中山道 中津川駅〜南木曾駅

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年3月12日中津川〜妻籠くもり時々雨7時間42分28648歩20.05km830円
まえがき
というわけで前夜、名古屋で10時過ぎまで飲んでいて、半ば記憶を失いながら中津川駅に戻ると駅前の分際で開いているコンビニがまるで無いのにキレながらホテルに戻り少々割高なビールを飲みつつ爆睡。でサービスの朝食が始まる前に目覚めひとっ風呂浴びてトーストとベーコンエッグという簡単な朝飯をやっつけ、前日の駅前の駐車場は一日停めると結構なお値段なので昨日見つけたちょっと駅から離れた市営駐車場に車を止めて、昨日のゴール地点を目指した。

9:40スタート

茶屋坂

茶屋坂から見下ろした風景

歩道橋上から恵那山方向

恵那山?

猪の毛皮

子野一里塚跡その1

子野一里塚跡その2

与坂の立場跡

向かいの山を越えるのか

神社
というわけで全行程6時間足らずだろうと軽ーく考えて、チェックアウトぎりぎりまでボーッとしていたおかげで宿場町に泊まっていたにも関わらず出発が9時40分とのんびりとしたスタートを切った。
出発して早々前方に俺様の行く手をさえぎるかのように聳える高さ30m程の崖が見える。ほどなく崖下に辿り着くと高札が並ぶ中、なにやら木製の看板があり茶屋坂と記されている。この茶屋坂、車道は大きくカーブを描いて緩やかに登っていくが、人様は階段でほぼ真っ直ぐ登るようになっている。
で車道をショートカットするように階段を上ると再び車道に出るが、車道を拡幅する際、斜面を削り取った様で中山道は歩道橋で車道を跨いで崖の上に出るようになっている。
歩道橋から恵那山方向を臨むと怪しげな雲が見えるが、今のところ雨は止んでおりなんとか天気が持ってくれることを祈りつつ、肩で息をしながら歩いた。
歩道橋を渡りさらに坂を登ると石碑がありその脇に看板があったのでその内容をコピペ・・・

     (1)元矩碑

間半兵衛元矩が詠じた歌詞を取り入れ、七代間鷲郎が親族一同に図り
父の三年祭に当る、明治27年(1894年)8月26日に建てた顕彰碑であります。
(やまはん)の六代目を継いだ元矩は、中津川の戸長を8年、初代町長
を2年、約10年にわたり町村の行政をにない、当公園を開いた中の一人、
であり園内に、父秀矩碑、土衛碑を建てたのち、 49歳の若さで世を
去りました。
扁額は、天神碑と同じ中納言菅原為栄の書であり、推色を認めたのは
熱田神宮の大宮司。角田忠行であります、忠行は小説「夜明け前」に、
暮田正香の名で登場し、その行動を島崎藤村が詳しく伝えております。
    
(3)芭蕉句碑(俗称すみれ塚)
山路来て 何や羅遊かし 寿み連草  はせを
松尾芭蕉の句、貞享2年(1685年)の3月27日ごろの吟、前書きに「京都
より大津に出る道山路をこえて」と「甲子吟行、別名野ざらし紀行」にあ
る句で 碑は大津出身の菅井家先祖がここから見た宿場のたたずまい
が近似しているところから常に、その情景を孫子に語り伝えてきました。
三代 菅井嘉兵衛高伯のとき郷愁にふさわしいこの秀句を選び、安永
2年(1772年)芭蕉の八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、中山道に面して
建てられましたが、30年前に保護するため、道筋からはずし、昭和
53年(1978年)3月 昔の面影を残すため、この場所に移しました。

というわけで麓から見上げた感じを上回る登り坂を登り切ると一見なんの変哲もないありふれた住宅地の中を進んでいく。
・・・・と思った俺様の認識が甘かった。洗濯物と一緒に干されている猪の毛皮という俺様の日常生活という物さしを軽〜くスケールアウトするようなワイルドライフがこの住宅街には存在しているのであった。
しばらく歩くと看板があった。
中山道上金かいわい
 この付近は江戸時代、上金村と呼ばれ中津川村
の支村であった。『濃州徇行記」「寛政
七年」(一七九五)には、石高六七石余りの小村で、
家数十八戸、人□八五人、民家は街道左右に散在し、
多くの山畠があったと記されている。
 国道十九号により約二十m中山道が消滅してい
るが、道幅は三〜四間であったといわれている。
 地下道を通って東に進むと「子野の地蔵堂石仏
群」があり、高さ二m余りの徳本恥行者念仏の他、
庚申・地蔵・観音等が数多く祀らている。

    平成十四年十月吉日
    中津川市教育委員会

   
そーいえば先ほどから電柱に貼られたNTTの
「とっても大事な電話回線が地中に埋まってるので掘るときは連絡してね」
と記されたプレートがあるのだがイラストは
ユンボで電話線引っかけてその電話線につながったダイヤル式の電話機が泣いている
というイラストが描かれているのだが、一見すると
「ユンボで掘ったら地中に潜んでいた怪獣を掘り起こしてしまった」
様に見えるシュールな絵に見える。
まぁダイヤル式の電話機を見たことのない世代がみたらやっぱこの絵は
「地中に潜む怪獣を掘り起こした」
と見えちゃうんだろうなぁ。
     そんなわけで折角坂道を登ったのにまたまた下り坂になってきた。 これから馬篭峠までどんどん高度を上げていくのに非常にもったいない気がするなぁなどと思っていたら下った分以上に登りそうな山がある。御嵩を過ぎてからずっとこんな感じで登ったり下ったりを繰り返しているが、落合の石畳、馬篭宿、妻籠宿と見所満載のこのコースがなかなか過酷なコースで有ることに気づくのはこのあと一時間ほどである。 この坂を下る途中に枯れ草に覆われた子野の一里塚跡がある。一応塚の形状を保っているが「跡」となっているから復元されたものかも知れない。
子野の一里塚から5分ほどで「与坂の立場跡」と記された石碑がある。昔は茶屋とか有ったのだろうが今はベンチも自販機もないので、有る意味現在の中山道を歩く方が辛いかも知れないと思った。
歩いていくと前方に山が見えるがどうやらあれも越えないといけないようである。周りには民家が建ち並んでいるが多分これだけ坂だらけなここに住むなら自転車に乗れなくたってちっとも困ることは無いだろう。 坂を下っていくと国道19号をくぐるのだが、なんかの寄り合いの帰りなのかぞろぞろ歩くおばちゃん達とすれ違いつつ国道19号沿いのココストアというタイムリーと並ぶ「岐阜ローカルなコンビニ」で燃料としてウィスキーのポケット瓶とか缶ビールなんか仕入れて酔っぱらいながら歩くことにする。
歩き始めてから50分ほどだが、さっき寄ったコンビニで用を足しておけば良かったなとちょいと後悔していたところになんだか神社があるので寄ってみる。残念ながらトイレはないが由緒ありそうな神社である。
落合五郎兼行
 平安時代の終り項、木曽義仲の家来であった落合五郎兼行が
美濃口の押さえとして、落合に館を構えていたといわれている。
落合五郎兼行は平家物語巻七寿永二年(一一八三)、五月の「火打ち
合戦」の項に名を連ねているが、出自は中原兼遠の末子である説や
中原氏の一族説等あり 生没不詳で定かでなく.木曽義中に
仕えていたことは事実と思われる。
義仲の.幼名は駒王丸といい、父 源義賢と叔父にあたる義朝との合
戦により父義賢が殺されたため、駒王丸は幼少のころから乳母の夫
である中原兼遠のもとで養育された。
諸記録によると、中原兼遠には樋口兼光、今井兼平、落合五郎兼行
 と義仲の妻となる巴の三男一女があり、平家物語の中で義仲
 の有力な武将として取り上げられている。
館跡とされている所は「オガラン」と呼ぱれ、「伽藍」(大きな寺院)
 という言葉からきたと推定され、近くには「小姓洞」という地名も残
 っている。
実際に兼行が当地の落合に居住していた説に関しては不明な点が多
 いが、江戸期に書かれた「木曽名所図絵」には、「落合五郎霊社」と案
 内され、「新撰美濃誌」は落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、老
 杉三、四株生い茂るうちに愛宕神社あり」と書かれている。
また「美濃国御坂越記」には落合五郎兼行住居の跡地といえども、
兼平か弟の兼行にてはあるべからざる」と考察している。
兼行の館跡は後世に文献や地名から推定されたもので、平成元年に
 行われた発掘調査からは館跡の痕跡ぱ認められなかった。
現在ここには愛宕神社と寛延年間に建立された石灯篭や兼行の
 顕彰碑等があり、毎年八月には例祭が行われている。
   平成六年十二月吉日

        中津川市
        おがらん四社
愛 宕 神 社
山之神 神 社
天   神 社
落合五郎兼行神社
落合五郎城跡(おがらん様)
  
 木曽義仲の家臣で”四天王”のひとりといわれ
た落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えてこの地
に館を構えたとされる。地元では「おがらん様」
の名で親しまれている。ここからは、縄文土器
をはじめ八世紀から九世紀のものと思われる幣
の石製模造品、古代掘立柱建築遺構などが発見
され、東山道と深いかかわりがあった場所であ
ると推定される。
国道19号を橋で越え、また先ほどの「おがらん様」までせっせと登って再び下っていくと、落合宿に入ったようである。

善昌寺前の公園

善昌寺

道標

落合宿本陣

落合宿脇本陣跡

落合宿の街並み

落合川

医王寺

落合の石畳入り口

落合の石畳

美濃信濃国境

是より北 木曽路

芭蕉句碑
というわけで中津川を出発して丁度1時間で落合宿に入り、さっそく見つけたベンチ、トイレ完備の公園で休憩。 公園の隣には立派なお寺があり、善昌寺というらしい。
善昌寺の「門冠の松」

・この松は、創建当時の山門を覆っていたことから門
 冠の松と呼ぱれている.
・道路新設拡巾・寺の移転等で根が痛めつけられて
 来たのか、凡そ四五〇年の年を経ているといわれ
 ているが、さほど大きく なく、宿場の入□に格好
 の風采を添えている。
落合まちづくり推進協議委員会
とりあえず用を足してベンチに座ってタバコなんぞくわえていると、俺様を追い立てるかのようにぽつぽつと雨が降り出してきたのであわてて出発。
公園の脇には道標があり、「右 中仙道 中津町一里 大正十一年建立」と読める。
      落合宿
 落合宿は、江戸ヘ八十二里十二町(約三二三㎞)、
京へ五十二里九町(約二〇五㎞)の位置にある。町の
長さ三町三十五間(約三九〇m)家数七十五軒を数え
た。宿の町筋の中央には用水が流れ、町の中程に本陣
と脇本陣(共に問屋兼務)があり、本陣井□家は尾張
徳川家給人の千村氏(久々利方)、脇本陣塚田家は同
給人の山村氏(木曽方)の庄屋も兼ねていた。江戸方
町筋の入□には、道が直角に曲げられた桝形がつくら
れ、往還の真中に常夜燈もあった。
 文化元年( 一八〇四) ・十二年(一八一五)の
二度の大火は宿に大きな打撃を与えた。しかし、現在
も本陣井口家、うだつ・格子のある民家や江戸方の十
曲峠と石畳、京方の与坂付近には江戸時代の面影を随
所にとどめている。
落合宿本陣
本陣の期限は、室町幕府の将軍足利義彰孫が上洛の際
その宿倉を本陣と称したときからといわれている。
本陣が真にその職能を発揮するのは、江戸時代に入
り参勤交代の制が実施されてからである。本陣は
主として公家、大名など身分の高い人の宿泊所であ
ったので、門、玄関、上段の間等を備えていた。
落合宿本陣井口家は、代々本陣を勤めると共に、
問屋、庄屋をも兼務し、宿の業務の運営を行う指導的
な家柄で、苗字帯刀を許され礼遇を受けた。
明治十三年(一八八〇)に大改修されているが、正
門を始め、上段の間、小姓の間等が、今もそのまま
保身存されている。 
改修のときに現在の位置に移設された正門は、文化
元年(一八〇四)の落合宿の大火の後に、加賀の前
田候より贈られたものといわれている。
明治天皇御巡幸、また和宮御降嫁に際し、御小休の
栄に浴している。
昭和五四年四月中津川市の史跡に指定。
本陣、脇本陣の跡前を通り過ぎるとあっという間に宿はずれとなるちいさな宿場町を過ぎ、坂を下ると落合川の畔に出た。
橋を渡ると、落合宿から下った高度を取り戻すかのような坂が続き、10分ほど登ったところに山中薬師がある。
結構年季の入った本堂だが境内には入らず外から眺めただけで通り過ぎ、人の家の庭先みたいな所を抜けると、落合の石畳入り口に辿り着いた。この石畳が現役だった頃は苔なんか生えてないのだろうが、通る人もまばらとなった今では前日の雨も災いしてかなり滑りやすくなっている。
岐阜県指定史跡
中山道 落合の石畳
昭和三十九年二月八日指定
この石畳は中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を
歩き易いように石を敷き並べたものです。江戸時代の主な街道に
は一里塚をつくリ並木を多く植え制度化し、その保護にはたえず
注意をはらいましたが石畳については何も考えた様子がありませ
ん。このため壊れたまま放置されることが多くここの石畳も一時
は荒れるにまかせていましたが、地元の人たちの勤労奉仕で原形
に復元しました。いま往時の姿をとどめているのはここと東海道
の箱根のふたつ にすぎず、貴重な史跡です。中山道ができたの
は寛永年間ですが、石畳が敷かれたのはいつ項か不明です。文久
元年皇女和の宮の通行と明治天皇行幸のとき修理しましたが、こ
のとき石畳に砂をまいて馬がすべらないようしたことが記録に残
っています。

中津川市教育委員会
 なんじゃもんじゃの杜
 ・本名をひとつばたごとい
 い、古世代の依存木であ
 る。
 ・五月中旬頃の開花で満開
 時は樹上が真白になり雪
 積もったような景観を醸
 す。
 ・この杜は昭和五十一年落
 合老人クラブが植樹した
 ものである。     

  落合まちづくり推進協議会
落合の石畳入り口から15分ほどで休憩所に着いたので一服しながらあたりを見回すと、このあたりが登場する江戸時代の紀行文が紹介されていた。
中山道紀行文
        宝永6年(一七〇九)
  『岐蘇路記』貝原益軒著
  
  美濃国恵奈郡
落合
  是より以下美濃より中津川へ壱里
落合の民家九十軒ばかり、これより西
に猶、坂所々あれども、既に深山の中
を出て、嶮難なくして心やすくなる。
木曽路を出てここに出れば、先ず我家
に帰り着きたる心地する。・ ・ ・
落合の南なる大山を横長嶽と伝う茂山
也。苗木の城北にみゆる小高き山の上
にあり。木曽川城南を流れ飛騨川に流
れる。今は遠山和泉守殿居城なり。領
地一万五千附く。
       亭和二年(一八〇二)
   「壬戊紀行」       
          太田南畝著
美濃と信濃境は十曲峠にあり。石まじ
りの道をゆくゆく坂を上り、山中坂を
三四町ばかりまがりてのぼれば、落合
の駅舎は遥かなる下に見ゆ。此のあた
りより道いよいよけわし。ここを十こ
く峠という。
猶、松林の中を上りゆくに、右は山左
は谷なり、向かうに近く見ゆる山あり
、す山と伝う。草木茂れど大きなる木
なし。
道に大なる石多し、又石まじりの坂を
のぽる事長し
落合の石畳入り口から20分ほどで新茶屋に着いた。一里塚があるが後世になってから復元されたもののようである。ここは美濃と信濃の国境であったが、平成の大合併により長野県山口村だった信濃側が岐阜県中津川市に編入されてしまい、現在の県境は馬籠峠になってしまった。
新 茶 屋 の 一 里 塚
 一里塚とは慶長九年(一六〇四)二月、徳川秀忠が諸街道を
改修する際、日本橋を起点に東海道・中山道・甲州道中などの
各街道の一里ごと(約三・九㎞)に築かせた塚のことです。 
これは街道の左右に「方五間」(約九・一m四方)の塚を築き
、榎が松を植え、旅人に距離を知らせ、また休息の塚でもあり
ました。 新茶屋の一里塚は天保〜安政時代(一八三○〜一八
六〇)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが今
回、整備にあたり右に松、左に榎を復元しました。
平成六年 二月
文化庁岐阜県中津川市
というわけで延べ7日を要した美濃路を終え、ここから北、洗馬当たりまでが木曽路となる。
  新茶屋
 この辺りの地名を新茶屋」という。江戸のころ
宿場と宿場の間にあろ茶屋を「立場茶屋」といつ
た。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メ
ートルほど入った場所にあったが、江戸の終わり
ころに現在地に移った。そのためここを新茶屋と
呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だ
った。

  「是より北 木曽路」の碑
 ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入リロに
もあたる。昭和一五年(一九四O)七月、当時六八才だ
っだ藤村が、地元の要請によって揮毫したもので
ある。藤村は六O才ごろから自らを「老人」と記す
ようになった。
 この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して、
昭和三二年(一九五七)一一月に藤村記念館建設の実
行母体である「ふるさと友の会」によって建立され
た。

  芭蕉の句碑
 松尾芭蕉が門人の越智 越人を併って、信州姥捨
山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅した
のは貞享池年(一六八八)のことであった。その旅を
「更級紀行」として世に出した。
  ”送うれつ送りつ果は木曽の穐”
 この碑が建てられたのは天保一三年 (一八四二)
のことで、このころ岐阜県の美濃地方には芭蕉を
祖とする「美濃派」の俳人が多くいVこれらの
人々によって芭蕉の供養として建てられたもの
である。

  一里塚
 街道の両側に「一里塚」が昔の姿で残っている。
江戸幕府は街道整備の一環として一里を三十六町
と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を
築き、塚の上には榎または松を植えて、旅の行程
や駄賃・運賃の目安とした。現在中山道では殆ど
が失われており貴重な遺構である.


落合方面を見下ろす

正岡子規の句碑の前

正岡子規句碑

”中のかや”バス停

馬籠宿より恵那山方向を望む
芭蕉さんの”送うれつ送りつ果は木曽の穐”そばのトイレで用を足し馬籠宿を目指す。
途中見晴らしの良いところに正岡子規の句碑が建っており、
「桑の実や、木曽路出ずれば、穂麦かな」
と刻まれている。
えーと正岡君は
「木曽路は桑の実が盛りだったが、こっちは麦が実る時期だぜ」
と言いたいのだろうか。残念ながら桑の実や麦の穂の時期の違いがよくわからんのだった。
正岡子規の句碑の側には”中のかや”というバス停があった。
”かや”は多分”萱”という字を当てるのだろうが長野県の木曽とか伊那とかでは
”萱”の付いた地名が多いような気がする。
で時刻表を見ると
ものすごくシンプルというか、
「午前中、街に出て午後帰る」
ための最低限の移動手段のようである。
そんな、”中のかや”バス停より15分ほどで馬籠城跡について記された説明があった。
馬籠城跡
この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには
今から五百年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があっ
たことが記されている。
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田
氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義
昌の洽めるところとなる。
天正一二年(一五八四)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は
小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐ
ため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は 兵三百を送
って山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎重通
(島崎藤村の祖)が警備した。
天正一ニ年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利・高遠の保
科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻
籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を
構えた。   
 馬籠を守っていた島崎重通はあまリの大軍襲来に恐れ
をなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。この
ため馬籠の集落は戦火から免れることができた。
今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺リを「陣場」と
いう。
 慶長五年(一六OO)、関ヶ原の戦いで天下を制した家康
は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(一六一五)尾州徳
川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消
した。		 
馬籠城趾を過ぎほどなく、今まで静かだった中山道は観光客で溢れかえった馬籠宿に入る 。

馬籠宿

馬籠宿その2

藤村資料館

青春時代の藤村

藤村の勉強部屋

馬籠宿その3

馬籠宿を見下ろす

道祖神と道標

梨子の木坂

十返舎一九の歌碑
というわけで今までの静かさは何?と思わせるような盛況ぶりである。まぁ丁度昼時だし、と飯屋を覗くと客はいない。おそらく飯時にも人が居ないのは、ここに来ている人らは観光バスのツアーでやってきているのだろう。というわけでとろろそば定食+熱燗でランチをやっつけ、お腹パンパンなところに加えてほろ酔い加減で坂を登っていくと「馬籠の宿場と桝形について記された案内板があった。」
    
  馬籠の宿場
中山道六十九宿のうち、木曽谷には十一の宿場が置か
れていた。馬籠は板橋を一番目とすると四三番目の宿
場になり江戸からの距離は八三里六町余りとなって
いた。
街道が山の尾根に沿った急斜面を通っているので
その両側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が
特徴となっている。
宿場の中央には高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や
「脇本陣」、荷物運搬の差配をする「問屋」が置かれ、
 旅人の利用する「旅籠」が一八軒、このほか「飯屋」
や「馬宿」があって、行き交う旅人で賑わった。
明治二十五年 (一八九二)に、木曽川沿いに国道が開
設され、さらに明治四五年(一九一ニ)には国鉄中央
線が全線開通することにより、宿場としての使命を終
えた。
明治二十八年(一八九五)と大正四年(一九一五)の
二度の大火で江戸時代の遺構の殆どを消失した。

 桝  形
 馬籠宿の街道の南端
は直角に二度折り曲げ
てありこの部分の山手
側は切り土になっている。
これは城郭建築の桝形
を模したもので、ここ
を「桝形」といった。
本来宿場が軍事的な目
的をもって造られたこ
とを示している。
明治三八年(一九O五)
の道路改修によリ当時
の原型を消失したが、
その後昭和六〇年代に
なって復元された。
道いっぱいに広がって歩く邪魔くさい団体さんを蹴散らしながら石畳の坂道を登っていくと「清水屋資料館」なるものがあった。
    

木曽馬籠   
 清水屋資料館、
清水屋は島崎藤村の作品,「嵐」に
でてくる「森さん」(原一平)の家です
この清水屋には藤村の書簡、掛軸、
写眞などをはじめ江戸時代に宿場と
して栄えたころよりの文書,書画(尾形光琳
土佐光則・富岡鉄斎)九谷.伊万里・唐津などの
陶磁器・輪島の漆器類をはじめ宿場「馬
籠」の生活文化史ともいえる数々の遺品が
二階の資料館に展示してあります。
機械文明の流れの中にある今日遠い昔の
わたくし達の先祖が残してくれた、素朴な
ふるさとの心に深い郷愁を感じます
馬籠を訪れた思い出に 
     お立寄り下さい
で馬籠宿って言えば「島崎藤村」なわけで、当然ながら資料館に立ち寄った。
以前、木曽路を車で友人とぶっ飛ばしているときにあちこちに
「藤村ゆかりの〜」
という看板があるので
「あのさ〜ふじむらって何者?」
と尋ねて大爆笑された事がある。そりゃフルネームで「島崎藤村」と書かれていたら判るが日常生活では藤村は「ふじむら」って読むのが普通だと思う。
で、「夜明け前」ですら斜め読みの俺様がこんな所に立ち寄ってもと思いつつも、まぁ折角なので立ち寄ることにした。
まずは家系図と若き日の藤村の写真がお出迎えである。展示室をでると、中に立ち入ることは出来ないが本陣の隠居所だった建物が藤村の勉強部屋として使われたとあり、中をのぞくことができる。
勉強部屋と言ってもたまには勉強もしたろうが、普通の青春を送っていたら主に仲間と酒を飲んだりタバコを吸ったり、麻雀や花札に興じたり、時にはおねーちゃんを連れ込んでいいことしてたりとめったに勉強なんかしないものである。で次の建物に向かう。
中には藤村の著作のほかいろりとか着物やら掛け軸や果ては斧まで展示してあった。
その中で、目を引いたのが「いろはがるた」なのだが画がかの「芸術は爆発だ」で知られる岡本太郎氏の父ちゃんである岡本一平氏の作で、句が藤村というコラボだ。

「鼻からちょうちん」
という藤村の名文?もさることながら、イラストも秀逸である。
で、なんと入り口にて復刻版を販売中とのことだったので帰りに買っていった。
馬籠宿脇本陣八幡屋
宿場で大名や身分の高い役人の
泊る旅館を本陣・脇本陣といい
一種の家格となり、藩の
保護を受けていた。
馬籠宿の脇本陣は屋号を「八幡屋」
と称し,土岐光貞(美濃源氏)の
三男蜂屋定親を祖とし
その後裔か江戸初期の頃
この場所に居を構え代々
脇本陣をつとめた。
当時の建物は大人数の宿泊に
事欠かぬよう間口
九間四尺、奥行九間の
二階建一七〇坪で、「上段の間」を
中心に大小十三の部屋が
設けられていた。
明治三年十月「宿駅の本陣・
脇本陣の名称を廃す。」との
太政官布告により
廃止され、その後明治二十八年の
馬籠の大火で類焼した。
現存する坪庭の「玄武石垣」は
当時の建築美を推定できる
貴重な遺構である。
で建物を出るとき段差で蹴躓いて転んでしまったがこれは余りの偉大な文学の片鱗に触れたがために頭がクラクラしてしまったからで、あくまで「こんな坂道ばかりシラフで歩けるかよ」と落合宿手前で仕入れたウィスキーをやっつけながら、昼飯と共に流し込まれた熱燗で足下がおぼつかなくなった訳ではない。
で、藤村記念館を出ると”中山道”やら”高札場”について説明された立て札があり、”中山道”だろうが”高札場”にせよどこの宿場にも有ったものだがわざわざ転記しておく。
    中山道
 中山道は、はじめ「中仙道」と書かれていたが、本
州の中部山岳地帯を貫いている道路ということか
ら享保元年(一七一六)以降、「中山道」と書き改め、
やはり「なかせんどう」と読まれた。
 江戸と京都を結ぶ重要な街道て、その延長は一三
二里(約五五〇キロメ-トル)ここには六十九の宿場が
置かれていた。
 この道路は東海道・奥州街道・甲州街道・日光街道
とともに「天下の五街道」の一つといわれ、参勤交代
 の際、ここを通る大名は三四家と定められていた。
江戸幕府にとつては西日本にある緒大名の動向対
策とこれらの諸国を支配していくうえに極めて重
要な性格を持つ道路であった。

   陣  場
 ここらあたり一帯の地名を「陣場」という。天正
十二年(一五八四)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った
小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、
馬籠城を島崎重通に固めさせていた。
家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一
部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。故に
ここを「陣場」と為呼ぶようになった。

   高 札 場
 江戸時代には村人たちに法令などを徹底遵守さ
せる目的で、板に墨書したものを掲示する場所を定
めたが、それは村の入り口や庄屋宅の近くなど人目
につき易い場所が選ぱれ、藩の厳重な管理下におか
れていた。村人たちはその場所を「こうさつば」とか
「ごはんぎょうば」といった。
文字が読めない人が多いその当時、正月になると
庄屋は村人をこの場所に集めて読んで聞かせ、これ
を守るように言い聞かせた。
現在復元されているものは、正徳元年(一七一一)
に公布された「御朱印、毒薬等の定書き」や、明和七
年(一七七〇)の「徒党禁止」の札などで、復元の際に
読みやすい楷書に書き直した。
まぁこうしてくどくど転記するのは、歩いている最中はどうしたって前に進むことしか考えていないので、特に気にならない限りじっくり目を通す事がない。ところが看板の前を通り過ぎる際にデジカメで撮っておけば、後に「あれはこうゆう事だったのか」とあらためて旅の余韻に浸ることができたりするのである。
で馬籠宿の宿はずれの高台に東屋が有ったので、馬籠峠に備え休憩。こうして上から見下ろすと小さな宿場である。
また古そうな家並みを残してはいるが、どれも土産物屋を兼ねていたりするので俗っぽいと捉えるか、古い物を残そうという努力と見るかは人それぞれだろう。
まぁ、ふつーに別に観光施設でもなんでもない生活の場にぞろぞろと観光客が縦横無尽に歩き回られるのも住んでいる人にとっては迷惑だし、難しいところである。 休憩を終え、道祖神の脇に立てられた道標を見ると、妻籠まで7.6kmとあるのでおよそ2時間で妻籠宿なわけだが、宿場町を過ぎると歩いている人もまばらである。
やがて道の先を民家が塞いでいた。側に看板があり民家を避けて抜けるよう迂回しろと書いてある。って庭先を通り抜けるだけじゃんか。
まぁ車が通れる道は有るし、こんなところ通るのはハイキングな人と中山道を歩く酔狂な人くらいとは言え住んでいる人にはかなり迷惑な話だろう。
まぁそんな酔狂な人たちのために道をわざわざ石畳風にあつらえてみたりとがんばっているようである。ちなみに写真の石畳の坂は梨子の木坂と標柱に書いてあった。梨の木坂を登るとなにやら句碑があった。十返舎一九のもので以下の文字が石碑に刻まれている。
渋皮のむけし女は見えねども
栗のこはめし茲の名物
要約すると
渋皮の向けた粋なねーちゃんはいないけど、栗の強飯がここの名物だぜ。
ということらしい。
で車の通る道から一本逸れた静かな家並みが続く街道を抜け最後の登りをやっつけ、スタートから4時間24分経過した14時04分に馬籠峠に到着した。

馬籠峠

馬籠峠その2

中山道→の示す先

雪がっ!!

残雪に覆われた中山道

立場茶屋

サワラの巨木

道を踏み外すと谷底

倉科祖霊社

妻籠宿方面

大妻籠の看板
ちょっと前までは、落合の石畳を越えたら長野県だったが旧山口村の人たちが中津川市に編入されることを望んだのかどうかだわからんが、いくら平成の大合併とは言え全国でも県境がまたいでくっついた越境合併はたぶんここだけだろう。そのため県境が馬籠峠まで移動してしまったのである。
ちなみにもう馬籠側の看板は「長野県山口村」から「岐阜県中津川市」に変更されていた。
で峠の茶屋なんかあったが観光シーズンにはいささか早かった為か商売している気配が無いし、峠越えのささやかな祝いに缶ビールでの祝杯を尾あげられそうな所も無いので妻籠への道を探すと、「馬籠峠」と書かれた標識の下に「中山道→」と書かれた立て札に従って進むと
バリバリ雪積もってんじゃねーか!! 馬籠宿入り口からずーっと登り坂で、晴れて今度は下りで楽を出来ると思ったのだが思いっきり当てがはずれてしまった。
で不安な足下に加えて、追い打ちを掛けるかのような衝撃的な看板が立っていた
最近、野生の動物(熊、猿、猪)がよく
目撃されてます。
充分注意を御願いします。
○必要以外、歩道を外れないように
  しましよう。
O不安な方は、次の標識までをご
  利用下さい。
熊、猿、猪とくれば日本を代表する恐るべき猛獣そろいであるので、ビビりながら下っていくと家族連れとおぼしきご一行様に追いついた。
ふと、ご一行様の足下を見ると、この残雪の坂道をサンダル履きで、ときおり悲鳴を上げながら下っている。
とりあえずこれだけ騒々しければ猛獣の心配は無いだろうとしばらく後に続いていたがいい加減鬱陶しいので、雪で覆われた下り傾斜の木橋で躊躇しているところを、「お先に」と先行させて頂いたがここで滑ったら俺ってちょー格好悪いと藤村記念館の敷石に躓いて醜態をさらした事を思い出しつつ無事渡り終え、しばらくすると黄色い歓声も遠のいていった。
やがて道が開けると古い民家が現れた。看板によると現存する江戸時代後期の立場茶屋とのことである。
立場茶屋
Tateba Tea House
立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅
人に休息と利便を与えた。一石栃は妻
籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は
七軒ほどの家があって栄えていたが、
今ではこの牧野家住宅一軒だけになっ
ている。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、
当初は間口が十間半もある大きなもの
であったが、現在は南側が切りとられて
八間に縮小されている。
ここで「宿峠越えビール」を開けようかと思ったが、なんか人んちの軒先の縁側でビールやっつけるようでいささか気が引けたのでもうちょっと先の広場の一角に東屋が有ったので峠越えビールをやっつけることにした。
でこの広場は白木改番所跡とのことである。
一石栃の白木改番所跡
Remains of Shirakiaratame Bansyo in Ichikokutochi
 白木改番所は、木曽から移出される木材
 を取締るために設けられたもので、檜の
小枝に至るまで、許可を示す刻印を焼い
 てあるかどうかを調べるほど厳重であった
 といわれている。木曽の森林資源は、領
 主たる尾張藩にとって、それほど重要な
 ものだったのである。
 番所は最初下り谷に設置されていたが、
蛇抜けによってここ一石栃に移転した。
『木曽谷諸事覚書』には、寛延二年(一七四
九)のことと記されている。
でビールをやっつけ終え、再び歩き始めるとなにやらでっかい木があった。
傍らの看板によると樹齢300年のサワラの木で材木にすれば風呂桶300個分にもなるが、枝ぶりが特異なため神居木と呼ばれ切ったりすると祟られると恐れられたため、ここまで放置されたようである。
さわら(椹)大樹
樹 齢 約三〇〇年
胴廻り 五・五米
樹 高 四一米
材積  三四立方米

椹材は耐水性が強く、風呂桶や
壁板、建具等に多く使われます
この木一本で約三〇〇個の風呂
桶を作ることが出来ます。

かもいぎ(神居木)
この椹の下枝が立ち上がって
特異な枝ぶりとなっていますが
このような形の枝を持った針葉
樹を神居木(かもいぎ)といい
ます。
昔から山の神(または天狗)が
腰をかけて休む場所であると信
じられていました。
傷つけたり、切ったりすると
たちまち、崇(たた)るといい
伝えられ、杣人(そまびと)は
この木の下を通ることもいやが
りました。
この木のように両方に枝の出た
木を両神居といいます。

   木曽森林管理一署
        南木曾支署
木がさわらだけにさわらぬ神にたたりなしか。って書いていて寒くなるわ。
(ちなみに書いているのは真夏の盛り、長久保から小田井まで歩いて御代田からしなの鉄道で上田に取った宿へ戻る途中だ。)
一応道は整備されているものの、一歩足を踏み外すと谷底へ転がり落ちていきそうな山道を下っていくと倉科祖霊社という小さな祠があった。
倉科祖霊社 Kurashma Soreisya
ここには、松本城主小笠原貞慶の重臣倉
料七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。
伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに
行く途中、この地で盗賊のために殺された
とされているが、史実は次のようである。
七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大
阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その
帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃
にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者
三十余名とともに討死してしまった。時に
天正十四年三月四日のことであった.
当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈
を交えており、そうした因縁からこの争
いも起きたと思われる。
この辺りまで下ってくると家もあり、猿やら猪やら熊との遭遇は無さそうである。ただ麓を見渡してもまだ宿場の影すら見えない。
先ほどの倉科祖霊社より10分ほどで要約すると「この坂を350m程登ると県宝の藤原さんちがあるよ」という看板が立っていた。折角馬籠峠から下って来たのに今更登るのもなぁ・・・と看板だけ眺めるにとどめておいた。
県宝藤原家住宅
Nagano prf. Tresure The House of Fuiiwarasn

この坂(左右どちらの道でも行ける)を
登った上平に、県宝藤原家住宅がある。こ
の住宅は改造が大であったが、当初部分
は県内民家で最も古いクラスで、建築年
次は、間取り・構造・仕上がりから、十七
世紀半ばまでさかのぼると考えられる。
昭和五十三年七月二十七日に県宝に指定
された。昭和六十年度と六十一年度の二ヵ
年をかけて解体復元工事が実施され、
往時の姿がよみがえった。希望者は
内部を見学することが出来る。

で藤原さんち入り口の看板を過ぎ、程なく県道にでると「大妻籠」とでっかい看板があり、妻籠宿に近づいたようである。

旅篭金剛

藁でこしらえた馬

妻籠宿 その1

妻籠宿その2

ねこ

妻籠宿

妻籠宿本陣

妻籠宿脇本陣・歴史資料館

妻籠宿その3

高札場

妻籠宿その3

鯉岩

上久保(うわくぼ)一里塚

木曽川と国道19号

SL公園

桃介橋
大妻籠の看板の側に「旅篭 金剛」と屋号を掲げた家の脇に看板がある。うーん金剛と言えば「ストロング金剛」を思い浮かべる世代の俺様だが、多分まったく関係は無いのだろう。
 当家の初代磯村定心居士(天保六年〜明治三十五年)
は二階に弘法大師を祭祠し熱心に信仰を深めました。
定心居士が没した翌年に信者が中心となり浄財を長
めてこの碑が建立されました。定心の孫「さだ」?空智
大姉(明治二十五年〜昭和二十五年)が後継者として信仰していま
したが没後は後継者がなく現在に至っています
 往時は三月二十一日が年に一度の祭礼で弘法大師と
記した五色の、のぼり旗を掲げ町内は、もとより下伊那
遠くは名古屋方面からも信者が集まりました 
その日は子供も多数集まり菓子をもらったり、投げ
餅を拾って楽しんだといわれています。現在も身内
や近所の人たちが集まって祭礼がとりおこなわれています。
 厄払い、お産、縁結びなどの願いが叶えられる
といわれています。
まぁとにかく昔は空海やら日蓮とか偉大な宗教家がいらっしゃったが今では歴史に名を残しそうな偉大な宗教家はいないって事で締めくくって良いでしょうか?。
で旅篭金剛より五分ほどで石柱道標とかいう看板に出くわした。
 石柱道標(町史跡)Stone Guide Post
明治二十五年に賤母新道が開通するま
で、馬籠〜妻籠〜三留野を通る中山
道は、古くから幹線道路として重要な
役割を果していた。ことに妻籠の橋場
は「追分」とも呼ばれ、中山道と飯田街
道の分岐点として栄えた所である。
この道標は、飯田の皆川半四郎とい
う人が発起人になって、当所の松井輿
六・今井市兵衛・藤原彦作の世話
人とともに、飯田・江州・地元の商人
によって、明治十四年六月に建てら
れたものである。当時の繁栄がうか
がえる石柱である。
古民芸とのれんを掲げた店の藁で作った馬なんぞを眺めつつ、坂を下っていくとここが古くは飯田、木曽への追分であったと記してある木の看板があった。また看板には「おしゃごじさま」という謎の神様についての謎の説明がある。 
  尾又(おまた)
 木曽路(中山道)から、伊奈(
飯田)道が分岐(分去れ、追分)
していた処である。右手の沢沿潰い
の竹やぶの中に、今もその道跡を
たどることができる。宝暦年間(
一七六〇頃)に、飯田道がつけ替
えられ、ここから約六百米南の橋
場に追分が移動した。
  おしゃごじさま  
 御左ロ(ミサグチ)神を祀る。
古代からの土俗信仰の神様で「土
地精霊神「土地丈量神様「酒神」
等の諸説がある謎の神様といわれ
ている。   尾又区
看板には”跡をたどることができる”と有るがどうひいき目に見てもこの急斜面に道が付いていたようには思えなかった。
さて、前方に目を向けるとポツポツと観光客の姿が見えるので、ぼちぼち宿場に入ったらしい。
9時40分に中津川を出発して、妻籠宿到着が15時26分ということは約6時間ってことだが実際には少なくとも1時間は飯食ったり、ビール飲んだりと休みをとっているので実質五時間くらいであろう。
そのうち目に見えて観光客が増えてきたがその数は馬籠ほどでは無い。やはり、妻籠宿は駐車場から遠い上に金取るが、馬籠宿は宿場のすぐ上に駐車場があり、しかもタダと来ているのでその敷居の違いだろうか。
まぁいつも国道19号から清内路峠を経て飯田方面に抜けるときに、立ち寄ろうかどうしようか考えつつもいずれ馬籠からここまで歩くだろうと素通りしてきたが、やはり車でひょいと立ち寄ったのとは感慨の度合いが違うようである。
などと詰まらぬ事を考えつつふと、石垣の上に目をやると猫と目が合ったのでパチリとカメラのシャッターを押すがそっぽを向かれてしまった。前にもこんな事があったような気がする・・・
で妻籠宿本陣+南木曽町博物館というのがあったので立ち寄ろうとすると、チケット売り場のおばちゃんに脇本陣の資料館とセットだとお得なので共通券売っている脇本陣に先に行ってくれとのことだった。
メンドクセ〜と思いつつはす向かいの脇本陣に行くと、団体さんご一行にかち合ってしまったのかなかなかの盛況ぶりである。
団体さんに続いて入ると、受付でクソ重いリュックサックなんぞ預かって頂きなかなかのサービスである。
でさっそく囲炉裏なんかあり、家族の定位置について次のように説明員のかたが次の様に語っていた。
子供が座るところは風下の煙たい席で、嫁さんは板敷き、姑さんは畳敷きと区別があるそうである。囲炉裏の有る部屋の壁が有る高さを境に艶が有るところと煤けているところがあるのは雑巾で拭いたときに手が届くところはテカテカ。届かないところは真っ黒ということらしい。
で二階へ回ったりうろうろしているともう三月の半ばだというのに雪が降り始めた。
本陣へも回りなんだかんだで一時間近く費やし、南木曽駅を目指して歩くと土産物屋も少なくなったせいか、歩いている人も激減して先ほどまでの喧噪が嘘のようである。
高札が掲げられているところを過ぎコンクリ舗装の急な坂道を下っていくと、口留番所跡と記された看板があった。
これを書いている現在は(約5ヶ月後の8月)木曽福島関所資料館とか贄川関所資料館やら立ち寄った後なのでほぼ「関所=口留番所」ということを知っているのだが、この看板には、往来する人々を監視していたとしか書いていない。
口留番所跡 Remains of kuchidome bansyo

江戸時代の初期、このあたりにロ留番所
があって、中山道を行く人々を監視して
いた。
従来、このロ留番所は、江戸時代の早い
時期に廃止されたという見方が強かった
が、最近発見された正保三年(一六四六)
と推定される史料に、「妻子(籠)御関
所」と記されていることから、少なくと
も一七世紀中頃までは妻籠にロ留番所
があったことが確認された。
なお妻籠には、下り谷その後一石栃に、
木材を取締ることを目的とした白木改番
所が、近世を通じて設置されていた。
口留番所跡のそばには、巨大な岩がなんかの拍子に転がってこないか不安になるほど不自然なかっこうで鎮座しており、傍らにある説明を見ると鯉岩と記されている。どう見ても鯉には見えないがと思い、説明を見ると濃尾地震の時にやはり崩れた様である。なお説明の最後の方に昭和四十年と記されているが、40年前の木製の看板が判読可能というのはなかなかである。
 鯉ヶ岩の由来

昔当地(妻篭)城山に
木曽義仲の後裔義昌
が砦を築いていた其頃
武将が此岩の附近で
恋の物語りをさヽやき
たりと云ふ伝説あり其
の後部落の地名も恋野
となり現在も其の儘残
っている中仙道筋の旅人
を驚かしたり喜ばして
いる信濃道中記
鯉ヶ岩は名の如く大き
な鯉の形をした大岩で
あったが明治廿四年美
濃の大震災で移動し
たゝめ形が変った。附近
の烏帽子岩(吾妻橋地区)
兜岩(神戸地区)と共に
三大岩として有名で
ある      
 鯉ヶ岩津島社八十一年祭
 に当り祠再建
 昭和四十年八月四日、

でこのまま、街道は川沿いにちんたら下っていけば良いのかと思えば、どんどん再び山の中を突き進んでいくと妻籠城趾という案内板があった。
妻龍城址(町史跡) The Site of Tsumago Castle
妾籠城は、いつ誰によって築かれたか明らか
ではないが、室町中期には築城されていたと
推察される。妻籠城は、天正十二年(一五八四)
の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場とな
り、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝が籠って、
徳川家後配下の菅沼、保科らの軍勢を退けて
いる。また慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦
いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元
和二年(一六一六)には廃城となった,妻籠城
は典型的な山城で、空堀・帯曲輪、さらには
南木曽岳にのびる妻の神土塁という土塁も備
えており、規模の大きな構えであったことが
知れる.
主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ヶ岳
を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる.


というわけで相当な規模の城だったらしいが戦国の乱世の終焉と共にこの城も役目を終えたようである。 どのくらい尾規模なのか、主郭まで徒歩10分という説明に恐れをなして、素通りさせて頂いた。
妻籠城趾の看板から歩くこと10分ほどで一里塚が目に入った。傍らの案内板によれば上久保の一里塚と呼ぶらしい。
上久保の一里塚(町史跡)
The Milestone of Uwakubo
一里塚は、慶長九年(一六〇四)から一七
年(一六一ニ)にかけて、一里(約四粁)ご
とに築造されたものである。一里塚の基
準は、五間四方(約九米)、高さ一丈(約
三米)で、塚上に榎や松を植えた。街道
の両側に対に築造され、旅人に安息と利
便を与えた。
町内には、十二兼・金知屋・上久保・下り
谷の四カ所に一里塚があったが、現在原形
をとどめているのはここだけである。江戸
から数えて七十八里目の塚である。
さて、”かみくぼ”だと思ったら実は”うわくぼ”だったりする一里塚から10分ほどで、芭蕉翁ゆかりの「ふりそでの松」といかにも由緒ありげな松が生えていた。でも由緒ありげな松よりも、松の傍らにある「南木曽駅まで1.1km」と記された道しるべの方が嬉しかった。
しばらく進むと、眼下には木曽川と国道19号が見えてきた。両者とも落合宿以来の再会である。
でなぜかSLがおいてある公園で休憩。機関車はD51なのだが、おいらが立っている位置は中央線が昔通っていた所だそうな。
で南木曽駅に向かって歩くと、桃介橋が見える。おいらが初めて車でここを通ったときには桃介橋はとても人が渡れる状況では無かったがいつの間にか修復が進められちょっとした観光スポットとなっているようだ。
で南木曽駅の前に来たところでゴールとした。

あとがき
でこの次は三留野からスタートすることになるのだが、先のSL公園の看板では江戸時代の中山道ルートではなく、与川道と呼ばれる木曽川がデンジャラスな時に利用された迂回路が紹介されており事前にルート確認せずにその通り進んでえらい目にあったりした。まぁ自然にあふれ、森林鉄道の遺構とかあって好きな人にはいいのだがそれ以外の人にはとても勧められないルートである。
さて、丁度中津川行きの電車もきたので、やってきた電車に乗り込むと降車時ドアは手で開けてくれと書いてある。ボタンでの開閉はよくあるが手で開けろとは・・・
まったく8時間近く掛けて歩いた中津川−南木曽だが電車だと、わずか20分ほどと本当にあっけない所要時間である。
中津川駅に着くと、ホームの傍らに「是より北、木曽路」の石碑などがあった。で駅をでて何か土産物でも買っていこうとすると駅の隣になんかあったので寄ってみると和菓子の博覧会状態で、どれにしようか悩みつつ、店員のおねーちゃんに「日持ちするものってなにか有ります?」と尋ねると幾つか選んで頂いたので、その中から栗にちなんだものと、それと「からすみ」を購入した。
からすみといってもボラの卵巣ではなく、「名古屋のういろう」と似たようなものである。
でちょっと駅から歩いて市営駐車場に戻り、国道363号から国道257号で浜松抜けて帰ろうとすると、国道363号は相変わらず通行止めだったので国道19号に戻るといつもの大渋滞だったので、えいやと左折するとうまいこと広域農道なんかあり、すんなりと257号に入り6時間半ほどで家に辿り着いた。

中山道 大井−中津川に戻る与川道経由で野尻へ進む
三留野−上松へ進む
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