日時 | 宿場 | 天候 | 所要時間 | 歩数 | 距離 | 交通費 | |||||||||||
2004年8月16日 | 鳥居本〜関ヶ原 | 曇り | 6時間14分 | 33231歩 | 23.26km | 45717円 | |||||||||||
![]() 近江鉄道米原駅 ![]() ガラガラの車内 ![]() 鳥居本駅 |
まえがき というわけで2泊した彦根をおさらばし、ジムニーを米原に置いて鳥居本まで近江鉄道で行こうと決め米原駅に向かう。 う〜ん。もうちと早起きしていれば彦根城をお散歩出来たのに残念。 近江鉄道へのアクセスは東口のほうが良いので東口周辺をうろうろして駐車場を探すが月極しかないので、やむなく西口に向かうと一日600円となかなか新幹線停車駅の割にはリーズナブルなプライスの駐車場に車を停めて米原駅に向かった。 ところがどっこい、米原駅西口から近江鉄道のホームにへは行けないのでぐるっと回って地下通路を通り東口に回ると、JRとは独立した駅舎があった。でえらく余白の多い時刻表眺めると30分に一本有るかどうかの電車がちょっと前に出てしまい30分待ち確定 取り敢えず、リアルゴールドを流し込みながら一服していたら電車が入線してきたので切符を買って(硬券)座席に座ると乗客は俺様一人だった。 電車は結局乗客俺様一人貸し切り状態で鳥居本に到着。 | ||||||||||||||||
![]() 鳥居本宿の街並み ![]() 江戸時代から続く薬屋さん ![]() 近江商人?by彦根市 ![]() 近江商人反対側 ![]() 摺針峠入り口 ![]() 赤テープの示す先 ![]() 伊吹山かなぁ? ![]() 番場宿入り口かなぁ? ![]() 西番場の集落 ![]() 一里塚跡 ![]() 六軒茶屋 ![]() 昭和30年代の六軒茶屋 ![]() 西行水 ![]() 梅花藻 |
鳥居本〜醒ヶ井9時50分昨日のゴール地点から歩き始めた。さすがに昨日は夏としては涼しすぎる様で今日はそれなりの日差しである。とは言え、姫街道の本坂峠越えとか 気温>体温 だった 猛暑の岡崎〜名古屋に比べりゃ 天国に違いない。 5分ほど歩いたところにひときわ存在感のあるおうちがずっしりと構えていたが江戸時代から薬の製造販売を代々続けているとのことである。
鳥居本宿を抜けると数本だけ残った元!?松並木の先に石柱の上に3人の近江商人を配した「またおいでやす」のモニュメントが有り、彦根市とはお別れし、多分近江路最大の難所と思われる摺針峠を目指した って摺針峠は彦根だしちょいと気が早い様な気がする。まぁ峠越えせず8号線を進めばじきに米原だが。 で一旦8号線に出てから明治天皇摺針峠望湖堂と書かれた石碑が有ったので多分峠を登る途中にでも琵琶湖を一望出来るような所でも有ったのだろうが、おいらにはそんな余裕は無かった。 その理由は この坂登るだけだろと安易に考えつつ、まぁ工事通行止め予告の看板が有ったけど何とかなるさと軽いノリで歩いていた俺様の目に飛び込んだのは電柱に貼られた中山道を示す赤テープが示す先には 草に覆われた手すりらしきものだった。 ここから先に進むには装備品に鉈も鎌とか欲しいぞと思いつつ、意を決して草藪に突撃し背の高い草やら竹の根本を蹴飛ばしてなぎ倒しながら進んだら、下半身は露でビショビショになり上半身は蜘蛛の巣だらけ。まぁ良くも方角を見失うことなく脱出できたなと我ながら感心するほどハードな藪だった。 ようやく普通の舗装路に戻り、名神沿いに進んで彦根トンネルの真上を過ぎると伊吹山を正面に眺めながら緩やかな下りとなった。 やはり昨日の涼しさは特別だったようで、それに加えて多量のビールが汗ダラダラ状態を生み出したので、名神の下をくぐるトンネルに潜り込み着ていた半袖シャツをリュックにしまい込みTシャツ一枚の身軽な姿に変身したのであった。 しばらくトンネルで休み吹き抜ける涼風により、再び歩き始めてから10分ほどで「中山道 番場」と彫られた石碑に差し掛かった。ってことは番場宿の入り口なのか時間は10時49分だから鳥居本から番場まで1時間・・・。 あんまりにも何もないのでここが宿場の入り口かどうかは怪しいのだが・・・ そのうち街道の両脇には家々が並び始め程なく鎌刃城案内板というのが現れた。戦国時代、信長くんの管理のお城だったようだが聞いたこと無いし、街道から結構離れるので素通り。
これといったものもないのでぼーっと歩いていると一里塚跡を見つけた。守山で出くわして以来久々の一里塚だよなぁと思いつつ案内板を見ると江戸まで117里・・・。 まだまだ江戸は遠いのだ。 で米原ICの下をくぐりR21号を渡り、家の軒先を流れる用水路にて泳いでいる子供をうらやましく思いつつ泳ぐ訳にもいかないおいらは、手だけ突っ込みひんやりした感触だけじゃ物足りないのでタオルを濡らしてブンブン振り回して気化熱で冷却しながら首筋にあてがって汗を引っ込めながら歩いた。 ぼちぼちトイレ行きたいなぁと思っていたら六軒茶屋とかいう資料館があったのでに立ち寄り、なにやら鍵とか昔の写真が展示してあったが残念ながらトイレは無かった。まぁレッドゾーン突入まで余裕があったのでそのまま歩いて梅花藻とハリヨで有名な醒ヶ井宿に入った。 そろそろ、先ほど濡らしたタオルの効能が薄れて来た頃に西行水と書かれた綺麗な泉が有ったので顔なんか洗って再びタオルを濡らし、振り返ると水琴窟なるものがあった。 上から水をぶっかけると水滴が内蔵された甕の中に落ちたときに内部で反響しその音を楽しむものらしいが、耳を澄ませても泉のせせらぎの音にかき消されたのかなにも聞こえなかった。 次に泡子塚の謂われが書かれた説明書きを見ると・・・ 要約すると以下の通りである。 西行法師がここを通り掛かった時に、茶屋のおねーちゃんがこの坊さんにベタ惚れしてしまったのは良いが今で言うストーカーばりのこのおねーちゃん。坊さんの飲み残しのお茶を湯飲みの泡を舐め回すがごとく飲み干したら、あ〜ら不思議。めでたく?ご懐妊し、男の子が生まれました。 で東に行って帰ってきた西行さんが再びここを訪れたときに、その話を聞き、「もしおいらの子であれば消えてしまえと念じたところ、ガキはめでたく?元の泡となりましたとさ。 つ〜かマリア様じゃ無いんだからお茶の泡で妊娠する訳はないので
間違いなく西行。
とまぁ坊主の分際で相当なロクデナシで男の風上にも置けぬ大失態をここでやらかした上、後腐れの無いよう始末までした様である |
泡 子 塚 岩の上には 仁安三戌子年秋建立の五輪塔があ り、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四 文字が刻 まれてあります。 伝説では、西行法師東遊のとき、この漿の畔で 休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、 西行の立った後に飲み残しの荼の泡を飲むと不 思議にも懐妊し男の子を出産しました。 その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店 て休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞い た法師は 児を熟視して「今一滴の泡変じてこ れ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」 と祈り 水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりまし た。西行は実に我が子なりと。この所に石塔を 建てたということです。 今もこの辺の小字名を児醒井といいます。 |
すぺての生命を支える「水」 西行水 水琴窟 水を流してみてください。 水滴の音が瓶の中で共鳴します。 江戸時代に庭師が考案したと云われ、琴のよ うな音が聞こえるところから、この名がつきま した。 |
ハ リ ヨ (トゲウオ科イトヨ属) 体長4〜7cmで生息分布は限られ、滋賀県東北 部と岐阜県南西部の湧水をもつ水温20度以下の清 流に生息している。ウロコはなく鱗板が前半身に 6枚ほど一列あるだけで、後半身は黒緑色の雲状 模様がある。トゲが背部に3本、腹部に1対、臀 鰭の直前に1本ある。繁殖期になると雄は婚姻色 が現れ、その頭部の下側部は朱紅色を呈し、胴部 は暗青色を帯びる。雄は縄張りを持ちその中心に 水草や根などの繊維質のものを用いてトンネル状 の巣を作り、離を誘い入れて産卵させる。雄は卵 が孵化するまで餌もとらず辛抱づよく巣を見 張り続ける。寿命は短く年魚である。 バイカモ (沈水植物キンポウゲ科) 水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川 の水底に群生し、流れに沿って這うように育 つ鮮やかな緑色をした多年生水草である。手 のひら状の葉が特徴で長さ約50cmの藻である。 初夏から晩夏にかけて水面上に梅花様の白い 花が咲く。 バイカモに寄生する水生昆虫は、ハリヨの 好物であり、バイカモが繁殖することにより 急流をさえぎり、ハリヨの巣づくり・産卵に 絶好の場所を提供している。 、 平成5年3月 醒井区 米原町指定文化財 醒井宿問屋場 (旧川口家住宅) この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川□家住宅です。 問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務 を行っていたところです。現在、宿場に問屋が残されていると ころはほとんどありません。また、建築年代が十七世紀中〜後 半と推定される貴重な建物です。 平成十二年より修理をおこない、再び江戸時代の宿場の問屋と して公開されることになりました。 利用 案内 中山道醒井宿概要 町並み 東西八町二同 人 口 539人 戸数 138戸 本陣 1軒 脇本陣 1軒 旅籠 11軒 問屋 7軒 |
山東町指定文化財 史 跡 番 の 面 遺 跡 昭和四二年五月十五日指定 番の面遺跡は、昭和三〇年に京都学芸大学(現、京都教育大学) により発掘調査が実施され、後方の小高い丘陵から近畿地方で最初 の縄文時代中期末(約四〇〇〇年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・ 石器などが発見されました。 竪穴式住居とは、地面に穴を掘り、その底面をたいらに整えて床 とし、上部に屋根をかけたもので、番の面遺跡で発見されたものは 一辺の長さが四m前後の方形をしており、その内に四本の柱の穴と、 中央に炉の跡と思われるくぼみ(〇・七×〇・五m)が一個ありま した。 土器は、中型の甕と思われる破片が多く発見されましたが、文様 竪穴式住居跡 などから関東地方と深いかかわりを持 っていたと思われ、また、石器類は、 石鏃(矢の先に付けた矢じり)、石錐 (いしのきり)、石斧(いしのおの) などが発見されましたが、石鏃の中に は中部山岳地産の黒曜石で作られたも のも含まれており、広い交流圈を持っ た遺跡といえます。 平成六年十二月 山東町教育委員会 |
柏原宿西見付 ここから東へ拾三丁 (約一五00メートル) 柏原宿が始まる、 昔も今も殆んど変っ てうない。 |
中山道 柏原宿 ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿で東海道と合流)の内 六十一番目になり、約百十二里(一里は約三.九キロメートル)、京までは約二十 一里のところにある。 江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様 である。 幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、 現在の建物そのままである。当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有 数の宿場名物となっでいた。現在は一軒だけとなっている。 柏原宿は、規模が大きく、六十九宿中宿高で四番目、宿場の長さ十三丁(一四二 〇メートル)は十番目、戸数人□もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮 (彦根市)に次ぐ宿場である。 しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二 十二軒もあった。 現在、一軒も残っでいないのは残念である。 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、 問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には六軒(開宿当時は二十軒を 数え、幕末になると、普通各宿多くて三軒までなのに、関ケ原から番場までの五宿は 、それそれ六、七軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り 酒屋も一時は四軒もある盛況であった。 この宿は、古くより東町・市場町・今川町 (箕浦と言ったこともある)及び西町 の四町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。一つの宿場に四社も氏神がある のはそのためである。 柏原の総社は、野瀬の神明神社である。 又お寺の多いことでも有名で、ひと頃は 三十ケ寺を越え、現在も十五寺と三堂がある。 中世京極道誉の随臣、箕浦氏が四百 年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋 御殿跡(地名として残る)等がある。 宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した 成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、六十坊を数えたと言う。 国指定重要文化財等豊富である。 また、宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり、 有名な寝物語の里(長久寺)がある。 この様な柏原宿であるか、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとして いる。 せめてもの思いに、下図の様な復元図(山東町史附図)を掲げた。 平成五年三月 柏原宿整備調査委員会 山東町教育委員会 |
寝物語の由来 近江と美濃の国境は、 この碑の東十メートル余 にある細い溝でした、この溝を狭んで両国の番 所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人 と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言 われています。また、平治の乱(一一五九)後 源義 朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の 話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ 」所とも「源義経を追って来た静御前が江田源 蔵と巡り会った」所とも伝えられています。 寝物語は中山道の古跡として名高く古歌等 にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にも ここが描かれています。 ひとり行く 旅ならくに 秋の夜の 寝物語も しのぶぱかりに 太田道潅 平成四年一月 滋賀県山東町 |
車返しの坂 南北朝の昔、粋狂な人もいたもので す。不破関屋が荒れ果て、板庇から漏 れる月の光が面白いと聞き、わざわざ 都から牛車に乗ってやって来ました。 その御人は公家の二条良基という人。 ところがこの坂道を登る途中、屋根 を直したと聞いて引き返してしまった という伝説から、この名でよばれるよ うになったのです。 |
常盤御前の墓 都一の美女と言われ、十六歳で義朝 の側室となった常盤御前。義朝が平治 の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で 常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ 仕方なく清盛の側室となります。 伝説では、東国に走った牛若の行方 を案じ、乳母の千種と後を追って来た 常盤は、土賊に襲われて息を引取ります。 哀れに思った山中の里人が、ここに 葬り塚を築いたと伝えられています。 関ヶ原町 |
黒 血 川 壬申の乱 (六七二)のとき,関の藤川の西 岸に近江軍,東岸に吉野軍が布陣し、対峙し ていました。 「日本書記」によりますと,七月の初め 近江軍の精鋭が玉倉部をつき.吉野軍がこれ を撃退します。これを機に吉野の大軍は藤川 を越えて、近江の国へ進撃を開始します。 この峙の激戦で,この山中川は両軍の血潮 で黒々と染まったといいます。その後,川の 名も黒血川と変り.激戦のようすを今に伝え ています。 白波は岸の岩根にかかれとも 黒血の橋の名こそかはらね (一条兼良) 関ケ原観光協会 |
関の藤川(藤古川) この川は伊吹山麓に源を発し、関所の 傍を流れているところから、関の藤川と 呼ぱれていました。 壬申の乱(六七二)では、両軍がこの 川を挟んでの開戦。更に関ケ原合戦では、 大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、こ の辺りは軍事上要害の地でした。 またこの川は古来より歌枕として、多く の歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が 詠まれたことが、世に知られています。 関ヶ原町 |
藤古川 この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで 東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣しそこの地区民 は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇 を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では弘文 天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。 関ケ原町観光協会 |
町・県史跡 不破関西城門と藤古川 不破関は藤古川を西限として利用し、 左岸の河岸段丘上に主要施設が築造さ れていました。川面と段丘上との高度 差は約十〜二十米の急な崖になってお り、またこの辺一帯は伊吹と養老・南 宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の 要害を巧みに利用したものでした。 ここには大木戸という地名も残って おり、「西城門」があったとされています。 関ケ原町 |
町・県史跡 不破関跡 東山道の美濃不破関は,東海道の 伊勢鈴鹿関、 北陸道の越前愛発関 とともに、古代律令制下の三関の 一つとして,壬申の乱{六七二年) 後に設けられたとされています。 延暦八年(七八九)に停廃されて 後は関守が置かれ、 平安時代以降 は,多くの文学作品や紀行文に関跡 の情景がしきりと記されてきました、 関ケ原町 |
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