日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 | |||||||||||||
2005年3月12日 | 中津川〜妻籠 | くもり時々雨 | 7時間42分 | 28648歩 | 20.05km | 830円 | |||||||||||||
まえがき というわけで前夜、名古屋で10時過ぎまで飲んでいて、半ば記憶を失いながら中津川駅に戻ると駅前の分際で開いているコンビニがまるで無いのにキレながらホテルに戻り少々割高なビールを飲みつつ爆睡。でサービスの朝食が始まる前に目覚めひとっ風呂浴びてトーストとベーコンエッグという簡単な朝飯をやっつけ、前日の駅前の駐車場は一日停めると結構なお値段なので昨日見つけたちょっと駅から離れた市営駐車場に車を止めて、昨日のゴール地点を目指した。 | |||||||||||||||||||
![]() 9:40スタート ![]() 茶屋坂 ![]() 茶屋坂から見下ろした風景 ![]() 歩道橋上から恵那山方向 ![]() 恵那山? ![]() 猪の毛皮 ![]() 子野一里塚跡その1 ![]() 子野一里塚跡その2 ![]() 与坂の立場跡 ![]() 向かいの山を越えるのか ![]() 神社 |
というわけで全行程6時間足らずだろうと軽ーく考えて、チェックアウトぎりぎりまでボーッとしていたおかげで宿場町に泊まっていたにも関わらず出発が9時40分とのんびりとしたスタートを切った。 出発して早々前方に俺様の行く手をさえぎるかのように聳える高さ30m程の崖が見える。ほどなく崖下に辿り着くと高札が並ぶ中、なにやら木製の看板があり茶屋坂と記されている。この茶屋坂、車道は大きくカーブを描いて緩やかに登っていくが、人様は階段でほぼ真っ直ぐ登るようになっている。 で車道をショートカットするように階段を上ると再び車道に出るが、車道を拡幅する際、斜面を削り取った様で中山道は歩道橋で車道を跨いで崖の上に出るようになっている。 歩道橋から恵那山方向を臨むと怪しげな雲が見えるが、今のところ雨は止んでおりなんとか天気が持ってくれることを祈りつつ、肩で息をしながら歩いた。 歩道橋を渡りさらに坂を登ると石碑がありその脇に看板があったのでその内容をコピペ・・・
・・・・と思った俺様の認識が甘かった。洗濯物と一緒に干されている猪の毛皮という俺様の日常生活という物さしを軽〜くスケールアウトするようなワイルドライフがこの住宅街には存在しているのであった。 しばらく歩くと看板があった。
子野の一里塚から5分ほどで「与坂の立場跡」と記された石碑がある。昔は茶屋とか有ったのだろうが今はベンチも自販機もないので、有る意味現在の中山道を歩く方が辛いかも知れないと思った。 歩いていくと前方に山が見えるがどうやらあれも越えないといけないようである。周りには民家が建ち並んでいるが多分これだけ坂だらけなここに住むなら自転車に乗れなくたってちっとも困ることは無いだろう。 坂を下っていくと国道19号をくぐるのだが、なんかの寄り合いの帰りなのかぞろぞろ歩くおばちゃん達とすれ違いつつ国道19号沿いのココストアというタイムリーと並ぶ「岐阜ローカルなコンビニ」で燃料としてウィスキーのポケット瓶とか缶ビールなんか仕入れて酔っぱらいながら歩くことにする。 歩き始めてから50分ほどだが、さっき寄ったコンビニで用を足しておけば良かったなとちょいと後悔していたところになんだか神社があるので寄ってみる。残念ながらトイレはないが由緒ありそうな神社である。
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![]() 善昌寺前の公園 ![]() 善昌寺 ![]() 道標 ![]() 落合宿本陣 ![]() 落合宿脇本陣跡 ![]() 落合宿の街並み ![]() 落合川 ![]() 医王寺 ![]() 落合の石畳入り口 ![]() 落合の石畳 ![]() 美濃信濃国境 ![]() 是より北 木曽路 ![]() 芭蕉句碑 |
というわけで中津川を出発して丁度1時間で落合宿に入り、さっそく見つけたベンチ、トイレ完備の公園で休憩。
公園の隣には立派なお寺があり、善昌寺というらしい。
公園の脇には道標があり、「右 中仙道 中津町一里 大正十一年建立」と読める。
橋を渡ると、落合宿から下った高度を取り戻すかのような坂が続き、10分ほど登ったところに山中薬師がある。 結構年季の入った本堂だが境内には入らず外から眺めただけで通り過ぎ、人の家の庭先みたいな所を抜けると、落合の石畳入り口に辿り着いた。この石畳が現役だった頃は苔なんか生えてないのだろうが、通る人もまばらとなった今では前日の雨も災いしてかなり滑りやすくなっている。
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![]() 落合方面を見下ろす ![]() 正岡子規の句碑の前 ![]() 正岡子規句碑 ![]() ”中のかや”バス停 ![]() 馬籠宿より恵那山方向を望む |
芭蕉さんの”送うれつ送りつ果は木曽の穐”そばのトイレで用を足し馬籠宿を目指す。 途中見晴らしの良いところに正岡子規の句碑が建っており、 「桑の実や、木曽路出ずれば、穂麦かな」 と刻まれている。 えーと正岡君は 「木曽路は桑の実が盛りだったが、こっちは麦が実る時期だぜ」 と言いたいのだろうか。残念ながら桑の実や麦の穂の時期の違いがよくわからんのだった。 正岡子規の句碑の側には”中のかや”というバス停があった。 ”かや”は多分”萱”という字を当てるのだろうが長野県の木曽とか伊那とかでは ”萱”の付いた地名が多いような気がする。 で時刻表を見ると ものすごくシンプルというか、 「午前中、街に出て午後帰る」 ための最低限の移動手段のようである。 そんな、”中のかや”バス停より15分ほどで馬籠城跡について記された説明があった。
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![]() 馬籠宿 ![]() 馬籠宿その2 ![]() 藤村資料館 ![]() 青春時代の藤村 ![]() 藤村の勉強部屋 ![]() 馬籠宿その3 ![]() 馬籠宿を見下ろす ![]() 道祖神と道標 ![]() 梨子の木坂 ![]() 十返舎一九の歌碑 |
というわけで今までの静かさは何?と思わせるような盛況ぶりである。まぁ丁度昼時だし、と飯屋を覗くと客はいない。おそらく飯時にも人が居ないのは、ここに来ている人らは観光バスのツアーでやってきているのだろう。というわけでとろろそば定食+熱燗でランチをやっつけ、お腹パンパンなところに加えてほろ酔い加減で坂を登っていくと「馬籠の宿場と桝形について記された案内板があった。」
以前、木曽路を車で友人とぶっ飛ばしているときにあちこちに 「藤村ゆかりの〜」 という看板があるので 「あのさ〜ふじむらって何者?」 と尋ねて大爆笑された事がある。そりゃフルネームで「島崎藤村」と書かれていたら判るが日常生活では藤村は「ふじむら」って読むのが普通だと思う。 で、「夜明け前」ですら斜め読みの俺様がこんな所に立ち寄ってもと思いつつも、まぁ折角なので立ち寄ることにした。 まずは家系図と若き日の藤村の写真がお出迎えである。展示室をでると、中に立ち入ることは出来ないが本陣の隠居所だった建物が藤村の勉強部屋として使われたとあり、中をのぞくことができる。 勉強部屋と言ってもたまには勉強もしたろうが、普通の青春を送っていたら主に仲間と酒を飲んだりタバコを吸ったり、麻雀や花札に興じたり、時にはおねーちゃんを連れ込んでいいことしてたりとめったに勉強なんかしないものである。で次の建物に向かう。 中には藤村の著作のほかいろりとか着物やら掛け軸や果ては斧まで展示してあった。 その中で、目を引いたのが「いろはがるた」なのだが画がかの「芸術は爆発だ」で知られる岡本太郎氏の父ちゃんである岡本一平氏の作で、句が藤村というコラボだ。 「鼻からちょうちん」 という藤村の名文?もさることながら、イラストも秀逸である。 で、なんと入り口にて復刻版を販売中とのことだったので帰りに買っていった。
で、藤村記念館を出ると”中山道”やら”高札場”について説明された立て札があり、”中山道”だろうが”高札場”にせよどこの宿場にも有ったものだがわざわざ転記しておく。
で馬籠宿の宿はずれの高台に東屋が有ったので、馬籠峠に備え休憩。こうして上から見下ろすと小さな宿場である。 また古そうな家並みを残してはいるが、どれも土産物屋を兼ねていたりするので俗っぽいと捉えるか、古い物を残そうという努力と見るかは人それぞれだろう。 まぁ、ふつーに別に観光施設でもなんでもない生活の場にぞろぞろと観光客が縦横無尽に歩き回られるのも住んでいる人にとっては迷惑だし、難しいところである。 休憩を終え、道祖神の脇に立てられた道標を見ると、妻籠まで7.6kmとあるのでおよそ2時間で妻籠宿なわけだが、宿場町を過ぎると歩いている人もまばらである。 やがて道の先を民家が塞いでいた。側に看板があり民家を避けて抜けるよう迂回しろと書いてある。って庭先を通り抜けるだけじゃんか。 まぁ車が通れる道は有るし、こんなところ通るのはハイキングな人と中山道を歩く酔狂な人くらいとは言え住んでいる人にはかなり迷惑な話だろう。 まぁそんな酔狂な人たちのために道をわざわざ石畳風にあつらえてみたりとがんばっているようである。ちなみに写真の石畳の坂は梨子の木坂と標柱に書いてあった。梨の木坂を登るとなにやら句碑があった。十返舎一九のもので以下の文字が石碑に刻まれている。 渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめし茲の名物 要約すると 渋皮の向けた粋なねーちゃんはいないけど、栗の強飯がここの名物だぜ。 ということらしい。 で車の通る道から一本逸れた静かな家並みが続く街道を抜け最後の登りをやっつけ、スタートから4時間24分経過した14時04分に馬籠峠に到着した。 | ||||||||||||||||||
![]() 馬籠峠 ![]() 馬籠峠その2 ![]() 中山道→の示す先 ![]() 雪がっ!! ![]() 残雪に覆われた中山道 ![]() 立場茶屋 ![]() サワラの巨木 ![]() 道を踏み外すと谷底 ![]() 倉科祖霊社 ![]() 妻籠宿方面 ![]() 大妻籠の看板 |
ちょっと前までは、落合の石畳を越えたら長野県だったが旧山口村の人たちが中津川市に編入されることを望んだのかどうかだわからんが、いくら平成の大合併とは言え全国でも県境がまたいでくっついた越境合併はたぶんここだけだろう。そのため県境が馬籠峠まで移動してしまったのである。 ちなみにもう馬籠側の看板は「長野県山口村」から「岐阜県中津川市」に変更されていた。 で峠の茶屋なんかあったが観光シーズンにはいささか早かった為か商売している気配が無いし、峠越えのささやかな祝いに缶ビールでの祝杯を尾あげられそうな所も無いので妻籠への道を探すと、「馬籠峠」と書かれた標識の下に「中山道→」と書かれた立て札に従って進むと バリバリ雪積もってんじゃねーか!! 馬籠宿入り口からずーっと登り坂で、晴れて今度は下りで楽を出来ると思ったのだが思いっきり当てがはずれてしまった。 で不安な足下に加えて、追い打ちを掛けるかのような衝撃的な看板が立っていた
ふと、ご一行様の足下を見ると、この残雪の坂道をサンダル履きで、ときおり悲鳴を上げながら下っている。 とりあえずこれだけ騒々しければ猛獣の心配は無いだろうとしばらく後に続いていたがいい加減鬱陶しいので、雪で覆われた下り傾斜の木橋で躊躇しているところを、「お先に」と先行させて頂いたがここで滑ったら俺ってちょー格好悪いと藤村記念館の敷石に躓いて醜態をさらした事を思い出しつつ無事渡り終え、しばらくすると黄色い歓声も遠のいていった。 やがて道が開けると古い民家が現れた。看板によると現存する江戸時代後期の立場茶屋とのことである。
でこの広場は白木改番所跡とのことである。
傍らの看板によると樹齢300年のサワラの木で材木にすれば風呂桶300個分にもなるが、枝ぶりが特異なため神居木と呼ばれ切ったりすると祟られると恐れられたため、ここまで放置されたようである。
(ちなみに書いているのは真夏の盛り、長久保から小田井まで歩いて御代田からしなの鉄道で上田に取った宿へ戻る途中だ。) 一応道は整備されているものの、一歩足を踏み外すと谷底へ転がり落ちていきそうな山道を下っていくと倉科祖霊社という小さな祠があった。
先ほどの倉科祖霊社より10分ほどで要約すると「この坂を350m程登ると県宝の藤原さんちがあるよ」という看板が立っていた。折角馬籠峠から下って来たのに今更登るのもなぁ・・・と看板だけ眺めるにとどめておいた。
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![]() 旅篭金剛 ![]() 藁でこしらえた馬 ![]() 妻籠宿 その1 ![]() 妻籠宿その2 ![]() ねこ ![]() 妻籠宿 ![]() 妻籠宿本陣 ![]() 妻籠宿脇本陣・歴史資料館 ![]() 妻籠宿その3 ![]() 高札場 ![]() 妻籠宿その3 ![]() 鯉岩 ![]() 上久保(うわくぼ)一里塚 ![]() 木曽川と国道19号 ![]() SL公園 ![]() 桃介橋 |
大妻籠の看板の側に「旅篭 金剛」と屋号を掲げた家の脇に看板がある。うーん金剛と言えば「ストロング金剛」を思い浮かべる世代の俺様だが、多分まったく関係は無いのだろう。
で旅篭金剛より五分ほどで石柱道標とかいう看板に出くわした。
さて、前方に目を向けるとポツポツと観光客の姿が見えるので、ぼちぼち宿場に入ったらしい。 9時40分に中津川を出発して、妻籠宿到着が15時26分ということは約6時間ってことだが実際には少なくとも1時間は飯食ったり、ビール飲んだりと休みをとっているので実質五時間くらいであろう。 そのうち目に見えて観光客が増えてきたがその数は馬籠ほどでは無い。やはり、妻籠宿は駐車場から遠い上に金取るが、馬籠宿は宿場のすぐ上に駐車場があり、しかもタダと来ているのでその敷居の違いだろうか。 まぁいつも国道19号から清内路峠を経て飯田方面に抜けるときに、立ち寄ろうかどうしようか考えつつもいずれ馬籠からここまで歩くだろうと素通りしてきたが、やはり車でひょいと立ち寄ったのとは感慨の度合いが違うようである。 などと詰まらぬ事を考えつつふと、石垣の上に目をやると猫と目が合ったのでパチリとカメラのシャッターを押すがそっぽを向かれてしまった。前にもこんな事があったような気がする・・・ で妻籠宿本陣+南木曽町博物館というのがあったので立ち寄ろうとすると、チケット売り場のおばちゃんに脇本陣の資料館とセットだとお得なので共通券売っている脇本陣に先に行ってくれとのことだった。 メンドクセ〜と思いつつはす向かいの脇本陣に行くと、団体さんご一行にかち合ってしまったのかなかなかの盛況ぶりである。 団体さんに続いて入ると、受付でクソ重いリュックサックなんぞ預かって頂きなかなかのサービスである。 でさっそく囲炉裏なんかあり、家族の定位置について次のように説明員のかたが次の様に語っていた。 子供が座るところは風下の煙たい席で、嫁さんは板敷き、姑さんは畳敷きと区別があるそうである。囲炉裏の有る部屋の壁が有る高さを境に艶が有るところと煤けているところがあるのは雑巾で拭いたときに手が届くところはテカテカ。届かないところは真っ黒ということらしい。 で二階へ回ったりうろうろしているともう三月の半ばだというのに雪が降り始めた。 本陣へも回りなんだかんだで一時間近く費やし、南木曽駅を目指して歩くと土産物屋も少なくなったせいか、歩いている人も激減して先ほどまでの喧噪が嘘のようである。 高札が掲げられているところを過ぎコンクリ舗装の急な坂道を下っていくと、口留番所跡と記された看板があった。 これを書いている現在は(約5ヶ月後の8月)木曽福島関所資料館とか贄川関所資料館やら立ち寄った後なのでほぼ「関所=口留番所」ということを知っているのだが、この看板には、往来する人々を監視していたとしか書いていない。
妻籠城趾の看板から歩くこと10分ほどで一里塚が目に入った。傍らの案内板によれば上久保の一里塚と呼ぶらしい。
しばらく進むと、眼下には木曽川と国道19号が見えてきた。両者とも落合宿以来の再会である。 でなぜかSLがおいてある公園で休憩。機関車はD51なのだが、おいらが立っている位置は中央線が昔通っていた所だそうな。 で南木曽駅に向かって歩くと、桃介橋が見える。おいらが初めて車でここを通ったときには桃介橋はとても人が渡れる状況では無かったがいつの間にか修復が進められちょっとした観光スポットとなっているようだ。 で南木曽駅の前に来たところでゴールとした。 | ||||||||||||||||||
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あとがき でこの次は三留野からスタートすることになるのだが、先のSL公園の看板では江戸時代の中山道ルートではなく、与川道と呼ばれる木曽川がデンジャラスな時に利用された迂回路が紹介されており事前にルート確認せずにその通り進んでえらい目にあったりした。まぁ自然にあふれ、森林鉄道の遺構とかあって好きな人にはいいのだがそれ以外の人にはとても勧められないルートである。 さて、丁度中津川行きの電車もきたので、やってきた電車に乗り込むと降車時ドアは手で開けてくれと書いてある。ボタンでの開閉はよくあるが手で開けろとは・・・ まったく8時間近く掛けて歩いた中津川−南木曽だが電車だと、わずか20分ほどと本当にあっけない所要時間である。 中津川駅に着くと、ホームの傍らに「是より北、木曽路」の石碑などがあった。で駅をでて何か土産物でも買っていこうとすると駅の隣になんかあったので寄ってみると和菓子の博覧会状態で、どれにしようか悩みつつ、店員のおねーちゃんに「日持ちするものってなにか有ります?」と尋ねると幾つか選んで頂いたので、その中から栗にちなんだものと、それと「からすみ」を購入した。 からすみといってもボラの卵巣ではなく、「名古屋のういろう」と似たようなものである。 でちょっと駅から歩いて市営駐車場に戻り、国道363号から国道257号で浜松抜けて帰ろうとすると、国道363号は相変わらず通行止めだったので国道19号に戻るといつもの大渋滞だったので、えいやと左折するとうまいこと広域農道なんかあり、すんなりと257号に入り6時間半ほどで家に辿り着いた。 |
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