日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費
|
2004年9月18日 | 関ヶ原〜美江寺 | 曇りのち雨 | 5時間36分 | 30269歩 | 23.26km | 6300円 |
 苦労人家康公
 浜松城
 気賀関所
 きんさんぎんさん
|
まえがき
というわけで、17日に関ヶ原から美濃赤坂くらいまで歩こうとしたがすっかり朝寝坊したため、浜松で市営駐車場に車を置き寄り道して姫街道の浜松から姫街道の追分まで目指す道中に浜松城を散策した。
浜松城は出世城とも呼ばれ縁起がよろしいとされているが、今川君に監禁されたり、三方原の戦いでは信玄君から追われて馬上でうんこ漏らすほどの恐怖体験したり、秀吉君の命により息子を始末したりと、人様の上に立つよりも平々凡々と気ままな人生を願う俺様にはちっとも羨ましくは思えない。
取り敢えず武具とか天守閣からの眺望を堪能し、浜松城を後にし、三方原の追分を目指すとなぜか国道257号に沿って進むべき所を大間違いして国道152号に沿って進んでしまい、街道歩きならぬただの散歩になってしまった。
で道に迷ったあげく出てきたところは姫街道一日目で街道を見失ってひょっこり出てきた遠鉄の曳馬駅だった。偶然とはいえ2度も道に迷って曳馬駅に呼び寄せられてしまうとは俺様と曳馬にはなにかただならぬ因縁があるのでは無いかと考えつつ、浜松駅に戻り、ジムニーに乗り込み次の寄り道ポイントである、気賀関所を目指した。
この気賀関所は当然復元されたものだが、復元された場所が街道から離れており、しかも姫街道二日目で通りかかったときは閉館時間が迫っており、素通りしたのであるが・・・・
関所を目当てに行くなら新居関の方が建物も資料もしっかりしているのでおすすめです。
であんまりにもあっけなかったので隣のふるさと交流館に行ってみると、入り口にイ草と綿花の鉢植えがあった。遙かな昔に岡山あたりで車窓からイ草畑を見た記憶が有るが間近で見ると結構太いものなのね。綿花にいたっては36年人間やっているが初めて見たぞ。
で中に入ると、姫街道の資料も展示されておりその中で目を引いた一葉の写真・・・・
老女アイドル姉妹である?!きんさんぎんさんが駕籠に乗っている写真があった。
思わずその写真を前にして頭を垂れて手を合わさずにはおれさなかった。ナンマンダブ〜
というわけで関所とは関係ない部分で感動しながら、名古屋を目指した。
道中、浜名湖ほとりのドライブインに寄ると引佐の地酒「酔いなされ」が売られていた
そりゃもう「酔いなされ」とくりゃもう即「酔う酔う!」と返事する俺様なので当然購入。
これがまた、最近ありがちな水みたいな酒ではなく、しっかりとコクのある酒だったので俺様的には実にナイスだった。
|
 関ヶ原の街並み
 霞んで見えない伊吹山
 松並木
 六部地蔵
 垂井宿入り口
 垂井一里塚
 日守の歩道橋から東方向
 垂井宿入り口(本物)
 垂井宿の町並み
 現在も営業中の旅籠
 白鷺
 垂井追分(現代版)
 垂井追分
|
関ヶ原〜垂井
9時34分先月のゴール地点の国道21号関ヶ原駅前からスタート。気温は高くないが駅の跨線橋から見えるはずの伊吹山が霞んで見えないほど空気が湿気を帯びているので風が止まると少々蒸し暑い。
しかしまた先月に比べると通る車の数が断然少ない。
とは言え、姫街道の本坂峠越えとか
気温>体温
だった
猛暑の岡崎〜名古屋に比べりゃ
まだまだ天国である。
ただ、歩道が無い上、たまに通る車が結構飛ばしており路上駐車の車を避けて車道側にはみ出して歩かなくてはならないときには結構冷や汗ものだったりする。
中山道は一旦国道21号から左に逸れ、松並木の残る静かな道となる。松並木の濃い緑と足下には燃えるように赤いヒガンバナが咲いておりなかなか良い感じである。しかも家々の軒先にはアオイやサルスベリなど夏の花もまだまだ元気に咲き誇っており、なかなかお得?な状況だが
もうちょっと秋らしい陽気ならいいのにと思っていると六部地蔵と書かれた看板があった。どうやら行き倒れとなった巡礼中の行者を供養するために建立したらしい。
傍らにベンチもあり休むにはもってこいの場所だがスタートからまだ30分も経っていないのでパス。
六部地蔵
六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅を
しながら修業している「人」ということで、厨子を背負って読経し
つつ行脚中の行者が「宝歴十一年頃」 (一七六 一年)この地で亡く
なられられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。
この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読
まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られて
います。
関ケ原町
中山道の松並木
その昔、松の木陰は旅人にとって暫しの
憩いの場となっていた。また、旅人も、大
名行列も、この松並本に沿って進んでいっ
たはずである。
|  |
先のお地蔵さんから歩くこと20分ほどで国道21号バイパスを越えたところで垂井宿の看板がお出迎え。
国道脇の空き地にその看板はあり宿場らしい雰囲気はないが取り敢えず10時20分垂井宿到着ということにしておこう。
国道21号を渡りしばらくで垂井一里塚があった。塚からにょっきりと生えている木を見る限り復元でも跡でも無いようだ。
案内板を見るとやはりほぼ当時の形のままとのことである。
国指定
史跡垂井一里塚
昭和五年十月三日指定
慶長九年(一六〇四)徳川家
康の命により主要街道に築造さ
れた一里塚の一つである。
江戸日本橋よリ一里ごとに街
道の両側へ、五間四方の塚を築
き、頂上に榎(桜、松)を植え
た、垂井の一里塚は、南側の一
基だけがほぽ完全に残り、国の
史跡に指定されている。
中山道には、国指定一里塚が
二つあり、その一つで貴重な一
里塚である。
『垂井町教育委員会
|
街道沿いの集落を抜けると再び国道21号を横断するのだが、信号も横断歩道もなく代わりに歩道橋があったので、垂井宿を高台から眺めるのもこれまた一興と上ってみるが伊吹山は見えず、今日のゴール予定の岐阜の金華山も見えなかった。
歩道橋を降りると、東海道線の踏切が俺様の行く手を阻むかのように警報機が鳴りだし遮断機が下りてきたので待っているとやってきたのが長大な貨物列車ではなかったので腹を立てることもなくおとなしく待ってから歩いていくと垂井宿西見付の案内板が建っていた。どうやら国道沿いの垂井宿の看板はフライングの様である。
一垂井宿
西の見付と広重の絵
一、西の見付
垂井宿の西の入ロで大行列を迎
えた。非常事態発生の時、閉鎖した、
二、安藤広重の垂井宿の絵
広重がこの付近から西を見て、
雨の降る中山道松並木の中を、
大名が行列をつくり、西より垂井
宿の西の見付へ入ってくる様子や
本陣からの出迎え、茶店の様子も
左右対称的によく描いた版画の
傑作である。
|
垂井の宿場を歩いていると本陣跡の看板があったが、その先には今なお旅籠の看板を掲げた旅館があるのにびっくり。
観光地でもなくビジネス街にもほど遠く、どういった客層をターゲットにしているんだろうか?
やがて相川に掛かる橋に出たが、看板にはここが東の見付と書かれていた。その近くの橋のたもとにはこの相川は、通常は橋が架けられておらず、普段は人足による川渡しだったと看板に書かれていたが、川を見る限りどう見ても渡るのに苦労は無さそうである。
東の見付
垂井宿は五八番目。ここ東の
見付から広重も描いた西の見付
まで長さ約七六六メートルの
宿場でした。
見付は宿場の入リ口に置かれ
宿の役人はここで大名やお茶臺
曰光例幣使などの通行を迎えた
り送ったりしました.また,非
常事態が発生した際には閉鎖す
ることになっていました。
|
ふと川を見ると白鷺がいたが、こいつはもともと沼地とか田んぼが生息域なので、こいつがいるような川は水深もなく、流れも緩やかで川自体もあまりきれいな水では無いことを示している。
だが「相川の人足渡跡」の看板を見ると、橋を架ければ大洪水で流され、その都度淵も変わったというような手に負えない川だったらしい。
相川の人足渡跡
相川は、むかしから大洪水が
あり、橋は流れ、淵も変った。
川幅約百㍍のこの川は文井川
と同じ江戸時代人足渡で、特
別の姫宮や朝鮮通信使等の大通
行には木橋をかけた。天保六年
(一八三五)以後、渡川は一切
人足渡になっていた。
享保八年の人足渡賃(一人)
一、ちち切水 四五文
一、腰切水、 二四文
一、ひざ上切水 一六文
垂井町
|
橋を渡ると美濃路と中山道の追分となっている。右は美濃路大垣、左は美濃赤坂中山道と言うわけで当然左側を進むのだが、美濃=岐阜だよなぁ。中山道を進んでもいずれ岐阜の街中通るわけで、大垣抜けて岐阜へ向かった方が幾分距離が短いような気がしないでもない。
垂井追分道標について
徳川幕府は成立直後,日本の
五街道を造り、 中山道と東海道
を結ぶ街道として美濃路を造っ
た。その大切な街道の追分に宝
永六年この道標が建てられた。
木曽路(中山道)は東海道と
並ぶ重要な幹線道路であり大
名や姫宮・日光例幣使・谷汲・
善光寺参り等の通行があった。
また美濃路は将軍上洛の道てあ
り,朝鮮通信使及び琉球使節、
大垣湊への重要な道てもあった。
垂井町教育委員会
|
|
 大垣市
 青墓の一里塚跡
 青墓宿
 照手姫の墓?
 貨物線跡その1
 貨物線その2
 兜塚
 赤坂宿脇本陣跡
 赤坂宿の町並み
 赤坂宿本陣跡
 赤坂港会館
 一里塚跡
 近鉄養老線東赤坂駅
 中山道七曲がりの石碑
|
垂井の追分より歩くこと20分あまりで庭木に埋もれそうな「大垣市」の標識があり、11時11分大垣市に入った。
まぁポツリポツリと喫茶店はあるのだが、飯屋は見あたらない。前夜、名古屋でしこたま飲んでおり、朝飯抜きだったのでさすがに昼飯抜きは辛い。
等と考えつつ歩いていると一里塚跡があった。一里塚ではお腹はふくれないのでそのまま進むと小さな川の畔に「円興寺トンネル」という看板があったのでなんかの史跡かと思ったが大垣と池田町を結ぶ普通のトンネルだがトンネルだけ先に作って、そこまで辿り着くまでの道路作る金がなかったのか3.3kmも田んぼの中の細い道を進まなくてはならないようでである。そのトンネルの方向を示す案内板の傍らには「中山道 青墓宿」と書かれた木製の古びた標柱が立っていた。
どうやらこのあたり「青墓」と呼ばれ中世には宿駅があったらしい。
で写真にも写っているが、後方の崩れた山は砂利採取なのか石灰岩を掘り出しているのだろうか。山の形を変えちゃうんだから単純にすげーなーと感心した。
しばらく進むと左手の空き地にいろいろ石碑やら墓やらいろいろ有ったので寄り道してみる。
まずは石碑だがこれだけではさっぱりわからない。
美濃國青墓里長者屋敷
照手姫の汲給ひし清水
源義経の挿給ひし芦竹
照手姫守本尊千手観音
昭和五年木山書
|
次に看板を見ると以下の通り記されていた。
青墓のよしたけあん
牛若丸(後の義経)が 京都の鞍馬山で修業を
終え金売吉次をお供にし 奥州(今の東北地方)
へ落ちのびる時円願寺(円興寺の末寺で休み
なくなった父や兄のれいを供養し源氏が再ぴ栄
えるように祈りました
その時江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあし
の杖を地面につきさし「さしおくも形見となれや後の
世に源氏栄えばよし竹となれ。」の歌を読み
東国へ出発しました。
その願いが仏様に通したのかその後、杖にしてき
たよしが大地から芽をふき根をはりました。
そしてみごとな枝に竹の葉が茂りました。がしかし
根や幹はもとのままのよしでした
このめずらしい竹はその後もぐんぐんと成長し
続けました。それでこのめずらしい竹を「よし竹」と
呼ぴこの寺をよしたけあんと呼ぶように
なりました(青墓伝説より)
大垣市立青墓小学校
|
どうやら牛若丸が京を追われ琵琶湖あたりで引っこ抜いたヨシを杖にしてこの地で源氏が栄えるなら竹になれと念じるとあ〜ら不思議。根っこや幹はヨシだったが竹の葉が茂ったという突っ込みどころ満載の伝承があるらしい。
いくら刀狩り累計999本の弁慶と出くわした五条大橋で欄干をひょいひょい跳び回って義経を打ち負かした身軽な牛若丸とは言えヨシズ張りの材料のあのヨシを杖にするほど軽くは無いはずである。
こんどは照手姫の墓・・・・
小篠竹の塚
青墓にむかし照手姫という遊女あり
この墓なりとぞ
照手姫は東海道藤沢にも出せり
その頃両人ありし候や詳ならず
(木曽路名所図絵より)
一夜見し 人の情にたちかえる
心に残る青墓の里
慈円(後の慈鎮)
天台宗座主
愚管抄の作者でもある
大垣市立青墓小学校
|
照手姫って・・・
晩年は藤沢の遊行寺あたりで晩年を過ごしたのでは?
というわけで最初に出てきた石碑はこの地で下女としてこき使われた照手姫伝説と、義経が陸奥にトンズラするときに芦を挿して
願を掛けたら竹になったという青墓に伝わる話を石に刻んだものらしい。
で東海道線のガードをくぐるとそこは
昼飯町
ひるめし町?
さすがに腹は減っているがそんな幻覚を見るほどと思いきゃ、ほんとに昼飯(ひるい)という地名である。
なにやらお寺の入り口に昼飯町の謂われについて書かれた看板があった。
昼飯町の由来
むかし、善光寺如来という仏像が 大阪の海から
拾いあげられ、長野の善光寺へ納められること
になりました。
その仏像をはこぶ人々が青墓の近くまで来た時
は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、
つつじの花が咲き乱れすばらしい景色です 善光寺
如来を運ぶ一行も、小さな池のそばでゆっくり休み、美
しい景色にみとれました。一行は、ここで昼飯(ひるめし)
をとりました。
それからこの付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりま
したが、その名が下品であると言うので、その後、飯の字
を「いい」と音読岬みにして「ひるいい」と呼ばれるようになり
ましたが「いい」は言いにくいので、
を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。又ここの池は
一行が手を洗ったので「善光寺井戸」と言われ
記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。
(大垣市史 青墓篇より)
大垣市立青基小学校
|
「ここらで昼飯にしようか」が地名の由来とは・・・・
しかも「ひるめし」じゃストレート過ぎて下品だから「ひるいい」言いにくいから「ひるい」でいっか。
一言言わせて頂くと、漢字はどう読もうと「昼飯」じゃんか。
というわけで俺様もそろそろ昼飯にしたいところだがなんにも無さそうだ。赤坂まで行けばなにかしら有るかなと歩く俺様を出前とおぼしきスーパーカブが追い抜いていき、ちょっと先で止まった。
なんとカブが停まった所は中華料理屋であった。さっそく立ち寄り、冷たいビールでカツ丼を流し込む作戦に出た。うーん。ちょっとカツ揚げ過ぎだし、どんぶりの半分ほどが汁で埋まるほどのつゆだく状態と作戦はやや失敗気味でったがまぁ取り敢えず昼飯町で昼飯を食うというネタが出来たので良しとしよう。そもそも看板に「麺類、中華料理」と書かれているところで丼物を頼んだほうが悪い。
でパンパンに膨れた腹をさすりながら歩いていると石灰の工場がありその先道路左側に線路跡とおぼしき草むらがあった。
どうやら昔石灰石を運び出していた貨物線の跡らしい。
やがて踏切に差し掛かったが、こちらも列車の走る気配はないものの、線路が見えなくなるほど草に覆われた先ほどの貨物線跡に比べるとまだこちらは線路がはっきりと見える。
線路を超えて程なく右手に塚が見えてきた、一里塚かなぁと近くで良く見ると「兜塚」と書かれた案内板があり、なにやら物騒な物が埋まっているらしい。
兜塚
この墳丘は関ヶ原
決戦の前日(一六〇〇年
九月十四日)、杭瀬川の
戦に笠木村で戦死した
東軍、中村隊の武将
野一色頼母を葬り、そ
の鎧兜を埋めたと伝え
られている。
以後、この古墳は
兜塚と呼ばれている。
大垣市教育委員会
|
ふと気がつくと脇本陣跡と彫られた石碑なんぞあり、どうやら美濃赤坂宿に入ったらしい。 時刻は12時21分
となっていたから、カツ丼をビールで流し込んだロスタイムをさっ引くとおよそ関ヶ原より二時間半ということになる。
で脇本陣跡があれば、本陣跡もあるのだが、こちらは砂利を敷き詰めた広場になっていた。
再び、石灰積み出しの貨物線踏切を越えて五分ほどで、杭瀬川のほとりに出た。ベンチと灰皿が有ったので食後の一服をたしなんでいると、バスが停まった。バス停の名前は「赤坂港跡」と書かれているが、どうにもカヌーかゴムボートでないと航行不能とな小川にしか見えなかった。
でおいらの隣には昔の交番を流用したような赤坂港会館なる建物が有った。美濃赤坂の資料館となっておりしかも入館無料とくれば立ち寄るしかないわけでお邪魔してみる。
石灰岩やら大理石の標本やら昔の採掘風景が展示されており、国会議事堂の大理石もここの産であると説明されていた。現在では原料を海外から輸入し加工が主だとのことである。
でお邪魔しましたと帰ろうとするとおっちゃんがご芳名帳に名を記してけというので、他の人の流暢な筆に紛れて稚拙な字で「俺様」と記してこそこそと退散した。
再び中山道に復帰し歩くこと15分あまりで一里塚跡の標柱があったが、何という一里塚で江戸から何個目であるとか特に説明めいた物は無い実にあっさりとしたものである。
その後、10分ほどで近鉄養老線東赤坂駅の前を通過し中山道七曲がりと呼ばれ、昔は幹線だったからいいものの、今じゃほかの道のほうが立派になってしまったため、現在の旅人を陥れるある種のトラップである。
一発目は道なりのクランクであったが二発目以降はかなりわかりにくい。
俺様は「パチンコ夢プラザ」のある「中沢交差点」でおかしいと思い、右に曲がったが、本来のルートは信号手前で右折するようである。
そんなわけで文字通りの紆余曲折を経て「中山道七曲がり」と彫られた石碑に辿り着いたのだが、曲がり角を記してくれた方がありがたい。ついでに言うなら、御影石ではなく名産の大理石でも使えばいいのに・・・ってこれは余計なお節介だな。
|
 ごつい堤防
 堤防の上
 金華山
 呂久川渡船場跡
 小簾紅園
 小簾紅園(池)
 鷺田橋
 田んぼの中(巣南中学校付近)
 美江神社
 樽見鉄道
|
七曲がりを過ぎて程なくえらくごっつい土盛りの堤防が出現した。さぞかしあふれたら大事になりそうな川でもあるのかと思ったが、堤防の下には小さな川が流れているだけだった。どうやらその昔は揖斐川の流れが現在と違ってたのでは無いかと思われる。
堤防の上に立つと金華山や百々ヶ峰が望むことが出来る。で本来のルートは眼下の橋を渡るようだが、下る道を通り過ぎてしまい、やむなく急斜面の土手を転がるように駆け下りて、ルートに復帰した。
そこから五分ほどで呂久渡船場跡兼小簾紅園に到着。「呂久の渡し呂久渡船場跡」の案内板を見るとどうやら呂久川(現在の揖斐川)はこのあたりを以前流れていたが河川改修により現在より東にあると記されている。
じゃぁさっきの堤防はなに?
と思い看板の地図をみるとこの渡し場は呂久川の東側にあったので先ほど越えてきた堤防は、呂久川の西側にあった堤防と言うことになる。となると大正一四年以前はこの公園より東側は川だったのね。
呂久の渡し
呂久渡船場跡
天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一の
ため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居
所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんと
なり赤坂‐呂久-美江寺‐河渡‐加納の新路線が
栄えた
これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一
つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通
の要所となった
慶長一五年(一六一〇)頃、この呂久の渡しの
船頭屋敷は、一三を数え、中でも船年寄馬淵家に
は、船頭八人、助務七人が置かれていた.
その頃の川巾は、平水で九〇メートル、中水で
一二〇メートル、大水では一八〇メートルに及ん
たといわれている
文久元年(一八六一)には、皇女和宮親子内親
王が中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、そ
の折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め
これに感懐を託されて「落ちて行く身と知りなが
らもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた
後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和四年(一
九二九)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした
小簾紅園が建設され昭和四五年(一九七〇)には
巣南町指定の史蹟となった。
この地呂久の渡船場は、大正一四年(一九二五)
木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成により
この地より東へ移り現在の揖斐川水流となり長い
歴史を閉じることとなっ
た
昭和四五年(一九七〇)
呂久渡船場跡碑建立。
瑞穂市
|
で園内案内板によれば幕末に皇女和宮さんが徳川さんちに嫁入りする際にここに立ち寄ったことから後に小簾紅園が作られたとのことが、
残された歌にある「落ちていく身と知りながら」の下りは、落ちていく楓の葉と関東のクソ田舎に嫁入りする我が身をかけているのだろうか。
だとすれば、類を見ない豪華な行列だったらしいが、ご当人はかなり鬱だったようである。
瑞穂市指定史跡
小簾紅園
金紋先箱を先頭に、警護の武士団や、色鮮やかな装束
中人の絢爛豪華な大行列が蜿蜒と続いた。
公武合体のため仁孝天皇皇女和宮が、徳川十四代将
軍家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁された時のようすは想像
を絶するものであった。
惜しまじな 君と民の為ならば
身は武蔵野の 露と消ゆとも
と悲壮な御決意をされた宮は、文久元年(一八六一)十月二十
日京都を出発され、同十月二十六日巣南町呂久の呂久川(現
在の揖斐川)を御座船でお渡りになられた。その時、 対岸の
馬淵孫右衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじをお目にと
められ、一枝お望みになった。これを舷にたてさせられ、玉
簾のじ中からあかずにご覧遊ばれ
おちてゆく 身と知りながら
もみじ葉の人なつかしく
こがれこそすれ
と御感慨をお詠いになられた。
この御渡船を記念し、歴史ゆかりの呂久の地に和宮遺跡を
保存したいという気運があがり、昭和の初め当時の郡上郡長
本巣郡南部の村長等多くの人々が並々ならぬ努力をされた。
昭和四年四月その名もゆかしい「小簾紅園」が見事に完成し
除幕式が立派に行なわれた。
その後、毎年春と秋のニ回、宮の遺徳をしのび例祭が行な
われている。
昭和五十一年十月には、皇女和宮百年祭が秩父宮妃殿下の
御来臨を仰ぎ、岐阜県知事を始め多数の御臨席を得て盛大に
挙行された。
昭和六十年十月
瑞穂市
|
十分休んだ俺様は岐阜を目指すのだが、さっきから怪しかった雲行きがただならぬ気配を帯びてきた。一応傘にレインコートと準備はしてあるが傘でしのげるうちは良いが、レインコートを引っ張り出すとなるとこの陽気じゃサウナスーツと化してしまい、雨は防げても俺様の汗で中がびしょびしょになってしまうのは明白である。場合によっては途中でリタイヤもあり得るななどと考えつつ、揖斐川に掛かる鷺田橋を越えた。 うーん。金華山も見えなくなってきたしと思っていると大粒の雨がポツリポツリ・・・ しかも遠くで雷鳴まで聞こえてきやがる。
撤収するなら美江寺だが、果たして一時間に何本あるんだか樽見線・・・。唯一そいつが不安のタネである。
そんなわけで傘を差して田んぼの中を突っ切る中山道を歩く。なぜここが中山道と言い切れるかというと先ほどから「ここは中山道です」と標識が建っているのである。どうせやるなら曲がり角とかに立てておけば歩く身としてはありがたいのだが、お上のやることだからそこまで望んでも無理というものである。
やがて、俺様の行く手を中学校が阻んでいるので左に曲がり、赤い橋を越えて川沿いの寂しい道を雨の中トボトボ歩いているとやがて住宅街に入り、突き当たりを右に曲がると店がポツポツとある。どうやら美江寺の宿に入ったようだ。
またまた道は突き当たりとなるのだが、T字路の真ん中に美江神社がある。
地名は美江寺だがなぜか神社が鎮座している矛盾より、そろそろ雨が激しくなってきたので岐阜まで辿り着くのはかなり無理があると思い、取り敢えず駅も有ることだしと15時10分、樽見鉄道の美江寺駅をゴールにして撤収!
で時刻表をながめると、樽見行きが15時20分・・・。あと10分で来るのは良いが樽見方面に向かっても他の列車との接続駅は無いし・・
で大垣行きはどうよと見ると15時30分かい。まぁ一時間に一本しか無い電車でわずか20分待ちで乗れるんだからありがたいと思わざるを得ない。
まぁ待つこと20分あまりでディーゼルなワンマンカーが俺様を迎えに来たが、乗った瞬間すげー豪雨である。撤収して良かった〜と思う反面
一泊して移動時間に往復20時間ほど掛けて歩いた時間が6時間に満たないとは・・・なんかすげーもったいないような気がする。
しかもこの雨、名古屋では降った様子が無かったのであった。
|