2日目 香良洲道追分から六軒駅まで

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2009年11月22日香良洲道追分〜伊勢街道曇りのち雨2時間51分歩数17455歩距離12.22km

阿漕駅

名所案内

阿漕駅駅舎

駅前の道

国道23号

閻魔堂

伊勢街道

鍵の手

カーブを曲がると香良洲道追分

香良洲道追分

橋の欄干と道標?

国道23号を渡る

渡った先

道が無くなるので迂回

新相川橋手前を左折

消防訓練中

突き当たりを右折

下相川橋を渡る

相川

雨が降り出した

ホテル手前で左折

国道23号に合流し左に逸れる

月見川に架かる橋を渡る

県道754号を渡る

県道754号を渡った先

道なりに左へ

いんたーなしょなるとれじゃ〜はうす

前方に林がある

神社かな

雲出神社

県道698号津三雲線に出た

香良洲橋たもとにでた

香良洲橋

雲出川古川

雲出川

ようこそ香良洲町へ

香良洲大橋北交差点

常夜灯

草ぼうぼうの階段を下る

左からす道 右さん宮道の道標

香良洲町のマンホール

香良洲の地酒きげんよし

左手に逸れる

道せまい

津市香良洲分舎

この林が香良洲神社かな

香良洲神社到着

最初の鳥居を潜る

神殿



すっかり暗くなってしまった

香良洲大橋

香良洲大橋を渡る

街灯も無く真っ暗

香良洲道に復帰中

ちなみに本来のルート

香良洲道に復帰

擬宝珠のついた橋

くねくねと曲がる

法性寺

道標 右さんくう道

道標 左さんくう道

国道23号を地下道でくぐる

天白村中道青年團と刻まれた柱

みぎさんくう道

伊勢街道に合流

六軒駅入口にある常夜灯

六軒駅

2009年11月22日 追加 香良洲神社へ行ってみた

と言うわけで伊勢参拝には香良洲神社がセットなので香良洲神社にお参りしないと片参りと言われたらしい。
そこで香良洲神社を目指してみることにした。痔神神社から近鉄白塚駅まで歩いて津まで近鉄線で行き、そこから紀勢本線で阿漕まで行った。
無人駅なのに立派な駅舎と無駄に広く感じる駅前広場を抜けると国道23号を横断する歩行者にとっては有り難くない2段階の信号。
県道776号久居停車場津線と国道23号と駅前からの道が交錯し、まず県道の青信号で23号までたどり着いて、国道23号の信号を待たなければならないのであった。
でなんとか国道23号を横断し、しばらく歩くと閻魔堂があった。本当にここ歩いたんだっけと言うくらい記憶が消え去っている。
だいたいにして前回歩いた記録が津市街を抜けるといきなり高茶屋までワープしてるしなぁ。

津市指定有形文化財
        
彫刻 木造
閻魔王坐像 倶生神半跏像 闇黒童子半跏像
真教寺の閻魔堂は、悪霊や疾病が津の町に入らないように番をするお堂であった。そのお堂の中央に、高
さ2mの閻魔大王が座り、あごひげに首をうずめ、眼を大きく見開いて、ロを開いて怒りの表情をしている。
左側の倶生神は、足に長ぐつをはいて左足を立て膝にして座っており、右手に筆を持ち、左手の板に字を書
こうとしている。右に座る闇黒童子は、両手で巻物を開いて読み上げている。いずれも頭部胎内の墨書から、
天和2年(1682)京都七条仏所の伝内と作左右衛門という仏師によって作られたことが知られている。
 閻魔王の前の秤は、生前の罪の重さを量るためのもので、その重さによって行くべき所を申し渡されると
信じられていた。これは仏教伝来の途中、中国で道教により脚色された信仰で、その影響は3体が着衣し
ている道服にうかがえる。

彫刻 木造 阿弥陀如来坐像

 この阿弥陀如来坐像は藤堂家ゆかりの仏像と伝えられるが詳しいことは明らかでない。頭部や体部
などの主要部を一材で作って前後に割り矧ぎ、背面材、前膝材、両肩材をそれぞれ寄せている。細かく彫
る作例で、中央の流れをくむ仏師の作と考えられる。その作風から制作年代は平安時代後期、12世紀に
さかのぼるものとされる。

三重県指定有形文化財
彫刻 木造 十一面観音立像
 この十一面観音立像は、江戸時代の僧侶円空(1632〜1695)の作品である。この像は、肩幅が狭く撫肩で
全体の印象は法隆寺の百済観音像に似ていて、飛鳥時代の仏像の影響を受けた円空初期の力作である。円
空の彫り方は、丸木をいくつかに割り、その割った面を巧みに生かした鉈はつりと呼ばれる彫法である。
台座から頭上化仏までを1本の檜で作られたこの像は、彩色もなく鉈彫りのままの素木で、円空独自の
法が十分にはっきされている。
覚えてない・・・。本当にここ通ったんだろうか。で隣にある市杵島姫神社にも立ち寄ってみた。
しかしやはり記憶にない。まぁ全行程ほぼ雨だったからあまり景色を見る余裕もなかったしなぁ。

市杵島姫神社
通称 弁財さん
このお社は 大古は庚申塚でした。市杵島姫命は北畠氏一族の
守護神として北畠氏滅亡まで多気の城内に御鎮座されていました。
親房公 顕家公 顕能公と大変崇敬心厚く その心は代々家臣に
至るまで受け継がれ その後 この地の産土神様になられました
 万物の生命をつかさどる水の神 音楽芸能   子孫繁栄の神様と
して崇敬され付近の人々が「弁財さん」「弁財さん」と親しみをも
って呼んでいましたので 下弁財町 上弁財町の町名がつきました。
 境内には樹齢が四百年とも五百年ともいわれる大きなイチョウ
の.御神木があります 昭和二十年の戦災の時湯気のようにもうもう
としたものが出て御神殿をつつみこみ焼失を防ぎました 又風の
向きもかえ火の手を止めました 今もたくさんのギンナンがなり
ます。

市杵島姫神社

津市指定有形文化財
工芸
湯立釜
1口
 湯立釜は湯立の神事、あるいは湯立神楽の際に神前で湯を沸かすための大釜である。神前で湯を沸か
し、湯気をあたりにたちこませて巫女などが神がかりになることは神事によくみられる方式である。時
には湯そのものに浄め祓いの力があるとし、笹で参集者に湯をかけて清めを行う場合もある。現在この
湯立釜が神事に用いられることはないが、釜の底にすすが付着しているこどから、以前はこの釜が神事
に使用されていたことが考えられる、
 直径77.1cm、青銅鋳造で獣面をつけた三ッ足の1つが欠けてはいるがほぼ完全な形をしている。鍔
の上の外周に寄進銘と作者銘がある。

 (寄進銘)

 勢混(州)安濃軍津辨才町愛壽大辨才天女氏子安全元文五庚申年正月吉祥月願主同國多気相可郷西
村氏廣定同豺家右家内安全福壽増長祈戟
 (作者銘ド)                 
大工中山村安保氏   

 この銘文によると、元文5年(1740)に多気郡相可郷(多気町)の西村廣定、廣泰によって寄進され、
中山村(津市栗真中山町)の安保氏によって鋳造されたことがわかる。安保氏は元禄年間(1688〜1703)
以前に中山村に住みつき代々鋳者業をなりわいとした。幕末には各藩より大砲や鉄砲などの兵器を受注
生産していた。この湯立釜は2代目安保市太夫周正又は3代目安保市太夫周重の作と考えられる。
所有者 市杵島姫神社
    江 戸 時 代
昭和44年6月5日指定

津市教育委員会

で伊勢街道を歩く。がしかし工事中につき通り抜けできませんという看板がおいらの気持ちを萎えさせる。
まあ行けるところまで行ってやろうと思ったのだが結局どこで工事やってたんだろう。
歩き始めて10分ほどで見事に鍵の手が残っている場所があった。無論前回歩いた記憶とはマッチしない。
もう一ヶ所鍵の手とおぼしきところを過ぎると程なくちっちゃな「香良洲道」と書かれたプレートがあった。
香良洲道へ行ってみると橋に彫刻が施されているのがわかる。だが、そんな橋をゴミ集積所にするなんて・・・・
で橋のたもとには自然石の様にみえる石が置かれている。もしかしたら道標とおもって良く見たが文字らしいものは見えなかった。
香良洲道を進んでいくと国道23号に突き当たる。これを横断するとしばらく旧街道っぽい道が続くのだが、かつての道は途中で消滅してしまうので歩道のない2車線巾の道に迂回する。この道を7分ほど歩くと新相川橋手前を左折する。
すると右手に見えるグランドではちょうど消防訓練の最中で、横転した車と消防車のまわりに消防隊の人らがいた。
ん?すでに訓練は終わったのだろうか。動きが見えない。
グランドをぐるっと回るように突き当たりで右折したがやはり動きがない。つまらん。と思っていると軽トラでも通行が困難そうな橋があった。 いや耕耘機でギリギリだろう。余りに見てわかるせいか規制標識の類は見あたらない。
地図では下相川橋となっている橋を渡っていると大粒の雨がポツリポツリと降ってきた。
傘を用意しつつ川の土手を歩いて、ホテル脇の道を通り抜けて国道23号に合流。
やがて本格的に雨が降ってきた。前回の伊勢街道も全行程ほぼ雨だったが今回も雨にたたられるのか。
しばらく国道23号を歩いてジャスコがあるのところで左に逸れる道を進む。
すすんで程なく信号も横断歩道もない片側2車線の県道754号を渡る。
渡った先も旧街道の道幅が続く。
年代物の国際秘宝館の看板があったりなかなか風情があってよろしい。
この旧街道サイズの道を歩いていると阿漕駅から1時間20分ほどで雲出神社の前に差し掛かる。
でまた旧街道が消滅するので県道698号津三雲線に出る。
歩道は当然のようにないが、幸い走る車もあまりない。ただ延々畑の中を真っ直ぐ進む道はしんどい。
15分は歩いただろうか。漸く雲出川と雲出古川の合流点に掛かる香良洲橋にたどり着いた。
年代物のコンクリート橋なので当然の如く歩道は無い。
橋を渡り終えると、香良洲町へようこそとこれまた年代物のアーチが俺様を迎えてくれた。
雲出川の土手の上の道を歩き、先ほどの香良洲橋とは違いえらく立派な香良洲大橋を横目で見ながら香良洲大橋北交差点を渡る。
眼下には常夜灯が見える。常夜灯の隣には道標も建っているがさてどうやってあそこまで下っていくか。と見ると草ぼうぼうの階段があった。
雨に濡れた草をかき分けて堤防下の道路にたどり着いた。
堤防下の道を歩いていると”香良洲の地酒きげんよし”という看板が目に入った。
聞いたことのない銘柄なので是非試してみたいところではあるが旅の途中でもあるのでここはぐっと堪え、旧香良洲町のメインストリートに入る。
このメインストリートは道幅が狭く、それでもダンプやら路線バスが行き交っている。
香良洲大橋北交差点から15分余りでかつての香良洲町町役場の前を過ぎた。
そろそろ暗くなりかけた頃ようやく香良洲神社のものであろう森が見えてきた。
そして16:50香良洲神社到着
伊勢神宮とセットでお参りと言われていた割りにはこぢんまりした神社だが、ちゃんと厩もある。
ここがゴールなら良いのだがここからまた伊勢街道との合流点まで歩かねばならないのでささっと参拝を済ませた。

津市指定無形民俗文化財 
                       伝承者地家区、高砂区、小松区、桜町区、馬場区
               砂原区、浜浦区.川原区、稲葉区
香良洲神社のお木曳き行事
平成5年4月26日指定
  香良洲神社はその祭神が伊勢神宮由縁というら、神宮と同様にその昔
から20年ごとに遷座が行われ、そのご用材を氏子が奉献してきました。宮前の清
川橋の擬宝珠の記録によれば、延宝9年(1681)に架橋の記録があり、文化元年
(1804)以降は20年毎に架け替えたと記されています。
 ご用材は、所定の台積まれて飾り付けられ、町内の主要道路(参道)を運
ばれます。このとき「音頭さん」と呼ばれる唄の指導者が「陣羽織」という衣装をま
とって台車に乗り、「木曳き唄」を台車を曳く大勢の氏子たちとかけ合いにて歌い
ながら神社に運び入れる行事です。
                           
  津市教育委員会
津市教育委員会


三重県指定無形民俗文化財
  

伝承者馬場区、小松区
    地家区、砂原区
香良洲町の宮踊
                       昭和45年2月25日指定
 香良洲町の宮踊は、別名「風采踊り」とも呼ばれ、毎年8月15日から翌日にか
けて香良洲神社で馬場区・小松区・地家区・砂原区の住民によって奉納されます。
 8月7日から13日は、初盆の人を供養する「精霊踊り」が踊られます。15日、踊り
子らは身を清めた後、夕方から時間をずらして区毎に香良洲神社まで練り歩き
ます。神社に入るとくじ引きで順番を決め、一番くじを引いた区が境内の中央に
笠鉾を立て、夜9時頃から翌朝6時頃まで、各区が順番に踊ります。
 踊りは、踊り子4人が「ほそり」といって縦一列に並び、「歌づま」と呼ばれる人々
が囲む形となり、歌に合わせて踊ります。次に踊り子が笠鉾を囲むように円形に
なり、その周囲を「歌づま」が円をつくり、踊りが奉納される。踊り子(柘)はは、4人、
これに唄いが多数付きます。
津市教育委員会


香良洲神社由緒
祭神 稚日女尊
稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ
第二十九代欽明天皇の御代(飛鳥時代)(今より
およそ一四二〇年前)生田の長峡(現在の
神戸市生田神社)より勧請申し上げおまつり
した神社です。
 欽明天皇の御代にこの伊勢の海の浜州で御神火
が毎晩みえるので里の人々が畏れ騒ぎも一通り
でなくこれを知った青木という人が神の
御心とおがんだところ「吾は生田の稚日女神
である姉神の在す神風伊勢のこの地に鎮ま
りたい。」とのお告げがあり生田より御勧請
申し上げ社を造営し祭を行い長くこの地に
奉斎することになりました。 
 伊勢の神宮と同様二十年毎に式年遷座
を行っています。       
参拝を済ませるともうすでに薄暗い。香良洲大橋まで戻ってくる頃には漆黒の闇に包まれていた。
本来は香良洲大橋を渡ったところを左に曲がって2ブロック先の道を行くらしいのだが、最早真っ暗で街灯もない旧道は無理である。
こんなに暗くなるのが早くなるとか、ましてや街灯無いところを歩くなんて想定してなかったので懐中電灯の類は装備していない。
なのでそのまま香良洲大橋を直進し県道津三雲線を進むことにした。
もう本当に足下さえ見えなくなってきた。
国道23号から向かってくる道との交差点で左折し、2ブロック先の香良洲道合流点まで進む。
やはりこっちに来て正解だった。見ると街灯のない田んぼの中を1km余りも続く農道を進まなければならなかったところだ。
幸いこれから先は集落の中なので街灯もあり、なんとかこの先進むことができそうだ。
それはそうとこう暗くては地図を見ることも出来ない。地図が見れないと言うことは現在地がわからないということで、どこを歩いているかわからず目標物も見えない状況ではとても長い時間に感じる。
法性寺の先にようやく「右さんくう道」と刻まれた道標を見つけたが、香良洲道に合流してから30分も経っていないのだがとても長い時間歩いたように感じた。
ここから5分ほどで「左さんくう道」の道標があり、一瞬ここを伊勢街道との合流点と勘違いしたが、街灯の下で地図を確認すると伊勢街道は国道23号の向こう側だった。
実際には伊勢街道に合流してもそこから六軒駅まで歩かねばならずまだ30分位歩く必要が有りそうである。
道標に従い、暗くてよくわからないが田んぼだか畑に囲まれた寂しいところを、賑やかに明かりの灯る国道23号と平行して歩き、天白小学校手前を右折。
この先国道23号渡るのだが、信号とか横断歩道無かったらどうしようと思っていたところ歩行者用の地下通路があったので一安心。
でも歩行者専用と標識に書かれていたような気がするが車が普通に突っ込んで行き無事通過していった。まぁ巾も高さも問題ないし車止めもなかったしなぁ。
道なりにすすみ左に大きく曲がった先に常夜灯や道標らしき石柱が立っているところに出た。
常夜灯に並んで建っているでっかい石柱は天白村中道青年團と刻まれていた。天白って名古屋の天白区かと思ったが、先ほど天白小学校の脇を通り抜けたことを思い出し、どうやら地元の青年團が奉納したものらしい。
ウロウロしていると右さんくう道の道標を見つけ伊勢街道との追分である事を確認。

18:17ゴール


そして伊勢街道をすすむと何時の間にやら国道23号のバイパスが頭上に出来ていた。2年前の平成19年4月にこの区間が供用されたらしい。
2003年に歩いたときに工事なんかしてただろうかと思い出そうとするが思い出せない。
まぁ香良洲道との合流箇所も思い出せないが、月本の追分とか小津の一里塚とか写真に残っているので中間点のこの辺りは通ったはずである。
でここらで六軒駅へ向かう道が有るはずだがと思ったら常夜灯があった。傍らの石柱にはステンショ道とでも刻まれているのだろうか。すっかり人間の目ではわからん暗さなので写真には写っているものの見落としてしまった。
ここから津へ向かってホテルに宿泊するのだが、列車の時刻もさることながら昭和30年代に列車同士が衝突し42名の死者がでた六軒駅事故の現場である。お客さん居ないだろうし一人で待っているのは寂しいだろうなと思ったら高校生がたむろっていた。うらうら邪魔なんだよ通路開けやがれと跨線橋で津方面のホームに向かうと待合室にはスーツ姿のリーマンがいた。
通勤なのか出先からの戻りなのか、移動には車が常識のこの地でなぜに列車なのか非常に気になるところだが、言葉を交わすことなく列車を待っていた。
まぁ向こうにして見りゃ25リッターのザック背負ったおっさんがなぜこんな所にいるのかさぞかし不思議だったに違いない。
で一応ホームのベンチには屋根が有るのだが雨が真上から降ってくれば役には立つが斜めに降り込んでくる雨に対しては全く無力だ。
改札でたむろって居る高校生らの意図が降り込む雨で漸く理解できた。

2009年11月22日 追加 香良洲神社へ行ってみた おわり

伊勢街道2日に戻る。

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