中山道 南木曾駅〜野尻

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年4月30日三留野〜野尻(与川道)晴れ3時間35分19658歩13.76km1270円
まえがき
というわけで飛騨高山に酒とか味噌とか醤油とかこの時期ならでは山菜を仕入れて、途中開田村で蕎麦なんぞやっつけて、木曽福島では温泉入ってと、ずいぶんと寄り道しながら、木曽福島の駐車場に車を停めて、中央本線にて前回のゴール地点の南木曽駅を目指した。
この時点ではこの後、途方も無いミスコースを犯すとは思っていなかった。今回辿ったコースは木曽川が大変な事になったときに迂回路として使用されていた与川道と呼ばれる中山道の言わばバイパスみたいなものである。
どうやら、国道19号や中央本線によりズタズタに分断され、往時の面影などまるで残っていないということで、南木曽町が整備した自然あふれるコースである。
あふれる自然にいまや屈しようとしている森林鉄道の遺構もあったりするのでそちらに興味がある人にはお勧め出来るが、それ以外の方には溢れる自然以外に特に見所も無く、かなり体力勝負なコースなのでお勧めは出来ない。

14:19スタート

園原先生碑

貯木場と桃介橋

木の橋

三留野宿方向

トラップ入りの地図

読書小学校

三留野宿本陣跡

三留野宿本陣跡その2

三留野宿の街並み
野尻まで全行程2時間半足らずだろうと軽ーく考えて、前回のゴール地点から14時19分にスタート。
歩き始めて程なく「町史跡 園原先生碑」と記された石碑がある。先生と言うからには明治以後の学校の先生かと思ったが、説明を見ると江戸中期の神学に通じた学者さんとのことだった。
園原先生碑 The Moment of Prof. Sonohara
 
園原旧富は、三留野村和合の東山神社の神
官の家に元禄十六年(一七〇三)に生まれ、
長じて京都に遊学し、吉田兼敬(神祇管領
長)に師事して神学を学び、「神学則」を著
わすまでになった。その後も「木曽古道記」
「神心問答」「御坂越記」「木曽名物記」な
どを著わして、尾張・美濃・信濃に門人多
数を擁する大学者となった。
この碑は彼の死後五年目の天明元年(一七
八一)に、学徳を慕う門人たちによつて建
立されたもので、碑文は当時有数の学者で
ある松平君山が書いている。なお、園原家
住宅(非公開)は、江戸時代中期の神官の
家の姿を伝える貴重なものである。
     丁度、上松駅を見下ろす場所に差し掛かる。眼下には広大な貯木場とその先には桃介橋が見える。
駅前に丸太が積まれた貯木場があるが、おいらは丸太が積まれている中央本線の貨物列車は記憶にないのでおそらくトラックでの輸送がメインなのだろう。中央本線の貨物といえば、県別でベスト3に入る高価格な長野県のガソリンを積んでいるのしか見たことが無いような気がする。
道を下っていくと、木製の橋がある。珍しいので写真を撮ってみたが、この三時間後にはこれから起こる悪夢のような出来事により木の橋なんぞ珍しくとも無くなっているのである。
ちなみに車も通れるようで、多分この橋が造られた当初は4tまでは大丈夫だったことを写真左側のガビガビに錆びた制限重量の標識が示している。
道はほぼ平坦となるがまだ三留野宿には辿り着かない。他の宿場は本当に駅前宿場って感じだが、南木曽駅は宿場と駅は離れて作られたようである。
で俺様を惑わした地図に出くわす。三留野宿を過ぎて中山道は、国道19号やら木曽川に沿って下っていくのだが、この地図では山側に大きく 迂回している。まぁ昔は木曽川沿いが断崖絶壁で道が造れなかったんだろうなぁと思ったのだが、看板の”歴史の道”という言葉に見事だまされてしまったわけである。
ただ、地図に併記された説明を見ると、
後で気づいたのだが
ちゃんとこの地図に記されたルートが中山道の本来のルートでは無いことがしっかり書かれていた。
中山道と与川道
三留野宿と野尻宿の間の中山道は、金知屋から十二兼を経て真っ道ぐに木曽川沿いを北
上していますが、牧ケ沢、羅天という難所がしばしば通行不能になったため、その迂回
路として上の原から与川を通って野尻宿に至る、いわゆる与川道が開設されて、享保16
年(1731)伏見家王女比宮が将軍世子徳川家重に嫁ぐ際、尾張藩は延人足5302人を
動員して与川道に大々的に普請を施しました。この道は本来の中山道が宿間二里半なの
に比してー里四丁三一間の回り道になりますが、足止めされる旅人にとってはありがた
い迂回路でした。昭和53年から行われた歴史の道整備事業では、木曽川左岸沿いの道が
鉄道や国道で旧状をほとんど留めていないため、与川道を歴史の道として整備しました。
    
ちゃんと読め!→俺様
さて、道路右手に学校が有るのだが読書小学校と石に刻まれている。なぜに読書かというと以前、この辺りには南木曽町となる以前は読書村と呼ばれており、さらにその前には与川村、三留野村、柿其村の3つの村があり、それが合併する際に
与川村の三留野村柿其村のかきを取ってよみかき村となったわけで、これならば南セントレア市といった無茶なネーミングで住民から大クレーム食らうことも無かったと思われる。
等と思いつつ三留野宿へ入った様だ。早速、本陣跡の案内板があるが往時の面影はまるでない。
説明に寄ると明治の三留野宿の大火により燃えてしまったそうである。
三留野宿本陣跡
この長野地方法務局南木曽出張所跡地は
三留野宿本陣があったところである本陣の
建物は、明治十四年七月十日の三留野宿の
大火災の際焼失してしまった。ちなみにこ
の時の被害は、家屋七十四軒・土蔵八軒に
達した。
しかし庭木の枝垂梅(町の天然記念物)と
明治天皇御膳水が本陣の名残りを留めてい
る。明治天皇は、大火の前年の十三年六月
二十七日に一泊されている。御膳水の井戸
は昭和五四年に復原したものである。
     で本陣の次は脇本陣だが、本陣が燃えた明治の大火によりこちらも燃えてしまったそうである。
三留野宿脇本陣
 木曽十一宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ
一軒ずつ置かれていた。本陣は江戸時代の初
めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁にな
った中期以降に設置されていった。
脇本陣はその名の通り本陣を保管するため
のもので、三留野宿では代々宮川家が務めた
宮川家はまた三留野宿の庄屋も務め、本陣の
鮎沢家、問屋の藤野家などとともに指導的役
割を担った。宮川家のあるこの周辺が、江戸
時代の三留野宿の中心部であった。
 なお三留野宿は明治十四年(一八八一)の
大火によって全焼し、現在の建物はそれ以降
のものである。

平成十二年十一月三日

       南木曽町教育委員会

    

ワイルドな道

廿三夜塔

年代物の薬の看板

ずいぶん登ったようだ。

中山道の標識

りっぱな農道

森林鉄道の遺構?

正善沢

田園風景

森林鉄道の遺構?その2

熊に注意

まむしに注意

トタンゲート
というわけで南木曽町の陰謀?により三留野宿を過ぎるとお堂の有るところで中山道→(小さく与川道)と記された標識に従い右手の坂を登っていった。
中山道(本ルート)は坂をくだって行くのだが、標識も説明も無いので与川道トラップを食らったわけである。最初のうちはこのトラップに気が付かず、なかなかワイルドな道だなぁ位にしか捉えてなかった脳天気な俺様である。
ワイルドな道を過ぎると田んぼやら畑が広がる、人間の生活圏に戻ってきた。
でなにやら石碑のようなものがある。説明によると月の出をここで待つためのものだとのことである。
 廿三夜塔
廿三夜信仰は、二十三
夜の月の出をおがみ、
豊作や幸福を授ろう
という祭りで、遅い月の
出を立って待つことから
「お立ち待ち」ともいう。
この塔は、嘉永七年
(一八五四)の建立である。
(南木曽町)
振り返ってみるとずいぶん登ってきたようだが、この時点ではまだ南木曽町のトラップには気づいていない。
むしろ、古めかしい頭痛薬の看板を見つけてはしゃいでいるくらいである。
ついでに標識も中山道と書いてあるしなぁと思いつつさらに高度を上げていくと、こんな山奥に似つかわしくない立派な農道がある。
まぁこれを下っていけば再び19号に戻るのかと思う程度でまだトラップには気づいていない。
で下り続けていくと、大分年代物のコンクリ製の橋脚のようなものが見える。
この辺りは木材輸送を担った森林鉄道があちこちにあったらしいので、これもその一部では無いかと思われるが廃線となってからでも40年くらい経過しているのにまぁよく残っているもんだ。
で坂を下っていくと橋が有り、ここが三留野村と与川村の境界だったと看板に記されている。
しかし、年貢の単位が石とか、斗とかまでは判るが、升は細かすぎるし、合ってなにさって感じでそんなにキッチリ細かく年貢を納めていたのかと妙な所で感心してしまった。
正善沢(与川・三留野境)
Shozenzawa Mountain Stream

この沢が、江戸時代の与川村と三留野村
の境界であった。ちなみに、享保九年
(一七二四)の検地直後の両村の規模は次
のようであった。

 与川村  田畑 二十八町二畝六歩
      年貢 四十石一斗六升一合

 三留野村 田畑 六十一町四反九畝十四歩
      年貢 七十二石ハ斗一合

江戸時代は、山野の芝草は耕地の肥料と
して貴重で、そのために村界争いが各地
で起きているが、与川村と三留野村も、
この正善沢をはさんでしばしば争ったこ
とが史料から知られる。
正善沢からさらに下っていくと、眼下には田畑と家が、まるでジオラマのように広がっている。
三月なので田んぼにはまだ水が張られておらず、畑にはなにも植えられていないが国道やら中央本線から離れた所にこんな美しい風景が広がっているとは思わなかった。
でこのまま沢沿いに下って再び木曽川沿いにでるのかと思いきゃなぜか道は山の上を目指している。
しかも「熊に注意」看板まである始末。いや「マムシに注意」まである。そんな危険地帯を抜けるとトタンで出来たゲートがあった。
一瞬、行き止まりかよと思ったが回りには電気柵があり、どうやら猪などの野生動物の襲来を防ぐ物と思われる。
良く見るとトタン製ドアにはちゃんとペンキで「押す」と書いて有るので押して集落の中に入った。

山中へ続く小道

森林鉄道の痕跡?

阿弥陀堂

らんかん橋

石の仏さん

峠道

根の上峠

砂防ダムその1

砂防ダムその2

野尻駅

ゲートを越えると集落があり、ある家の前には「与川村庄屋屋敷」との案内板があり、この辺りが与川村の中心地であったようである。
今では電気柵に囲まれた野生動物のテリトリーと近接するワイルドな集落だが・・・
与川村庄屋屋敷
Yogawa Village Govemment House
江戸時代の与川村は、享保九年(一七二
四)に木曽谷中の検地が行われるまでは、
野尻村の支村であったが、検地後独立し
て一村となった。その与川村の庄屋になっ
たのが島崎氏で、妻籠や馬籠の島崎氏
と同族といわれている。
島崎氏は与川を離れているが、庄屋屋敷
は今も往時の面影をとどめている。
なお、この地は小川野平といい、与川で
は最も平坦な所である。
で畑を荒らす野生動物と戦うワイルドな集落を抜け、標識に従い再び山中へと続く小道に入る。
入り口には木製の看板があり
この辺で山菜を採るな。盗ったら50万円
そーいや、さっきからコゴミやウドやらタラの芽を見かけたが、どう考えても50万円を取るのは無理だと思う。
まぁとにかく野生動物の他にも山菜泥棒と戦わないといけないとは大変だなぁ。
しかし、これだけ歩いたのにも関わらず、一里塚がここまで見あたらず、馬頭観音やら道祖神の数も少ないことにいささかの疑念を感じつつも、出てきた地図に、ここがかつて松原御小休所と呼ばれる「お偉いさん専用の休憩所」で合ったことが記されていた。
松原御小休所跡 remain of Okoyasumijo Matsubara Resting Place for High Personage
  小休所とは、高貴な方が通行する際、休息所として設置されたもので、享
保16年(1731)の史料によれば、この与川にも、脇沢峠(根の上峠)・せお
い出し松原・桃木峠の三ヵ所に御小休所がありました。脇沢峠と桃木峠は
ともに見晴しのよい所にあり、この松原御小休所跡も広々として、気持ち
のよい所に設置されています。江戸の将軍家へ降嫁する京都の姫君にとっ
て、いかほどの慰めになったことでしょう。
なお、地図には根の上峠という聞き慣れない峠がルート上にあり、どうやら三留野宿を抜けて標識に従って右手に行かずに、道なりに下ってR19号方面に行けば良かったのではと今更気が付いた。
でまたまた、野生動物の生活圏から人間の生活圏に戻ってくると、田んぼの先に道幅といい傾斜といい鉄道が走っていた痕跡がみられる。
こんな所に走る鉄道って森林鉄道以外無いだろうが、昭和30年〜40年代には廃止された森林鉄道の路線図なんぞ、今となっては入手出来ないので今となっては確認する術もなかろう。
集落のはずれにはお堂があり案内板によれば阿弥陀堂とのことである。
阿弥陀堂 Amidado
このお堂は阿弥陀堂といい、阿弥陀如
来・薬師如来・弘法大師などが安置され
ている。
境内には、庚申碑・馬頭観世音・巡礼参
拝碑・南無阿弥陀仏碑など、多くの石造
物がある。うち最も古いものは、元禄五
年(一六九二)の内「南石無阿弥陀仏」碑で、町
内でも古い石像物の一つである。
なお、この平坦地の地名は、須合平という。
与川地区はこうした平担地がいくつか集
まって成り立っているのである。
先ほどから何遍坂を登ったり下ったりしたのかわからんが、先ほどの阿弥陀堂から10分ほどで与川に架かる”らんかん橋”に辿り着いた。
橋に欄干はつきものだと思うが、当時の橋としてはゴージャスなオプションだったらしい。
でスタート直後に木の橋を珍しく感じたが、先ほどからこの遊歩道は足場の悪い斜面には至る所に木の橋が渡されており、そのきしみ具合がなかなかスリリングである。
らんかん橋
nankanbashi Bridge
この付近の地名を”らんかん”という。
これは、京都の姫君の御降嫁の行列が
与川を通行するに際して、欄干のついた、
りっぱな橋をかけたことから、いつの間
にか地名になったものである。
享保十六年(一七三一)の史料によると、
この橋の名は「上川橋」という。また三
留野宿から野尻宿までの与川道の普
請に、延五千三百二人が従事したと記
されている.
で、いよいよ根の上峠を目指す最後の登りとなるが、辺りは木立に囲まれ眺望はよろしくない。
登りも後半戦を向かえた頃、石仏道標という、石の仏さんに、道しるべを加えた実用的なアイテムがあった。
石仏道標 Signpost of Stone Buddhist Image
この石仏は、宝暦十一年(一七六一)十月
に建立されたもので、
    右 やまみち
    左 のぢり道
と彫られている。右のやまみちを行けば、
大桑村長野に出、左の道を行けば野尻宿
に至るのである。
この石仏からも、与川道が古くから中山
道の迂回路として用いられていたことが
伺える。
歴史の道の周辺には、こうした道標をは
じめ、馬頭観音などの石仏をいくつか見
出すことができる。
うーん。「野尻」というローカルな地名と「山道」というアバウトな表記で混乱無く往来できたのか気になるところだ。
というわけで南木曽駅を出発して2時間45分後の17時05分に根の上峠に到着した。特に見るべき物は無いのでそのまま下るだけである。
これより南木曽村から大桑村になるのだが、どうやら林道を経て野尻駅まで下るだけのようである。南木曽側がハイキングコースとして整備に力を入れているのとは大きな違いである。
そんなわけで二反田川に沿って走る林道を歩くのだが、こちら側は砂防ダムくらいしか見る物がない。こんな山の中にこんな構造物が有ることに驚いたが、きつい傾斜をほぼ一直線に流れるだけにこういった設備が必要なのだろう。
そんなわけで南木曽をスタートしてから、3時間半余りの17時54分に野尻駅に着いた。

中山道 中津川−三留野に戻るそのまま須原−上松へ進む
後戻りして三留野−須原へ進む
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