中山道 守山宿〜鳥居本

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2004年8月15日守山〜鳥居本曇り10時間3分58694歩41.083km46367円

石榑峠

近江鉄道
まえがき
というわけで、東海道岡部宿、姫街道御油宿の修正の旅に続けて、東海道歩いたときには閉館していた二川宿本陣資料館に立ち寄り、そのまんま東名+名神で滋賀県を目指せばいいものの、なぜか伊勢湾岸道で桑名へいってそこから石榑峠を超えて滋賀県入り。
「気分は形而上」などという漫画にてカーナビでどえりゃ〜山道に誤誘導?されたことをネタにされたことも峠道だが、ヤビツ峠をホームグランドとする?おいらにとっては大したこと無い道でした。
すでに18時近かったが守山から野洲くらいまで歩いておけば楽かなと思い野洲を目指すが、夕立に遭いあえなく断念。
でホテルでのんびり爆睡した後、彦根駅でびわこ線を待っていると隣のホームから近江鉄道の貴生川行きが唸りを上げながら発車していった。 貴生川行きの近江鉄道もガラガラだが、びわこ線も負けない位ガラガラで、おもむろにノートPCをおっぴろげて姫街道の最終章を書き書きしているうちに守山駅に到着。

守山宿の道標

道標その2

近江富士

鈴木イチローさん連絡所

甲山古墳

甲山古墳 石室

家棟川トンネル

守山〜武佐

守山駅から、前回ゴール地点まで歩き9時27分にスタートすると程なく石造りの道標が現れた。右中山道は読めるが左はなんのことやらわからんので説明書きを転記しておきます。
でまた道標があり、こちらは「すく いしべ道」と書いてあるからきっと真っ直ぐ行けば東海道石部宿に辿り着くんだろう。(たぶん)
守山市指定文化財(民俗資料)
   石 造 道 標
          所在地 守山市守山二丁目
 本道標が建てられているこの地点は、かつて
掟書などが掲げられた高札場の一角であった。
道標は、高さ約一・五五m、一辺三〇㎝角の四
角柱の花崗岩製の石造品で、中山道側の側面に
は、「右7 中山道 并 美濃路」、その左側面
には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」
の文字が刻まれている。
  「右 中山道 并 美濃路」とは、右が美濃
(岐阜) へと続く中山道で、「左 錦織寺四十
五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと人々
の信仰を隼めた真宗本部派本山である錦織寺
 (中主町)に至る約四㎞の道程(錦織寺道)で
あり、それに続く[こ乃者満ミち」は、琵琶湖
の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋
であることを示している。
 背面に延享元年(一七四四年)霜月の銘があ
り、大津市の西念寺講中によって建立されたこ
とがうかがわれる。石造道標としては古く、ま
た数少ないため、昭和五十二年(一九七七年)
四月三十日に民俗資料として守山市の文化財に
指定された。
 平成十四年十月
              守山市教育委員会
中山道守山宿
 寛永19年(1642年)守山宿として制札
が与えられてから350年余りになります。
当時、江戸日本橋から守山まで67の宿が
定められましたが、守山は東下りの一番
目の宿場で「京立ち守山泊まり」として
旅人に知れわたっていました。
で枡形のようなものだろうか「稲妻型道路」と案内板の所で道は左に逸れてしまい、本当にこっちで大丈夫かと思っていると野洲川橋に到着し近江富士がさえぎるもの無く見通せる。
野洲川を越えると野洲町に入った。東海道線をくぐり1kmほど進んだところに

鈴木イチロー連絡所


という看板があった。おそらくシアトルマリナーズでご活躍中の鈴木一朗さんへ連絡したいならこちらへということは絶対に無いだろう。
今日は8月としてはとても涼しく、やはり日頃の行いの良さがこういったところに現れるんだよなと思いつつ、かれこれ一時間も歩いたところでベンチと「中山道・外和木の標」という案内板があった。案内板によるとこの近所に朝鮮人街道の分岐点があったとのことである。まぁいくら涼しくとも1時間も歩くとだるいのでしばしこのベンチで休憩させて頂くことにした。
  中山道高札場跡、稲妻型道路
 帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側ヘ
約一〇〇mの地点は、中山道から石部道
(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため
道が屈曲する広い場所で、かつて徳川幕
府が政策などを徹底させるための法度や
掟書などを木札に記して掲げた高札場が
設けられていた。中山道を行き交う人々
にとっては重要な場所であった。
 また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿
であり、美戸津川(守山川)から高札場
までの街道は、本町と同じように「稲妻
型道路」となっでいた。街道に面する民
家は直線的に並列せず、一戸毎に段違い
の屋敷割になっている。宿場の治安維安
を図るための工夫と考えられているが、
全国的にもこのような道路が残るところ
は大変珍しい。現在は道路整備によって
見にくくなっているが、一部は観察する
ことができる。
   平成十三年
        守山市教育委員会
   中山道・外和木の標
 中山道は、東海道に対し東山道、あ
るいは中仙道と呼ばれた時期がありま
したが、その歴史は古く、大化の改新
以前から存在する重要な道であったこ
とを示す文献が残されています。
 ところが、新しい道路に役目を取っ
て代られ、中山道が千数百年もの長期
にわたって果たしてきた大切な役割を
知る人は年々少なくなっています。
 この案内板の西、約百八十メートル
の所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎
えた朝鮮人街道との分岐点に当たり歴
史的に意義深い場所であり将来に永く
この意味を伝え、この道がいつまでも
町民に広く親しまれ愛されることを目
指して修景整備事業を実施しました。
 外和木の標の名前は、この土地と朝
鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字
外和木であるので名付けたものです。
平成十年三月 野洲町
住宅地を抜け新幹線ガードをくぐり、国道8号線沿いに歩いていくと次第に田んぼが増え、前方にちっこい山が見えてきた。
案内板によると「桜生史跡公園」とあり、下のローマ字を見ると「Sakurabasama Historical Park」とある。
ええっ?どう読んだら桜生が”さくらばさま”になるんだかと思いつつさらに近づくと「史跡甲山古墳」と書かれた標石が建っていた。
まぁ時間もあるしと立ち寄ることにした。案内板には誰が葬られたか記載が無いところをみると、このあたりの有力な豪族さんだろうか。
ユンボもダンプも無い時代にこんな山こしらえててっぺんに石組みの石室なんかよく作るよなぁ。と感心しながら古墳をエイヤと登っていくと石室がぽっかり口を開けていた。
案内板によれば副葬品も結構出たようなので、良くもまぁ今の世まで盗掘されなかったもんだと感心しながら暗い石室にお邪魔してみると
なんと俺様が石室に入ったとたん、照明が点灯し女性の声で解説のテープが大音量で流れるのであった。
6世紀前半のお墓の分際で、なかなかハイテクじゃねーか。

びっくりしたなぁ。もぅ!

甲  山  古  墳
 標高110mの丘陵先端につくられた6世紀前半の円墳で、直径約30m、高さ10mの
規模をもち、内部には西に開口する横穴式石室があります。
 整備前は、部屋(玄室)手前の天井石が落下しており、内部に大量の土砂が堆積
していました。また、墳頂部も陥没し、墳丘盛土も流失しつつあり危険なことか
ら、通路(羨道)の石組みを積み直し、墳丘盛土についても復元整備を行いました。
 石室は、奥に向かって下がっている通路(羨道)があり、部屋(玄室)は、奥から
見て右側に袖をもち、長さ6.8m、幅2.8m、高さ3.3mの規模で、床咄には玉石が敷
き詰められています。中央部には、長さ2.6m、幅1.6m、高さ約2mの熊本県宇土
半島の凝灰岩でつくられた家形石棺を安置しています。
 整備に伴う発掘調査によって装身具(金糸、銀製くちなし玉、空玉、碧玉製切子
玉、ガラス玉)、鉄製の武具(甲冑、太刀、矛、鏃、刀子)、馬具(金銅製鏡板付轡、
金銅製透彫入雲珠、馬甲)などが出土し、特に金糸や馬甲は珍しいものです。
案内板によればもう一個有るらしいのだが、十分堪能したので撤収することにする。
しかし、お盆だというのにご先祖様のお墓参りはしないで、縁もゆかりも(たぶん)ない1500年前にお亡くなりの豪族さんの墓参りなんかしてて良いのだろうか?
などと思いつつ新幹線が走り抜けるその脇で、旧中山道が通り、その隣には6世紀の古墳があるというシュールなスポットを離れて、再び中山道に戻った。
すると流れてきた土砂がどんどん堆積し、川底がどんどん上昇してできあがった滋賀県名物の天井川。
ここ家棟川は橋ではなく土手を貫くトンネルで超えるようになっている。
このトンネルは大正期のものだったと思うのだが、それ以前は土手をよじ登って川を越えていたんだろうか?
だとすると高低差はさっきの甲山古墳位あるのでなかなか大変な川越えだったに違いない。

鏡の宿

道標

うんこと銀バエの道

日野川に架かる橋
家棟川のトンネルをくぐりしばらく進むと国道8号線に合流する。
まったく一桁国道の割には歩道が片側だけだったり、片側すら無かったりとしょうもない道だ。
まぁ歩道が無い箇所は人家が両側に迫っていて拡幅出来ない様なので致し方有るまい。
でも歩車分離が満足に出来てない道が制限速度が50km/hなのは滋賀県警の怠慢かと思いつつ、歩道のある右側に移動するとなにやら歩道脇の土手尾向こうに池があるらしい。
しかし立ち入り禁止となっており様子を窺うことができない。せっかく国道8号を危険を冒して右側に横断したのに中山道は左手に分岐しやがるので、車が途切れるタイミングを見計らって家々が立ち並ぶ旧街道へ進む。まぁ安心して歩けるのは良いが疾走するトラックの起こす涼風の恩恵を受けることが出来ないとか勝手なことを思いつつ、再び8号線に戻り、歩道のある右側を歩いていると蓮に覆われた池があった。ちょっと花の盛りは過ぎていたようだったがなかなか見事でお盆に相応しい風景である。
とは言えいくら見事な蓮の花でもおいらの腹は膨れたりしないので、飯屋を探さないといけない。
すると道の駅鏡の里に辿り着いたが、そばとか軽めのものしか無さそうなので、もう少し先に進んで見ることにした。
しばらく国道8号を進んでから右に逸れる脇道が中山道だがこの通りの家々には「鏡宿 旅籠 ○○屋」など屋号が書かれた板がぶら下がっているのだが、鏡宿って間の宿なのか東山道と呼ばれていた頃のものなのかよくわからん。
で改めて写真を見ると中山道とか江戸時代と書いてあった。ってことは間の宿だろうか。
で鏡の宿を抜けて国道8号に戻り、「是よりいせ道」と書かれた道標を見つけ一体どんなルートなんだろうと思った。
今度は国道8号を左側に分岐する様なのだが右手にでラーメン屋を発見し、危険を冒して横断しラーメン屋に入った。
ランチタイムだというのに一人客をテーブル席にご案内頂くなど厚い歓迎ぶりに感動のあまりホルモンラーメン+半チャーハン+生ビールと胃袋のキャパシティを越えるメニューを頼んで座ると、流れくる音楽がすごかった。
BOOWYとかアイリーンキャラとか和洋取り混ぜ、俺様が厨房だったり工房だったりの頃のまさに俺様のための懐メロ特集だった。
で肝心のラーメンの味については、「焼豚がとってもおいしかった」とだけ言っておきます。
で8号線を渡り、右側はには田んぼ、左は竹藪に挟まれた土手の上のような所を歩く。とりあえず飯も食ったし、お茶も有るし当分飯食うところや自動販売機を探さなくてよい状態の時はこんな静かで車も走ってこないような所ばかりだと良いのだが・・・

銀バエのたかった犬のウンコさえ無ければ・・・ってヒトのまで有るぜ・・・ひでぇなぁ。

道の真ん中なのに・・・
そーいや幹線道路を歩いていると「早くしねぇと積み荷が腐っちまう」とお急ぎのトラックの運ちゃんが窮余の策としてペットボトルに用を足し、そいつを車外にブン投げるいわゆる

なおペットボトル爆弾の不発弾も良く落ちてます。

やがて、国道8号線の日野川に掛かる橋のたもとに出るのだが、チェーンで封鎖されていたので跨いで振り返って見ると「ゴミの不法投棄禁止」の看板が立てられていた。ついでだから野グソも禁止にしといてくれ。
で以前車道だったところ橋を歩道としてリサイクルしているのかやたらとだだっ広い日野川に掛かる橋を越えて近江八幡市に入った。
国道8号に沿って進むと何やら店が多く、店の駐車場から出るのに俺様の進路を塞ぐかのように車道に頭出す車が多くて閉口した。
しばらく進むと旧中山道は国道から右側に逸れていたのでそっちに進むと人ん家にぶつかり、その先は工場が建っていた。

住蓮坊、安楽坊の墓

近江鉄道 武佐駅

道標いせみち

武佐の町並み

武佐〜

で再び国道8号線に戻り、工場沿いの味気ない道を進むとなにやらなんちゃら墓と書いてある石柱がある。
なんでこんな墓が道ばたにと思いつつ撮った写真をよく見ると「住蓮坊、安楽坊墓之これより3丁」という道標であった。なんでもこの二人は法然上人のお弟子さんで後鳥羽上皇お気に入りの女官を出家させちゃったのでブチ切れた上皇の命により死罪となったらしい。
この辺りの地名が千僧供町という物騒な名前なのはそのせいだろうか。
道は国道8号線から右に逸れるのだがポツポツと雨が降ってきやがった。
激しくはないが粒が大きいのでやばいかなと思ったが結局大したことはなかった。
やはり日頃の行いが良いとこうして天気にも恵まれるのである。
で近江鉄道のえらく簡単な作りの武佐駅を過ぎ、木戸とか見付の案内を見落としたのか、そもそも無かったのかわからんが13時30分過ぎには武佐宿に入ったようだ。
宿場の入り口を見落とした代わりと言っちゃなんだが「いせみち」と書かれた道標を見つけた。石榑峠越えの八風街道・・・。昨日超えたとき大したこと無いといったが、ジムニーの車幅+ホイールベースならではの話で、おいらの前を先行していた多摩ナンバーのアコードワゴンはコンクリ舗装のすれ違いおそらく無理の急坂におそれをなしたのか、突然バックし始める位・・

ちが〜う

歩いていったら鈴鹿山脈を越える峠道としてはもっとも標高の高いところを抜けるだけに大変なはずだ。
いつ宿場を過ぎたのかよくわからないまま老蘇の森の云われについて書かれた案内板があった。大昔は地が裂け水が湧き出し、人なんかとても住めないようなところに大連という百数十歳過ぎてなおカクシャクとした爺さんが木を植えたらあら不思議。たちまち木々が生い茂る大森林に変貌したということである。
  老蘇の森由来

古来老蘇の森一帯は蒲生野と讃えられ老蘇武佐平平田市辺の四ケ村周辺からな
る大森林があった。今尚近在に野神さんとして祀れる大杉が老蘇の森の樹令に
等しいところからもすでに想像されるが現在は奥石神社の鎮守の森として其の
名を留むるのみで面積は六十反歩を有し松杉桧等が生い茂ってゐる。奥石神社
本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の御字石辺
大連翁等住人がこの 地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松杉桧の苗を
植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われでいるこの大
連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠と壮者を凌ぐ程であったので人呼んで「老蘇」
と云ひこの森を老蘇の森と唱えはじめたとある又大連はこの事を悦び社壇を気
づいたのが奥石神社のはじめと傳えられている。古歌に
東路の思出にせん
    郭公老蘇の森の
        夜半の一声
俺様は思った。

絶対ありえね〜

って地が裂け、水湧く所も人住めないけど大森林も同じような気がします。大連爺さん。
今じゃそんな大森林を新幹線が貫いている。
まぁ今では地は裂けていないけど至る所水路やら側溝に魚が泳いでいたりするくらい水には恵まれているようです。滋賀県

清水鼻の名水

景清道

てんびんの里

アマガエル

探検の殿堂

愛知川宿

高宮まで二里

無賃橋

〜愛知川

んで再び道は8号線を新幹線沿いに進み新幹線ガードをくぐって、清水鼻の名水という水場に辿り着いたが、関東近郊の水場と違い、周りは路上駐車の嵐で、ポリタンク抱えたおっちゃん、おばちゃんが列をなしていることもなく、一口飲んでみると実にうまいのでペットボトルのお茶を飲み干して代わりにこの名水を詰めて出発。
でこの先を右に向かい国道8号を横断しなければならないところを左に向かってしまい、景清道と掘られた石の道標があったので見てみると中山道(当時は東山道)の間道と説明されていた。
 景清道(かげきよみち)
 五個荘町内のほぼ中央を
南北に走る古道は、景清道
と呼ばれ源平合戦の昔、平
家方の勇将 悪七兵衛平
(藤原)景清が盲目となった
已の目の回復を祈って京都
清水寺に詣でた時、通った
道と言われています。
「平家物語」では,屋島の
戦いの際、那須与一が扇を
射落とした後、景清が陸に
上り源氏の武将の兜の錣を
取って「やぁやぁ。遠から
ん者は音にも聞け。近くは
寄って目にも見よ 」 と大
音声で名乗った勇者として
知られています。また、景
清道は、陰京道とも書かれ
て中山道(当時は東山道)の
間道として利用されたとも
言われています。
平成十三年三月 五個荘町

間道?

道違うじゃん!

地図を確認すると現在地は国道8号米原方面に向かって左側におり、中山道は8号線の右側に位置する事がわかったので、国道8号目指して軌道修正。
道中、建物の壁面に「ようこそてんびんの里」、「近江商人のまち」書かれていたが、天秤って”はかり”の天秤なのか担ぐほうの天秤なのかよくわからないが五個荘がゆかりの地らしい。
また近江商人の館というのが有ったがだだっ広い駐車場を突っ切っていく気力もないので素通りした。
途中自販機になにやら気配を感じたので立ち止まると、アマガエルが自販機にへばりついていた。
きっと夜になって明かりに寄ってくる虫を狙って明るいうちからスタンバイしているのだろうか。
でもこの写真の突っ込みどころは、涼しいとは言え8月の夏の盛りになんであったかいコーヒーが売られているんだ?
ということにも気付いていただければ幸いである。 そしてなんとか30分以上経て8号線に合流し、愛知川のたもとに辿り着くと

探検の殿堂

EXPLOERER MUSEUM

と書かれた非常に気になる案内板がある。あんまりにも気になったのでgoogleで検索してみるとこういう所らしい。
愛知川を越えて国道8号から右に逸れると愛知川宿に入った。
すでに15時47分と16時近くなっており、今日のゴール地点は高宮なら余裕で鳥居本だと微妙な状況だがそんな状況でも愛知川の橋のたもとできっちり休む俺様だ。
で8号線から右に逸れて愛知川宿に入り10分ほどで銀行脇のベンチでまたまたお休み中の俺様がいた。その傍らには愛知川に掛かる「むちんばし」の絵とその謂われについて書かれた看板があり、葉っぱに隠れて読めない箇所もあったがどうやら近江商人らの手により架橋し、しかもタダとなかなか太っ腹な橋が架かっていたらしい。

「むちんばしの由来」
「旅人をあはれみかけてむちんばし、
           かき心を流す衛知橋」
西 園   寺   藤

この歌は- 愛知川町の成宮家に家宝として残る一部。
鈴鹿山系幅二百三十余メートルの愛知川は、出水する
と「人取り の(葉っぱが邪魔で読めない)
川沿いの人々(住民・民衆)をのみ、通行する旅人を
困らせました。
(葉っぱが邪魔で読めない)の、成宮弥治右衛門忠喜
(一七八一年−一八五五年)が四人の同志と彦根藩に
橋の建設を申し出たのは文政十二年(一八二九年)の
こと(葉っぱが邪魔で読めない)
(葉っぱが邪魔で読めない)こ歳月をへて、天保二年
(一八三一年)に完成したのが無賃橋です。
当時の橋は通行料を支払うのがふつうでしたが、慈善
事業のため無賃とし、多くの旅人に喜ぱれました。
安藤広重の中山道六十九次「恵智川」にも「むち
んばし はし銭いらず」として描かれ、後世にその篤
行を伝えています。
 愛知川の豊かな流れに沿ったこの地方一帯は、古く
から交通の要所え、江戸時代には中山道の宿場町とし
て発展し、寛永十年(一六三三年)は、幕府から
「往還馬次米」として毎年十一石五斗七分の米が支給
され、本陣・脇本陣も設置されました。
 その後、橋は、愛智川宿の人々により大切に保護さ
れ、明治に入ると、二十二年の大津−長浜間の鉄道開
通、三十一年の近鉄彦根−八日市間の敷設などで中山
道はだんだんさびれたが、いちじるしい交通網の発達
、道路の整備で、再び交通の要所となりました。
 現在の御幸橋は、こうした歴史を秘めて昭和三十六
年、国道八号線の新設とともに架橋されたものですが
、橋名の由来は、   明治十一年秋、天皇巡幸を記念
して建設された木橋を御幸橋と名付けられ、かぞえて
四代目のものです。

豊郷町役場

豊郷小学校

楓並木

水車

おいでやす

またおいで

高宮宿むちんばし

高宮宿の街並み

愛知川〜

愛知川宿を抜けると、小学校の校舎を残す残さないで揉めた豊郷町に入った。
で伊藤忠やら丸紅の創始者のおうちが現在、伊藤忠兵衛記念館として公開されているようだが残念ながら休館日のようであった。
伊藤忠兵衛記念館
伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して
初代忠兵衛が暮らし,二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、
伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。
初代及び二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して
繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。
この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残され
その佇まいからは、”近江商人“忠兵衛の活況ある当時の暮らしぷりや
それを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。
また.ここで生まれた二代忠兵衛は母である八重夫人の教育もあり
国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基盤を築いています。
近江商人のスピリットを先進的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた
初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながら
その偉大な業績を賛え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。
本来豊郷町の有名人といえば、伊藤忠創始者な訳だが、最近は「あの町長」の方がすっかり知名度を上げたかもなぁと思いつつ、豊郷町役場の前に差し掛かった。
あの悪代官顔の町長からは想像つかないってゆーか、小学校よりむしろこっちを立て替えたほうがよさげな気さえする質素な庁舎でした。
そしたらこんどは有名になっちゃった校舎が見えてきた。まぁこの小学校にゆかりがない俺様にとっては文化財扱いして後世残さなくちゃいけない建物とはちょっと思えなかった。
木造なり、煉瓦造りなら年を経る毎に風情とか趣きが有ったりするけど、鉄筋コンクリートじゃボロくなるばかりだと思う。
まぁ古いものを残したいのもわからんでも無いけど近年の酸性雨で外壁が剥がれ落ちたりすると危険きわまりない。
そして豊郷町なのか彦根なのか微妙なところに差し掛かり街道には楓並木と珍しいものが並んでいたが、街道に植える並木といえば普通は松か榎だったりするのだがなぜに楓なんだろ?まさかメイプルシロップ作るためじゃあるまい。夏は緑が美しく、秋の紅葉も良いのだが冬はみんな枯れ落ちてしまい、並木としての役をなさなくなるんじゃないの?
そういや、所々1m幅くらいの石畳が車道に有るのだが速度抑止効果をねらうなら、箱根や菊川の石畳を参考にするといいと思うぞ。ついでに珍走も駆逐できるし。
楓並木を過ぎると水車のある小さな公園があったのでさっきから休んでばかりだなぁと思いつつも再び休憩させて頂く。ちなみに水車は回っていなかったので手で回してみると軽い手応えでくるくる回ってくれた。
水車を過ぎると「おいでやす。彦根」のモニュメントが迎えてくれ?反対側に回ると「またおいで」と彫られており予想通りの結果にニヤリとしつつ、近年植えられたらしい松並木を過ぎ、17時43分高宮宿入り口の高宮橋に到着した。橋のたもとには「むちんばし」と彫られた石碑が有るのだが、歩いているときは全然気づかなかった。やはりかなり限界に近づいていたようだ。
でも諸般の事情により明日15時には関ヶ原にいないと困るので、出来る限り今日のうちに距離を稼ぎたい俺様は鳥居本まで歩くことを決心した。
道中何事もなければ19時位には鳥居本にたどり着けるはずだ。

中山道を示す赤テープ

小野集落の太鼓

心霊写真?

真っ暗な中山道

夏の夕暮れ

彦根道−中山道の道標

ゴール地点
んで名神高速の彦根ICの下をくぐり、人気のない名神沿いの側道を夕闇に追っかけられるようにトボトボ進むと小野という集落の入り口に差し掛かった
人気が無いと書いたが、名神と新幹線に挟まれているため決して静かというわけではない。
で写真にも写っているがガードレールになにか赤いテープが貼られている。この赤テープは道路が交差する際に中山道の方向を示しているのである。このテープのおかげで大して道に迷うことなくここまでこれたのだから感謝せねばなるまい。
で集落に入るとなにやらお祭りの真っ最中らしい。まぁあとちょいでゴールだし、夜店で生ビールでもと不埒な考えを見抜かれたのか縁台で涼んでいたおとっつあんに呼び止められ、「中山道歩いているのか?ビールでも飲んでいけ」と家の中に連れ込まれビールと鮒寿司をごちそうになりつつ(鮒寿司はそれほどデンジャラスな食い物ではなく、俺様的にはむしろ美味かった)。守山から10時間かけて40kmばかり歩いて来ましたとかそんな話をしていたら、あんたは彦根ICからここまでは名神こしらえたときに山削ったので割合なだらかだけど、以前は彦根行くのに山越えしなければいけなかったとか、小野の地名は小野小町に由来するとかそんな話をしつつ、もう少しでここいらの伝統芸能の太鼓が始まるから見てけというわけで行ってみるとちょうど子供たちが太鼓を叩きながら広場から出ていくエンディングの場面でした。
しかし、昨日東海道岡部宿に寄った際にも「小野小町姿見の橋」というのがあったなあと、もうすっかり足下すらおぼつかない中山道を歩いていたらふとこの暗闇を写真で表現したくなり、「ぱちり」と撮ったら煙状の妙なものが写った。よく見ると人の顔に見えないこともない。しかも季節はお盆とくりゃ
心霊写真か
と思ってしまうが何のことはない、タバコくわえながら写真撮るからフラッシュに煙が反射しただけである。
さっそくタバコを灰皿に押し込んで撮り直したら当然ながら怪しげなものは写ってなかった。もう19時20分過ぎなので、道ばたの犬のウンコを気づかずに踏んでしまう危険が有るくらい街灯一本ありゃしない暗い道を行くがまだ西の空にはほのかに夕暮れの面影が残っていた。
程なく鳥居本の集落に入り、駅はどっちだときょろきょろしていると古い道標があった。「右 彦根道 左 中山道」でも鳥居本の駅の方角は記されていなかった。
しばらく歩くと左側から国道8号を疾走するトラックの音が聞こえてきたので、今日はここをゴールにして明日ここからスタートすることに決めて国道8号に出たのだが暗くて駅がわからん。すぐそばに踏切があったので行ってみると、米原よりに駅舎が見えたので歩いていくと10分足らずで電車が来るようだ。30分に一本あるかないかの電車にこれだけの待ち時間で乗れるなんて奇跡だよなぁと思いつつガラガラの近江鉄道に揺られ彦根に戻る俺様だった。

中山道 草津〜守山に戻る鳥居本〜番場〜醒ヶ井〜柏原〜今須〜関ヶ原へ進む
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