中山道 恵那駅〜中津川駅

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年3月11日大井〜中津川3時間46分17776歩12.44km14667円
まえがき
というわけで今日の予定では恵那駅を出て歩いて17時くらいに中津川駅に着いて駅前の宿に荷物を置いて再び中央本線に乗って名古屋に向かい、一杯やってから再び中津川に戻り明日に備えて寝るという余裕が有るのか無いのか本人にすら皆目見当がつかないスケジュールである。
しかも早めに出てETC深夜早朝割引を駆使し、浜松あたりで時間が取れたら姫街道と東海道の追分から三方原まで散歩する目論見だったのだが雨に降られてしまいこちらは断念。
浜松ICを降り迷走しつついつの間にやら国道257線を爆走し、岩村を経由して国道363号に入り中津川を目指すが、R19までもうちょいの所で通行止めを食らい、再び迷走しつつ中津川に到着。
とりあえず最低限の装備だけリュックに背負い、後は車に残して駅前の駐車場に車を止めて、中津川駅から中央本線で恵那を目指した。

13:24スタート

中山道安藤広重美術館

大井宿の街並み

阿木川に掛かる大井橋

枡形

庄屋さんち

宿役人の家

お雛さま

大井宿本陣

高札場

上宿石仏群
恵那駅で降り、中津川は雨は止んでいたがこちらは結構雨が降っているので折りたたみ傘をリュックから取り出すと骨が一本折れていた。
コンビニで大きめの傘でも仕入れようかと考えたが、止んでしまえばただ荷物になるだけと思い、前回のゴール地点を13時24分スタート。
ん?前に見えるは中山道安藤広重美術館・・・・。
どうやら中山道と平行する通りを一本間違えた様だが、この雨の中引き返すのも面倒だし最初から寄る予定でいたのでこれ幸いと立ち寄る事にする。
こういったときにクソ荷物抱えていると鬱陶しいのだが、受付の横にコインロッカーなんぞあり、しかも利用後は返金されるので実質無料という素晴らしい設備を有している。
身軽になった俺様は一通り展示中の浮世絵を鑑賞するのだが、描かれる人物が男の場合は個性豊かにユーモラスに描かれているのだが、女性はなぜか顔が同じ様な感じである。今より美人の定義が厳格だったのだろうか?
今日は17時までに8km歩けば良いので、時間もたっぷりあるしと浮世絵の体験コーナーで遊び、浮世絵の行程と作業分担やらを端末を通して学び時間を潰しおみやげに浮世絵の絵はがきでも・・と物色したが、何も考えなくて良いセット物が無いので撤収。
中山道安藤広重美術館で時間つぶし鑑賞している間に小やみになっていないかなぁと外へ出ると一段と雨は激しさを増しており、俺様のほのかな期待は見事に裏切られた。
で再び駅の方に向かうと、街路灯に中山道と記されており多分こっちだろうと言うわけで14時14分に街道に復帰。
阿木川に掛かる大井橋から上流の方向を眺めあっちの方から下ってきたんだと感慨にふけりつつ、大井宿について記された看板が有ったので見ると・・・・
         中山道大井宿のあらまし
 中山道大井宿は.江戸から87里(344km)46番目の宿場で、京都へは
47里(188km)のところにある。中山道と名古屋・伊勢に向かう下街道の
分岐点である槙ケ根追分に近く、中山道の旅人のほか、伊勢参り・善光寺参り
や尾張商人、尾張に向かう木曽の牛馬の荷などが通り、美濃16宿中随一の繁
栄を誇っていた。
 宿は東から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場という5町に分れ、東の高札場
から西の大井橋まで6丁(710m)あった。それぞれの町は、街道が直角に
曲がるいわゆる桝形によって区切られていた。大井宿ではこの桝形が6か所も
あって、中山道随一の整然とした町割りを形成していた。
 宿内には本陣や脇本陣・問屋のほか・旅籠屋・茶屋・商売屋など天保14年
(1843)の記録では家数110軒(466人)が軒を並べていた。本陣、脇
本陣は大名や公家の姫君が宿泊するため門構えと玄関を備え、書院付き上段の
間のある豪壮な建物であった。旅籠屋は41軒あり、寺社などの参詣費用を積‘
立る講の指定宿である講宿や近江商人の定宿も多くあった。旅寵屋の中には門
構えや式台、特別な客室のある大型の旅籠屋もあって一般の旅人ばかりでなく
武士も利用したと思われる。草鞋や蓑、砂糖もち、果物などを売る茶屋は8軒
あった。宿場は旅人が宿泊するだけの場所ではなく、街道を往来する諸荷物の
集積、中継という重要な役割をになっていた。この役割を果たすのが問屋で、
大井宿には本町に上下二つの問屋があり、半月交代で宿役人が詰め、仕事の指
図をしていた。
 大井宿の西側を流れる阿木川にかかる大井橋は長さ23間(41m)、幅2
間(3.6m〉の欄干付きの木橋であった。この橋ができる天保年間以前は阿
木川の真ん中に石の小島を作り、そこに両岸から橋をかけて川を渡っていたの
で中島橋ともいった。
                          恵 那 市
                          恵那市教育委員会


うーむ。さっきの橋から東が大井宿なのね。で枡形を曲がりしばらくの所に家の前に案内板のあるおうちがあったので、立派な造りからして本陣かと思ったら庄屋さんだった家とのことである。

大井村庄屋古屋家
 当家は江戸時代には商業を営み、
天保元年から二〇年間ほど庄屋を勤
めた家柄である。
 この家は間ロ一五間(約二七m)・
奥行三一間半(約六五m)の敷地で、
街道に面した右側に表門があり、そ
の奥に玄関・式台がつき、茶室に続
いて一五畳二間続きの特別客室があ
る。 この部屋は二室共に床の間と
違い棚がつき、畳敷廊下の外が庭園
に続く広大な屋敷であった。
 母屋や塀は柱・梁・たる木も土壁
で塗り、北側屋根に卯建をつけ、
そのうえ北側の土塀は厚さ約、三〇
㎝の火防壁としで、全体が火災予防
の建築となっている。
恵那市,恵那市教育委員会
庄屋の家からちょっと離れて、旅籠と木賃宿についての解説板が旅籠の写真とともにあった。写真は明治初年との事である。

旅籠屋角屋(見付屋) 明治初年撮影

旅籠屋と木賃宿
 食事付きで泊まるのは旅籠屋だが、
食事無しの宿泊は木賃宿である。
 写真は旅籠屋角屋の正面だが、木
曽路に多い出桁造となり、取外しの
できる格子戸がはまり、軒には講札
が多くかけてある。その右側は特殊
な方の出入り門となっていた。

恵那市、恵那市教育委員会
さらに宿役人の家との説明が掲げられた家があり、荷駄や飛脚などの事務処理を行っていたとのことである。
で程なく中山道ひし屋資料館にたどり着いた。今回は3月ということで雛人形の特別展示を行っているとのことである。
平日でしかも天気も宜しく無いせいか俺様貸し切り状態だった。

大井村庄屋古山家
 古山家は江戸時代に屋号を「菱屋
」といい、酒造と商売を営業してい
た。そして享保年間から幕末まで約
一五〇年間、大井村の庄屋を勤めた
旧家である。
 屋敷は間ロ一〇間半(約一九m)
・奥行三五間(約六三m)の敷地の
中に、一四畳・一〇畳・八畳の部屋
など合計八室、それに土蔵をもつ広
大な建物があった。
 今の建物は明治初年に上宿より移
築したもので、前面に太い格子をは
め、はねあげ式の大戸が付き、奥座
敷には床の間・違い棚・書院・入側
廊下のある一〇畳二間が続き、江戸
時代の雰囲気を色濃く残している。
  恵那市・恵那市教育委員会
で中は特別展の年代物のお雛様のほか、中山道が江戸初期に十三峠を通るルートに変更された事について記されていた。
なんでショートカットとは言えこんな山の中を通るのかと思ったが中津川から馬篭、妻籠を歩いた後に考えてみると十三峠はそれほど高低差が無く、普通のハイキングコースレベルである。

十三峠の改修と大湫・細久手宿
  慶長七年(一六○二)、中山道
 が整備された。この時は大井
 宿−釜戸−日吉−御嶽宿の
 道筋であったが、その翌年、十
 三峠を改修して新しく中山
 道とした。
  この道は御嶽宿まで八里
(三十二キロ)ほどあったので、
 慶長九年(一六○四)、大井宿
 から三里半(十四キロ)の所に
 大湫宿を新設。さらに慶長
 十一年(一六○六)には、その先
 に細久手宿を設けた。
 

でざっと一回りしてトイレ拝借して撤収。で表に出てしばらく歩くと本陣跡があった。
大井宿本陣跡(岐阜県史跡)
大井宿は中山道48番目の宿場で整然とした6個所の桝形のある独特の
町並みをしていました。最盛期には45軒余の旅籠があったといわれて
います。本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところ
で門構えや玄関、式台があり他の旅篭屋とは大きく違っていました。
本陣は各街道の宿場に一軒あるところや2軒あるところなどがありまし
た。本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣に休泊しました。
大井宿本陣は、残念ながら昭和22年_に母屋部分は火災で焼失してしま
いましたが、幸いにも本陣の表門周辺は焼けのこり、安土桃山様式を
伝えるこの門を今に見ることができます表門は他の本陣に此べるとや
や小ぶりですが、屋根は反りをもたせた瓦葺きで 破風板や小屋組みの
細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。門の傍らに立つ松は樹齢
300年を越すと思われ老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐ
ったのを見ていた事でしょう。
本陣跡を過ぎ坂の途中に高札場があった。
 高札は制札ともいい徳川幕府が農民や商人を
取り締まる基本的なきまりを公示したものである。
 高札場は村のうち人通りの多い目につきやすい
場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や上盛
りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そ
して管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳し
く守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
 高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、
年号の変わるたびに行われたが。あまり頻繁てあ
ったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳
元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。
そして慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に
掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。
 大井宿の高札場はこの坂の上にあり,高さ2間
(3.6m)巾2間半(4.5m)の大形のものであった。
  (この高札場は原寸を3/4に縮少したものである。)
             恵  那  市
             恵那市教育委員会
 
明智線のガードをくぐり、坂を登っていく途中にやたらとお地蔵さんが並んでいた。
中山道大井宿  上宿石仏群
 昔の人は神仏に病気の治ることを祈ったり、村境に地蔵
菩薩や塞神を立てで、病魔が村へ入らないように願うこと
が多かった。
 ここは上宿で大井宿を一望できる位置である。 そこで宿
の人達はここを宿場外れとして数多くの石仏を立て、病気
平癒とともに悪病や悪人の侵入を防ぎ、宿内の無事息災を
祈ったのである。
 特にここにある痰切地蔵は「がいき(風邪)をひいたらたん
きり地蔵さまを拝め」といい昔から多くの参拝者があった。
 一番左側に立つ碑の徳本は、紀州(和歌山県)日高で宝暦
8年(1758)に生れ、文化・文政(1804〜1830)の頃、この地方
に来て念仏教化を行い、多くの信者を得た高僧である。
恵那市・恵那市教育委員会

 


坂の上からの大井宿

中央高速先の分岐

関戸一里塚跡

傘で遊ぶ子供

また上り坂

シラサギ?
というわけでさっきの石仏群が宿境となるらしい。この雨の中、ハイキングコースのような道とか獣道となると辛いがどうやら 普通に車が走れる道が続くようである。 坂を登り中央高速を橋で越え、地図を確認すると右手の道を行くらしい。
しかし分岐点にはご丁寧に標識なんかあるので地図は無用と思われたが、御嵩〜大井の様に東海自然歩道の標識につられてコースアウトしかねない。
で標識によると200m程で一里塚・甚平坂とあり、三分ほどで関戸一里塚跡の石碑に到着した。石碑には「江戸日本橋より八十七里」と刻まれており、ゴールの日本橋まで350kmってことは、仮に一日35km歩いてもあと10日掛かるわけである。
関戸一里塚の石碑の近所には小学校なんぞあり、下校中の小学生が傘を逆さに開いて戯れていた。こうやって逆さに開いた傘に雨水を蓄えて人にぶっかけるのだが、余りため込むと雨水の自重で傘が元に戻り、悪巧みした自分がずぶ濡れになるハイリスクな遊技である。
小学校を過ぎると、この雨の中においてありがたいことに屋根付きのベンチに加え、トイレまで用意されている休憩ポイントがあった。とりあえず一服して、用を足して戻るとなにやら甚平坂について長々と記された看板があり、どうやらこの休憩所から続くえらい急な下り坂のことらしい。
     甚 平 坂
 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道
であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり,あるとこ
ろは山の尾をめぐる谷の入ロである。一筋の街道は・・・」(夜明け前)
 中山道も木曽路を過ぎて馬籠宿から中津川宿・大井宿に泉ると.小高
い丘をいくつも横切って進む道となり、起伏は多いが空が広く展望のよ
い道となり、恵那山や御嶽山を見続けて歩くことのできる道となる。そ
のため昔の旅人はこの道を「尾根の道 眺めよし」といっている。
 ところがこの甚平坂は距離は短いが急な坂道で,長い間旅人には嫌わ
れていたが、明治になってようやく少しなだらかな坂道となった。
 明治十三年六月、明治天皇が伊勢方面の視察のために中山道をお通り
になることになった。そこでこの地の人たちは総出でこの坂の頂上を二
メートルほど掘り下げで坂の傾斜を少しなだらかにした。それによって
天皇のアラピア馬二頭だての馬車も無事に坂を越すことができた。
 甚平坂は根津甚平是行(禰津次郎惟之)に由来する名称である。
 根津甚平は鎌倉時代源頼朝の家臣で信濃国根津の郷の城主であった。
その頃大井に長興寺という寺があり、一体の観音仏をまつっていた。こ
の観音さまは昔聖徳太子が百済の香木に彫ったものといい、太子は法隆
寺の夢殿に安置してまつっていたが、ある日突然空に舞い上がり東方に
飛び、大井の里へ来た。里人はこれを寺に移したが、「総ての願いに御
利益があるが特に子どもに恵まれない人が祈るとすぐに子宝が授かる」
と評判になり、ひとびとはこの観音を「妊観音」といった。
 根津甚平は数々の忠功があったが四O歳になっても子どもがなかった。
ある日この話を聞いた甚平はさっそく妻と共に大尊の長興寺ヘやって来
て妊観音に七夜の祈りを続けた。そして観音の霊光を得て長子根津小次
郎惟清を授かることができた。
 喜んだ甚平は長興寺の和尚と相談して「昔行基が創建した、という長谷
教寺を再興する」こととし、寺の名を稲荷山長国寺とした。そして甚平
の守り本尊の運慶作の地蔵菩薩と夫人の聖観音等を寄進したという。
 今長国寺には根津甚平の「長国寺殿根津是行居士」の位牌と乗馬に使
用した馬の鞍と鐙が残っている。(長国寺縁起による)。
                      岐阜県
甚平坂の休憩所でカッパズボンを着用し、骨折した傘はなんとか絆創膏で補修し、万全?の備えをして再出発。
というわけで、このあたりはまるで土地勘が無いのに国道19号からも、中央本線や中央高速ともかけ離れたルートを進むので、一応曲がるべき所には案内があるとは言え何も無いと不安でしょうがない。
でなにやら川っぷちに木の看板が有るので眺めてみる。
    岡瀬沢と濁川
わたしたちの岡瀬沢は恵那市大井町
の東部一帯をしめる農業と住宅の
多い地域です。
 この岡瀬沢が一つの集落として
成立したのは江戸時代のはじめ頃
といわれています。
 それ以来、岡瀬沢を東西につら
ぬく中山道と、保古山山系から流
下する濁川によって、生活と生産
を維持し、発展させていました。
 濁川は約4km(一級河川の部分
のみ)の小河川ですが、流域面積
約7.7kmを占めていて、私たち
にとって、はかけがえのない大切
な川です。この川の流れと水質に
今こそ、関心を高め守っていきた
いものです。

濁川
というわけで何の変哲もないこのコンクリート護岸の濁川だが、案内板を見る限り別に合戦で3日間血が流れ続けたとか、川の水を巡って部落間の対立があったとかそういった歴史的背景は全くないようである。
岡瀬沢の信号を直進するとまたまた上り坂である。
坂を上りきると田んぼにシラサギよりちょっと一回り大きな鳥がいた。でその先は中津川市となる。

中津川市

茄子川バス停

建設途上の地下道

三ツ家一里塚跡

神明神社
15時22分、中津川市に入った。程なく茄子川焼と記された看板があり、明治末期までここで作られた焼き物が名物だったと記されていた。

茄 子 川 焼

                    
 茄子川焼は天正六年(一五七八)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪
の前窯場に来て、施釉陶器を焼いたのがはじめといわれています。
 天保三年(一八三二)広久手の丹羽九右衛門が先年より始めた陶器
作リの改良を図リ、土岐郡妻木村の加藤喜兵衛を師匠に迎えて磁器
製造を起こしました。同八年篠原利平治が同じ広久手で陶器作リを
はじめ、同十四年には諏訪の前で安田新吉が土地の人々に呼びかけ
て、磁器製造を興しました。
 茄子川焼が発展したのは弘化二年(一八四五)篠原利平治が越中
 (富山県)から来た水野粂造と共同で五室の連房式登り窯を築いて
からであります。人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成し
た、独特の風雅な味をつくリ出した奥州の相馬焼に似た「茄子川相
馬」でありました。
 明治に入って窯株制度が廃止になると、鯉ヶ平の藤井久左衛門が
鈴木栄八と共同で、九谷の職人を呼び寄せて、茄子川焼ではめずら
しい九谷風の茶器などを焼きました。
 販路は木曽、伊那、松本方面が多く、中山道を旅する人々には峠
の茶屋や窯元でも売っていて、村の重要産業として明治末期まで続
きました。
平成元年八月二十六日建之
茄子川焼の看板より歩くこと8分余りで「歴史の道 中山道 茄子川」と記された看板があり、それによると中津川宿と大井宿のほぼ中間点にあたるこの地は大名やらお姫さんが休んだ御休所が設けられていたとのことである。

歴史の道 中山道 茄子川

                    
 江戸時代初期の茄子川村は、御三家
筆頭の尾張徳川家・その給人の山村氏
(木曽方)・干村氏(久々利方)・そ
れに旗本馬場氏ら八名の入相支配地で
あり、村高千三百六十八石余は、この
付近でも大きな村の一つであった。
 中山道は村内を東西に縦貫し、中町
通りの西はずれにある常夜燈は、安永
五年(一七七六)に建てられ「是れより
あきはみち」と刻まれている。この常
夜燈が、遠州秋葉道との分岐点となっ
ていた。
 ここから、中津川宿まで一里二十三
町十一間(約六、四㎞)、大井宿までは
一里(約四㎞)の距離であった。両宿
間二里半六町(約一〇、五㎞)、中津
川・落合両宿間一里弱とくらべると、
長丁場のため、ここに茄子川御小休所
(篠原家)がおかれ、大名・姫宮通行
などの休憩所の役割を果した。

     中津川市教員委員会
上の案内板より2分ほど歩くと先に御休所として紹介された篠原さんちについての案内板があった。

茄子川小休所 篠原家

                    
篠原家は、加賀前田家の重臣篠原一孝の子、
弥右衛門が、17世紀の初め頃当地に移り住んだ
ことに由来します。
 篠原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄
子川村の村方役人、尾張領の庄屋、戸長等を歴
代にわたり務めていました。
ここから中津川宿へは一里23町(約6.4km)、
大井宿までは1里(4km)の距離があり、家
の脇には中山道から遠州秋葉道への分岐点を示す
大燈篭が置かれています。
 篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣
や脇本陣と同等な役割をにない、様々な文人
墨客の足跡も残されています。
 和宮、明治天皇が御小休した建物が現存し
休憩した部屋、厠、表門等は当時のままに保存
されています。

由緒正しい篠原さんちから歩くこと2分で「茄子川」バス停に到着。さらに歩くこと2分ほどで白木改番所跡の案内板に辿り着く。桧一本切ると首が飛び、枝一本で腕一本飛んだ時代であるから、こうした番所で厳重にチェックしていたということらしい。
                    

 この番所がいつ設けられたかは詳しい記録は
ないが、尾張藩が享保一六年(一七三一)茄子
川下新井に「川並番所」を設置した記録がある
のでこれに対応して設けられたものてあろう。
 寛政元年(一七八九)の「中山道筋路之記」
には「番所錦織役所支配」とあります。尾張藩
の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸
送は重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送
し、軽量材の傅木、土居等白木類は牛、馬によ
る駄送の方法が採られていました。
 木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道に
は「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と
量目の点検など厳しい取締リが行なわれていま
した。
 これ等の施設は明治四年(一八七一)廃藩置
県の措置によって廃止されました。

平成六年四月一五日 坂本地区文化遺産保存会
白木改番所跡より10分ほどで何やら道路左側に掘立小屋の様なものが見える。近づいて見るとどうやら道路拡幅に伴う横断地下道の様である。
だが肝心の道路は出来て無いし、かなり長いこと工事も中断しているようである。慢性的な渋滞が続く国道19号のバイパスならいざ知らず、見れば東西に道を造ろうとしており、西側はともかく東は恵那山にぶつかってしまうようなこんな所にわざわざ横断地下道をこしらえる必要が有るとは思えない。
まぁとにかく、現段階では入り口を塞いであるので雨宿りにも使えない無用の長物で有ることには間違いない。
この無用の長物の近所には草藪に埋もれた三ツ家一里塚跡の石碑があった。
一里塚より5分ちょい歩くと神明神社について記された看板があったが、看板だけ写して肝心の社殿は写さずになぜか中津川宿方向に向けて街道の写真を撮っているぐらいなので、雨の中を歩き続けたことにより相当なダメージを食らっているようだ。

中平神明神社

   
 この神明の森には、神明神社の他に、津島神社・妙見社の
二社がお祀りしてあります。神明神社には天照大神、津島社
には牛頭天王、妙見社には妙見菩薩をそれそれお祀りしてあ
ります。
 この神明神社は坂本神社八幡宮の境内社として、外に白山
社・熊野社・諏訪社の三社があったとされております。かつ
ての八幡宮の別当寺大智山願成寺の塔頭(わき寺)であった
十三房の一つである持宝院の棟札(元和七年辛酉九月十六日
 <一六二一>)が保存されているので持宝院とのかかわりか
ら想像して棟札年代以前からの社であったことが伺えます。
 この森にお祀りされるようになったのは明治初期からのこ
とてあり、それ以前はこれより東方約三百米先の神明沢の地
に祀られており、現地には神明神社旧跡地の碑が竹薮の中に
残っています。古老からの伝えによると暗夜密かに神明沢か
らこの地に移されたという。
 神仏混淆・神仏分離、さらに戦国時代に於ける戦火など
永い歴史の中には幾多の出来事がありましたが氏子の信仰
ぱ厚く、平成元年四月老朽化した社殿も新たに再建されま
した。
             坂本地区文化遺産保存会

六地蔵

上宿一里塚

中津川市街

中津川ゴール地点
というわけで思い起こせば御嵩宿出て以来、5分も歩けば何らかの史跡に出くわす状態が続いている中、15分もブランクをあけて登場したのが六地蔵。
この六地蔵から中央道中津川インターを入り口をぐるっと回り、R257とR19の分岐点を過ぎ、30分も歩いた所にあったのが上宿一里塚。時刻は17時まであと15分ほどとなっており、13時24分に歩き始めているってことは、ぼちぼち3時間20分あまりということになる。
一里塚より10分ほどで中津川市街を見下ろす崖の上に立った。さすがに俺様が「崖」と表現するだけに真っ直ぐな坂ではなく、曲がりくねって勾配を緩く作られていた。恵那を出て以来登ったり下ったりを繰り返した末、ぼちぼちゴールが見えてきた。・・・と思ったが住宅街に入ってからが結構駅まで遠く、とりあえず駅に近そうな交差点で17時11分ゴールとした。
駅前に続くと思った道が若干恵那寄りだったがまぁ途中に駅前駐車場より安そうな市営駐車場を見つけたのでまぁ良しとしよう。

まぁ若干の紆余曲折の末、駅に着き事務荷〜と四時間ぶりの再会を果たし、ではホテルに向かうかと駅前から見えるホテルへ向かうが有るべきはずのホテルの駐車場が見えない。で周辺をグルグルと3周ほど回ってもわからないのでホテルの前に車を停めてフロントに確認すると「なぁ〜んだ」という場所に有ることが判明。
とりあえず部屋に入り、乾いた服に着替えたがずぶ濡れの靴はどうしようもないのでそのまま中津川駅から名古屋に向かい一杯やらかして深夜のご帰還となったのであった。


中山道 御嵩〜大井に戻る中津川〜妻籠へ進む
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