御嵩〜
御嵩駅を降りたが、どうやら旅人は俺様一人のようだ。
8時45分、スタート・・・・。しばらく歩いて気が付いたのだが昼飯はどうしよう。
この先は飯屋はおろか、コンビニすら無さそうだし・・・と思い、駅の方を振り返るが食料を仕入れられそうな店はなかった。
そんなわけで、昼飯抜き、リタイヤ不可のハードな旅が始まった。
歩き始めて3分ほどで「中山道みたけ館」に辿り着いたが開館時間が9時とまだ開館前で有り、前述の通りとってもハードなスケジュールで有るため、残念ながら素通りさせて頂いた。
中山道御嶽宿 御嵩町元町
慶長五年(一六〇〇)九月、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は直ちに
宿駅伝馬制へと着手し、慶長七年(一六〇二)には中山道筋でもいち早く
ここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状」を下したことから、重要な拠点とみなして
いたことがうかがえます。
御嶽宿は江戸から四十九番目の宿場にあたり、天保年間の「中山道宿村
大概帳」にぱ、宿内町並四町五十六問(約五百四十メートル)、家数六十六軒
(内旅籠屋二十八軒)、このほか本陣・脇本陣が各一軒、問屋場、高札場などの
存在が記載されています。
宿場は西端の天台宗の古刹大寺山願興寺から鉤の手を抜けて東へと
続き、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流する
場所として大いに賑いました。
御嵩町・御嵩町観光協会
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道は左に直角に曲がり国道21号に合流するが前方に見える山並みを見て早くも憂鬱な俺様である。
単に登って下るだけならまだ良いが、これから先どれだけ坂を上り下りしないといけないのか皆目見当がつかない。
国道に出る手前で「御嵩宿、細久手宿」の道標があった。とりあえず、大井宿まで32kmくらい、次の宿場は細久手宿だと言うことはわかっているがここから細久手宿までどれだけあるんだろう。
 和泉式部廟所
 和泉式部廟所
 現代版道標
 そろそろ山道
 牛の鼻欠け坂
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というわけで所々工事中の国道21号を歩きながら、ぼちぼち国道から左に逸れる様な気がしたので地図を確認するが、和泉式部の廟所までは真っ直ぐで良いらしい。
思えば遠く米原あたりからの長いお付き合いであったが、山を越えて恵那に出ると国道19号沿いの旅となる
さて、いよいよ21号とのお別れになる和泉式部廟所に着いたが、なんだか人ん家の納屋裏の様な所に建っている。
そんなわけで周りに人が居ないことを確認し?こっそり近づいた。
そーいや和泉式部って人については和歌とか作っていた人程度の浅い知識しか俺様には無いが都合の良いことに、石版になんか彫って有るのでそれを丸写ししておこう。
和泉式部廟所
和泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流
文学者のー人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌
を残した一方で、恋多き女性としても知られています。
波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままlニ東山
道をたどる途中御嵩の辺りで病に侵されてしまい。鬼岩温
泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019) 、とうとうこ
の地で没したといわれています。
碑には「ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人
はしばしとどまれ」という歌が刻まれています。
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うーん。平安時代の三大女流文学者って、紫式部とあと誰だっけ?
しかし、「心の趣くまま」平安時代に京都から離れたこんなところををぷらぷらするとはすごい女性である。
そんなわけで、国道21号から逸れて左に進むと程なくご丁寧にも現代版の道しるべなんか有ったりする。ここから先ほとんどの場所で現代版の道標が用意されているので、現在いる場所を知りたいとき以外は地図の世話にならなくても良いので結構気楽なもんだが、所々東海自然歩道とごっちゃになっているので油断はできない。俺様もこの旅の最後の最後に間違えてしまったが。
しかしまた、舗装こそされているが電柱もなく人家もまばらで非常に長閑で良い感じである。
で一旦広い通りに出て右手に逸れると牛の鼻欠け坂という標柱が建っており、未舗装グラベルの急坂が現れた。
どうにもジムニーという野蛮な車に乗っていると、めちゃめちゃに踏み荒らしたい衝動に駆られてしまう。この野蛮な車とのつきあいはもう5年くらいになるが、この車じゃないと通るの無理!って所はなかなか無いのでストレスが溜まるばかりである。
今日は歩いての旅なので靴で踏み荒らす位しか出来ないのだが、そんなことする無駄な体力は余ってないのでおとなしくヒィヒィと言いながら牛の鼻欠け坂を登っていった。ちなみにこの坂の由来は以下の通りである。
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牛 の 鼻 欠 け 坂
(うしのはなかけざか)
十返書一九「木曽街道続膝栗毛」より
「牛坊 牛坊 どこで鼻かかいた
西洞の坂で かかいた」という言葉
が残るように、ここ西洞坂は牛の鼻
欠け坂とも呼ぱれ、荷物を背に登っ
てくる牛の鼻がすれて欠けてしまう
ほどの急な登り坂でした。
中山道全線を通してみると、ここ牛
の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸
へと向かう東は山間地域の入□とな
り、京へと続く西は比較的平坦地に
なります。したがって地理的には、
ちょうどこのあたリが山間地と平坦
地の境界線になっているのも大きな
特徴といえます。平成十五年度のこ
の事業は、岐阜県からの補助金を受
けています。
御 嵩 町
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もともと西洞坂(さいとざか)という名前が有ったが、牛さんのデパーチャアングル?を越えてしまったために鼻がこすれてもげてしまったという言い伝えから、こんな愉快な命名をされてしまったようである。
ただ、それなら「鼻こすり坂」とか「鼻モゲラ坂」とか様々な命名候補が思いつくのだが、なぜに「鼻欠け」に落ち着いたのかそのあたりの経緯には触れられてはいなかった。
まぁとにかく、江戸から京都へ向かうときここまでが山間地でここから西は平坦地と記されており、まぁくだけて言えば
「うとう峠?あれなんざここから先の山道に較べりゃタダの丘じゃん」
と言っているようなものである。
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 耳神社
 石畳の坂道その1
 石畳の坂道その2
 マリア地蔵入口
 謡坂一里塚
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で結局「牛の鼻欠け坂」・・確かに勾配は急だったが距離はそれほど長くは無く、ほどなく車も通れる普通の道に出た。
途中、耳神社なる社が恐ろしく急な階段の上に建っており、御利益があるとされる耳にもさしたる不具合もないし、この後体力を温存しておかないといけないしと階段の脇にあった説明を見るにとどめておいた。
で看板には次のように記されていた。
耳神社 御嵩町西洞
全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社です。
平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本かりて耳にあてます。病気が
全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は
本物でも竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んですだれの
ようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも
下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また、
戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。
元治元年(一八六四)、武田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げて率いた水戸
天狗党が中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を
抜いて通ったと伝えられています。
御嵩町・御嵩町観光協会
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鼻の次は耳かよと思いつつ、平癒の願を掛ける時に耳に当てるキリはとがっている方を耳に当てるのか、胴体を当てるのが正しいお参りの仕方なのかは触れられていなかった。
耳神社の前の坂を登っていく途中右に逸れると石畳の坂道が現れた。平らに敷き詰められているので最近になって手を加えたものらしい.
そろそろ御嵩駅を出発してから1時間になるが、暑いのでフリースのジャンパーを脱いでリュックに強引に押し込んだ。
紅葉はそろそろ終わりかと思っていたが、まだ目を楽しませてくれる程度は残っている。
途中、「マリア地蔵」と刻まれた石柱があったが街道筋から離れたところに有りそうだったので通過。まだ先は長いので寄り道する心のゆとりは無い。でこのしんどい石畳の坂は謡坂石畳と言うらしい。傍らにあった看板にて次のように説明されていた。
謡 坂 石 畳 (うとうざかいしだたみ)
謡坂の地名の由来は、この
あたりの上り坂がとても急な
ため,旅人たちが自ら歌を唄
い苦しさを紛らしたことか
ら、「うたうさか」と呼ぱれ
ていたのが次第に転じ、「う
とうざか=謡坂」になったの
だともいわれています。険し
くつづく山道、道の上をおお
うようなたくさんの木々、足
元に生える草花など、謡坂の
風景は今も当時の中山道の
風情を色濃く残しています。
この謡坂石畳は、平成九年
から十二年度にかけて
「歴史の道整備活用推進事業
(整備)」として修復整備し
たものです。
平成十五年度のこの事業は、岐阜県
からの補助金を受けています。
御 嵩 町
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 「十返舎一九木曽街道続膝栗毛」より
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うーん。良くもまぁこんな坂道で昔の人はのんきに歌なんか歌いながら登ってたもんだ。おいらなんぞ息切れするから歌なんぞ謡う余裕なんかまるでない。で、マリア地蔵入り口から5分ほどで、安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」モデルの地だよという看板が有った。ただここで描かれているのは木賃宿なのだが宿場で無いところで旅人泊めてOKだったんだろうか。
安藤広重
「木曽海道六拾九次之内 御嶽」
モデルの地
江戸時代ヽ浮世絵の世界で
名を馳せた人物に安藤広重
(一七九七〜一八五八)がいまし
た。その作風はヽ情緒性を高
め静のなかに動を表現する独
特の手法で風景がに新境地を
開きました。代表作に「東海
道五拾三次(全五十五枚)」の
ほか、この「木曽海道六拾九
次(全七十一枚)」があり、
御嶽宿では当時の庶民の旅で
多く利用された「木賃宿」を
中心に、囲炉裏を囲んだ旅人
たちの和やかな会話が聞こえ
てきそうな様子を見事に描写
しています。そして、作品の
モデルとして選んだ場所がこ
のあたりだといわれています。
広重の作品のなかに「木賃
宿」が登場する例は非常に珍
しく、軒下にいる二羽の鶏も
また、作品に描かれることは
ごく稀です。
平成十五年度のこの事業は、岐阜県
からの補助金を受けています。
御 嵩 町
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 「十返舎一九木曽街道続膝栗毛」より
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また傍には一里塚がある。見るからに後世になってから復元されたものと見られる。
一里塚(謡坂十本木)
慶長九年二月、徳川幕府は東海道・中山道・北陸道に江戸
日本橋を基準として、道の両側に五間四方(約一六メートルほど)
の塚を築造させました。これが一里塚です。
一里塚は、一般的に一里ごとに榎、一0里毎に松を植えて旅人に里
程を知らせる重要なものでした。 現在の御嵩町内にその当時四ヵ
所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治四一
年にこの塚は二円五〇銭で払下げられ、その後取り壊されました。
この一里塚は昭和四八年、地元有志の手でかつての一里塚近くに
復元されたものです。
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復元だけでも大仕事だが、ちゃんと雑草とか刈ってあり手入れがきちんと施されている。復元は思いつきやら勢いで出来ちゃうものかも知れないが、それを長年に渡り維持管理し続けていくことは大変だなぁと感心しつつ、小綺麗な舗装道路に出た。
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 十本木立場付近
 一呑清水
 一呑清水からの眺望
 御殿場からの眺望
 落ち葉に埋もれた砂利道
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再び舗装道路に戻ると十本木立場跡と刻まれた石の案内板があった。もうなんだかいろいろ史跡があってもうお腹一杯である。まだ1時間ちょいしか歩いていないのに・・・
十本本立場
宝暦5年(1756)刊の「岐蘇路安見絵図」にも記載が
あるこの十本本立場は、もともと人夫が杖を
立て、駕籠
や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設け
られ、旅人の休憩所として発展したそうです。
一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する
際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動
に注意が払われたそうです。
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緩やかな坂を登っていくとなんか臭う。ふと見ると眼下には大規模な養鶏場があった。
で道路を反対側に渡ると、一呑清水と説明のある泉があった。うーん。至る所名水だらけの岐阜県において岐阜の名水50選に選ばれているのか。それじゃ早速すくって飲んでやろうとしたところなんか書かれた看板が目に入った。
一呑清水
中山道を旅する人々にとって、
一呑清水は喉の渇きを潤し、
旅の疲れを癒す憩いの場所でし
た。 江戸時代末期,将軍家降
嫁のために江戸へ向かった皇女
和宮は,道中この清水を賞味し
た ところ大層気に入り、のち
の上洛の際、永保寺(現 岐阜
県多治見市)にてわざわざここ
から清水を取り寄せ、点茶をし
たと伝えらています。
岐阜県名水50選のひとつ。
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おいっ!!
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生水飲用不可って、雑菌か大腸菌群が基準値を超えているのかそもそも保健所の検査を受けていないかどっちかだと思うが・・・
まぁ常に水が流れているわけでは無く、良く見りゃ泉の底には落ち葉が沈んでいるのでそのまま飲むのは良くないかも知れない。まぁもっとも俺様クラスになると問題無いだろうが・・・
ここで振り返ってみると大分登ってきたようである。
で一呑清水を過ぎ、地図を確認すると道は右手のダートが中山道らしい。
すると車が2台並んで、俺様をかわしつつこのダートに突っ込んで行った。えっ?なんでと思い車の行き先を追うと
ケーキ屋かよっ!!
まぁ、都市近郊ならばこー言うのも有りだと思うが、余程の味では無いとこんな人里離れた所じゃやっていけないだろう。と言うことは・・・。寄ってみようかと思ったが、基本的に甘いものは苦手なので遠慮しておいた。
ケーキ屋より程なく御殿場と記された看板が有った。
御 殿 場 (ごてんば)
文久元年(一八六一)、皇女和宮の行列が
中山道を下向し、十四代将軍徳川家茂公の
ところへ輿入れしました。その際、一行が
休憩する御殿が造られたことから、ここを
御殿場と呼ぶようになったとい います。
和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通
行といわれ、四千〜五千人にも及ぶ大行列
でした。近隣では十月二十八日の早朝に前
日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発
し、昼には御嶽宿にて休息、そしてここ御
殿場でも再び休息をとったのち、大漱宿(
現瑞浪市)で宿泊しました。 中山道が別
名「姫街道」と呼ばれるのは、こうした姫
宮の行列が多く通行したためです。
平成十五年度のこの事業は、岐阜県からの
補助金を受けています。
御 嵩 町
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この看板の隣には東海自然歩道の案内板があり、御嵩駅まで2時間10分と記されている。うーん御嵩駅を出発したのが9時45分位で、今10時5分だから予定よりペース早いのかなと思った。だがしかし、親切に建ててある看板もこの後、ことさら距離と所要時間には眉唾であることに思い知らされることになる。
これらの看板の脇を階段で上っていくと眺望の良さそうな休憩所が有ったので立ち寄る事にした。実は先を急がねばとすっ飛ばしてしまおうと思ったのだがこの先休めそうなところが有るかどうか怪しいし、何よりずっと森の中を進んでいたため、歩きタバコは自主規制しており、まぁ1時間以上歩いていたので一休み。
で東屋で一服しながらくつろぎつつ、この先どーやっても飯にありつけないようなのでとりあえずカロリーメイトで補給。
再び落ち葉に埋もれた砂利道を進むのだが、アスファルトやコンクリートに較べると足への負担は少ないようだが、小石が靴の中に紛れ込むのはちと困りものである。
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 竹林
 椎茸の自販機
 田んぼの中のでっかい岩
 山内嘉助さんち跡
 屋敷跡の坂からの眺望
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先ほどの御殿場より10分ほど歩くと見事な竹林が現れた。このように竹も手入れしていれば美しいが放置プレイするとなんか出てきそうな不気味な雰囲気を醸し出してしまう。
この竹林を過ぎると下り坂になり、農家の作業小屋が見えた。さらに近づくと犬が寝そべっていたので、珍しいなと
通り過ぎようとした。なんせ街道歩きをしているとやたら犬に吠えられる。しかも外で飼われている犬だけならまだしも、部屋飼いの犬まで吠えてくるのだから尋常ではない。俺様からは常人からは放出されていないようななにかオーラのようなものがにじみ出ているに違いない。まぁおいら申年だから犬に嫌われるのはしょうがないのか。
さてその俺様の気配にも動ぜずに寝そべっている犬だが俺様が通り過ぎてしばらくしてから激しく吠えだした。なかなか鈍いというか中途半端に過敏な奴である。
さてここからはちょっとした集落になっている。でなにやら自動販売機がある。
良く見ると世にも珍しい?しいたけの自動販売機だった。干ししいたけなら荷物にならないので買おうかと思い財布を出したが100円玉しか使えず、財布に小銭が入っていなかった俺様はそのまま素通りした。
集落を抜けると田んぼが広がっているのだが、田んぼの真ん中にどう見ても邪魔くさいでっかい岩が鎮座しているのがひときわ目をひく。
しいたけの自動販売機からここまでしばらくぶりの平坦な道だったが再び上り坂となり、その途中に山内嘉助屋敷跡と記された石柱と石垣があった。周りには田んぼやら畑ばかりで人家はなく、なんでまたこんな傾斜地を整地してお屋敷を建てたのかわからんが、そもそも山内嘉助さんて誰?
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 瑞浪市
 鴨之巣一里塚その1
 鴨之巣一里塚その2
 切られヶ洞
 平岩辻
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先ほどの屋敷跡から木立の中の砂利道を歩くこと15分余り、11:00に御嵩町から瑞浪市に入った。そこには瑞浪市の観光地図があり、ご丁寧にも所要時間が記されており、あと1時間10分ほどで細久手宿に入るようである。
御嵩町と瑞浪市の境界よりしばらく進むと一里塚があった。鴨ノ巣一里塚と案内板には記されていた。
鴨ノ巣一里塚
江戸へ93里、京へ41里という道標の中
山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両
側に一対づつ築かれましたが、ここの場合
地形上北側の塚が16m東方にずらされて
いるのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹
や北アルプスの山々が一望できます。
(市県指定史跡)
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一里塚より歩くこと5分あまりで「切られヶ洞」と痛そうな文字の彫られた石柱があった。特に説明は無いようなので後で調べなくてはならんではないか。不親切だなぁと思ったら脇に施主の名前が刻まれており、どうやら個人の手により建てられたらしいので文句は言えない。
さらに5分あまりで、「平岩辻」と刻まれた標柱があり、右に分岐する道は「鎌倉街道」との事である。まぁあちこちに鎌倉街道とかかまくらみちというのは有るが、なんでまたこんな所で分岐しているのだろうか。太田の渡しからR248、R155を経て豊田方面に抜けた方が道が平坦な様な気がするが・・・・
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 平岩の秋葉坂三尊その1
 平岩の秋葉坂三尊その2
 左仲仙道西の坂
 細久手宿
 旅籠 大黒屋
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先ほどの鎌倉街道との分かれ道となる平岩辻より坂を下る途中に、石組みに囲われた秋葉坂三尊に着いた。今度は説明が有るが建立に際しての由来までは記されていなかった。
平岩の秋葉坂三尊
旅人たちの道中安全を祈って、200
年余りも前に建てられた穴仏三尊です
細久手〜御嵩間の3里の中山道も山坂
の連続する道のりでしたから、旅人たちは、
きっと道中の安全をこの石仏にお祈リし
て、また旅をつづけたことでしょう。
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というわけでさっきから5分歩く毎に何かしらある状況にお腹一杯になりつつも坂を下りきって舗装路に出たところに何やら石碑が建っており
一方は「左仲仙道西の坂」と刻まれており、もう一方苔むした石に何やら細かな文字が一杯刻まれていたが苔で判読不能。
そんなわけで御嵩を出発してから約3時間余り、11時40分細久手宿に入った。街道沿いには人家が並ぶだけで、昼飯をビールで流し込む贅沢の出来そうな店は見あたらない。飯屋は無かったが旅籠はなぜかある細久手宿の説明を記した看板があった。宿場の説明や見取り図のほか大湫宿までの地図があり、琵琶峠とか十三峠とか聞いただけで息切れしそうな名前が記されていた。また別の看板には、距離と所要時間が記載されており、それによると大湫宿まで7.5km、2時間半ほどらしい。
細久手宿
細久手宿は江戸から48番目の宿で、慶長15年
(1610年)海抜420mのこの地に設けられた新宿です。
宿の長さは東西に3町45間(約408m)、天保14年
(1843年)の戸数65戸、うち旅籠屋24軒で、尾州藩
領でした。
宿の誇りは、上町の庚申堂や下町の日吉・愛宕
神社、それに東の峠などから遠望される木曽御岳
・駒ケ岳・加賀白山などの四季の眺めの美しさで
した。
この解説板は平成元年度お年玉つき年賀はがき寄付金の
配分を受けて設置したものです。
平成3年3月瑞浪市・財団法人観光資源保護財団
(日本ナショナルトラスト)
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寄付金つきの年賀はがきってこーゆー所にも使われているんだぁと感心しながら
とりあえず、お茶なんか仕入れて細久手宿を後にした。
 奥ノ田一里塚その1
 奥ノ田一里塚その2
 奥ノ田一里塚その3
 弁天池
 謎のゴムボート
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先ほどより静かな山あいの集落を歩いているはずなのだが、なぜか似つかわしくない様なドリフト仕様の旧セフィーロやらS14シルビアやらが騒々しい音を立てながら走り抜けていく。
どう考えても草刈り機やらチェンソーの音以外のエンジン音は似つかわしくないぞと考えていると、遠くで甲高いエンジン音とスキール音が聞こえてきた。
これらの旧街道に似つかわしくない車と音の謎は、「瑞浪モーターランド入り口」の看板で解けた。どうやらこの尾根づたいの旧街道の麓にサーキットが有るらしいが、木立が邪魔で見下ろすことは出来ないがどうやら5,6台連なってスタートしてドリフトを楽しんでいるらしい。 しかもスキール音とアクセルをあおる音からして相当上手に車を操っているようである。そんなわけで密かに楽しみにしていた乾いた「クシャ」といった音は残念ながらいくら待っても聞こえてこなかった。
「瑞浪モーターランド入り口」の看板から程近くに一里塚が有った。奥ノ田一里塚と言うらしい。塚にある看板には瑞浪市に現存する4つの一里塚について説明された看板があった。
瑞浪一里塚(県指定)
岐阜県内の旧中仙道の宿は落合から今須まで十六宿
三十三里(一三二㎞)で一里塚は三十二か所構築され
た訳ですが,そのほとんどが廃頽し現在遺存しているの
は約半数ほどで,瑞浪市のように,一里毎に連続した四
ヵ所のものがいづれも当時のまま残っている例は全国的
にもまれです。
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・権現山・一里塚
大湫の東端,釜戸町との境に近い樫木坂の途中にあり
南塚が径九m,高さ五m,北塚が径一〇m、高さ三.五m
両塚の間隔は一一mで南塚は、八瀬沢、奥ノ田一里塚と
共に自然の地形を一部利用しで構築されています
・八瀬沢一里塚
大湫町と日吉町の境、琵琶坂峠の西側にあり、南塚は
大湫町地内で径一〇・三m。高さ五m,北塚は日吉町地内
で径九・四m高さ四m、両塚の間隔は一〇mです。
・奥ノ田一里塚
日吉町細久手の東にあリ,南塚は径一〇m,高さ四m
北塚は径一二・六m・高さ三・五m両塚の間隔は一〇mです
・鴨ノ巣一里塚
日吉町の西側で御嵩町との境に近い平岩地内にあり,
南塚は径一〇m.高さ三・六m・北塚は径一一m,高さ
ニ.七m,両塚は地形の関係から東西に一六m程隔てて構
築されており奥之田一里塚と共に丘陵の尾根に造られて
います。
瑞浪市教育委員会
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一里塚よりちょいと歩いた先にはバス停などあり、時刻表を見るとなんと一日に5本もあり、その上瑞浪駅まで行ってくれるので
「最悪これで撤収できる。」と思ったら甘かった。平日のみの運行で、土日祝祭日は運休と記されていた。
今日はあいにく土曜日であるため、歩き始めたが最後、意地でも恵那まで歩き通さないと公共交通機関に巡り会うことはないのである。
バス停より1kmほど歩くと道の左手に湿地というか沼があった。だが看板には「中山道弁財天の池」と記されており断固として池であることを主張しているようだ。その池の畔には休憩所と五平餅位は出てきそうな売店が有ったが残念ながら本日はお休みのようである。というか”本日も”って感じで長らく商売から遠ざかっていそうな雰囲気でなので、休憩所の傍らで紫煙を燻らしていると俳句を記した沢山の短冊が吊されていた。じゃぁ俺様も一句・・・と頭をひねってみたが何も思い浮かばなかった。
で胃袋には細久手で仕入れたお茶、肺にはニコチンとタールをチャージ完了して池の畔を歩いているとなぜかゴムボードが置いてあった。何に使うんだろこれ?
弁天池を過ぎると養鶏場がある。そーいやさっきから鶏満載の4t車が向かってきたり、空のケージ満載の4t車に追い越されたりしていたのだが
鶏さんを出荷してたのね。しかしまた走り慣れているとは言え、えらい勢いで山道を疾走しているのでちと不安だが・・・
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 琵琶峠入り口
 琵琶峠石畳その1
 琵琶峠石畳その2
 八瀬沢一里塚その1
 八瀬沢一里塚その2
 琵琶峠石畳その3
 琵琶峠頂上
 琵琶峠の眺望
 琵琶峠の文学碑
 琵琶峠東登り口
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弁天池より20分ほど歩いていると「琵琶峠」と記された案内板があった。そいつの指し示す方向は芝に覆われたとっても膝に優しそうな道である
さらに近づいてみると「琵琶峠 0.6km 20分 公衆トイレ有り」と書かれており膀胱にも優しい峠である。そーいやここまでトイレと言えば、御嵩の耳神社の手前あたりで用を足したなかなかワイルドなトイレ以来あったかなぁという感じである。どう思いだしてもここまでトイレの数は一里塚の数の半分も無いような気がする。
ちなみに所要時間20分ってことは今12時47分だから13時7分に琵琶峠頂上ってわけだな。
なお膝に優しかったのは登り口のほんのちょっとの間で、後は石畳の坂道となる。で小綺麗なトイレが有ったので拝借し、再び石畳を辿っていくとご丁寧にも案内板があり、
中山道琵琶峠の石畳
琵琶峠はけわしさとともに湿地の多い峠道でした。
この石畳は少しでも歩きやすいようにと敷かれた
もので、昭和45年春に発見され、日本一長い600m
と確認されています。当時の人も親しんだ石畳を
大切にしましょう。
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最後の一文が余計だな。風光明媚な場所で唯一邪魔くさいのが「自然を大切に」とか書かれた看板だったというのは往々にして有ることだが、この石畳・・・どう大切にすればいいのか、あるいはまったく逆に粗末に扱うにはどうすりゃいいのかいくら頭をひねっても思い浮かばなかった。
まあ最後の一文よりもっと余計な茶々はこれぐらいにして、重機の無い時代に石を運んで敷き詰めるとは大変な事業だったに違いない。
琵琶峠
琵琶峠は標高558m、全長約1km、高低差は西側
83m・東側53mで、中山道の難所の一つに数えら
れていました。
それだけに峠からの眺望は良く、壬戌紀行ほか
の多くの文献にも書かれでいます。
また琵琶峠の石畳や一里塚、それに文学碑や当
時の石仏も残っていて、旧中山道を偲ぶことので
きる責重な史跡となっています。
この解説板は平成元年度お年玉つき年賀はがき寄付金の
配分を受けて設置したものです。
平成3年3月瑞浪市・財団法人観光資源保護財団
(日本ナショナルトラスト)
|
というわけで、今回のように西側から琵琶峠を越える方が高低差があるため若干険しい様である。でこんな険しい石畳の山道だが木立の向こうにこんもりとした小山が見える。
近づいて見ると八瀬沢一里塚と書かれた看板があった。
八瀬沢一里塚
江戸へ91里、京都へ43里という道標
で「琵琶峠の一里塚」とも呼ぱれています
、一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面
景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも峠
からのことが多く書かれて中山道の名所
の一つにも数えられていました。
(市県指定史跡)
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八瀬沢一里塚より3分ほどで琵琶峠に到着。12時57分。そー言えばさっきの琵琶峠入り口にあった看板によると、ここまでの所要時間は20分ということだが、途中トイレでタイムロスしたにも関わらず半分の時間で辿り着くとは俺様もなかなか・・・というより案内板に偽りがあるとしか思えない。
まぁ予定より早いのにちょいと気を良くして峠の脇を登っていくと展望台があるとの事なので行ってみると、深い木立が邪魔をしてまるで眺望は利かない割にはやけに風通しが良く、琵琶峠ゆかりの文学の一節を刻んだ石碑を眺めているとめちゃくちゃ寒い。しかもどれもおいらの知らない人だったりするので改めて俺様の無学っぷりを思い知らされた。
琵琶坂
琵琶坂
琵琶坂は細久手に到る大道の坂を
いう。岩石多き道さかしく登り
下り十町計りもあり
坂の上より乙寅の方に木曽の御岳
見え、北には加賀の白山飛騨山の
間より見ゆ
白山は大山なる故麓とて雪あり
西に伊吹山も見えて好景地
岡田文園 新選美濃志
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中山道 琵琶峠
大湫という所より琵琶坂というも越ゆ
今日の宿すべて 山の尾の上なり
峠から彼方こなたを見渡すに越の白山
峯ごし山の越しわずかに見ゆ 伊吹の
遙かなれど定かに見ゆ
烏丸光栄 打出浜
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琵琶嶺
細久手より一里余りにあり、道至って
険しく岩が多く登り下り十町ばかりなり
坂の上より丑虎の方に木曽の御岳見ゆる
北には加賀の白山飛騨山の間より見ゆる
白山大山なるが故に麓まで雪ある 日本
三番の高山なり 西に伊吹山見ゆる
木曽路名所図絵
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琵琶坂を登ること数町 琵琶峠という
道に石多し 山の嶺より見ればもろもろ
の山遠く見渡さる ここよりは伊勢
尾張の海を見ゆという
太田南畝 壬戌紀行
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まぁとりあえず少し休んでから出発しようとすると、なにやらおねーちゃんが登ってきた。とりあえず挨拶なんぞはしたが、その後に思いつく言葉がないので少々気まずい時間をおいておねーちゃんは去っていった。
ここが眺望も利かずがっかりして帰ったのか、俺様の存在に身の危険を察知して早々に逃げ出したのかは定かではない。
で炎天下ならいざ知らず、11月の末に深い木立で日が差さないくせになぜか風がびゅーびゅー吹き抜ける様なところはあまり長居をするにはよろしくないので、大湫宿目指して峠を下ることにした。
峠を下ること10分あまりで「琵琶峠東上り口」と刻まれた石碑があり、一緒に次の一節が記されていた。
「これより坂を下ること十町ばかり、山には大きなる石
幾つとなく 長櫃の如きもの 俵の如きものの数を知れず」
太田南畝 壬戌紀行より
太田南畝って誰?とまたもや俺様の無教養ぶりを露呈する羽目になってしまった。
また、傍らには西側とちょっと内容が異なる琵琶峠の石畳についての案内板があった。
琵琶峠の石畳
(岐阜県史跡)
中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代
当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした
中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる
約13㎞の中山道は、丘陵上の尾根を通っているために
開発されず、よく原形をとどめています。
特に、この琵琶峠を中心とする約1㎞は、八瀬沢一里塚や
馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和
45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を
開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども
残されています。
歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度
から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を
行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。
岐阜県教育委員会
瑞浪市教育委員会
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どうやら開発されずに放置されたが為に江戸時代のままの姿を残しているとのことらしい。
まぁどう考えてもR21-R19で抜けた方が平坦だしなぁ。
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 二つ岩
 二つ岩そばの庭園
 大湫宿の街並み
 大湫宿その2
 大湫宿脇本陣
 十三峠入り口
 大湫宿その3
 大湫宿その4
 京へ43里半 江戸へ90里半
 寺坂のお地蔵さん
 寺坂と山之神坂の間
 山之神坂
 尻冷やし地蔵
 三十三観音
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そんなわけでずいぶん山の中を歩いた様な気がするが実は時間すれば30分も経っておらず、それでもずいぶん久しぶりに思えるアスファルト舗装の道を歩いていると「なんでこんな山の中に!!」って感じのでっかい病院があった。 これぐらいの病院なら食堂があるかなぁと思ったが何棟も建物があり辿り着くのが大変そうななのでそのまま通過。
病院より10分ほど歩くと道の脇にとてつもなくでかい石が鎮座していた。傍らの石碑には「中山道 二つ岩」とあり、それぞれの岩にその形から名前が付けられているが想像力の貧しい俺様にはただのでっかい石にしか見えなかった。
中山道 二つ岩
道の左に立てる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石という高さ二
丈ばかり巾は三丈に余れり母衣石というは高さひとしけれど巾は
是に倍也り いずれもその名の形に似て石のひまひまに松その外の
草木生いたり まことに目を驚かす見ものなり
太田南畝 壬戌紀行
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木曽街道六十九次「大久手宿」
一安勝広重一
大湫宿は中山道の四十七番目に
あたる宿場で現在でも当時の町
並みが残されており、幕末には
将軍家に降嫁する皇女和宮が、
道中宿泊されたことでも有名で
す。
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二つ岩のちょっと先にはベンチやら花壇なんぞありちょいと一服には良い感じなので、琵琶峠で一服してから20分ほどだが再び休憩。どうやらもうそろそろ大湫宿らしい。そーいや細久手宿にあった案内板では2時間半とあったが、まだ2時間も経っていない。まぁあんまりじっとしていると寒いし、ひょっとしたら宿場で飯にありつけるかも知れないというほのかな期待もあり出発。
かつての宿場町なら昼飯にありつけるかも・・・と思った俺様の淡い期待は見事に裏切られ、13時27分コンビニすらない大湫宿に入ると沢山の高札が掲げられた高札場跡に辿り着いた。
前方を見ると5分も有れば通り抜けできそうな小さな宿場である。
大湫宿 高札場跡
高札場とは江戸時代に三定など
幕府からの村民心得や板書礼を掲
示した場所のことで、宿の場合は
旅人の道中心得や人馬賃銭など道
中奉行所からの高礼も掲げられた
から大湫宿の場合もこのように立
派なものであった |
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キリシタンやら荷駄の料金やら各種ぶら下がっている高札場から
先の高札場跡より3分ほどで脇本陣跡の前に差し掛かる。
大湫宿 脇本陣
本陣、脇本陣は大名や公家など身分の
高いものの宿舎として建てられたもの
です。この大湫宿脇本陣は部屋数19、
畳数153畳 別棟6という広大な建物で
した。今は毀されて半分程の規模にな
っていますが、宿当時を偲ぶ数少い建物
の一つとして貴重です。
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部屋数19離れ付きといった壮大な建物だったとのことであるので掃除ともなると余程大変だったに違いない。
大湫宿本陣跡
大湫宿本陣は現小学々庭にあリ間ロ
二十二間(約四十メー卜ル)奥ゆき十五間
(約二十七メートル)部屋数二十三、畳数
二百十二畳、別棟添屋という広大な建物で
公卿や大名高級武士たちのための宿舎でした。
また比ノ宮(享保十六年一七三一年)
真ノ宮(寛保元年一七四一年)
五十ノ宮(寛延ニ年一七四九年)
登美ノ宮(天保二年一八三一年)
有姫(同年 )
鋭姫(安政五年一八五八年)
などの宮姫のほか皇女和ノ宮が十四代
将軍徳川家茂(御降家のため(文久元年
一八六一)十月二十八日その道中の一夜を
すごされたのもこの本陣です。
和ノ宮御歌遠ざかる都と知れば旅衣
一夜の宿も立ちうかりけり
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本陣だけに部屋数23離れ付きといった脇本陣を上回る規模の建物だったとのことである。もうこうなると家の中で散歩ができますな。
大 湫 宿
大湫宿は大久手とも書かれ江戸から47番目の宿
で、慶長9年(1604年) 海抜510mのこの地に設け
られた新宿です。
宿の長さは東西に3町14間(約350m)、文久元年
(1861年)の戸数86戸、うち旅籠屋45軒で、尾州藩
領でした。
宿の誇りは、大空にそびえ立つ神明神社の大杉
や観音堂、それに皇女和ノ宮の泊り宿になったこ
とや、東の十三峠・西の琵琶峠なと沿道からの四
季の眺めの美しさでした。
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というわけであっという間に宿場を抜けると急坂を上ると宿場を一望できる広場に出た。なにやら石碑やら看板が多数有る。
琵琶峠を越えて一安心の俺様だったが、この先の十三峠について記された看板によると「13の峠」をひっくるめて十三峠と言うらしいので、これから先、13回も上ったり下ったりしないといけないらしい。しかもよくわからないのがおまけ七ツ・・。おまけ七ツって一体何だよ!
まぁ大井まで3里半ってことは、あと三時間半で大井宿に到着なわけだな。昨日19時過ぎに名古屋に車置いてきたがその駐車場が24時間以内1500円打ち切りという都合もあるので18時には恵那駅に着いていたい所だが、今、14時36分なのでまぁ何とかなるだろう。
中山道 十三峠
十三峠は幕府の命令を受けて、慶長8年(1603)
改修工事が始められ、翌9年に開道しました。
大湫〜大井間は十三峠におまけ七ツ」と呼ば
れる険しい山坂道でしたがその反面木曽路に
も近く、石仏、風物にも恵まれ旅人から親しま
れた三里半のコースでもあります。
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でここにも太田南畝の壬戌紀行の一節が石碑に刻まれている。
中山道 十三峠
これよりいわゆる十三峠とやらんを越ゆべきに飢えなば
あしかりなんと あやしきやどりに入りて昼の餉すす庭に石楠
ぐさの盛りなるにも、わがやどの花いかがならんとしのばし道の
右に山之神の社あり例の輿より下りて歩ゆむ
真かくくもの委しく問いて十三峠の名をもしるさまほしく
思うに、ただに十三のみにはあらず、詳しくも数えきこえな
ば二十ばかりもあらんと輿かく者いう
はじめて上る坂を寺坂といい、次を山神坂という
太田南畝 壬戌紀行より
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一三峠と呼ばれているが「おまけ七ツ」を含めると実際には二十峠有るってことなのね。
とりあえずベンチが有れば一休み、灰皿が有れば一服と一時間に一回以上は休んでいる様な気がするが、第一の坂である寺坂を前に一休みしてから出発すると、早速お地蔵さん達がお見送り?に建っていた。地蔵が有るって事は誰かの供養の為に建てられたってことだろうから、ある意味、道の険しさを物語っているのかも知れない。
と言うわけで峠を過ぎると、山之神坂と書かれた石碑があった。どうやら上り下りそれぞれに名前が付けられているようである。
山之神坂を下りきると今度は「しゃれこ坂」とある。
中山道 しゃれこ坂(八町坂)
曲りまがりて、登り下り猶三四町も
下る坂の名を問えばしやれこ坂という
右の方に南無観世音菩薩という
石を建つ
向うに遠く見ゆる山はかの横長岳
(恵那山)なり
大田南畝、壬戊紀行
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「しゃれこ坂」の謂われについては、記されていなかったが、別名の八町坂は坂が8町続くからだろうと想像出来る。次なる坂は地蔵坂とある。そーいや東京の向島にも地蔵坂商店街というところが有り、どこを見渡しても坂が見あたらないのだが、こちらは間違いなく重力と立ち向かいながら一歩ずつ確実に高度を上げていく坂道である。
加えてとても分かりやすい事にこの坂の名の由来となったであろうお地蔵さんが建っている。
ただ、ちょいと変わっているのはこのお地蔵さんの名が「尻冷しの地蔵尊」と名付けられている事である。
十三峠尻冷しの地蔵尊
昔の旅人にとって道中の飲みと水は大切でした。
山坂の多い十三峠では特に大切であり、ここの
清水はと大変貴重とされました。この地蔵尊は、そ
んな清水に感謝して建てられたものですが、ちょ
うど清水でお尻を冷しているように見えるとこ
ろからこんな愛称で親しまれてきました。
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中山道 尻冷やしの地蔵尊
地蔵坂という坂を上れば右に大なる杉の
木ありて地蔵菩薩たたせ給う
壬戌紀行
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尻冷やしの地蔵尊から歩いて2分ほどで丁度時刻は14時ジャストになった。今度は三十三観音と記された案内板が出ている。石室の中に観音様が気の毒になるほどぎっしり並んでいる。本当に今日はちょっと歩くとイベント満載で、昨日日本ライン今渡から伏見までの何もない区間を歩いたときとはえらい違いである。
十三峠の三十三観音
険しい山坂の連続する十三峠は、旅人ばかり
でなく、宿や助郷の人馬役のものにとっても大
変な道でした。この観音仏は人馬の道中安全を
祈って建てられたものですが、寄選者の中に定
飛脚才領中や中馬連中の名もあり、中山道にあ
る石造物の中でも学問上貴重なものの一つです。
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 権現山一里塚その一
 権現山一里塚その2
 樫ノ木坂石畳
 大久後の集落
 杉木立
 これより藤
 ばばが茶屋跡
 藤村の高札場
 里すくも坂の石碑
 里すくも坂
 紅坂の石碑
 紅坂の石畳
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ふと見ると木立の奥にネットが張ってあり、足下にはゴルフボールが転がっている。どうやらゴルフ場の中を歩いている様である。まぁおいらはゴルフしないので落ちているボール拾い集めても何の得にもならないから一つ一つ丁寧に昨日今渡のコンビニで買ったサインペンにて「俺様のサイン」をし、コースに向かって投げ返しておいた。
ゴルフ場からしばらく歩くと巡礼水と記された水場があった。案内板によれば旅の巡礼の命を救ったとあるが、落ち葉の浮かんだばっちい水たまりにしか見えない。
十三峠の巡礼水
旅の巡礼がここで病気になったが、念
仏によって水が湧き出して生命が救かっ
たと伝えられています。
僅かな清水ですが8月1日に枯れるこ
とはないといい、旅人たちから「十三峠
のお助け清水Jとして大切にされてき
たものです。
|  十三峠の巡礼水 |
巡礼水をより歩くこと2分あまりで、権現山一里塚に辿り着いた。大事に残されてきたのか、ずっと放置され続けたのかよくわからないが、今ではありがたいことに塚に生えた草を刈ってくれる人まで居るようである。
しかもご丁寧に灰皿まで用意されているので一服。
権現山—里塚
江戸へ90里、京都へ44里という道標で
樫ノ木坂—里塚とも呼ばれ、石畳とともに
中山道当時の姿を偲ばせてくれます。
この一里塚は慶長8〜9年十三峠の新設
工事とともに築かれたものですが、瑞浪
市内の4ケ所のように完全に残っている
例はなく貴重です(市県指定史跡)
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一里塚は当時の姿かも知れないが石畳は割と最近に復元されたものの様である。
などと思いつつ石畳の坂を下っていると、見るからに中山道を歩いていますといった風体の二人の旅人さんとすれ違ったのでご挨拶。おいらは下りだから良いが、坂道をゼイゼイ息を切らしながら登っているときに挨拶されるのは迷惑以外の何もんでもない。特に下りの団体さんとすれ違うときなんか「代表者一名で結構!!」ってな感じで軽く殺意なんか覚えます。
現在14時15分だったりするが、おいらが駅のある御嵩を出てから5時間半経過しているから、おそらくここから2時間半で辿り着ける細久手で一泊と言ったところだろう。
まぁ旅籠に泊まるのも魅力的だが、おいらのように一人旅だとどうしてもビジネスホテルに足が向いてしまう。
一里塚が残されているほど手を付けられていない中山道だが10分も坂を下っていくと視界が開け畑やら家とか現われた。大久後とかいう集落らしい。そんなわけでそれほど人里離れた所を歩いているわけでは無いようだ。
集落を過ぎ、春先には目ん玉かゆくなりそうで近づきたくないが手入れされた杉木立の中を丸太で土留めした階段を下っていく。もうかなり膝がガクガクなのでちょっとしたことでひっくり返りそうで怖いので用心しながら一歩一歩下ってゆくと再び視界が開け、傍らにある石碑には「これより藤」と記されている。その手前に大久後まで1km、所要時間30分と記されていたが、膝の笑いが止まらない俺様ですら12分位しか掛かっていない。まぁ時間の読みが相当甘いというか、えらく余裕見過ぎだと思う。
で傍らにある木の樹液で黒ずんだ案内板には恵那市と書いてあり、よく目をこらして現在地を確認すると、ここは瑞浪市と恵那市のほぼ境界となるらしい。で案内板の内容を転記しておく。
中山道
中山道は、江戸から京都に至る街道で慶長7年(1602)から江戸幕府によっ
て整備が始められた。中山道は、いわゆる五街道の一つであるが,特に江戸
と京都を結んでいるため東海道に継ぐ重要な幹線道路であった。東海道が海
沿いの道であるのに対して、中山道は、武蔵、上野、信濃、美濃、近江を通
る山の道でもあった。また、木曽を通るためか、木曽海道・木曽街道・木曽
路・岐蘇路などともいわれた。
中山道の道程は、135里13町余(約532km)、69宿とされるが、このうち草津か
ら京都までは、東海道を通るので中山道白身の道程は、江戸日本橋から東海
道草津宿までの67宿、128里13町3間(約504Km)である。
当時、中山道を通行することになっていた大名は、加賀の前田家、美濃苗
木の遠山家、美濃加納の永井家など30家であった。これは、東海道を通行す
る大名家の数に比べれぱ5分の1で,あるが、中山道は、姫街道とも呼ばれ、
皇室や公家の姫君が将軍家に嫁ぐときに必ず通行する街道であった。なかで
も文久元年(1851)の和宮の降嫁は、中山道はじまって以来というほどの大通
行であった。
中山道第46書目の宿場である大井宿(現恵那市)がら次宿の大湫宿(現瑞浪
市)までの間3里半は、十三峠と呼ばれる坂道や峠道の続く険しい道で、往
時の面影をよく残している。槙ケ根一里塚、紅坂一里塚、権現山一里塚など
現在では極めて数が少ない一里塚がほぼ当時のままの姿で残っているのもこ
の区間である。
平成3年3月 文化庁・恵那市
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この区間、例えるなら東海道歩いた人ならわかるだろうが、例えるなら小夜の中山みたいなアップダウンが延々続き、関−水口より長い区間で交通機関絶無で、箱根の西坂のように、飲食店無し、コンビニ無しって感じのもう行き倒れて下さいって感じである。
とは言え、かつてメインストリートだった頃にはこんな山の中に茶屋なんか有ったようで「ばばが茶屋跡」で解説がばあさんが茶屋を開いていたとある。こんなところに茶屋が有ったという驚きより、婆さんが茶屋開いていたからといって「ばばが茶屋」というのはストレートすぎるし余程インパクトのある婆さんが店を開いていたんだろうなとか、気の遠くなるほど長生きした婆さんが茶屋を開いていたか、初代婆さん二代目婆さん・・・と代々婆さんが店を切り盛りしていたとかトンでもなく妙な方向に想像力がかき立てられてしまう。
ばばが茶屋跡より坂を下っていくと10分ほどで人里に出た。するとベンチなど備えた深萱立場跡があったので一服。
深萱立場
深萱立場には数軒の茶屋があり、
多くの旅人たちの憩の場となっでいた。
特に立場本陣は和宮をはじめ多くの姫
君や大名行列の殿様が御小休みされた
家である。この道は大井宿と大湫宿の
三里半(約14Km)を結び十三峠という。
尾根づたいの展望のよい、土道が続き
、途中には一里塚や石仏や多くの茶屋
跡などが残り、今でも往時の面影のよ
く残る道である。
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まぁそれは良いのだが案内板を見ると道中ち○ち○石というのが有ったようだ。また○ん○んとは持ってこいのネタだが、気づかず素通りしてしまったらしい。残念。
深萱立場
立場とは、宿と宿との間にある旅人の休息所で、
「駕籠かき人足か杖を立てて、駕籠をのせかつ
ぐ場所」と言われている。 深萱立場は大井宿
と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶
屋など10余戸の人家があって、旅人にお茶を出
したり、餅や米おこわといったその土地の名物
を食べさせたりしていた。立楊本陣は、大名な
ど身分の高い人の休息所で、門や式台の付いた
立派な建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋
で、軒を深くして、雨や日光が馬にあたらない
ような工夫がされていた。
恵那市教育委員会
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深萱立場本陣(加納家)
平成15年3月
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さらに歩くこと数分にて車が普通に通れる道路に出ると復元された藤村高札場が復元されていた。
高札場は村のうち人通りが多く目につ
きやすい場所に、一村一か所建てるのが
普通であるが、この藤村や竹折村のよう
に二か所に建てた村もある。高札には親
子・キリシタン・毒薬・火付・徒党・駄
賃銭など多くの札があるが、藤村のこの
高杜場には二枚掛けてあった。
〔享和元年(1801)頃〕
|
高札場の管理は藩に命じ、村人にはき
まりを厳しく守らせ、この前では笠など
取らせ礼をさせるなど厳重に取り締らせ
ていた。
(この高札は当時の大きさで尾張藩用の
ものを書写したものである。)
|
藤村の高札場からしばらく車道を歩き再び山の中へ入っていく。入り口には里すくも坂の石碑があるが云われについては何も記されていなかった。一体幾つの坂を今日は上り下りしたんだろうか。と思ったら今度は紅坂と刻まれた石碑ある。
写真では落ち葉に埋もれてわかりにくいが石畳である。落ち葉に埋もれた石畳というと雰囲気を醸し出していて良い感じだが、実際に歩く時は落ち葉に埋もれて見えない石畳の隙間に足を突っ込むとえらいことになるので油断は出来ない。
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 紅坂一里塚その一
 平六坂の石碑
 平六坂
 大名街道
 中山道
 乱れ橋と乱れ坂
 首無し地蔵
 下街道
 中央高速
 国道19号
 まもなく大井宿
 大井宿
 中野村庄屋の家
 サッポロビール
 中野村庄屋の家
 大井宿
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紅坂を登っていくといつしか歩きやすい砂利道に代わり木立の切れ目の開けた所に一対の小山が見えてきた。黒ずんだ木の看板によると紅坂一里塚というらしい。
一里塚より五分ほどで平六坂へ到着。傍に平六茶屋跡という標柱があったのでこれが由来だと思われる。先ほどからなんたら茶屋跡とか記された標柱があちこちにあり、良く見れば平らに整地されているのでなにか建物が有ったようである。
平六坂を下りT地路の脇に看板がありここが大名街道と中山道の分岐点となっていたらしい。
大名街道
岩村からの大名街道はこの地点で
中山道と結ばれていましたが現在
では開発されたリ、人々の交通路が
変わってきたことなどによって草深
くなっています。
大名街道は岩村藩主が江戸への参
勤交代のときに使った道です。
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今なら国道363号使って中津川に出た方が良いような気がする。このあたりまで来ると電車の走る音が聞こえ、地図を見ると線路まで1kmもないが駅まではまだ遠い。
時計を見ると15時27分。御嵩駅を出てから7時間15分くらいで乱れ橋に辿り着いた。案内板とベンチがあったので、まずはベンチで休憩。歩数を見るとここまで約四万歩、距離28kmと表示されており、これだけ登ったり下ったり繰り返しながら時速4kmペースを維持できたのは我ながらたいしたものである。
実はこの旅の四ヶ月後に中津川〜妻籠を歩いており、それに較べると琵琶峠や十三峠は今思えばまだまだ序の口だった。
でベンチで一服して英気を養った俺様は看板に目をやった。
乱れ坂と乱れ橋
大井宿から大湫宿までの三里半(約14km)には、西行坂
や権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠と
いう。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が
乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の据も乱れるほどであったた
めに「乱れ坂」と呼ぱれるようになったという。このほかに
「みたらし坂」とか「祝い上げ坂」ともいう。
坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急
流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長
さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。 この橋は「乱れ橋」あ
るいは「祝橋」といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき
2文ずつ銭を徴収する有料橋のときもあったという。
平成15年3月
恵那市教育委員会
|
乱れ坂を登り切ると、首無し地蔵というまた奇怪なものがあった。で、写真を撮ったら、画面左側にお地蔵さんの真上のお堂の屋根から地面に向かって何やら光りの柱みたいなものが写っているじゃんか。
こっ怖くて夜中にトイレいけないじゃんか
首なし地蔵
この地蔵様は宝暦六年(1756)地元(武並町美濃)
の人たちが、旅行者の道中安全を祈って立てたものである。
その後.地蔵様は、下街道ぞいの丘の上に移され、春の桜
の頃に地元の人たちが集まって、盛大な祭典を行っている。
この地蔵様にはこんな話か残っている。
昔、二人の中間(ちゅうげん)がここを通りかかった。
夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰
で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。
しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切ら
れて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれら
しき犯人は見あたらなかった。怒っだ中間は「黙って見て
いるとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落し
てしまった。 それ以来何人かの人が首をつけようとしたが
どうしてもつかなかったという。`
|
傍によって、首の切断面を見たがなんだか切ったというよりポロリと落ちてしまった様に見える。また石膏とか漆喰で繋げようとした細工の跡も見られなかった。
だいたい石で出来た地蔵の首をぶった切る刀って、石川五右衛門の斬鉄剣位しか無いだろ。
しかも、「黙って見ているとは何事!」と言ったって「あんたの連れが刺されそうですけど」って忠告したり、眠っている人を起こそうと耳元に息を吹き掛ける様な様な地蔵はいないと思う。
で突っ込みどころ満載の首なし地蔵より歩くこと10分ほどで「下街道」の分岐点に辿り着いた。
下街道
中仙道を上街道といい、ここで分
かれて下る道を下街道と呼んだ。
下街道は竹折・釜戸から高山(現
土岐市)・池田(現多治見市)を経
て名古屋へ行く道である。
この道は途中に内津峠の山道があ
るがヽ土岐川沿いの平担地を進み、
付近には人家も多い。そのうえ名古
屋までの距離は上街道より四里半(
約一八里キロ)近かった。そのため下街
道は一般旅行者に加えて商人や伊勢
神宮の参拝者も多く大変にぎわった。
しかし幕府は中仙道の宿場保護の
ため下街道の商人荷の通行を禁止し、
尾張藩も敵しく取締まったが徹底す
ることができず、幾度も訴訟裁定を
繰り返した。
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さっきの大名街道と対比して下々の者が通るから下街道かと思えば、実は中山道を上街道、ここから内津峠を経て
名古屋、伊勢方面へ向かう道を下街道と呼んだとのことである。
分岐点には明治以降に建てられたと思われる道標があり「左 伊勢名古屋 右 西京大坂 道」と記されていた。
まぁ今だって恵那から名古屋向かうなら、R19なり中央道なり内津峠越えるのが普通で、R19からR21を経て名岐バイパスで名古屋入りすると遠回りになるもんな。
でなにやら案内板があるので眺めてみると、かつてここは伊勢神宮遙拝所であり、中山道を旅する人のうち、時間的に都合が付かなかったり、行こうにも金がないという人たちはここから伊勢神宮に向かって拝んで間に合わせたとのことである。
伊勢神宮遥拝所
京都から江戸へ旅をした秋里離島
は、そこ様子を文化二年(一八〇五)
に「木曽名所図会」という本に書いた。
そしてその挿絵に槙が根追分を描
き、追分灯籠の横に注連縄を張った
小社を書いてしいる。
ここにある礎石は絵にある小社遺
構であろう。
伊勢神宮参拝の人はここで中
山道と分かれて下街道を西へ行
ったが、伊勢までの旅費や時間
のない人は、ここで手を合わせ
遥拝したという。
|
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でまたまた看板があったので眺めてみると、ここは中山道と下街道の追分であり、伊勢神宮遙拝所があり、おまけに立場まであった様である。
槙が根立場
ここは中山道槙が根追分である。 東へ七本松坂や西行坂を下って中野村を過ぎ、
阿木川を渡れば大井宿てあり(この間約一里)、西へ約二里半(約一〇キロメートル)
深萱立場や炭焼場の十三峠を越せば大湫宿である。 ここで中山道に分かれて西に下
る道は、竹折や釜戸を経て内津峠を越せば名古屋や伊勢方面に行くことができ「下街
道」と呼んでいた。 江戸時代ここは中山道の通行者に加えて、木曽や尾張方面の商
人荷、それに善光寺や伊勢神宮等の参拝者が行き交い、付近一帯に道をはさんで多く
の茶屋があり、巻が根茶屋とか槙が根立場と呼んでいた。
享和二年(一八〇二)三月この地を通った太田南畝は、著書「木曽の麻衣」にこの
あたりの様子を次ぎのように書いている。
「石ばしる音すさまじき流れにあり、わたせる橋をみだれ橋という。みたらしの
坂というを上る事五六町にして、山のいただきより見れば、左右の山ひきく見ゆ。
ややくだりゆきて右の方に石の灯籠ふたつたてり。いせ道と石にゑれり。ここに
仮屋して伊勢大神宮に棒納の札をたつ.道のへに一重桜さかりなるは遅桜なるべ
し。一里塚をへて、人家あり。巻かね村という.追分立場というは木曽といせ路
の追分なるべし。ここにもお六櫛をひきてひさぐ。なおも山路をゆきゆきて又一
里塚ありはじめの道にくらぶれはいと近し。松の間をゆさて六七丁も下る坂を西
行坂という。左の山の上に桜の木ありて西行塚ありという。円位上人は讃岐の善
通寺に終わりをとりぬときくに、ここにしも塚あるといかがならん折から谷の鴬
の声をきくもめづらしく、頃は弥生の末なるに遺覧在野という事も引いてでつべ
し。砂石まじりに流るゝ水にかけじ板橋を渡りて中野村あり・・・」と。
中山道の整備は初め慶長七年(一六〇二)、徳川幕府役人大久保石見守を総奉行
としてなされた。 その時の道はこの槙が根追分から西に下り、竹折—釜戸を経
て御岳宿へ出た。ところがその翌年ここから西へ真っ直に行く道が改修され、慶
長九年(一六〇四)十三峠を越す道が完成し、大湫宿が設置された(細久手宿の
設置は慶長一一年である)。 その後一里塚を築き塚の上には榎や松を植え、
街道の両側に松などの並木を植えて完備した。 その後この地の藩主や村々の農
民の手による補修により、江戸と京都を結ぶ幹線道路として、その機能をはたし
ていた.絵図は「恵那郡中野村中山道家並絵図」(幕末、個人蔵)から槙ケ根立
場の部分を抜粋したもの
平成三年三月 文化庁恵那市教育委員会
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槙が根立場の茶屋
江戸時代の末頃ここには槙本屋・
水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・
伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸
あった。そして店先にわらじを掛け
餅を並べ、多くの人がひと休みして
また旅立って行ったと思われる(旅
人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、
茶屋の宿泊は禁止されていた)。
これらの茶屋は、明治の初め宿駅
制度が変わり、脇道ができ、特に明
治三五年大井駅が開設され、やがて
中央線の全線が開通して、中山道を
利用する人が少なくなるにつれて、
山麓の町や村へ移転した。
そして今ではこの地には茶屋の跡
や古井戸や墓地などを残すのみとな
った。
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 茶屋跡 |
というわけでかつて茶屋が9軒も軒を並べていたとは思えないほど静かな山の中の立場跡を過ぎて採石場だかなんだか10tダンプが行き交う広い道にでて道路を渡って右側になんか看板がある。
西行塚・・・・・・・・
醒ヶ井で茶屋のおねーちゃんと良いことした挙げ句、出来ちゃったガキンチョを始末したエロ坊主がこんな所に埋まっているのか。
西行塚
ここから東、1.3km先に西行塚がありま
す。西行法師は、大井で死んだという伝説が
古くからあり、中山道すじに室町時代の供養
塔だといわれる五輪の塔があります。また西
行葬送の寺といわれる大井町の長国寺には西
行の最後の模様をくわしく記した慶長19年
1614)の古文書があります。
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でこの西行塚の案内板に引き寄せられて、ついでに「東海自然歩道」の標識に釣られて右に曲がってしまったが、後で気づくのだがこれがまた間違いで、中央高速沿いに歩いて坂を下ったところで高速の下をくぐって国道18号に出た。
なんか物足りなさを感じつつ、国道19号を歩きながら信号で止まったのをきっかけに地図を確認すると、曲がるところを間違えてしまったことがわかった。
まぁいっかと、恵那インターの脇を抜け、国道19号に出てから約20分ほどで中山道に復帰。
合流点には中山道大井宿について記された看板があった。
中山道大井宿
中山道は江戸幕府が定めた五街道 (東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中〉
の一つで、中部山地を越えて江戸から京都へ通じていた。この街道は木曽を道るため
木曽街道ともよばれ, また、江戸の将軍家へ嫁ぐ公家の姫宮が通行したので姫街道と
もよばれた。姫宮の通行では、文久元年(1861)の和宮降嫁の大通行が名高い。
東海道が海沿いの平担な街道であるのに対して、中山場は山間部を通るため道が険
しく、距離も長い中山道の宿駅は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、
東海道の宿駅である草津、大津の両宿をいれて69宿という場合もある。江戸から京都ま
ではl32里10町(約520Km)で1日7里から10里(28km〜40km)歩いたとして13日から18
日の行程である。 大河川を渡ることの少ない中山道では川止めを受けることはまれ
で、好んでこの道を通る人もあった.しかし.碓氷峠・和田峠・鳥居峠・十三峠とい
った険しい峠や山道が多く旅人にとって困難な街道であった。 美濃を通る中山道は
およそ30里(約120km)で、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嵩・伏見・太田・
鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須の16宿があった。大井宿は、
名古屋、伊勢に向かう下街道の分岐点に位置する交通の要衝であり,中山道46番目の
宿場として41軒の旅籠が立ち並び、美濃16宿中随一のにぎわいを誇った。
現在、かっての大井宿は恵那市街地の一画を成しているが, 今でも他の宿場には例の
ない6か所の枡形、本陣の門と松、旧旅籠屋などの建物がみられる。大井宿から西の武
並町深萱までの中山道は昔日の面影を多く残し、西行硯水・西行塚・槙が根一里塚・槙
が根追分・姫御殿跡・紅坂一里塚など史跡も多い。
恵 那 市
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なるほど、東海道に較べると川越えが少ないというメリットがあるのか。
そういえばここまでの川はほとんど船か橋で越えており、大井川の様に人足により川越えするような所は無かったような気がする。
さて西行硯水を通り過ぎ、橋を渡ると古い街並みが続いている。その中で一際風格の有る家に何やら看板が掛かっている。
「中野村庄屋の家」の後に続く解説を見ると・・・・
和宮様御降嫁の折、宿場町は準備やらなんやらで大変だったが、その際大湫宿の助郷となっていた野井村が賄役に無理矢理任命された。これにブチ切れたお百姓さんが和宮さん通過後、ここに逗留していた岩村藩代官を斬りつける事件を起こした。これをきっかけに野井村はお偉いさんが通る度に賄い役を申しつけられちゃかなわんと裁判を起こしたところ村の勝利となり代官は罷免されたと記されている。
今でこそお上相手に裁判起こして勝訴というのはよくあるが、当時代官相手に喧嘩売って勝ってしまうというのはとっても珍しいケースであろう。
とりあえずぼちぼちゴールなわけだが、なにやら一際目立つというか一種威厳さえ感じさせるような
と記された看板が酒屋の軒に堂々と掲げられていた。あまりの威容にしばし足を止めパチリと撮影。
ただこういった風景も恵那駅に近づくに従い消えていき16時49分駅前に向かった道との交差点で今日のゴールとした。
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