中山道 南木曽〜須原

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2005年6月25日三留野〜須原晴れ3時間32分22287歩15.6kmでんしゃ320円がそりん2000円

桃介橋その1

桃介橋その2

桃介橋その3

桃介橋その4

木曽川
まえがき
というわけで今回は中山道と記された標識に釣られて与川道という迂回コースの雪辱戦となる。
とりあえず、南木曽へ向かい木曽川対岸の天白公園に車を止め、桃介橋を渡り三留野まで歩くことにした。 た。
この桃介橋はおいらが免許を取った十数年前は、今にも崩れそうな姿をさらしていたが、いつの間にか復元されて人が渡れるようにまでになっていた。
近代化遺産 桃介橋の概要
    大同電力㈱(社長福沢挑介)により、大正10年末〜11年9月に
略 かけて下流の読書発電所(大正10年9月〜12年12月完成)の
  建設用資材運搬跡として建設された。昭和25年に旧読書村
  (現南木曽町)に寄付され、以来現在まで町道であるが、老朽
歴 化のため通行止めとしていた。平成2年から付近一帯の公園
  整備に併せて近代化遺産として復元したものであり、大正時
  代の長大吊橋の本格的な保存と活用をめざすものである。
   木製の補剛卜ラスを持った吊橋としては、日本有数の長大橋
特 であり、この種の吊橋としては、当時(大正時代)我が国の土
  木技術の粋を集めた4径間の吊橋である。3基の主塔は
  デザインも大変すぐれており特に中央の主塔からは水辺ヘ
微 降りる石段が設けられている。またそれぞれの主塔から、斜
  吊索が張られ19世紀末のアメリカの吊橋によく似ていると言
  われている。橋が架けられている所はこの付近では最大の
  所であり景観にマッチした美しさと雄大さを見せている。
木製補剛トラスを持つ多径間吊橋
橋長  247m ・  幅 員  2.7m (全幅4.4m)
主塔  3基(石積み部分高さ13.Omコンクリート部分高さ13.3m )
主索ケーブル8本(片側4本径4cmのストランドロープ使用)
主索ハンガー    204本(片側102本、径3.5mmの鉄線5本を束ねてある)
耐風索 4本(径3.2cmのストランドロープ使用)
補剛桁 木製

木構造部
木構造部の使用木材は次の
ようになっている(カッコ内は
原設計時点のものである。)
床部分
吊 桁 ボンゴシ(クリ)
床 梁 アスヒ(クリ)
横 桁 アスヒ(クリ)
敷 板 ヒノキ(マツ)
レール跡 ボンゴシによりレール
     のあった所を示す
枕梁 ボンゴシ(クリ)
トラス部分
上弦材 サワラ(スギ)
下弦材 サワラ(スギ)
対角材 サワラ(スギ)
隅沓材 ボンゴシ{ヒノキ)
抗風材 ヒノキ(スギ)
親 柱  ヒノキ (スギ)
使用材積
国内産材(木曽材)    143.02立米
外国産材(ボンゴシ)   32.98立米
 近代化遺産とは、幕末から戦前にかけて日本の近代化に大きな役割を担った産業遺産をいう。
桃介橋の復元にあたり安全性確保の為、木構造部の継手金具の一部に改良を加えてあります。
平成5年9月復元竣工・南木曽町
重要文化財 読書発電所施設

       平成六年十二月二十七日 指定
読書発電所施設は、大正十年から同十二年にかけて、大同電力
(現在の関西電力)によって当時我国最大出力の水路式発電所施設
として建設された。大同電力社長福沢桃介が「一河川一会社主義」を
主張して、木曽川の水力発電開発に情熱を注ぎ、大正年間に相次い
で建設した発電施設のひとつであり、関西を中心とする各地の電力
供給に重要な役割を果たした。読書発電所施設は、当時の高い技術
的水準を示しているとともに、木曽谷の自然と調和しており、大正
期の水路式発電所施設を代表する近代化遺産として、次の施設が
国の重要文化財(建造物)に一括して指定された。

読書発電所(本館、水槽、水圧鉄管、附・紀功碑)関西電力社有
柿其水路橋(導水路の一部で鉄筋コンクりート製一四二・四m)関西電力社有
桃介橋(発電所建設資材運搬用木製吊橋二四七m、附・古材一式)
   南木曽町有
◆当時の桃介橋には、工事用のトロッコの軌道が 敷設されていた。
 この軌道は、南木曽駅〜桃介橋〜山中の読書発電所導水路に通
じていた。
                       
しかし暑い。なんか橋の下の木曽川の澄んだ水が呼んでいるような気がするが、誘惑を振り切り三留野宿を過ぎて12時13分、前回ルートミスの元凶となった標識のある分岐点に辿り着いた。

12:13スタート

中央本線

木曽川

国道19号

国道19号に合流

しばらくこんな歩道

10分歩いても変わらぬ景色

なんかの祠?

柿其橋でR19とお別れ

ワイルドな道
というわけで毎度長い長い前置きの末、前回の間違えて、本線から逸れて与川道に進んでしまった地点より12時13分にスタート。
中山道(与川道)と記された標識通りに右手の坂へ進まず左側に進まないといけないのである。
この与川道は野尻で再び中山道と合流するが野尻側は確か標識が無いので日本橋から歩いてきた人は間違える恐れはないが、京都から歩いてきた人は要注意である。
そんなわけで今度は間違えずに歩き始めたが、桃介橋のたもとからかれこれ20分は歩いているので、スタートから早々に汗でぐだぐだである。
で坂を下りつつ中央本線の線路としばらく併走し、線路をくぐって国道19号に出た。
出たのは良いが、歩道は木曽川沿いにしかなく横断歩道もない別名木曽高速とも呼ばれる国道19号を命がけで横断しなければならない。
で当分の間、国道19号を歩くこととなるが、木曽川を渡る涼しい風と、時折通り抜けるトラックの巻き起こす風により割合快適である。
但し、南木曽町がこのルートの迂回路として与川道を整備した位なので、やはり見所は少ない様である。
国道19号に降りてきてからかれこれ10分ほど歩くがまるで景色は変わらず、さらに歩くこと10分ほどで右手に大きな木に囲まれた木立が見えたが危険を冒して木曽高速と呼ばれるだけに横断歩道もない反対側に渡る勇気は無かったので、なんかの史跡かも知れないが結局の所判らずに通り過ぎた。ようやく国道19号を歩くこと30分余りの柿其橋のたもとにて国道とおさらばすることが出来た。
国道から逸れて程なく明治天皇御膳水という石碑が民家の庭先に建っていた
中川原明治天皇御小休所碑・御膳水碑
 平成の複元
明治天皇は全国各地を御巡幸されたが木曽へ
は明治十三年(一八八〇)においでになった。
山梨県から木曽路に入り、六月二十六日は福島
泊。翌二十七日は寝覚で御小休み、須原常勝寺
で御昼食、中川原で御小休み、その日の行在所は
三留野本陣であった。ここ中川原には夕方に
着き.゛羅天の難所を前にして、桜井太助宅にお
いてしばしの休憩を取られたという。
御巡幸を記念して、大正二年(一九一三)には
「御小休所」の碑が、昭和九年(一九三四)に
は「御膳水」の碑がそれぞれ建立された。しか
しその後、昭和四十年(一九六五)と平成五年
(一九九三)の二度にわたる国道十九号改良工
事によって碑の移転が余儀なくされた。二度目
の移転になる今、この場所に公園を整備して復元したものである。
 平成八年五月三十日    
南木曽町
     御膳水の碑から5分ほどで道なりに坂を登る2車線幅の真新しい道と、左側に緩やかな木曽川に向かって下っていく道に分かれており、
「暑いので河原に出られないだろうか」という思いと「あまりにも道が立派すぎる」という思い違いから左側の舗装されていない道を進むと畑に出て行き止まりになってしまい、河原にも降りることが出来ない様である。
河原にも降りられず、前にも進めず、土手を上って元のルートに復帰することもままならないとなると戻る以外の選択肢は無いのでやむなく2車線幅の真新しい道との分岐点に戻ることにした。

しょぼい道

十二兼駅

これをくぐるのかな?

本当にこれ?

”これ”の内部

R19を渡る

子供注意

左に逸れる道

第十四仲仙道踏切

読書ダム

中央本線沿いに進む

第十三仲仙道踏切

特急しなの

野尻駅まで1.5km
立派な二車線幅の道だったのは一瞬で再び車のすれ違いにも難渋しそうなしょぼい道となり、中央本線に沿って進む。
前方にはこじんまりとした十二兼駅が見えるが、あまり近くに人は住んでなさそうな雰囲気である。
13:12十二兼駅到着。駅前には柿其渓谷の案内図が描かれた看板があるのみである。
線路沿いをしばらく歩くと、ガードレールに中山道を示す赤いテープが貼り付けてあり、そいつの示す方角を見ると中央本線の下をくぐる沢の脇に足場を組んで無理矢理通路に仕立て上げられている。
思ったほど涼しくないし、余り居心地も良くないので早々にこのトンネルをくぐり抜けた。
階段を上がり国道19号に出て右手に逸れる道を進む。
左右に家々を配した集落となっている前方に「子供注意」という看板があった。どうやら子供と侮っているとえらい目に遭うほどデンジャラスな子供が生息しているらしい。
いつ子供が現れて襲われないかとビクビクしていると看板の先に子供がいたが、当然の事ながら別に子供に襲われることなく旅を続ける事ができた。
別段、「子供に注意」という看板は珍しい物ではないが、しばらく子供に注意より「熊に注意」といった看板のほうが多かったからなぁ。
集落を抜けると一旦国道19号を渡り、今度は左手に逸れる道がそれっぽいのでそちらへ進んでみる。
で簡単に「渡り」と書いたが、信号とか有るわけでは無いので車の間隙をついて一気に渡らねばならず、走っている車の速度も「木曽高速」の異名を取るだけにやたら速いので、横断にしくじることは死を意味する。
で、その危険な”木曽高速”の塩尻寄りに標高を記した看板がぶら下がっているが、以前は南木曽町と大桑村の境だった さすがに国道と鉄道により雰囲気やら史跡が失われた中山道を南木曽町が中山道が通れないときの迂回路として利用されていた与川道を「歴史の道 中山道」として整備するだけに、ここまで明治天皇の御小休処位しか史跡が残っていなかった。 で国道19号を命がけで横断すると左手に逸れる道が中山道っぽいので進んでみると10分ほどで「第十四仲仙道」という踏切があった。
まぁ「中山道」を「中仙道」と記す場合も有るが「中」の字に”にんべん”付けて「仲仙道」と記しているのは初めて見た。
踏切を渡ると草藪の向こうに「読書ダム」が見える。
左は読書ダムでせき止められた木曽川、右側は中央本線に挟まれた車一台通るのがやっとの中山道を進むと5分ほどで踏み切りがあり、今度は「第十三仲仙道」踏切となっていた。
さっきが14で今度は13ってことは、塩尻方面からカウントして13個目となるわけで、ここから塩尻まで13回も踏切を渡るのかと思っていると、突然警報機が鳴り出して遮断機が降りてきた。
ヒマな人は十二兼あたりの時刻表を見て貰えばわかると思うが、一時間に一本どころの運行間隔ではなく、歩いていて目の前で踏切の遮断機が降りるなんてことは滅多にないので、おとなしく?電車が通り過ぎるのを待ってやることにすると特急しなのが通り過ぎて行った。
踏切を渡り、線路沿いを歩いていると、野尻駅まで1.5kmという標識があった。12時過ぎに出発し、まだ14時前なので三留野から野尻まで2時間ちょいの所要時間と言うわけである。
一方、この区間のバイパスである与川道ときたら距離にして一里ちょい大回りであることに加えて、激しいアップダウンにより、3時間半も掛かるのである。(ガイドブックには5時間以上掛かると記載されているが・・・)
それでも大水や土砂崩れで中山道が通れない時に長逗留するぐらいなら、これぐらいの回り道は・・・って三留野から野尻までの約10kmすべての区間が通れなくなるような事態って有ったのだろうか?。

野尻宿手前の集落

野尻宿

第十二仲仙道踏切

発電所

第十一仲仙道踏切

国道19号(中津川方面)

国道19号(塩尻方面)

大桑駅その1

大桑駅その2

第10仲仙道踏切

しばし国道とお別れ

少々不安な中山道

というわけで街道沿いに民家も並びはじめ、ぼちぼち野尻宿のようである。
特に何か残っている訳でもなく、ただ道幅と曲がりくねり具合が旧街道っぽいような黄がするだけでそのまま立ち寄るところも無いまま通り過ぎた。
もっともさっき通った木曽川に沿って延々続く国道19号の部分は当時は崖っぷちの難所だったはずなので、当時は宿場として繁盛していたものと思われる。
特に見るべきものの無かった野尻宿を過ぎ、第十二仲仙道踏切を越えると再び中山道は木曽川に沿って進む。
木曽川の対岸には水力発電所とおぼしき導水管と煉瓦造りの建物が見える。
再び中央本線の線路を第十一仲仙道踏切で越え、緩やかな坂を上り、国道19号に出る。 10分ほど歩くと大桑の駅が見えてきた。道の反対側には車で南木曽まで行く途中で腹ごしらえした「道の駅大桑」があるが、特に用も無いので素通りし、横断歩道が有るだけまだマシなR19を横断し、第10仲仙道踏切にて再び中央本線の線路をまたぎ、国道をぐるっと山側に迂回した中山道を進む。
しばらく進むと少々不安な道となるが標識のポールに赤いテープで進路を示しているのでこれで間違い無いようである。
地図でも確認すると左手の山裾をぐるっと迂回しており、どうやら地図で見る限り中央本線はトンネルをぶち抜いていることから山の斜面が木曽川まで迫っているため、道が造れなかったと思われる。
余りに道の痛み具合や狭さにより不安になるも、地久山天長院(臨済宗妙心寺派)と案内板があり立派なお寺さんが見える。
地久山天長院(臨済宗妙心寺派)
Tenchoin Temple
当寺の往古は、室町時代木曽家祈願
所として真言宗に属し、木曽東古道
沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳
寺としてありましたが、天文年間(一
五四〇〜)武田軍或いは山賊の焼き討
ちにより廃絶してしまったといわれて
います、
その後、文禄年間(一五九四〜)定勝
寺七代天心和尚を開山として旧地に
禅宗地久山天長院として開かれ、街道
の変遷により、寛文年間(一六六二〜)
地蔵堂のあった合の宿平沢の現在地へ
移転し現在に至っています。
案内板によれば人家もまばらなこの地が合の宿だったとのことである。
野尻の宿場からそれほど離れていないので、宿間距離が長いことを補う補完的役割ではなく、大雨などで大桑から三留野の木曽川沿いデンジャラスゾーンが通れないときに他の宿場の補助的な役目を果たしていたのだろうか。
で緩やかな坂を登っていくと保育園があり、地図によればここを左に折れて下っていけば良いらしい。
しばらく下っていくと、ビールの自販機なんぞ有ったので、これ幸いと燃料補給をしようと小銭を入れるとそのまま返却口にコトリと落ちたのでよくよく見ると「220円」と記されており、消費税が3%の時代から稼働していないようである。
がっくりしながら三面コンクリート護岸の沢沿いに下っていくと、衝撃の看板が立っていた。
図の青色の区間は子供だけが魚つりのできる
川として指定します
諧たかいにたのしく魚つりができるよう次の
ことを守リましょう
 
1.川から道路に出るときは車に注意しましょう
2.川ぞいの田や畑に入らないようにしましょう
3.ゴミは必ず持ち帰り川をよごさないように
 しましょう
4.小さい魚15㎝以下がつれたらにがしてあげましょう
5.この川では3月1日〜9月15日まで魚つりを
 することがてきます

大桑村子供釣専用河川運営協議会
  (連絡先大桑村教育委員会)
一見すると、車に気をつけろとか田畑を荒らすなとか小さい魚は逃がしてあげようと別に取り立ててヘンテコな事は書かれていないのだが、
川と呼んでいる対象が、コンクリートで固められたこの「溝」である。
そこへ来て

4.小さい魚15㎝以下がつれたらにがしてあげましょう
である。
ザリガニとかメダカくらいなら泳いでいても良さそうだが、5cm以上の魚は背びれが水から出てしまいそうな水深しかない。
これは相手が子供だから馬鹿にしているとしか思えない看板だが、川に落ちても死ぬことはまず無いような所を選んでいるのだろうか?。

由緒ありげな寺

木曽川や中央本線と再会

発電所

またもや山道

第9仲仙道踏切

左手前方へ進む

国道19号(塩尻方面)

狭い中山道

須原宿(水船)

須原宿(子規の句碑)

脇本陣跡

須原宿の街並み

須原駅

そんなわけで子供用の釣り区域として指定されている川と称している魚が居そうに無いコンクリート護岸の溝に沿って下っていくと、川の向こうの斜面には京都の清水寺の舞台に造りのよく似た由緒ありそうな寺が建っている。
由緒も有りそうだが、特に説明の記された看板も無く、中山道を外れてあそこまで上っていくのもだるいのでそのまま素通りした。 伊奈川を超えて5分ほど歩くと再び木曽川と中央本線と再会となる。といっても第10仲仙道踏切から30分少々だから”再会はちと大げさか。”
で木曽川の対岸には変電所か発電所と思われる高圧線の鉄塔が檻のように並ぶ施設があるが、敷地内に建っている建物の窓の感じが大正時代っぽいレトロな造りである。
一方、こちらは眼下に手前から中央本線、国道19号、木曽川の順に見下ろせる高台の普通自動車がぎりぎりすれ違うことの出来る道である。 何気なく今回のコースは地味にアップダウンが多いが、与川道ほどではなく、程なく緩やかな坂を下りきると第9仲仙道踏切に出た。
このまま3.5m幅の道を真っ直ぐ進めば良いかと思っていると、カーブミラーに赤いビニールテープが貼られており、そいつの示す先は斜め左前方に続く今より狭い道だった。
まぁ道に沿って電柱も並んでいるし多分抜けられるだろうと5分ほど歩くと”「須原宿 100m」、「須原駅700m」と記された標識があり、そいつに従い進むと、T字路となっており左折して先ほど分かれた道に合流し須原宿に入ったらしい。
すると真新しい木の看板に「清水医院跡」と記されており、島崎藤村の小説の舞台となった医院との事だが、「夜明け前」ですら読んでいない俺様にはなんの感慨もなかった。やはり街道歩きには歴史の勉強と芸能や小説に通じてないと楽しみが減るらしい。
  清水医院跡
文豪島崎藤村による
「ある女の生涯」の舞台となった
清水医院跡
 現在、愛知県犬山市明治村の
中心地に移転、保存されている
      大桑村観光協会


清水医院跡
”清水医院跡”を過ぎると正岡子規の句碑がある。
子規は馬籠にも「桑の実の」とかいう句碑があったので元気な頃に木曽路にやってきたらしい。
やはり街道歩きに文学は必須らしい。
寝ぬ夜半を
いかにあかさん
山里は
月出つるほとの
空たにもなし
要するに、ネオンも赤ちょうちんも何にもない山の宿にて眠れぬ夜をどう過ごそうかとぼやいているのだろうか。
というわけで家々の軒先には丸太をくりぬいて水を通した”水船”があり夏はビールやスイカを冷やすのに具合がよさそうだなぁと思いつつ。脇本陣跡と記された案内板があった。
  旧脇本陣西尾家の沿革 
旧脇本陣西尾家の祖は代々菅原の氏を名乗る
族柄にして大永、天文年間(一五二二年〜一五四四年)の頃
此の地信濃の国須原に住し地域の開拓に力を尽す一
西尾家は木曽屈指の旧家にして木曽家の家臣と
して重きを為す殊に西尾丹波守は馬術また武芸
に優れ木曽義昌公の信任極めて厚く鳥居峠又
妻籠城の合戦等に参画転戦しその武が著るし
きものありしと伝えらる
天正十八年木曽義昌公は豊臣秀吉の命により
突然下総の国網戸に移封せらるも西尾家は
依然此の地に留まりその後は木曽代官山村家に
仕え尾張藩の山林取締作役等の重責を担う
慶長五年(一六〇〇年)中仙道宿場の出来るに伴
ひ須原宿の脇本陣問屋、庄屋を兼ね宿役
人として重きを為し地域の発展貢献せり
その後寛延慶応の二度に亘る火災に遭遇し記録の
一部を焼失するも今尚当時の隆盛を物語るに足る
古文書、書画什器等万多数蔵することは文化財
として貴重な存在である
酒造業は古るく江戸時代の創業にして現在に到る

          大桑村
でこの脇本陣は現在、木曽節にも出てくる「木曽のかけはし」という酒を造っている酒蔵だったりする。歩き始めなら間違いなく試飲していくところだが、須原駅で切り上げて南木曽まで戻って車を運転して帰るとなるとさすがに飲んだくれているわけにも行かないので後ろ髪を引かれる思いで通り過ぎ、体力的にも時間的にももう少し歩けるのだが、一日に10往復しかない電車というシバリがあるため、がんばって倉本あたりまで歩いたとして、待ち時間が2時間だったりすると目も当てられないので、15時45分、僅かな待ち時間で済むここ須原駅を今回のゴールとした。
で須原駅は当然ながら無人駅であるため、運賃は乗車時に整理券を取って下車時に整理券の番号に応じた料金を運賃箱に入れる田舎のバスと同じシステムだったりする。今回は下車駅が有人駅の南木曽なので改札で精算し、車を停めた桃介橋のたもとへ向かった。 そこから車で南木曽からR19を南下し、中津川からR363を経て岩村を抜けR257で浜松方面に向かうかと思いきゃR418で平谷村を抜け・・・
まぁとにかく中津川から中央道で相模湖まで行けば最速なところをあえて山道を堪能して帰ったのであった。

中山道 中津川−三留野(南木曽)に戻る須原−上松へ進む
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