九日目 東名高速バス興津から静岡駅まで

日時宿場天候所要時間歩数距離交通費
2002年7月3日興津〜府中曇り6時間約36640歩28.2km-6km4030円

興津川の土手からR1方面を望むが興津は霧に煙っていた。

土睡峠へのルートを表す看板。
というわけで朝だというのに非常に蒸し暑い。嫌な予感に襲われつつうちを出て2時間余りで興津。まぁ風が有るだけまだマシだとは言えじっとしていても肌がべたつく程、強烈な湿気だ。で興津川沿いの旧東海道はなにやら道路工事しているようなので興津川の土手を海に向かって歩く。ところが東海道線にぶちあたり、この先さらに進むには線路を跨ぐか鉄橋と堤防の30cmの隙間を匍匐前進するか・・どっちも無理な相談であるが、100m程手前に公園がありそこには降りられるようになっていたがその先で工事やっていて通れそうにもなく、逃げ道を塞がれた俺様はやむなく2mの堤防からズルズルと無様に滑り降りたのだった。するとおいらと同年代とおぼしきおばちゃんが、仲間が河原でBBQやっているんだけど、どう行ったらよいかと訊ねるので
「ずっと上まで遡れば入れるけどすぐそこの公園は工事して入れなさそうなんで、無理矢理ここを下ったんですよ。」 と「お荷物持ちましょうか?」と言い終わる前にその女性は四つん這いで土手をすいすい登っていった。うーん。見た目よりもしかして若かったのか?
さて東海道に戻り興津川にかかる橋のたもとに・・薩土睡峠へのルートを表す看板があるがそれによると前回、峠を下ってきた道はどうやら東海道ではなく東名高速沿いの地蔵道と呼ばれる古道を通ってきたらしい。まぁ道中日本武尊の駒の爪跡とか言う碑があったから古い道には違いない。まぁタイトルが不完全走破だから気にしないで行きましょと興津川を渡ると街道筋には後からでっち上げた一里塚跡やら本陣跡など石碑のみがかつての東海道を示している。

来る者を圧倒する清見寺の山門

清見寺を訪れた山下清さんのコメント。

清見寺と言えば五百羅漢。

清見寺の高台から海を望む。
で小一時間ほど歩いて興津と言えば清見寺と言うわけでとりあえず今回唯一の見所だろうと立ち寄る。立派な山門をよく見ると細かいところに彫刻なんかしちゃっているところを見ると相当年代物だなと思いつつ静かな境内に足を踏み入れるとこれがまた立派な本堂のせいか狭く見える(つーか半分は東海道線で削られている)。
由 緒

当山は禅臨済宗て、古来より景色
の美しさで名高かった。寺の始めは
古く奈良朝時代此地に関所が設け
られ其の守護として傍に仏堂が建立せ
られたのが始めと伝えられる。而し寺と
して基礎の固ったのは鎌倉時代(一二六四)
後足利尊氏此の寺を再興(一三四二)徳川
時代を経て今日に至った。その間、幾度
か戦渦を受けたるも再建復興してきた。

境内概観
山 門   慶安四年(一六五一)建立
仏 殿   天保一三年(一八四四)建立
大玄関   元和ニ年(一六一六)建立
大方丈   文政十一年(一八二八)建立
鐘 楼   文久三年(一八六二)建立
五百羅漢  天明八年(一七八八)彫造
観音胴像  昭和十三年(一九三八)彫造
臥龍梅   徳川家康手接
名勝庭園  江戸初期作庭
    文部省指定

案内の看板のほかにも境内には威臨丸殉難の碑、山下清さんがスケッチしたときの情景を記した看板やら家康さんが御自ら継いだ梅の木やらいささかゴチャゴチャしているような・・・
山下清
「清見寺スケッチの思い出」より

 清見寺という名だな このお寺は
古っぽいけど上等にみえるな お寺の
前庭のところを汽車の東海道線が走って
いるのはどうゆうわけかな お寺より汽車の
方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海はいめたて工事であんま
りきれいじゃないな お寺の人はよその人に
自分のお寺がきれいとおもわれるのが
いいか自分のお寺から見る景色がいい
方がいいのかどっちだろうな
で裏手に回ると有名な五百羅漢。皆さん穏やかと言いますか何とも言えないお顔ですな
五百羅漢石像
釈迦如来の御弟子で仏典の
編集護持に功績のあった方々
です。江戸時代中期(天明年間)
の彫造にして作者不詳形相
悉く神異非凡の作でありま
す。此の羅漢尊者の群像は
島崎藤村の小説「桜の実の
熟する時」の最後の場面に
なっています。
と裏手の階段を上ると興津港の先に三保の松原が見える。うーんクレーンとか倉庫がなければなぁと思いつつも清見寺を後にしようとするとけたたましい電車の警笛・・ここまで来ると東海道本線も2両編成かよ。で向かいの道路には大正天皇がここで海水浴したんだよ。という石碑。身体がお弱かったと伝えられてますが・・こんなに遠出することもおありだったのね。で汗ダラダラになるのでゆっくり歩いて・・・30分も経ったろうか。ふと、リュックの脇のポケットに有るはずの携帯が無いことに気が付いた。・・・清見寺に落としたのかと元来た道を戻るが見あたらない。もうすでに拾われたかと公衆電話を探すが見あたらない。で結局清見寺にまた戻り、あちこち探すが無いようなので石段を下ると公衆電話発見。久々にテレフォンカードなど使い、自分の携帯に電話すると10コールほどでおっちゃんが出た。でこれから取りに伺いますのでどちらでしょうかと訊ねると・・・
静岡だぁ?
どうやら行きの東名高速バスの中で落としたらしい。じゃぁ夕方取りに伺いますと言うわけで、蒸し風呂状態の電話ボックスで暑さに加え恐縮の大汗を書きつつ、改めて静岡を目指すことにする。これで1時間以上ロスしたので清水の大親分の生家や墓所を訪ねる計画は頓挫してしまった。

ほそいの松原。とりあえず一本だけ再現

都鳥供養塔

線路でとぎれた東海道。
というわけでさっきと通った道だしバスでサクって行っても良かろうと思ったがたまには念入りに歩くのも良いだろう。ほーらやっぱり。最初通った時は東海道線を橋で越えたけど、旧東海道は橋の手前で左に迂回して踏切を越えるのだ。思いがけずチョンボ区間を修正。
でようやく江尻の宿入り口の”ほそいの松原”。残念ながら松は太平洋戦争の時に松根油取るために伐採しちまったそうな。で傍らには供養塔。なにやら掘り返したときに道中行き倒れになった人たちとおぼしき多数の人骨が出てきたらしい。で東海道の痕跡は石碑だけ、で現在清水と言えばエスパルスとちびまるこちゃんだが・・そーいったモノも無い江尻の宿を過ぎて、追分羊羹なんか買ってしばらく行くと都田吉兵衛の供養塔。清水の大親分の一番の子分と言われる石松さんを騙し討ちした通称都鳥を清水一家がきっちりケジメ付けた現場である。石松敵討ち記念碑じゃなくて供養塔である。説明書きにも「とんでもない悪党だったがほったらかしにしておくのはしのびないのでこうして供養塔を建ててやった」と書いてある。威臨丸と官軍がドンパチやって流れ着いた戦死者を誰もが政府のお咎めを恐れて手を出せないでいるのに大親分は「死ねば仏。仏に官軍も賊軍もない」と手厚く葬ったと伝えられている位だしなぁ。
でここから先はただ歩くだけって感じで何も無し。すっかり絶望感に打ちひしがれつつ歩いていくと・・東海道線の線路にブチあたる。ですぐ脇に地下道があり、車一台ギリギリの幅しかないところを一方通行でもなく自転車や車が進入前にクラクションを鳴らしながら突っ込んで行きます。でおいらも指パッチンなんかしつつおそるおそる進んで・・・げっカーブミラーに車映っているけど向こうは気づいているのか俺様に・・・。ってえらい勢いで突っ込んできやがるので立ち止まっていると直前で気づいたらしく急ブレーキ。まぁ悪いこと言いませんからその後は東海道無視して一号線歩くか、駕篭に乗ったつもりで静岡鉄道に揺られて新静岡まで飛ばした方がいいです。なんも無い上危険です。でバス発車10分前に静岡駅到着。携帯も無事回収。慌ててキヨスクでビール買ってまたもやビール飲んで爆睡

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