もパチンコ屋には行ってないが、いざというときはトイレ借りたついでにちょこっと遊んでやろうかと思うのだがなかなかそういった機会はない。

御嵩町

伏見宿道標

伏見宿

歩道の切れた先を左

ご丁寧な道標

建設中の東海環状自動車道

比衣一里塚跡

鬼の首塚その1

鬼の首塚その2

鬼の首塚その3

なんだか煙い御嵩宿

御嵩駅

いつの間にか片側1車線の道となり緩やかな坂を登っていくと15時34分御嵩町に入った。
すると先ほどまで有った歩道が消え、左手に旧街道っぽい幅の道が現れたので地図を確認すると、細い道は近所の高校へ抜ける道らしい。さっきからチャリ通学の高校生と良くすれ違うなぁと思ったらそうゆうことだったのか。
一方、中山道はこのまま国道21号を直進なのだが歩道がなく、先の高校の下校時間に重なったのか女子高生のおねーちゃんら群れを成してノロノロと徒党を組んで歩いており邪魔くさいのでさっさと追い越したいところであるが、歩道がなく車が路側帯すれすれに走っている状況ではそれも難しい。
で今までおねーちゃんらの太い足に気をとられて気づかなかったがどうも街並みが古めかしくなってきた。
その先に見える信号には「伏見」と書かれているし・・・
どうやらここは伏見宿じゃねーかと街並みを撮ろうと思ったのだがここで有ることに気づいた。
この状況でシャッター押したら、端から見ると
女子高生を盗み撮りするエロいおっさん。
にしか見えないだろう。どうやったってフレームの中に10人ほど入ってきそうだ。
というわけで気の弱い俺様は道ばたにある「左兼山 八百津」と刻まれた道標などをカメラを向けていた。
なんだかんだでスタートより1時間あまりで伏見宿に入ったらしいが、さすが家々の作りはそれっぽいが旧街道をそのまま道幅広げて国道21号になっているため、往来を車がひっきりなしに行き過ぎる状況ではゆっくり見物というわけにもいかない。
もっとも見るものはそれほど無いのだが・・・・
女子高生の群れが明智駅方向に向かい再び、歩いているのは俺様だけといつもの状況にもどり、俺様の血圧と脈拍と鼻の下の長さも平常値に戻ると「御嵩町伏見公民館」の前にて「伏見宿本陣」と刻まれた石碑があった。
というわけで間違いなくこの通りが伏見宿であるらしい。
御嵩宿との距離があまりに近いせいか伏見宿はそれほど大きな宿場町では無いようで本陣を過ぎると下り坂になっており、田んぼが広がっていた。ここでようやく歩道なんか有って安心して歩ける様になったが、さっきの高校から明智駅への入り口までの通学路に歩道が無いのはどうかと思う。
まぁ手前では片側2車線化拡幅工事やっていたし、いずれ伏見宿を迂回するバイパスを造るんでしょうけど。
10分ほど何もない国道を歩いていると左手に道幅が旧街道サイズな道を見つけたが、ぼちぼち左に逸れるはずだがちょっと雰囲気が違うので地図を確認すると中学校へ向かう道らしい。
そんなわけで、写真では歩道が切れた先にご丁寧に「左伏見宿」と彫られた道標があり、そいつに従い左にそれて歩いていると何やらがんばって東海環状自動車道を造っている。なぜか知らんが中京圏は道路の建設のピッチが異様に速く、新湘南バイパスと西湘バイパスがいつまで経ってもつながらない神奈川県とはえらい違いである。
再び国道21号に合流すると比衣一里塚跡と記された杭が打ち込まれてあった。しばらくは味気ない国道21号を進むこと25分ほどでなにやら「鬼の首塚」と物騒な幟がはためくお社があったので立ち寄ってみると案内板には次のように記されていた。

鬼の首塚(天神塚)町重文
 伝説によれば鎌倉時代の建久、正治の頃(一一九〇〜一二○○)頗る
凶暴で悪業三昧の男が次月の鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼籍を極め
住民を大いに大いに悩ませました。
 この者は西美濃不破の関の生れであったため、住民はこれを「関の
太郎」とか「鬼の太郎」と呼び怖れていました。そこで正治元年(一一九九)
人々はこの地の地頭交告源吾盛康にこの惨状を討え退治してもらう
ことにしましたが盛康は京の地にあり、おいそれと帰ることが
できませんでした。そこで自分の家臣四名に太郎の退治を頼み御嵩の
地に帰しました。ところが、なかなか太郎を討つことができなかった
ため、蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げが
あり、そのお告げのとおりに四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、
それを捕らえ首を切ることができました。
 四人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都へ運ぼうとした
ところ急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなりました。
すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も
動かすことができなくなったため、それをこの地に埋めました。
 これが「鬼の首塚」の由来といわれています。首塚のあるあたりを
「桶縄手」と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十返舎一九もこの地のことを
詠んだ歌を残しています。
   桶縄手今もその名を朽ちさりき
            塩漬にせし鬼の首かも
                御嵩町・御嵩町観光協会
鬼の首塚の説明の下には、御嵩宿の絵地図が描かれており、もう大した距離では無さそうであるが、11月末ともなると火が落ちるのも早くもう大分暗くなってきた。とりあえず真っ暗闇になる前にゴール地点の御嵩駅に着きたいものだ。

御嵩宿の絵地図
というわけで鬼の首塚より5分ほどで御嵩宿に入ったが何やら盛大にたき火でもぶっこいたのかやたら煙い。で道なりに左手に進んでいくと駅前の広い通りに出てここを右折。これだけうねうね曲げるからにはそれ相応に栄えていた宿場らしい。もうまもなく駅なのだが、手持ちの現金が乏しい所に東濃信用金庫なんか有ったので立ち寄って種銭を仕込み、16時52分ゴールの御嵩駅に到着した。
しかしまた駅の目の前が旧街道というのも珍しい。
で御嵩駅にて切符を買おうとすると、券売機ではなく窓口で駅員さんから購入するという昔ながらの心温まるシステムである。
ただ、おいらのように行き当たりばったりの無計画な旅をしていると、往々にして目的地の駅名が読めない事がある。また今回のように駅名が長い場合もちょいと難儀する。「にほんラインいまわたり」だし。
でがらがらの電車に陣取り、20分ほどで日本ライン今渡駅に到着。でリュックを車に積み込んで身軽になったところで、近所のバローというスーパーで夜食と朝飯と、名古屋圏でしか入手困難な「寿がきや」の「味噌煮込みうどん」やら「コーミー」のソースに「あんかけスパ」とかご当地食材を仕入れて、今夜の宿に向かった。
とりあえず41号で行けばよいと快調に走ったのもつかの間、愛知県に入ったとたん大渋滞。結局小牧から首都高速の料金体系がかわいく思えるほど馬鹿高い名古屋高速の世話になり、1時間20分程で名古屋に到着。

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